【reverse 16 じっちゃの笑顔】
本田はアプリにLINEを送った。
『物置に謎の物体があります。なんなのか全くわかりません』
写真を撮って送った。
数分後、アプリから返信が来た。
『今から行く』
それだけだった。
*
アプリが、花のおばあちゃんの家の庭に着いた。
プレスカブを止めて、物置の前に立った。
「わざわざすいません。この中に不気味な物体があるんですよ。それがなんなのか、僕も花さんもわからなくて……」
アプリがヤレヤレという顔で物置の中を覗いた。
暗い物置の奥の、その物体を見た。
アプリの顔が、引きつった。
「モ、モトラ……」
それだけ呟いて、固まった。
「やっぱりアプリさんでもわかりませんか?」
アプリがゆっくりと振り返った。
「モトラだ。これでも一応、原付だ」
本田と花が、同時に声を上げた。
「こ、これが原付……? ちゃんと道路を走れるんですか?」
「当たり前だ。ナンバーを取得すれば公道も走れる」
「こんなゴツい原付があるんですか!?」
「これも一応、カブエンジンだ」
「えっ、まさか……」
本田は物置の中の物体を見た。
カブエンジン。
プレスカブと同じエンジンが、この奇妙な形の乗り物の中に入っているということか。
信じられなかった。
でも、アプリがそう言うなら、そうなのだ。
「これって、動きますか?」
花が聞いた。
アプリが物置の中を見た。
「わからん。かけてみても良いか?」
花が頷いた。
アプリが物置の中に入った。
モトラを、外へ押し出した。
重い。
でも、タイヤはちゃんと転がった。
庭の光の中に、モトラが出てきた。
日を浴びたモトラは、物置の中で見た時よりもさらに奇妙だった。
でも、確かにバイクだった。
ハンドルがある。
シートがある。
タイヤがある。
エンジンが、フレームの中に収まっている。
アプリがキーを見つけた。
刺さりっぱなしのキーだ。
何年、刺さったままだったのか。
アプリがキーを回した。
キックペダルに足をかけた。
踏んだ。
何も起きなかった。
もう一度踏んだ。
何も起きなかった。
三度、四度、踏んだ。
シュン、シュン、という音だけが、秋の庭に響いた。
エンジンは、かからなかった。
*
庭が騒がしかったのが聞こえたのか、縁側の障子が開いた。
小さな老女が、お盆を持って現れた。
花のおばあちゃんだ。
菊、という名前だと、花から聞いていた。
「兄さまたぢ、茶っこでも飲んでいがねが。ゆっくりしてげ〜」
お盆の上に、湯飲みが並んでいる。
湯気が、秋の空気の中に上がっている。
「あ、おばあちゃん。ありがとう。おばあちゃん、これってバイクだってさ」
菊が、モトラを見た。
目を細めた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、柔らかい声で言った。
「せばだっきゃ、昔はじっちゃ、それさ乗って畑まで走ってらもんだ。なつかしねぇ」
花が微笑んだ。
本田も、その言葉を聞いていた。
このモトラで、花のおじいさんは畑まで走っていた。
何年前のことだろう。
どんな道を走っていたんだろう。
「アプリさん、動きそうですか?」
「ダメだな。工具はあるか?」
「はい! 工具ならおじいちゃんのものが全部残ってます」
*
花がガレージに案内した。
中に、工具箱があった。
蓋を開けると、きちんと整理された工具が並んでいた。
大切に使ってきた人の工具だ。
錆びていない。
油が、きちんとさしてある。
アプリが工具を選んで、本田に持たせた。
スパナ、ドライバー、ピックツール、トレイ。
一つずつ、手渡した。
「直せそうですか?」
「わからん。お前次第だ」
「えっ? なんで僕が?」
「キャブを弄りたいと言ってただろ。教えるからやってみろ」
本田は、少し間を置いた。
それから、真剣な顔になった。
「はい。やってみます」
アプリが、口元だけで少し笑った。
それから、本田の隣に立った。
*
モトラのキャブレターを外す作業が始まった。
アプリが指示を出した。
本田が、その通りに手を動かした。
「そのボルトを先に外せ。左から回す」
「これですか?」
「そうだ。力を入れすぎるな。なめるぞ」
「なめる?」
「ボルトの頭が削れて回せなくなる。丁寧に回せ」
本田がゆっくりとボルトを回した。
少しずつ、緩んだ。
外れた。
小さなボルトが、手の中に収まった。
アプリがトレイを指さした。
「細かい部品を無くすなよ。外した部品は必ずそのトレイに入れるのを忘れるな」
「はい」
一つ外すたびに、トレイに入れた。
キャブレターが、少しずつ本体から離れていった。
アプリの指示が、正確だった。
どのボルトを外すか。
どの向きに抜くか。
何を先に、何を後に。
本田は指示に従いながら、手が覚えていく感覚があった。
頭じゃなくて、手が理解していく感覚だ。
キャブレターが外れた。
手の中に、キャブレターが収まった。
想像よりも、小さかった。
この小さな部品が、エンジンに空気とガソリンを送り込んでいる。
この小さな部品が、詰まると、バイクは動かなくなる。
「分解してみろ。外し方は言う通りにやれ」
アプリがキャブレターの分解方法を教えた。
本田が手を動かした。
中から、小さなジェットが出てきた。
詰まっている。
茶色い汚れが、細い穴を塞いでいる。
「ピカピカになるまで磨け」
本田がキャブレタークリーナーで磨いた。
磨いた。
磨き続けた。
細い穴に、光が通るようになった。
汚れが落ちるたびに、金属の輝きが戻ってきた。
花が、縁側から見ていた。
菊も、縁側に腰かけて見ていた。
二人とも、黙って見ていた。
「良し。もう一度本体に組んでみろ」
本田がキャブレターを組み始めた。
外した時と逆の順番で、部品を戻していく。
トレイの中の部品が、一つずつ消えていく。
小さなボルトを、丁寧に締めた。
なめないように、ゆっくりと。
菊が、縁側で本田の背中を見ていた。
本田が屈んで、工具を使って、真剣な顔でモトラに向かっている。
その姿が。
その背中の丸みが。
その首の傾け方が。
菊は、目を細めた。
もう一度、見た。
(じっちゃ……)
違う。
この人は、孫の友達だ。
若い男の子だ。
じっちゃではない。
でも、見えてしまう。
長年、あの背中を見てきた。
あの人が屈んで、工具を使って、バイクに向かっていた、あの背中に。
重なって、見えてしまう。
菊は、目を擦った。
本田がキャブレターを組み終えた。
アプリに向かって、満面の笑みを向けた。
その笑顔が。
その、照れたような、嬉しそうな、誇らしそうな笑顔が。
菊は、息を吸い込んだ。
じっちゃが、こちらを向いて笑っている。
何十年も前の、まだ若かった頃のじっちゃが、モトラのそばで笑っている。
そんなはずはない。
わかっている。
でも、見えてしまう。
「かけてみろ」
アプリが言った。
本田がモトラのキックペダルに足をかけた。
恐る恐る、踏み込んだ。
ボン、という音がした。
エンジンが、息をしようとしている。
さっきとは違う音だ。
爆発音に近い。
本田が、アプリを見た。
満面の笑みで、見た。
アプリが、一言言った。
「踏め」
本田がまたキックを踏んだ。
ボン、ボン。
エンジンが、目覚めようとしている。
何年もの眠りから、覚めようとしている。
菊の目に、涙が滲んでいた。
止めようとした。
でも、止まらなかった。
本田がもう一度、踏んだ。
ボウ。
白い煙が、マフラーから吹いた。
エンジンが、動いた。
低い振動が、モトラ全体に伝わった。
庭の空気が、震えた。
菊の目から、涙が一粒、こぼれた。
畳の上に、ぽたりと落ちた。
本田が振り返った。
エンジンがかかった喜びで、笑っていた。
その笑顔が、夕暮れの光の中にあった。
じっちゃが、笑っている。
こちらを向いて、笑っている。
バイクが動いたよ、とでも言いたそうな、あの顔で。
何十年も昔に何度も見た、あの笑顔で。
菊は、涙をそのままにして、その笑顔を見た。
止めなかった。
止めなくていいと思った。
じっちゃが、笑っている。
それだけで、十分だった。
*
エンジンの音が、庭に満ちた。
アプリが、本田の背中を一度だけ叩いた。
言葉はなかった。
でも、十分だった。
「明日は花と市役所に行って、名義変更を教えてやれ」
アプリが言った。
それだけ言って、モトラから離れた。
花が、モトラの前に立った。
夕陽が、モトラのフレームを赤く染めている。
エンジンが、低く震えている。
生きている音がする。
「これが……私の自由の翼」
花が、小さく呟いた。
その言葉は、誰かに向けて言ったわけじゃなかった。
自分に言い聞かせるように、夕陽に向かって言った。
菊が、縁側からその背中を見ていた。
花の背中の向こうに、モトラがある。
そのモトラの向こうに、じっちゃの畑がある。
じっちゃが走っていた、あの道がある。
菊は、目を擦った。
涙が、また一粒こぼれた。
でも、今度は笑いながらこぼれた。
じっちゃが、花に自由の翼を渡した。
そう思ったら、笑いながら泣けた。
エンジンの音が、秋の夕暮れの庭に響いていた。
HONDA CT50 モトラ
型式 AD05E
最高出力 4.5 ps/ 7,500rpm




