【第六話 : しまなみ海道:海の上の一本道】
菊間の夜は、波の音だけがあった。
国道196号線沿い、今治市菊間町の海岸公園。
瓦工場が並ぶ静かな町の、誰もいない公園のベンチに寝袋を広げた。
潮風が顔に当たる。
遠くで波が砂を引いていく音がする。
空を見上げると、星が出ていた。
鹿児島では、こんなふうに星を見たことがなかった。
新聞配達の帰り道、空を見上げる余裕なんてなかった。
ロリと別れてから、まだ数時間しか経っていない。
でも、もうずいぶん遠くに来た気がした。
明日はしまなみ海道を渡る。
そのことだけを考えながら、本田は眠りについた。
*
翌朝七時。
目が覚めると、海が朝焼けに染まっていた。
橙と赤が混ざった空が、波の上に広がっている。
こんな朝を、一人で見ている。
悪くない、と思った。
寝袋を畳んで、プレスカブにまたがる。
キックを踏む。
一発でかかる。
今日も律儀なやつだ。
今治市街地へ向かって、国道196号を走り出した。
*
テクスポート今治に着いたのは、開店直後の八時だった。
愛媛県今治市東門町。
今治タオルの聖地と呼ばれる場所だ。
建物に入ると、ずらりと並んだタオルが目に飛び込んできた。
白、生成り、藍、赤。
数万点というのは本当らしく、壁一面がタオルで埋まっている。
本田は迷わずカウンターへ向かった。
「あの、刺繍をお願いしたいんですけど」
「はい、どうぞ。どんな文字ですか?」
「えっと……」
本田は少し考えた。
前夜からずっと頭にあった言葉を、口に出した。
「I have a low exhaust、です」
店員さんが一瞬だけ手を止めた。
それからにこりと笑って、「少し長いですね。二行に分けましょうか」と言った。
待ち時間は三十分ほどだという。
本田は二階の「今治タオルLAB」へ上がった。
古い織機が並んでいる。
百年前の機械が、今でも動く状態で保存されている。
木と金属で組まれた大きな機械が、ガタン、ガタンと音を立てながら、布地を織り上げていく。
本田はしばらく、その動きを眺めていた。
百年前の機械が、今もちゃんと動いている。
自分のカブは三十年前のものだ。
それでもちゃんと動いている。
古いことは、弱いことじゃない。
鈴菌さんの言葉が、また頭をよぎった。
*
刺繍が仕上がった。
白いタオルに、紺色の糸で二行に分けて刻まれている。
I have a low exhaust
本田は受け取って、首に巻いた。
柔らかかった。
今治タオルは、確かに違う。
ロリのステッカーが貼られたレッグシールドを見た。
ここに、もう一枚加えるつもりだ。
さあ、行くか。
*
テクスポート今治を出て、県道38号線を北西へ向かう。
市街地を抜けると、造船所が現れた。
でかい。
とにかくでかい。
乾ドックの中に、巨大な船の骨格が横たわっている。
鉄の山、という言葉が浮かんだ。
今治は世界有数の造船の町だ。
その脇を、五十ccのカブがトコトコと通り過ぎていく。
スケールの差がありすぎて、少し笑えた。
近見交差点を直進し、国道317号方面へ。
糸山公園の標識に従って右折すると、ループ状の坂道が始まった。
カブのエンジンが唸る。
坂を登るたびに、右手の視界が開けていく。
海が、見えてきた。
瀬戸内海だ。
穏やかな内海が、朝の光を受けてきらきらと光っている。
島影がいくつも浮かんでいる。
あの島々の間を、今から渡っていく。
サンライズ糸山の駐車場にカブを止めた。
SHIMANAMIのオブジェが立っている。
本田もスマホを取り出して、一枚撮った。
プレスカブと、SHIMANAMIの文字と、その向こうの海。
原付専用道の入口へ向かった。
車道とは完全に隔離された、細い道だ。
自転車と歩行者と原付だけが通れる。
料金箱に二百円を投げ入れた。
小銭がチャリンと落ちる音がした。
それだけで、来島海峡大橋を渡る権利が得られる。
スロープが始まった。
急な坂だ。
カブのエンジンが、精一杯の声を上げる。
登るにつれて、視界が広がっていく。
海が、近づいてくる。
いや、自分が海の高さまで上がっていく。
そして、橋の上に出た。
「……うわあ」
思わず声が出た。
来島海峡大橋。
全長四キロを超える、世界最大級の三連吊り橋だ。
巨大なケーブルが頭上に伸び、その向こうに次の塔が立っている。
足元の下を、フェリーが通り過ぎていく。
海面まで、何十メートルあるのか。
風が強い。
橋全体が、微かに揺れている気がした。
本田はスロットルを開けた。
トコトコトコ……。
変わらない音が、海の上に響く。
三十年前の鹿児島のカブが、今、瀬戸内海の橋の上を走っている。
この景色を、このカブと見ている。
胸の奥が、じわりと温かくなった。
*
大島に降りてすぐ、道の駅よしうみいきいき館に立ち寄った。
来島海峡大橋のふもとにある道の駅だ。
ステッカーコーナーを探した。
来島海峡大橋のイラスト入りステッカーがあった。
しまなみライダー向けのデザインのものもある。
道の駅の公式ステッカーもある。
全部買った。
駐車場でプレスカブのレッグシールドを眺めた。
ロリからもらったステッカーが、一枚だけ貼ってある。
その横に、今買ったステッカーを貼り始めた。
来島海峡大橋。
道の駅よしうみ。
少しずつ、シールドが埋まっていく。
これがこのカブの旅の記録になる。
どこを走ってきたか、何を見てきたか。
全部、ここに残していく。
(そうか。これが旅のカスタムか)
本田は、初めてその意味がわかった気がした。
*
大島を縦断し、国道316号線で伯方・大島大橋を越えた。
橋を渡るたびに、瀬戸内の景色が変わる。
島の形が変わる。
海の色が変わる。
同じ瀬戸内海なのに、どこも少しずつ違う顔をしている。
伯方島に入った。
ここが「伯方の塩」の島だ。
CMで名前だけは知っていたが、実際に来たのは初めてだ。
さんわで塩ラーメンを頼んだ。
スープを一口飲んで、目が覚めた。
塩味なのに、深い。
この島の塩が入っているからなのか、ただ旨い。
あっという間に食べ終えた。
続いて玉屋で、甘いものを補給した。
疲れた体に、砂糖が染み渡る。
これも必要な燃料だ。
伯方島の道の駅で、二枚目のステッカーをレッグシールドに加えた。
*
多々羅大橋を前に、道の駅多々羅しまなみ公園に立ち寄った。
大三島にある道の駅だ。
駐車場の隅に、石碑が立っていた。
「サイクリストの聖地」
しまなみ海道がサイクリングの聖地として世界的に有名なことは知っていた。
でも実際にその碑の前に立つと、なんだか自分もその一員になれた気がした。
バイクだけど。
原付だけど。
この道を、自分の足で走っている。
三枚目のステッカーをシールドに貼った。
ロリのステッカーを中心に、旅の記録が広がっている。
*
多々羅大橋へのスロープへ向かおうとした時だった。
道の駅の駐車場に、一台のバイクが入ってきた。
こちらと逆方向、広島側から来たライダーだ。
ナンバーは本州のもの。
車体はずいぶん汚れている。
レッグシールドに、いくつかのステッカーが貼ってある。
キャノンボールの参加者だ。
すぐにわかった。
相手も気づいたらしい。
プレスカブとロリのステッカーを見て、視線が止まった。
目が合った。
ほんの一瞬だった。
でも、それで十分だった。
互いに、左手を上げた。
二本指。
Two-finger salute。
言葉はいらない。
相手のバイクの汚れが、走ってきた距離を語っている。
ステッカーの数が、越えてきた場所を語っている。
それだけで、全部わかる。
(あいつはもう、広島から来たのか)
焦燥感と、敬意が、同時に来た。
自分はまだ、愛媛を出たばかりだ。
でも、同じ道を走っている。
同じ海の上を、同じ制限速度で、同じ排気量で。
本田はハンドルを握り直して、スロープへ向かった。
多々羅大橋の中央付近に、小さな標識があった。
「愛媛県 広島県」
県境だ。
原付で、県境を越えた。
また一つ、前へ進んだ。
*
生口島に降りた。
広島県尾道市瀬戸田町。
ここからは広島だ。
因島大橋を渡り、向島へ入ったころには、太陽が西に傾いていた。
橋の鉄骨の向こうに、夕暮れ色の海が広がっている。
本田はスロットルを少し緩めた。
今日はここで、泊まろう。
向島ICを降りて国道317号をすこし走り、右折した。
海沿いの道をたどると、やがてキャンプ場の看板が見えてきた。
尾道市マリン・ユース・センター。
瀬戸内海に面した、小さなキャンプ場だ。
受付でオートサイトの利用を申し込んだ。
係のおじさんが「原付か、珍しいね」と笑った。
サイトはこじんまりとしているが、目の前が海だ。
波の音が、すぐそこにある。
向こうに見える島影が、夕暮れに溶けていく。
本田はプレスカブを横付けして、寝袋を広げた。
それから、近くの小さな鮮魚店に足を運んだ。
店頭に並ぶ魚を眺めていると、おばちゃんが「今日はチヌがええよ」と言った。
「チヌ?」
「クロダイのことよ。瀬戸内じゃ昔からチヌって呼ぶの。塩焼きにしたら最高よ」
迷わず買った。
それと、伯方の塩を小袋で一つ。
サイトに戻って、小さな焚き火台に炭を起こした。
魚に伯方の塩をたっぷりふって、網の上に乗せる。
じわじわと火が通っていく。
脂が滴り、炭の上で小さな炎が上がる。
潮の匂いと、焼き魚の匂いが混ざった。
「……うまそう」
独り言が出た。
箸を入れると、身がほろりとほぐれた。
一口食べた。
「……うまい」
シンプルな塩焼きなのに、深い。
伯方の塩がこの魚に合っている。
この島で獲れた魚に、この島の塩をかけて食べている。
それだけのことが、妙に嬉しかった。
食べ終えて、炭が熾火になるころ、あたりはすっかり暗くなっていた。
海の向こうに、島の灯りが点々と浮かんでいる。
スマホを開いた。
ロリのアカウントを見た。
最新の投稿は、徳島の山の中からだった。
『峠のバス停。雨。しんどい。』
本田は笑った。
自分はチヌを食べていた。
申し訳ないが、笑えた。
返信しようかと思ったが、やめた。
これ以上ジェラートとか言ったら怒られる気がした。
寝袋に潜り込む。
波の音が、子守唄みたいに聞こえる。
今日は橋を渡り続けた。
来島海峡大橋。
伯方・大島大橋。
多々羅大橋。
因島大橋。
橋の上で、海を走った。
原付で、海峡を越えた。
田辺さんが言っていた通りだった。
このカブは、翼になった。
目を閉じると、また橋の上の景色が浮かんだ。
風と、ケーブルと、どこまでも続く青い海。
本田は眠りに落ちた。
向島の夜が、静かに深まっていった。




