【reverse 17 モトラと、自由の翼の乗り方】
翌朝。
本田はバイトを休んだ。
花と、市役所へ向かった。
名義変更の手続きをした。
窓口で書類を出した。
待った。
職員が奥へ引っ込んで、また出てきた。
ナンバープレートを、手渡された。
新品の、ピカピカのナンバープレートだ。
花が、受け取った。
じっと見た。
それから、大切そうにカバンにしまった。
両手で、丁寧にしまった。
「ナンバープレートって、ここで貰えるんですね」
「そうですよ。知らなかったんですか?」
「全然」
花が笑った。
本田も笑った。
近くのコンビニで自賠責を払った。
花の自動車保険の会社に電話して、ファミリー特約を申し込んだ。
全部終わった頃には、昼に近かった。
*
おばあちゃんの家に着いた。
花がモトラの前にしゃがんだ。
カバンからナンバープレートを取り出した。
両手で持って、モトラの後ろに当ててみた。
ぴったりだ。
ドライバーを取り出した。
ゆっくりと、ボルトを締めた。
自賠責のシールを剥がした。
プレートの所定の位置に貼った。
丁寧に、空気が入らないように貼った。
花が立ち上がった。
モトラのナンバープレートを見た。
青森の新しいナンバーが、モトラについている。
花の名前で登録されたナンバーが。
「走ってみる」
花がキックを踏んだ。
エンジンがかかった。
モトラが、庭の上で低く震えた。
本田もプレスカブのキックを踏んだ。
後ろからついていく。
*
花のモトラが、おっかなびっくりで走っていた。
速度が出ていない。
でも、止まってもいない。
前に進んでいる。
近所のコンビニに着いた。
花が止まった。
ヘルメットを脱いだ。
肩を、ぐるぐると回した。
顔が、少し疲れている。
「まだ怖いですよね」
「うん。怖すぎてミラーで後ろも見えないよ……」
「誰だって最初は怖いからね。距離を乗るしかないんだよ。そのためにもまずは体づくりだね。原付って、肩が凝るよね」
「うん、もう限界かも……」
「まだまだ走った方がいいよ。信号待ちで足をつく時に、その足がガクガクになるまでは頑張った方がいいよ」
「えー! そこまでしなくちゃダメ?」
「自由の翼は甘くないよ」
花が、本田を見た。
少し間があった。
それから、頷いた。
「そうだね……本田くんは鹿児島からここまで来たんだもんね」
花がモトラに跨った。
キックを踏んだ。
エンジンがかかった。
また、走り出した。
さっきより、少しだけ速かった。
*
まるまつに着いた。
ちょうどランチタイムだった。
二人で入って、席についた。
花が、テーブルに肘をついた。
疲れた顔をしていたが、目が輝いていた。
「車なら五分でここに来れるのに、原付なら三十分もかかるんだね……」
花が呟いた。
それから、本田を見た。
「本田くんは途中で引き返そうと思わなかった?」
「それはレースが始まる前までの僕だね。レースに申し込んだのはいいんだけど、何度も辞退しようと思ったよ。でも、仕事辞めちゃってたしね。前夜祭は温泉宿が無料で料理も無料だったんだ。それだけ食べて宿に泊まってからでも辞退しようかと思って。とりあえず、前夜祭だけのつもりで会場に行ってみたんだよ」
花が前のめりになった。
「でも、前夜祭の会場には二十八台の様々な原付がいてさ、全員が五十ccのエンジンで宗谷岬まで行ける気になってるんだ。誰もリタイヤとか辞退なんて考えてなくてね。そのうち参加者の一人から声をかけられて、なんだか辞退しにくくなってて。気がついたらスタートラインに並んでた。スタートラインに並ぶと、不思議と宗谷岬を見たくなった」
「そして、本当に宗谷岬を見たんだね」
「うん。そこにいるライダー全員が、海を眺めてた」
「海を?」
「なぜかわからないけど、あそこに辿り着いたライダーは水平線の彼方を見てしまうんだ。あのアプリさんでさえ、海に魅入っていたよ」
花が、窓の外を見た。
「私も海まで走ろうかな」
「明日もバイト明けに付き合うよ」
花が笑った。
それから、何かを思い出したように言った。
「あ、そうだ! 本田くんとアプリさんは今ホテル暮らしなんだよね。おばあちゃんがしばらくなら泊まっていいってさ」
「えっ? それはありがたいけど……ちょっとアプリさんに聞いてみるよ」
本田がLINEを送った。
しばらくして、返信が来た。
『今夜でチトセを引き揚げて、明日からは菊婆さんの家に泊まろう』
本田が花に向かって頭を下げた。
「明日の夜からお願いします」
花が笑顔で頷いた。
*
翌日の夕方。
バイトを終えた本田とアプリが、菊さんの家に着いた。
玄関を開けると、菊がエプロン姿で出てきた。
嬉しそうだ。
どう見ても、嬉しそうだ。
「今夜だば賑やかで嬉しな〜。これからしばらくの間、よろしぐ頼むおん。何か食えねぇもの、好がねぇものだばあるが?」
本田が、菊を見た。
菊が、本田を見た。
本田が、アプリを見た。
(えっ、今なんて言いました?)
目でそう訴えると、アプリが静かに言った。
「たぶん、嫌いなものを聞いてるんだろ。俺はセロリだな」
「僕は嫌いなものはないですよ!」
菊がにこにこしながら頷いた。
何かを言った。
本田には半分も聞き取れなかった。
でも、菊が嬉しそうだったから、本田も笑顔で頷いた。
「今夜だば、いちご煮こしらえたはんで、好ぎなだけ食な。炊ぎ込みご飯も、めぇ〜ぐ出来だがら、遠慮しねぇで食な〜」
本田が少し固まった。
「い、いちごですか…… 珍しいですね…… いちごを煮ちゃったか……」
アプリが何も言わなかった。
菊が台所へ戻っていった。
本田は茶の間に座って、アプリの隣に腰を下ろした。
「アプリさん、いちご煮ってなんですか?」
「さあ」
「さあって……」
「食えばわかる」
本田は、いちごを煮たものを想像した。
あまり、食欲をそそらなかった。
いちごを煮るとどうなるのか。
ジャムにするならまだわかる。
でも、おかずとして出てきたら。
炊き込みご飯と一緒に出てきたら。
(どうしよう……)
やがて、菊が盆を持って戻ってきた。
テーブルの上に、料理が並んでいった。
炊き込みご飯。
何かの煮物。
漬物。
そして、お椀。
本田はテーブルを見回した。
いちごが、どこにもない。
「おばあちゃん、いちご煮は?」
菊が、お椀を指さした。
「これだおん!」
本田がお椀を覗いた。
澄んだ出汁の中に、ウニが入っている。
あおさが浮いている。
ウニの橙色が、出汁の中に沈んでいる。
どこにも、いちごはない。
「は? これのどこにいちごが?」
「ウニだば、野いちごに見えるべさ?」
菊が、当たり前のように言った。
「見え……ます……?」
本田はアプリを見た。
助けを求めた。
アプリが、畳の方を向いた。
肩が、小刻みに震えていた。
助ける気は、全くないらしい。
本田はお椀を見た。
ウニを見た。
ウニが、野いちごに見えるか、と言われると。
見えない。
どう見ても見えない。
でも、菊が満面の笑みで本田を見ている。
「見え……ます……ね?」
本田が、絞り出した。
菊が、嬉しそうに笑った。
アプリの肩が、さらに震えた。
本田はいちご煮を一口飲んだ。
旨かった。
ウニの甘みが、出汁に溶け込んでいる。
上品で、深い。
こんな料理が青森にあったのか。
「旨い……」
「そろか! よぐ食べでけろ」
菊がにこにこした。
本田はもう一口飲んだ。
旨かった。
いちごかどうかは、もうどうでもよかった。
アプリがセロリの入っていない料理を静かに食べていた。
菊が、二人の食べる様子を見て、ずっと笑っていた。
それが嬉しそうで、温かくて、本田は思った。
この食卓は、幸せだ。
半分しか聞き取れない言葉でも、意味が半分しかわからなくても、幸せな食卓というのはちゃんとわかる。
*
数日が経った。
タイミーで稼いだ。
宿泊費はかからなかった。
菊の料理を食べた。
毎晩、いちご煮が出た。
本田はだんだん、ウニが野いちごに見えてきた気がしていた。
*
出発の朝が来た。
早朝の、まだ空気が冷たい時間だ。
花が、菊の家の前にモトラで来た。
ゴーグル付きのヘルメットを被っていた。
おじいさんの形見だ。
茶色の革手袋をはめている。
背筋が伸びている。
昨日と、少し顔が違う。
「おぉ」
本田が言った。
アプリは何も言わなかった。
でも、一度だけ、花のモトラを見た。
菊が玄関から出てきた。
お盆を持っている。
おにぎりが、人数分並んでいる。
三つではなく、四つある。
一つ余分に作っていた。
花の分も、ちゃんとある。
「道中、気ぃつけでな。おなが空いだら、これ食べでけろ」
本田は菊の言葉の三割くらいしか聞き取れなかったが、おにぎりを渡してくれているのはわかった。
両手で受け取った。
「ありがとうございます!」
「行ってきます、おばあちゃん」
花が言った。
菊が、花の頭を一度だけ撫でた。
何も言わなかった。
でも、その手が全部を言っていた。
アプリが言った。
「今日は花が先導してみろ」
花が、少し目を丸くした。
それから、うん、と頷いた。
モトラのスマホホルダーにスマホをセットした。
カーナビを打ち込んだ。
蟹田フェリー乗り場、と入力した。
「それじゃ、行きますよ!」
モトラのキックを踏んだ。
エンジンがかかった。
先頭を走り出した。
バックミラーの中に、菊が手を振っていた。
ずっと、振っていた。
曲がり角に消えるまで、ずっと振っていた。
*
花視点。
先頭を走っている。
初めて、先頭だ。
後ろにアプリと本田がいる。
二人がついてきている。
それがわかると、少しだけ肩の力が抜けた。
朝の青森の道は、空いていた。
国道280号に入ると、右手に海が見えてきた。
陸奥湾だ。
朝の光が、湾の水面に反射している。
左手に、田んぼが広がっている。
稲刈りを終えた田んぼが、秋の色をしている。
風が、冷たい。
でも、気持ちいい。
この冷たさが気持ちいいと思えるのは、走っているからだ。
止まっていたら、ただ寒いだけだ。
(どうして、もっと早くこうしなかったんだろう)
走りながら、花は思った。
半年間、毎日あの店に行っていた。
毎日、怒鳴られて、縮んで、足元を見て、また次の日に行って。
繰り返していた。
どうして、あそこから出られなかったんだろう。
今の自分には、あの時の自分が不思議でしょうがない。
でも、わかる。
あの時は、出口が見えなかった。
仕事を辞めたら次がない、と思っていた。
一人で動いたら失敗する、と思っていた。
全部、思い込みだった。
市役所でナンバープレートを貰ったら、想像より簡単だった。
コンビニで自賠責を払ったら、思ったより安かった。
モトラに乗って道に出たら、ちゃんと前に進んだ。
あのまま続けていたら、どうなっていたか。
考えると、怖い。
体が怖いと感じる前に、心が先に折れていたかもしれない。
(おじいちゃんが、本田くんに出会わせてくれたのかな)
花は思った。
ドラッグストアに本田がタイミーで来たのは、偶然だ。
でも、おばあちゃんの家の物置に、モトラが眠っていたのは。
おじいちゃんが最後まで手放さなかったのは。
あの日、エンジンがかかった瞬間のことを思い出した。
おばあちゃんの涙が、畳に落ちた瞬間に、エンジンが動き出した。
あれは偶然じゃない気がする。
おじいちゃんが、あのタイミングで動かしてくれた気がする。
花のために、背中を押してくれた気がする。
走りながら、花はヘルメットの中で笑っていた。
おじいちゃんのゴーグル越しに、陸奥湾が見えている。
おじいちゃんも、こうして湾を見ながら走っていたんだろうか。
同じ景色を、見ていたんだろうか。
(おじいちゃん、私、走れてるよ)
胸の中で、呟いた。
モトラのエンジンが、答えるように低く振動した。
*
蟹田フェリー乗り場に着いた。
予定より早かった。
三人が、バイクを止めた。
海が広がっていた。
対岸に、下北半島がある。
津軽海峡ではなく、陸奥湾の内海だ。
波が穏やかだ。
菊のおにぎりを食べた。
三人で、海を見ながら食べた。
「原付でフェリーって、なんだか緊張しますね! でも、なんかワンランクレベルが上がった気分」
アプリが、本田を見た。
「本田と似たようなことを言ってるぞ」
「初心者にとってフェリーはかなり高いハードルなんですよ! アプリさんだって初めての時はドキドキしたでしょ?」
「忘れた」
「忘れたって……」
花が笑った。
「アプリさんはまだ乗ったことのないフェリーはあるんですか?」
「たぶんないな。このフェリーも数回乗ってる」
「すごい……」
花がおにぎりを齧った。
菊のおにぎりは、大きかった。
中に、何が入っているか開けるまでわからない。
花が開けると、鮭だった。
本田が開けると、タラコだった。
アプリが開けると、昆布だった。
「おばあちゃん、ちゃんとそれぞれ違うの作ってくれてたんですね」
「昨夜のうちに、電話で全員に何が好きかを聞いてたよ」
「そんな会話あったんですか?」
「本田くんは聞き取れなかったんでしょ」
「……全く気づきませんでした」
アプリが昆布のおにぎりを食べながら、海を見ていた。
三人とも、しばらく海を見た。
穏やかな湾だ。
波の音が、小さい。
フェリーが見えてきた。
係員が、誘導を始めた。
「積み込みの時間ですよ」
本田が言った。
三人がバイクに乗った。
花がキックを踏んだ。
エンジンがかかった。
係員の誘導に従って、フェリーの乗り場へ向かった。
スロープが見えた。
フェリーの車両甲板へ続くスロープだ。
モトラが、スロープを登っていく。
甲板の床が、金属の音を立てた。
花は前を向いたまま、走った。
甲板の中へ、進んでいった。
モトラのエンジンが、鉄の甲板の上で響いた。
初めてのフェリーだ。
初めての海の上だ。
おじいちゃんのヘルメットで、おじいちゃんのモトラで、初めてのフェリーに乗っている。
花は、甲板の中でモトラを止めた。
エンジンを切った。
静かになった。
波の音だけが、甲板の底から聞こえてきた。




