【第四話:ツーストの咆哮、過給機の牙/フェリーターミナルの小さな師匠】
――速い。
アプリリアRS50のタコメーターが、甲高い悲鳴のような音とともに跳ね上がる。
二ストローク特有の鋭い加速が、前方の空気を切り裂いていく。
(これだ……これこそが二ストの世界だ)
アプリはヘルメットの中で笑った。
この加速感を知っている人間と、知らない人間では、原付の話ができない。
本当の意味で「速い」とはどういうことか。
それを体で知っているのが、二ストロークに乗り続けてきた人間だ。
だが、その笑みは長く続かなかった。
ミラーの端に、赤と黒の小さな影がぴたりと張り付いている。
くまモン仕様の、あのモンキーだ。
「なーん、やっぱり速かねえ! そのバイク!」
無線から、くま子の弾けるような声が飛び込んできた。
「当たり前だ。二ストロークを舐めるなよ」
アプリは前を向いたまま答える。
「加速も最高速も、四ストの比じゃない」
「ばってん――」
次の瞬間だった。
小さなモンキーが、低く唸るような独特の吸気音を響かせた。
そして、ぐっと車体全体を前に押し出すように、速度が乗った。
「うちのモンキーには、過給機が付いとるけん!」
「なにっ!?」
アプリの目が、一瞬だけ見開かれた。
過給機。
強制的にエンジンへ空気を押し込む装置だ。
排気量は同じ50cc。
でも過給機付きのエンジンは、理屈の上では排気量以上のトルクを叩き出す。
50ccの殻を、力技で踏み越えてくる。
「改造車かよ……面白い!」
アプリはスロットルをさらに開けた。
RS50のエンジンが甲高い咆哮を上げ、二台はほぼ並んだまま直線を駆け抜けた。
*
少し後方では、別の戦いが続いていた。
「いやぁ、若いっていいですねえ」
ビートに乗るVタックさんが、穏やかに笑いながら言う。
その横では、DT50のモト子が必死にアクセルを開け続けていた。
「え、今何が起きてるんですか!? あの小さいバイク、なんであんなに速いの!?」
「簡単に言うとだね」
Vタックさんが、教えるでもなく話すような口調で続ける。
「くま子さんのバイクは、"肺活量が倍になってる"みたいなもんだ。空気をたくさん吸い込めるから、坂道になるほど強い」
「なるほど……全然わかんないけど、凄いのはわかります!」
二台は無理に追いつこうとはせず、一定の距離を保ったまま前方のバトルを見守った。
*
やがて、道は長い上り坂へと変わった。
その瞬間だった。
「ここからたい!」
くま子の声と同時に、モンキーが一気に前へ飛び出す。
排気量の壁を無理やり踏み越えるような、太いトルクの伸び。
軽い車体が坂道でぐんぐん加速し、RS50との距離がみるみる開いていく。
「くそっ……!」
アプリはシフトを落とし、回転数を維持しようとする。
だが、長い登りでは高回転型の二ストロークより、太いトルクを持つ過給機付きエンジンの方が有利だった。
それは、理屈ではわかっていた。
わかっていても、認めたくなかった。
「じゃあねー! 峠の上で待っとるけん!」
無線に弾けるような笑い声を残し、くま子のモンキーはコーナーの向こうへ消えた。
完全に、視界から消失した。
数秒遅れて、Vタックさんの穏やかな声が届く。
「……これは完敗だな」
「速すぎますよね……」
モト子が苦笑する。
アプリは小さく舌打ちした。
それから、ヘルメットの中で笑った。
「いいじゃないか」
独り言のように言う。
「面白くなってきた」
二ストの咆哮を再び響かせ、RS50は峠の頂上を目指して走り続けた。
*
* * *
僕の話に戻る。
関門海峡のポイントは捨てた。
そのかわりに、田辺さんの言葉を選んだ。
「お前の意志次第で、どこへでも飛べる翼になるんだ」
原付が船に乗れる。
海を渡れる。
その体験を、最初に味わいたかった。
それだけの理由で、僕は大分へ向かった。
国道で山を越え、大分市内を抜けて、佐賀関へ向かう道を走った。
見知らぬ土地だ。
道の端に立つ標識の地名が、鹿児島とは全部違う。
それだけのことが、妙に嬉しかった。
大分のフェリー乗り場に到着した時、僕は思わずブレーキを強く握った。
「……いた」
乗り場の端。
青いリトルカブに寄りかかりながら、スマートフォンを操作している小柄なライダーがいた。
一見すると、小学生くらいの女の子にも見える。
でも、そのカブには見覚えがあった。
日本一周中のツーリングの写真と、一緒に映っていたカブだ。
間違いない。
このレースの存在を僕に教えてくれた、あのアカウントの主。
通称「ロリ」だった。
*
僕はカブを停めて、深呼吸した。
普段、知らない人に声をかけるなんてことはしない。
でも今日は、思い切った。
「あ、あの……!」
少女が顔を上げた。
じっと、こちらを見る。
「なに?」
「その……もしかして、Twitterで日本一周の投稿をしてる、ロリさんですか?」
「そうだけど」
短い返事だった。
僕は慌ててスマートフォンを取り出して、フォロー画面を見せた。
「ぼ、僕、フォロワーです! あなたの投稿を見て、このレースに出ようって決めたんです!」
ロリは画面を一瞥した。
それから、ふっと小さく笑った。
「へえ」
一拍置いて、言う。
「じゃあ、私がいなかったら出てなかったってこと?」
「……はい」
「なるほど」
満足そうに頷く。
「つまり、あなたの人生を動かしたのは私ってことだね」
いきなり、ものすごいマウントが始まった。
「ま、まあ……そう、なります」
「ふーん」
嬉しそうでもなく、当然という顔でもなく、ただ事実として確認した、という顔だった。
彼女は続けて、僕のプレスカブをじっと眺めた。
「ずいぶん渋いの乗ってるね。新聞配達?」
「え、なんで分かったんですか」
「キャリアの形で分かるよ」
さらりと言う。
「日本一周してると、カブの種類なんて見ただけで分かるようになる」
少しだけ得意げな顔をした。
でも、嘘をついている感じはしない。
本当にわかるのだろうと思った。
「ロリさんのカブも、きれいですね」
「当然」
即答だった。
「旅は整備が九割だから。壊れる前に直すのが基本」
その言い方は、まるで先生だった。
一年以上、日本を走り続けてきた人間の言葉だと思った。
*
しばらく沈黙が流れた。
僕はフェリー乗り場の案内板を見上げた。
「……フェリー、もうすぐ出ますね」
「うん。愛媛行き。あなたも乗るんでしょ?」
「はい。原付でも船に乗れるって聞いて、どうしても一度体験したくて」
「初心者っぽい理由だね」
さらっと言われた。
苦笑するしかなかった。
「ところで」
ロリが腕を組む。
「フェリー使うと、ペナルティタイムが付くのは知ってる?」
「はい。でも、何時間になるかは分からないんですよね」
「距離的に考えると……三時間から四時間くらいかな」
彼女は少し考えてから言う。
「運営、結構シビアだし。私はそのペナルティ時間を実際に計りたくてフェリールートを選んだの。次のレースのための情報収集」
「そんなに先のことまで考えてるんですか」
「当然でしょ。データなしに走るのは、地図なしで旅するのと同じだから」
僕には全然そんな発想がなかった。
フェリーに乗りたかっただけの僕と、データを取るために計算してフェリールートを選んだ彼女。
同じフェリー乗り場に立っているのに、考えていることが全然違う。
「まあ、ペナルティタイム中に観光できるから悪くないけどね」
ロリは口元を少しだけ緩めた。
「せっかくだし、一緒に回る? じゃこ天とか有名だし。松山城も近いし。道も分かるよ、私」
「本当ですか?」
「日本一周中だからね。だいたいの場所は頭に入ってる」
また少しだけ、誇らしげな表情。
マウントではあるのだが、根拠のあるマウントなので反論できない。
「じゃあ……お願いします」
「任せなよ」
ロリはあっさりと言った。
「初心者は経験者に付いてくるのが一番速い」
やっぱりマウント口調だ。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、この人と走ったら何かを教えてもらえる気がした。
出航を知らせるアナウンスが、乗り場に流れた。
「ほら、行くよ」
ロリはさっさとリトルカブにまたがり、ヘルメットをかぶった。
「フェリー乗り遅れたら、あなた一生後悔するから」
「は、はい!」
僕も急いでヘルメットをかぶる。
二台のカブが並んで、フェリーの乗船口へと進んでいく。
青いリトルカブと、泥除けに新聞社の文字が残るプレスカブ。
ちぐはぐな二台が、ゆっくりと船の中へ吸い込まれていった。
波の音がした。
潮の匂いがした。
エンジンを止めても、なんだか体がまだ走っている気がした。
日本縦断の旅は、まだ始まったばかりだった。
HONDA リトルカブ
型式A-C50
最高出力4.5ps/7000rpm




