【reverse 11 士別三日、刮目して見よ】
翌朝。
快晴だった。
窓の外に、日本海が広がっていた。
昨夜の嵐が嘘のように、空が青い。
でも、海面には白波が立っている。
うねりが、まだ残っている。
フェリーは、今日も欠航だ。
赤マルが朝食の席で言った。
「今日も釣りに行きましょうか! 昨日と違うポイントを試してみましょう!」
本田が即座に頷いた。
昨日の興奮が、まだ体の中に残っているらしい。
アプリはコーヒーを飲んでいた。
少し考えた。
「俺は一人で動く。後で合流する」
「男はつらいよのロケ地って、ここもそうだったんですね」
本田が言った。
「そうだ。小さな島だから、後で合流できる」
赤マルが手を叩いた。
「僕と本田くんは青苗漁港か幌内湾か神威脇漁港の、どこかにいますから! アプリさんの道具もちゃんと用意しておきます!」
「ああ」
アプリは短く答えた。
本田と赤マルがエブリイワゴンに乗り込んだ。
アプリはガレージからRS50を出した。
エンジンをかけた。
甲高い二ストの音が、快晴の空に響いた。
二台が、逆方向へ走り出した。
*
アプリ視点。
奥尻港から始めた。
港の岸壁に、RS50を停めた。
エンジンを切った。
波の音だけが、港に満ちた。
映画の中で、寅さんが島に降り立った場所だ。
四十年以上前のことだ。
当時の灯台の位置は変わっている。
港の造りも変わっている。
でも、この港から見える山並みは、たぶん同じだ。
映画の中の寅さんが見た景色と、同じ山が、同じ場所に立っている。
アプリはしばらく港を見た。
寅さんが、ここで何を思ったかは知らない。
でも、島に降り立った時の、あの感覚は、少しわかる。
島は、違う。
陸続きの土地とは、空気が違う。
海で切り取られた場所に来た、という実感が、体に入ってくる。
エンジンをかけた。
次の場所へ向かった。
*
青苗地区に入った。
RS50を走らせながら、街並みを見た。
アプリは震災前の青苗を知らない。
一九九三年の北海道南西沖地震が起きた時、アプリはまだ幼かった。
あの日は偶然、函館市内にいた。
だから、震災前のこの街がどんな風に見えたのか、どんな匂いがしたのか、まったく知らない。
映画の中に映っていた当時の漁村が、地震と津波でどれほど変わったのかも、比べようがない。
ただ、今の青苗がある。
復興した街がある。
人が住んでいる。
魚屋がある。
小さな商店がある。
アプリは走りながら、その街を見た。
映画のファンの中には、映画の中の「かつての青苗」と今の街を照らし合わせながら巡る人もいるという。
でも、アプリにはそれができない。
比べる記憶がない。
だから、ただ今の青苗を見た。
今ここに残っているものを、見た。
*
稲穂岬へ向かった。
島の北端だ。
道が細くなった。
岬の先に、賽の河原があった。
無数の石が、積まれている。
荒涼とした岬の先に、誰かが積んだ石の塔が、あちこちに立っている。
風が、常に吹いている。
波の音が、遠くない。
空と海と、積まれた石だけがある。
映画の中で、寅さんとすみれが墓参りをした場所だ。
一九九三年の地震の津波で、ここも変わったという。
でも、復元されて、整備されて、今もここにある。
アプリは石の前に立った。
風が、常に吹いていた。
誰もいなかった。
寅さんのことを、少し考えた。
映画の中の寅さんは、いつも旅の途中にいる。
どこかから来て、どこかへ去っていく。
定住しない。
でも、行く先々で誰かと出会って、誰かの人生に少しだけ触れて、また旅立つ。
そのスタイルが、アプリには少しだけ理解できる。
定住することが苦手なのではない。
旅の途中にいることで、見えるものがある、と知っているのだ。
風が強くなった。
アプリは岬を後にした。
*
丘の上に来た。
時空翔が、そこに立っていた。
モニュメントだ。
青い空に向かって、羽を広げた形をしている。
その壁面に、名前が刻まれている。
びっしりと、刻まれている。
一九九三年七月十二日の北海道南西沖地震で亡くなった、百九十八人の名前だ。
アプリは壁面の前に立った。
名前を、一つずつ見た。
読もうとした。
でも、多すぎて、全部は読めない。
久しぶりに来た。
北海道を走る度に、奥尻島には渡ってきた。
ここへも、その度に来た。
来る度に、島が少し小さくなっている気がする。
人が、少しずつ減っている。
震災の頃からおよそ、戸数は半分になっているらしい。
高齢化。
若者の流出。
島が、静かに縮んでいく。
(また島の人が減ったみたいだな)
アプリは壁面を見ながら、思った。
この名前の人たちが亡くなって、三十年が経つ。
その三十年で、島はここまで小さくなった。
アプリは孤児院で育った。
この地震で、家族を失ったからだ。
両親も、兄弟も、あの夜に消えた。
でも、幼かった。
親の顔も、兄弟の声も、もうほとんど覚えていない。
覚えていないから、悲しみは薄い。
悲しみというより、ただ、欠けているものがある、という感覚だ。
その欠けた場所を、旅が埋めてきた。
走ることで、人に会うことで、その欠けた部分が、少しずつ形を変えてきた。
夕張で、本田に言った言葉を思い出した。
俺たちなら救えるかもしれない、と言った。
あれは、本田に言ったようで、この島のことも考えていた。
原付という旅のスタイルが、もっと広がれば。
下道を走る旅人が、もっと増えれば。
この島にも、誰かが来る。
誰かがホッケを食べる。
誰かが赤マルの宿に泊まる。
それが、積み重なる。
(本田のような若者が、もっと増えると面白くなる)
アプリは壁面に呟いた。
風が、その言葉を流した。
ラビットのことを、少し考えた。
稚内のあの宿のオーナー。
あの人がキャノンボールランを知っていたのは、理由がある。
アプリはそれを知っている。
謎の運営と呼ばれているあの組織の方針を、アプリは把握している。
下道を走る原付旅人を増やすことで、高速道路に素通りされてきた街を救う。
そのための大会だったことを、アプリは知っている。
だから、ラビットとは旧知の仲だった。
だから、ラビットはあの宿を作った。
道の途中に寄れる場所を、増やすために。
でも、本田には何も言っていない。
本田に謎の運営のことを教える必要はない。
本田はただ走ればいい。
走りながら、街に立ち寄ればいい。
そばを食べて、カレーを食べて、ホッケを釣って、宿に泊まればいい。
動機は何でもいい。
楽しいから走る。
それで十分だ。
本田が楽しんで走ることが、結果として誰かの街を救うことになる。
それで十分だ。
アプリは壁面から目を離した。
*
徳洋記念緑地公園の近くにある墓地へ向かった。
墓地の中を、一つ一つ確認しながら歩いた。
目当ての墓を見つけた。
小さな墓石だ。
風化が進んでいる。
ザックから、ワンカップとコンビニで買った線香を出した。
線香に火をつけた。
ワンカップを、墓石の前に置いた。
誰の墓か、アプリは本田には言っていない。
言う必要もない。
ただ、来る度にここへ来る。
それだけのことだ。
「また来るかもな」
墓石に、短く呟いた。
線香の煙が、快晴の空に細く上がっていった。
しばらく立っていた。
波の音が、遠くから聞こえた。
「さて、本田と合流するか」
アプリはRS50の元へ歩いた。
エンジンをかけた。
甲高い音が、墓地の静寂を破った。
その音が、アプリには心地よかった。
*
青苗漁港へ向かった。
走りながら、考えた。
本田のことを。
キャノンボールの前夜祭で、初めて本田を見た時のことを覚えている。
参加者の中で、一番頼りなさそうだった。
一番若くて、一番経験がなかった。
バイクへの荷造りも、どこかたどたどしかった。
(あの頃の本田が、まさかこんな北の果ての孤島に来るとは)
アプリは苦笑した。
自分でも意外だったが、本田は来た。
しかも、最初から鹿児島を出た本田ではなく、旅の中でどんどん変わっていった。
伊根の舟屋で偶然出会った時には、すでに旅人の顔をしていた。
あの時のことを思い出した。
舟屋の前の水路で、本田がぼんやりと水面を見ていた。
あの顔は、鹿児島で初めて会った時の本田ではなかった。
何かを見つけかけている顔だった。
旅が、あの顔を作っていた。
青苗漁港に着いた。
本田の姿は、なかった。
別のポイントか。
アプリはエンジンをかけたまま、次へ向かった。
(昨夜は包丁すら握ったことがなかったはずが、百匹のホッケを次々と楽しそうに捌いていた)
あの光景は、面白かった。
本田が最初は恐る恐る包丁を持って、やがて慣れてきて、最後には奥さんと並んで手際よく捌いていた。
鹿児島で一年間引きこもっていた少年が、奥尻島で百匹のホッケを捌いている。
その事実が、アプリには可笑しかった。
士別三日、即更刮目相待。
三国志の中の言葉だ。
日々努力している人は、たった三日会わないだけでも驚くほど成長している。
次に会う時は、昔のイメージを捨てて、しっかり目を見開いて見直さなければいけない、という意味だ。
五十ccという、人が走るよりほんの少しだけ速い乗り物で旅をするだけで、人は簡単に成長できる。
これが、原付旅の本質だとアプリは思っている。
速くないから、景色が見える。
景色が見えるから、人と話す。
人と話すから、世界が広がる。
世界が広がるから、自分が変わる。
本田だけではなかった。
くま子も、ミーハーも、あのレースの中で明らかに変わった。
モト子は、最初は本田より頼りなかったが、今はVタックと二人で東海地方をツーリングしている。
Vタックも、あの年齢でも変わった。
ミルミルも、家族と和解した。
ただし、鈴菌だけは間違った方向に成長しきっていたので、本物の馬鹿だとアプリは思っている。
でも、妙に話が合う。
嫌いではない。
幌内湾に着いた。
本田の姿は、なかった。
次だ。
神威脇漁港へ向かって走り出した時、道路脇に人影が見えた。
ルアー竿を、振っている。
見覚えのある後ろ姿だ。
RS50のエンジン音が、風に乗った。
本田が振り返った。
遠くからでも、本田の顔が輝いているのがわかった。
アプリが止まった。
「釣果はどうだ?」
本田と赤マルが、顔を見合わせた。
二人とも、ドヤ顔だった。
赤マルがクーラーボックスの蓋を開けた。
大型のヒラメが、底に横たわっていた。
白い腹が、光っている。
両手で抱えるほどの大きさだ。
本田が誇らしげにアプリを見た。
そのドヤ顔を、アプリは見た。
(また成長した)
朝よりも、また変わっている。
昨日よりも、また変わっている。
ヒラメを釣り上げた本田の顔は、ホッケを百匹捌いた昨夜の本田より、また少し前に進んでいた。
士別三日、刮目して見よ。
三日どころか、一日ごとに刮目が必要なのかもしれない。
アプリはRS50を停めた。
エンジンを切った。
「俺の竿は?」
「ちゃんと用意してます!」
赤マルが竿を差し出した。
アプリは受け取った。
仕掛けを確認した。
問題ない。
海に、仕掛けを垂らした。
奥尻の海が、竿の先に広がっている。
快晴の空が、海面に映っている。
本田が隣で竿を振っている。
赤マルがその向こうで、鼻歌を歌っている。
アプリは、それを横目で見た。
何も言わなかった。
でも、悪くなかった。
こんな一日も、悪くなかった。
竿がしなった。
アプリはリールを巻いた。
奥尻の海が、快晴の下で光っていた。




