【第五話:ペナルティタイムは観光時間】
「ちゃんとニュートラル入れて。あとギアは一速。倒れたら恥ずかしいから」
甲板係の誘導灯が揺れる中、ロリは慣れた口調で言った。
大分県・佐賀関港。
国道九四フェリーの乗船口。
本田にとって、人生で初めてのフェリーだ。
「す、すごい……船って、こんな近くで見るとデカい……!」
「うるさい。田舎者丸出し」
「だって! 原付ごと海渡るんだよ!?」
「だから何回も言ってるでしょ」
ロリは呆れたように言う。
「原付は『車両』だから普通に乗るの。特別扱いじゃないの」
ロリは慣れた手つきで、リトルカブを固定ベルトの位置へすいすいと移動させた。
本田も見様見真似でプレスカブを停めようとするが、係員に微調整される。
「ほら。ハンドルまっすぐ。前ブレーキ軽く握る」
「は、はい!」
「ほんと危なっかしい……」
本田は自分のプレスカブが固定されていく様子を、興味津々でじっと見つめていた。
青いリトルカブと、泥除けに新聞社の文字が残るプレスカブ。
二台は無事に甲板へ固定された。
タラップが上がる。
エンジン音が、低く唸り始める。
ゆっくりと、船体が岸壁から離れていく。
「離れた! 離れたよ! うわああああ!」
本田は子どものように身を乗り出した。
岸が、確実に遠ざかっていく。
地面が、離れていく。
それだけで、胸が爆発しそうになる。
「……ほんとに初めてなんだね」
ロリは、少しだけ柔らかく笑った。
頼りない弟を見る姉のように。
「海、見なよ。九州と四国の間だよ」
本田は潮風を浴びながら、豊後水道を見つめた。
水面が、午後の光を受けてきらきらと光っている。
どこまでも広い。
空より、広い気がした。
原付で海を越えている。
その事実だけで、もう最高だった。
*
船内に戻ると、ロリは椅子に腰掛けながらスマホを広げた。
「で、愛媛着いたらどこ行きたい?」
「え、もう観光前提?」
「ペナルティはどうせ三〜四時間でしょ? どうせ削られるなら楽しんだ方が勝ち」
その言葉と同時に、二人のスマホが震えた。
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【運営より】
フェリー使用によるペナルティタイム:4時間
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「ほんとだ……四時間!」
「ほらね」
ロリはあっさりと言って、スマホを閉じた。
「じゃあ、愛媛講座始めるよ」
彼女は指を折りながら語り始める。
「まず王道は道後温泉。日本最古級の温泉地だから、ここは絶対外せない」
「温泉かあ……」
「温泉は必須! 入れる時は必ず入る!」
ロリが力説する。
「野宿先に銭湯がない場合もあるでしょ? 体を清潔に保つのは旅の基本。これは旅人の常識だからね」
「なるほど!」
「次。海沿いなら下灘駅。夕日で有名で、絵になる。それから山城が好きなら松山城、現存天守だから一見の価値あり。今治方面に行くなら来島海峡大橋も橋マニア歓喜の場所だよ」
「詳しすぎるでしょ……」
「日本一周なめないで」
ロリはさらりと言った。
有無を言わさない一言だった。
*
愛媛県・三崎港。
再び甲板へ出ると、本田はまた興奮していた。
「原付が降りる! 降りるよ!」
「当たり前だってば」
固定ベルトが外され、順番にエンジン始動。
船からスロープを下っていく。
「うおおおおおお!」
「静かにして!」
四国、上陸。
本田のテンションは最高潮だった。
*
まず向かったのは、松山市内にある田中蒲鉾本店だ。
揚げたてのじゃこ天を受け取る。
外はカリッと、中はふわっとした食感。
白身魚の旨みが、ぎゅっと詰まっている。
「うまっ……!」
「でしょ? これが本場のじゃこ天だよ」
二人はその場でかぶりついた。
「もう三〜四枚買おう」
「夜食用?」
「当然」
追加で購入して、バッグへ収納する。
二人とも、完全にじゃこ天の虜になっていた。
*
続いて国道378号へ出た。
通称「夕焼け小焼けライン」。
海と並走する道を、二台の原付が軽快に走る。
右手に海。
左手に山。
潮風が頬を叩く。
この道は、走るだけで気持ちがいい。
やがて下灘駅に到着した。
海に一番近い駅、と呼ばれるだけあって、ホームのすぐ向こうに海が広がっている。
空と海の境界線がぼんやりと霞んでいて、どこまでが空でどこからが海なのかわからなくなる。
ロリは即座に撮影モードに入った。
「ちょっとそこ立って。逆光で」
「え、こう?」
「いい。最高」
カシャ。
ロリはすぐに投稿した。
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『原付で海へ。#原付キャノンボールラン』
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本田も自分のスマホで写真を撮る。
しばらく二人はホームのベンチに座って、静かな海を眺めた。
「……レース中なのに、平和だね」
「ペナルティ中だから。合法」
ロリが即答した。
潮騒だけが聞こえる。
電車も来ない。
通る車もない。
時間がゆっくり流れていく気がした。
「ロリさんって、フォロワーが多いから収入はあるの?」
「一応ね。無収入ではないよ」
「じゃあ僕と違って、辞めてきた仕事はないんですね」
「本田は仕事辞めて来たんでしょ?」
「うん。ロリさんのせいで、僕も原付で外の世界へ走ってみたくなったから」
「私に感謝してよね」
「当たり前です」
本田は迷わず言った。
「今、僕、すごく楽しいです。一生感謝します」
ロリは少しだけ目を細めた。
それから、バッグをごそごそと漁り始めた。
「それなら、特別にこれをあげよう」
取り出したのは、小さなステッカーだ。
ロリがオンラインサロンの会員に配布しているもので、フォロワーの間では少し希少なアイテムだった。
「え、いいんですか」
「あなたには渡す価値があると判断した」
また上から目線だ。
でも本田は素直に受け取って、プレスカブの白いレッグシールドに丁寧に貼り付けた。
青いロリのステッカーが、ボロボロのプレスカブにぴたりと収まった。
なんだか、少しだけ旅人らしくなった気がした。
*
最後に向かったのは、道後温泉だった。
湯気が、白く立ち上っている。
歴史を感じさせる建物が、夕暮れの中に浮かんでいる。
日本最古級の温泉地は、何百年経っても人を引き寄せ続けていた。
男湯と女湯に別れて、湯に浸かる。
レースの緊張が、じわじわと溶けていく。
肩の力が抜けていく。
今日一日で走った道が、頭の中を流れていく。
球磨川の緑。
豊後水道の青。
夕焼け小焼けラインの海。
下灘駅のベンチ。
ロリは湯に浸かりながら、今日のことを振り返っていた。
(あの子、変わったな)
フェリーであんなにはしゃいでいたくせに、走る姿はもう一人前だった。
宗谷まで行く顔をしている。
弟みたいで、少しだけ可笑しい。
でも――
(ちゃんとライダーだ)
*
湯から上がって、外で待っていると。
二人のスマホが、同時に震えた。
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【運営より】
ペナルティタイム終了
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「終わったね」
「うん」
空気が変わった。
観光モードから、レースモードへ。
それだけで、二人の表情がきゅっと締まる。
「僕はしまなみ海道行く」
「私は徳島経由で和歌山」
一瞬だけ、静寂があった。
それから二人は笑った。
「じゃあ」
「またライバルだね」
二人は同時に叫んだ。
「I have a low exhaust!」
原付キャノンボールランのキャッチコピーだ。
出場者たちの間で、挨拶がわりに使われている言葉。
低い排気音しか持たない自分たちが、それでも走り続けるという宣言だ。
エンジン始動。
二台は反対方向へ走り出した。
青いリトルカブが、徳島へ向かう道へ消えていく。
本田はしばらくその背中を見ていた。
それからハンドルを切って、しまなみ海道を目指した。
プレスカブのレッグシールドに貼られたステッカーが、夕暮れの光を受けて光っていた。
ペナルティタイムは終わった。
でもこの四時間は、確実に宝物になっていた。
じゃこ天の味も、下灘駅の海も、道後温泉の湯気も。
全部、持っていく。
二〇〇〇キロの旅の、大事な荷物として。




