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【第三話:最初の犠牲者】

 午前七時。



 合図も掛け声もない。


 誰かが時計を見た。


 次の瞬間、エンジン音が一斉に高まった。



 それだけだ。


 それだけで、原付キャノンボールランは始まった。



 佐多岬の駐車場から飛び出した集団は、一瞬だけ塊になった。


 そしてすぐに、霧散した。



 アプリが先頭を奪い、鈴菌が追う。


 くま子が「よーし!」と叫ぶ声が、朝の空気に溶けていく。


 ミーハーは黙って加速する。


 Vタックさんは落ち着いたペースで、ゆっくりと出発した。



 北へ向かう者。


 東へ迂回する者。


 チェックポイントを狙う者。


 とにかく距離を稼ぐ者。



 レースは、スタートの瞬間からすでに戦略の差で割れていた。



   *



 僕は迷わなかった。



 北上組とは別れ、東へ向かう。


 鹿屋を経由して、大分を目指す。



 理由は一つだ。



 船に乗りたい。



 田辺さんに言われて以来、ずっとそのことが頭から離れなかった。


 フェリーで海を渡る。


 原付で、海峡を越える。


 関門海峡のポイントは捨てた。


 そのかわり、大分の佐賀関から国道九四フェリーで愛媛の三崎港へ渡る。


 それが今日の目標だ。



「面白い方から行く」



 誰にでもなく呟いて、スロットルを開けた。


 トコトコトコ……。


 相棒は今日も、変わらない音で応えてくれる。



   *



 一方、北上組は国道3号線に乗っていた。



 九州を南北に貫く大幹線道路だ。


 朝の光の中、アプリを先頭に縦一列の隊列が続く。


 鈴菌、くま子、ミーハー、Vタック、モドキ、そしてチョイノリ。


 トラックが脇を通り抜けるたびに風圧が車体を揺らすが、誰も止まらない。



 熊本県に入り、八代を過ぎた。


 球磨川沿いの旧道に折れると、景色が一変した。



 川が、近い。



 日本三大急流のひとつに数えられる球磨川が、道のすぐ脇を流れている。


 緑がかった清流が、朝の光を受けてきらきらと輝いていた。


 川沿いの山肌には、深い緑が重なり合っている。


 空気が、ひんやりと湿っている。



 この景色に見覚えがある、という参加者が何人かいたかもしれない。


 人吉・球磨地方は、アニメ『夏目友人帳』の舞台として公式に認められた土地だ。


 球磨川沿いの田園風景、山の稜線、古い橋と石畳の街並み。


 夏目貴志が歩いた道が、このあたりのどこかにある。



 でも今の彼らに聖地巡礼をする余裕はない。


 レースは続いている。


 時計は止まらない。



 人吉の手前、球磨川に沿った道を走っていた時だった。



 パンッ――



 乾いた破裂音が、空気を裂いた。



   *



 一台のスクーターが、路肩に寄せる間もなく、じわじわと減速した。


 チョイノリだ。


 エンジンは、それきり沈黙した。



 アプリとくま子は気づかない。


 トップ争いの緊張の中、そのまま北へ消えていく。


 ミーハーとVタックさんも、その背中を追うように駆け抜けた。



 誰も冷たいわけではない。


 止まるという選択は、このレースでは重い。


 止まった瞬間に、時計は止まらない。


 それを全員がわかっている。



 だが、モドキがブレーキを握った。



 後ろにいた僕もそれを見て、つられるように速度を落とした。


 鈴菌も、少し先で戻ってきた。



 三台が、路肩に並んだ。



 チョイノリの乗り手が、困惑した顔で立っていた。


 鹿児島から来たという、あの青年だ。



「……かからないんです」



 セルは虚しく回る。


 でも、エンジンは応えない。


 焼けた金属の匂いが、朝の空気にじわりと広がっていた。



 鈴菌が黙ってバイクを覗き込む。


 モドキも一緒に屈み込む。


 僕は少し離れたところで、二人の背中を見ていた。



 しばらくして、鈴菌が小さく息を吐いた。



「……終わってるな。完全に死んでる」



 青年は言葉を失った。



「チョイノリで完走は無理だ」



 鈴菌は立ち上がり、淡々と言った。



「プロのレーサーでも不可能だし、スズキのスペシャリストである俺でも正直厳しい。こいつはそういうバイクだ」



「……そうですか」



 青年は苦笑した。


 その苦笑に、怒りも恨みも混じっていなかった。


 ただ、納得している顔だった。



「原付キャノンボールに出るために、近所のバイク屋で一番安いのを買っちゃって。買ってから知ったんですけど、俺のスクーターだけリアサスが無いって言われて。スクーターって全部同じだと思ってました」



 誰も笑わなかった。



 モドキが言う。



「空冷はな、甘くない。ずっと全開で回す世界じゃ、設計の差がそのまま出る」



「回収は来るんですよね?」



 青年がスマホを見ながら聞く。


 モドキが頷いた。



「運営のトラックが来る。バイクも荷物も、ちゃんと拾ってくれる」



「じゃあ待ってます。……すみません、みなさん引き止めて」



 その時、鈴菌が僕を見た。


 それから、僕のプレスカブを見た。


 少し間を置いて、口を開いた。



「……お前のカブ、一九九〇年製だったな」



「あ、はい。新聞配達のお下がりで」



「純国産だ」



 鈴菌は言った。



「この頃のカブは、ネジのひとつにしても全部国産だ。素材も、精度も、今の量産品とは次元が違う。当たり前に丈夫にできてる」



 僕は、自分のカブを見た。


 ボロボロのハンドルカバー。


 錆の浮いたフロントキャリア。


 何度拭いても取れない泥の染み。



 正直、僕はずっと思っていた。


 古いバイクより、新しいバイクの方が速いはずだ、と。


 なのに僕が出場できたのは、このカブしか持っていなかったからだ。



 でも、鈴菌の言葉は違う意味を持っていた。



「……このカブって、そんなにすごいんですか?」



 鈴菌はちょっとだけ呆れた顔をして、それでも答えた。



「そんなにすごい、じゃない。こいつは最初からそういう設計で作られてる。毎日酷使して、雨でも雪でも走って、それでも壊れない。その一点において、並のバイクじゃ敵わない」



 モドキが横から言う。



「お前が今日ここにいる理由の一つは、そのカブのタフさだと思うぞ」



 胸の奥が、じわりと熱くなった。



 仕事道具だと思っていた。


 新聞配達のお下がりで、自分には選ぶ権利もなかった相棒だ。


 でもそいつが、今ここで、日本縦断レースの一日目を走り切ろうとしている。



 僕はプレスカブのエンジンに手を置いた。


 温かかった。



   *



「行ってくださいよ」



 青年が顔を上げた。


 笑っていた。



「レースの途中でしょ? 俺のことは大丈夫です。次はレッツでも買いますよ」



 鈴菌が、珍しく表情を少しだけ崩した。



「レッツか……」



 その一言に、スズキ乗りとしての複雑な感情がにじんでいた。


 褒めていいのか、惜しんでいいのか。



 三台は、ほぼ同時にエンジンをかけた。


 モドキが先に出る。


 鈴菌が続く。



 僕は最後に、一度だけ振り返った。


 青年は、路肩で手を振っていた。



 笑っていた。


 本当に、笑っていた。



 しばらくして、遠くに低い排気音が聞こえた。


 運営のトラックだ。


 あの青年と、エンジンの死んだチョイノリを、丁寧に拾いに来ていた。



 最初の犠牲者。


 でも、それは残酷さの話ではなかった。


 マシン選びから、勝負は始まっている。


 このレースの本当の深さを、最初に体で教えてくれた人だった。



   *



 人吉を抜けて、鈴菌とモドキとしばらく並走した。


 この三人で九州を走るのは、これが最後になる。


 僕は大分へ向かい、フェリーで海を渡る。


 鈴菌とモドキは関門海峡を目指して北上する。



 人吉の市街地を抜ける時、道の端に古い橋が見えた。


 石造りの、小さな橋だ。


 川の上に、静かに架かっている。



 夏目友人帳の聖地だと、後で知った。


 夏目貴志の通学路として何度も登場する、天狗橋のそばの風景だ。


 この町の川も橋も路地も、誰かのアニメの記憶と重なっている。



 知らなかった。


 鹿児島から出たことがなかったから、こんな景色があることも知らなかった。



 旅に出て、初めて見えるものがある。


 そのことを、走りながら考えていた。


その日の夜は3人で道の駅 人吉で野宿した。


3人は早々にリタイヤが出たことについて深夜まで語り合っていた。


そして、翌朝。3人は北上を続ける。



 やがて、分岐が来た。



「じゃあ、ここで」



 モドキが言った。



「大分まで気をつけてな。船は初めてか?」



「はい」



「楽しいぞ。原付でフェリーに乗るのは、なんかいいもんだ」



 モドキはニヤリと笑って、北へ走っていった。



 鈴菌は何も言わなかった。


 ただ、顎をしゃくって、行けという仕草をした。


 それだけで十分だった。



 二台の排気音が、遠ざかっていく。


 鈴菌の二ストローク特有の甲高い音が、山の中に吸い込まれていった。



 僕は一人になった。


 大分へ向かう道へ、ハンドルを切る。


しばらく一人で走り続けた。


港まではもうすぐだったが時間切れだ。


道の駅 さがのせき。


フェリーに乗るにはちょうどいい道の駅だった。僕は明日のメインイベントである船旅に希望を抱いて早めに寝た。



 原付キャノンボールランは、まだ始まったばかりだ。


 そして、まだまだ続く。




SUZUKI チョイノリ

型式BA-CZ41A

最高出力2.0ps/5500rpm


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