表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/47

【第四話:ツーストの咆哮、過給機の牙/フェリーターミナルの小さな師匠】

 ――速い。


 アプリリアRS50のタコメーターが、甲高い悲鳴のような音とともに跳ね上がる。


 二ストローク特有の鋭い加速が、前方の空気を切り裂いていく。



(これだ……これこそが二ストの世界だ)



 アプリはヘルメットの中で笑った。


 この加速感を知っている人間と、知らない人間では、原付の話ができない。


 本当の意味で「速い」とはどういうことか。


 それを体で知っているのが、二ストロークに乗り続けてきた人間だ。



 だが、その笑みは長く続かなかった。



 ミラーの端に、赤と黒の小さな影がぴたりと張り付いている。


 くまモン仕様の、あのモンキーだ。



「なーん、やっぱり速かねえ! そのバイク!」



 無線から、くま子の弾けるような声が飛び込んできた。



「当たり前だ。二ストロークを舐めるなよ」



 アプリは前を向いたまま答える。



「加速も最高速も、四ストの比じゃない」



「ばってん――」



 次の瞬間だった。



 小さなモンキーが、低く唸るような独特の吸気音を響かせた。


 そして、ぐっと車体全体を前に押し出すように、速度が乗った。



「うちのモンキーには、過給機が付いとるけん!」



「なにっ!?」



 アプリの目が、一瞬だけ見開かれた。



 過給機。


 強制的にエンジンへ空気を押し込む装置だ。


 排気量は同じ50cc。


 でも過給機付きのエンジンは、理屈の上では排気量以上のトルクを叩き出す。


 50ccの殻を、力技で踏み越えてくる。



「改造車かよ……面白い!」



 アプリはスロットルをさらに開けた。


 RS50のエンジンが甲高い咆哮を上げ、二台はほぼ並んだまま直線を駆け抜けた。



   *



 少し後方では、別の戦いが続いていた。



「いやぁ、若いっていいですねえ」



 ビートに乗るVタックさんが、穏やかに笑いながら言う。



 その横では、DT50のモト子が必死にアクセルを開け続けていた。



「え、今何が起きてるんですか!? あの小さいバイク、なんであんなに速いの!?」



「簡単に言うとだね」



 Vタックさんが、教えるでもなく話すような口調で続ける。



「くま子さんのバイクは、"肺活量が倍になってる"みたいなもんだ。空気をたくさん吸い込めるから、坂道になるほど強い」



「なるほど……全然わかんないけど、凄いのはわかります!」



 二台は無理に追いつこうとはせず、一定の距離を保ったまま前方のバトルを見守った。



   *



 やがて、道は長い上り坂へと変わった。



 その瞬間だった。



「ここからたい!」



 くま子の声と同時に、モンキーが一気に前へ飛び出す。


 排気量の壁を無理やり踏み越えるような、太いトルクの伸び。


 軽い車体が坂道でぐんぐん加速し、RS50との距離がみるみる開いていく。



「くそっ……!」



 アプリはシフトを落とし、回転数を維持しようとする。


 だが、長い登りでは高回転型の二ストロークより、太いトルクを持つ過給機付きエンジンの方が有利だった。


 それは、理屈ではわかっていた。


 わかっていても、認めたくなかった。



「じゃあねー! 峠の上で待っとるけん!」



 無線に弾けるような笑い声を残し、くま子のモンキーはコーナーの向こうへ消えた。


 完全に、視界から消失した。



 数秒遅れて、Vタックさんの穏やかな声が届く。



「……これは完敗だな」



「速すぎますよね……」



 モト子が苦笑する。



 アプリは小さく舌打ちした。


 それから、ヘルメットの中で笑った。



「いいじゃないか」



 独り言のように言う。



「面白くなってきた」



 二ストの咆哮を再び響かせ、RS50は峠の頂上を目指して走り続けた。



   *



   *   *   *



 僕の話に戻る。



 関門海峡のポイントは捨てた。


 そのかわりに、田辺さんの言葉を選んだ。



「お前の意志次第で、どこへでも飛べる翼になるんだ」



 原付が船に乗れる。


 海を渡れる。


 その体験を、最初に味わいたかった。


 それだけの理由で、僕は大分へ向かった。



 国道で山を越え、大分市内を抜けて、佐賀関へ向かう道を走った。


 見知らぬ土地だ。


 道の端に立つ標識の地名が、鹿児島とは全部違う。


 それだけのことが、妙に嬉しかった。



 大分のフェリー乗り場に到着した時、僕は思わずブレーキを強く握った。



「……いた」



 乗り場の端。


 青いリトルカブに寄りかかりながら、スマートフォンを操作している小柄なライダーがいた。


 一見すると、小学生くらいの女の子にも見える。



 でも、そのカブには見覚えがあった。


 日本一周中のツーリングの写真と、一緒に映っていたカブだ。



 間違いない。


 このレースの存在を僕に教えてくれた、あのアカウントの主。


 通称「ロリ」だった。



   *



 僕はカブを停めて、深呼吸した。


 普段、知らない人に声をかけるなんてことはしない。


 でも今日は、思い切った。



「あ、あの……!」



 少女が顔を上げた。


 じっと、こちらを見る。



「なに?」



「その……もしかして、Twitterで日本一周の投稿をしてる、ロリさんですか?」



「そうだけど」



 短い返事だった。



 僕は慌ててスマートフォンを取り出して、フォロー画面を見せた。



「ぼ、僕、フォロワーです! あなたの投稿を見て、このレースに出ようって決めたんです!」



 ロリは画面を一瞥した。


 それから、ふっと小さく笑った。



「へえ」



 一拍置いて、言う。



「じゃあ、私がいなかったら出てなかったってこと?」



「……はい」



「なるほど」



 満足そうに頷く。



「つまり、あなたの人生を動かしたのは私ってことだね」



 いきなり、ものすごいマウントが始まった。



「ま、まあ……そう、なります」



「ふーん」



 嬉しそうでもなく、当然という顔でもなく、ただ事実として確認した、という顔だった。


 彼女は続けて、僕のプレスカブをじっと眺めた。



「ずいぶん渋いの乗ってるね。新聞配達?」



「え、なんで分かったんですか」



「キャリアの形で分かるよ」



 さらりと言う。



「日本一周してると、カブの種類なんて見ただけで分かるようになる」



 少しだけ得意げな顔をした。


 でも、嘘をついている感じはしない。


 本当にわかるのだろうと思った。



「ロリさんのカブも、きれいですね」



「当然」



 即答だった。



「旅は整備が九割だから。壊れる前に直すのが基本」



 その言い方は、まるで先生だった。


 一年以上、日本を走り続けてきた人間の言葉だと思った。



   *



 しばらく沈黙が流れた。


 僕はフェリー乗り場の案内板を見上げた。



「……フェリー、もうすぐ出ますね」



「うん。愛媛行き。あなたも乗るんでしょ?」



「はい。原付でも船に乗れるって聞いて、どうしても一度体験したくて」



「初心者っぽい理由だね」



 さらっと言われた。


 苦笑するしかなかった。



「ところで」



 ロリが腕を組む。



「フェリー使うと、ペナルティタイムが付くのは知ってる?」



「はい。でも、何時間になるかは分からないんですよね」



「距離的に考えると……三時間から四時間くらいかな」



 彼女は少し考えてから言う。



「運営、結構シビアだし。私はそのペナルティ時間を実際に計りたくてフェリールートを選んだの。次のレースのための情報収集」



「そんなに先のことまで考えてるんですか」



「当然でしょ。データなしに走るのは、地図なしで旅するのと同じだから」



 僕には全然そんな発想がなかった。


 フェリーに乗りたかっただけの僕と、データを取るために計算してフェリールートを選んだ彼女。


 同じフェリー乗り場に立っているのに、考えていることが全然違う。



「まあ、ペナルティタイム中に観光できるから悪くないけどね」



 ロリは口元を少しだけ緩めた。



「せっかくだし、一緒に回る? じゃこ天とか有名だし。松山城も近いし。道も分かるよ、私」



「本当ですか?」



「日本一周中だからね。だいたいの場所は頭に入ってる」



 また少しだけ、誇らしげな表情。


 マウントではあるのだが、根拠のあるマウントなので反論できない。



「じゃあ……お願いします」



「任せなよ」



 ロリはあっさりと言った。



「初心者は経験者に付いてくるのが一番速い」



 やっぱりマウント口調だ。


 でも、不思議と嫌な感じはしなかった。


 むしろ、この人と走ったら何かを教えてもらえる気がした。



 出航を知らせるアナウンスが、乗り場に流れた。



「ほら、行くよ」



 ロリはさっさとリトルカブにまたがり、ヘルメットをかぶった。



「フェリー乗り遅れたら、あなた一生後悔するから」



「は、はい!」



 僕も急いでヘルメットをかぶる。



 二台のカブが並んで、フェリーの乗船口へと進んでいく。


 青いリトルカブと、泥除けに新聞社の文字が残るプレスカブ。


 ちぐはぐな二台が、ゆっくりと船の中へ吸い込まれていった。



 波の音がした。


 潮の匂いがした。


 エンジンを止めても、なんだか体がまだ走っている気がした。



 日本縦断の旅は、まだ始まったばかりだった。




HONDA リトルカブ

型式A-C50

最高出力4.5ps/7000rpm

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ