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【reverse 10 走れないライダーはただのーー】

 フェリーが、奥尻港に着いた。


 小雨が降っていた。



 タラップを降りた。


 プレスカブを押して、甲板から出た。


 潮の匂いがする。


 波の音がする。


 島だ。


 利尻島以来の、島だ。



 本田は、小雨の中で少し立ち止まった。


 ヘルメットの上に、雨粒が当たる。


 でも、気にならなかった。


 島に降り立った、というだけで、体の中に何かが灯った。



 アプリがRS50を押して横に並んだ。



「キャンプ場へ向かう。着いて来い」



「はい」



 二台がエンジンをかけた。


 奥尻島の道へ出た。


 左手に海が見える。


 雨の日本海が、灰色に広がっている。


 でも、その灰色が、嫌じゃなかった。


 利尻も、最初は雨だった。


 雨の島ツーリングには、慣れた。



   *



 しばらく走ると、後ろからエンジン音が近づいてきた。


 大きい音だ。


 重い音だ。



 ハーレーダビッドソンが、二台の横に並んだ。


 883だ。


 低い車体から、重低音のエンジンが響いている。



 ハーレーが止まった。


 ヘルメットを取ると、日焼けした中年の男性だった。


 笑顔だ。



「今夜はこのまま荒れますよ! キャンプ場じゃ厳しい! 良かったらウチに泊まって行ってください! 着いて来てください!」



 アプリが本田を見た。


 本田がアプリを見た。


 アプリが頷いた。



 ハーレーの後をついていった。



 しばらく走ると、看板が見えてきた。


 奥尻ゲストハウスcoco。



 ハーレーから降りた男性が、改めて名乗った。



「赤マルといいます。今はシーズンオフなんで、半額でいいですよ。バイクはガレージに入れてください」



 ガレージがあった。


 RS50とプレスカブを入れた。


 屋根の下に、二台が収まった。


 雨が直接当たらなくなった。


 それだけで、安心した。



   *



 宿に入った。


 赤マルの奥さんが、お茶を出してくれた。


 本田がセイコーマートへ走った。


 戻ってくると、カツ丼を二つ持っていた。



「何故、こんな離島でセイコーマートがあるんですか?」



 本田がカツ丼の蓋を開けながら言った。



「セイコーマートは樺太にも展開するつもりらしいぞ」



「ロシアに? まさか!」



「樺太には二〇二一年までみちのく銀行があったくらいだからな。割と本気で出そうとしてたんじゃないか」



「今はその銀行はないんですか……」



「まあ、色々あったからな。戦争が先か、青森銀行との合併が先かは知らんが、今はもうない。たぶんセイコーマートの進出も難しいだろうな」



「でも、樺太にセイコーマートができても、僕らには行けませんからね」



「そんなことないぞ。少し前までは稚内からフェリーも出てた」



「えっ!?」



「フェリーと言っても、原付は載せられなかったが」



「な〜んだ。まさかアプリさんは樺太も走ったことがあったのかと思いましたよ」



「馬でなら走ったぞ」



「ええーっ!? さ、さすがアプリさんです……」



 アプリがカツ丼を食べた。


 本田もカツ丼を食べた。



 雨が窓を叩いている。


 宿の中は温かい。


 離島のセイコーマートのカツ丼が、なんとなく旨かった。



 馬で樺太を走ったアプリの話を、もう少し聞きたかったが、アプリはもうカツ丼を食べ終わって窓の外を見ていた。


 その横顔に、続きを聞ける雰囲気はなかった。



 本田も窓の外を見た。


 雨が強くなっていた。


 赤マルの予報は、正しいかもしれない。



   *



 午後になっても、雨が続いた。


 やることが、なかった。



 アプリがRS50のメンテナンスを始めた。


 ガレージで、チェーンに油をさしていた。



 本田はガレージの椅子に座って、それを見ていた。



「アプリさん、利尻島の時はラビットさんと何を話してたんですか?」



「さあ。覚えてない」



「覚えてないんですか?」



「あいつと話すと、いつの間にか時間が経つ。何を話したか覚えてないが、楽しかった記憶はある」



「それはそれで羨ましいですね」



「お前も似たようなもんだろ」



「僕はアプリさんと何を話しても覚えてますよ。馬で樺太を走ったとか」



「それは珍しい話だから覚えてるだけだ」



「そうですかね……」



 本田はガレージを見回した。


 赤マルのハーレーが、端に停まっている。


 883だ。


 重厚な車体が、薄暗いガレージの中に収まっている。



「アプリさん、ハーレーって乗ったことありますか?」



「ある」



「どうでした?」



「重い。曲がらない。でも、あの音は他で出せない」



「乗ってみたいですか?」



「今は興味がない。いつか歳を取ったら乗るかもしれない」



「何歳くらいで?」



「さあ。歳を取ったら、だ」



 本田は、アプリが歳を取った姿を想像しようとして、うまくいかなかった。


 アプリが歳を取っても、たぶん同じ顔をしている気がした。


 同じ顔で、どこかを走っている気がした。



 雨が、ガレージの屋根を叩いていた。



   *



 赤マルがリビングに顔を出した。



「釣りに行きましょう! 雨の日の方が魚は警戒心がないんですよ!」



 本田が立ち上がった。


 釣り。


 やったことがない。


 でも、やってみたかった。



「行きます!」



「俺も行く」



 アプリも立ち上がった。


 意外だった。


 でも、考えてみれば、アプリが断るような話でもなかった。



 赤マルのスズキ・エブリイワゴンに乗り込んだ。


 三人が、青苗漁港へ向かった。



   *



 漁港に着いた。


 波が、防波堤を叩いている。


 雨が、海面を叩いている。



 赤マルが釣竿を三本出してきた。


 仕掛けを見た。


 針が、たくさん付いている。


 サビキという仕掛けだ。



「こう持って、こうやって垂らして、上下に振るんです。竿が動いたら巻く」



 赤マルが実演してくれた。


 本田が恐る恐る、海に仕掛けを垂らした。


 竿を上下に振った。



 すぐだった。



 竿が、しなった。



(来た!)



 本田が声を上げる前に、アプリが言った。



「巻け!」



 本田は慌ててリールを巻いた。


 重い。


 何かがついている。


 引っ張る力がある。


 生き物の力だ。


 機械でも、重さでもない。


 生きた力が、竿を通して手に伝わってくる。



 抜き上げた。


 銀色の魚が、仕掛けにぶら下がっていた。


 大きい。


 手のひらより大きい。



「ホッケです! 今の時期はかなり美味いですよ!」



 赤マルが嬉しそうに言った。


 本田は魚を見た。


 ホッケ。


 鹿児島で育った本田は、ホッケといえば一夜干しだけだった。


 スーパーの魚売り場で、干した状態でしか見たことがない。


 この銀色の魚が、あの一夜干しになるのか。



 クーラーボックスにしまった。


 また仕掛けを垂らした。


 また来た。



 また巻いた。


 また来た。



 本田は笑い出していた。



「また来た! また来た!!」



 上げるたびに、声が出た。


 止められなかった。


 魚が針に乗る感触が、たまらなかった。


 引っ張る力に、竿ごと引き込まれそうになる。


 踏ん張って、巻く。


 抜き上げる。


 銀色の魚が、雨の中でキラキラと光る。



「アプリさん! また来ました!!」



「巻き続けろ。手を止めるな」



 アプリも竿を持っていた。


 無口に巻いていた。


 でも、その動作は手慣れていた。



 雨が強くなってきた。


 カッパが濡れた。


 靴の中が濡れた。


 でも、止める気にならなかった。



「雨が強い方が、よく釣れるんですか?」



「そうですよ。魚が下を向かなくなるんです。空が見えにくくなるから、上からの脅威に気づきにくくなる」



「なるほど!!」



 本田はまた仕掛けを垂らした。


 また来た。


 ホッケだ。


 今度は二匹、針にかかっている。



「二匹!!」



 声が、漁港に響いた。


 波の音と雨の音の中に、本田の声だけが明るかった。



 一時間が経った。


 いつの間にか、クーラーボックスが重くなっていた。


 赤マルが蓋を開けた。


 ホッケとカジカが、ぎっしりと詰まっていた。


 百匹近い。


 もう入らない。



「帰りましょうか」



 赤マルが言った。


 本田は竿を持ったまま、名残惜しかった。


 もっと釣りたかった。


 でも、クーラーボックスは限界だ。


 仕方なく、竿を収めた。



 エブリイワゴンに乗り込んだ。


 帰り道、赤マルが笑いながら言った。



「これだけ釣れると、奥さんのベヴェルが怒りますよ」



「怒る?」



 本田には意味がわからなかった。


 アプリも何も言わなかった。



 宿に着いた。


 赤マルが奥さんを呼んだ。


 クーラーボックスを開けた。


 奥さんが、ため息をついた。



「また釣りすぎて……」



 ベヴェルの意味が、わかった。



   *



 本田は、奥さんに呼ばれた。


 台所に立った。


 ホッケの捌き方を教えてもらった。



 包丁を持った。


 最初は恐る恐るだった。


 頭を落として、内臓を取り除く。


 奥さんが「そうそう、上手い」と言った。


 褒められると、もっとやりたくなった。



「今夜食べる分はブツ切りにして煮付けにします。それ以外は一夜干し用に捌きますから、真っ二つにしてください」



「はい」



 本田が今夜の分を担当した。


 奥さんが一夜干し用を、鮮やかな手つきで捌いていく。


 あっという間に捌ける。


 本田が一匹に苦労している間に、奥さんは三匹を仕上げている。



 でも、本田は楽しかった。


 自分が釣った魚を、自分で捌いている。


 こんな体験は、鹿児島でもしたことがなかった。



 全部捌き終えた。


 台所が、魚の匂いに包まれていた。



   *



 リビングに行くと、アプリと赤マルが酒を飲んでいた。


 本田がソファに座ると、赤マルが話しかけてきた。



「今日の釣果、ホッケとカジカ合わせて九十八匹ですよ。一夜干しを真空パックにしますから、誰かに送ってあげたらどうですか?」



 本田はアプリを見た。


 アプリが頷いた。



「キャノンボールの皆に送るか」



 本田はスマホを取り出した。


 グループLINEに近況報告を兼ねてメッセージを送った。



「奥尻島に来ています! ホッケの一夜干しが大量にあるんですが、欲しい方いますか?」



 送信した。


 一秒後だった。


 既読がついた。



 くま子からメッセージが来た。



『まだそぎゃんとこにおっと? ホッケはうちが、たいぎゃなおご馳走として頂くけんね! うちは五人家族だけん、そんくらいじゃ足りんとよ? 早よ帰ってこんと、みんなでお先に食べちゃうよー!』



 本田は声を出して笑った。



「LINEでも熊本弁なんですね……」



 アプリが画面を見た。


 少しだけ口元が緩んだ。



 続いて、ミルミルとVタックからも返信が来た。


 鈴菌からも来た。


 モト子からも来た。



 皆が生きている。


 皆がそれぞれの場所で、動いている。


 奥尻島の小さな宿のリビングで、本田はそれを確かめた。



   *



 奥さんが夕飯を呼んだ。


 テーブルに、鍋が出てきた。


 ホッケの煮付けだ。



 本田は自分で捌いた魚だとわかっていた。


 でも、まだ食べたことがない料理だ。


 鹿児島でのホッケといえば、一夜干しだけだった。


 スーパーで買った干した切り身を、フライパンか魚焼きグリルで焼く。


 それがホッケだと思っていた。



 箸を入れた。


 白い身が、ほろりと崩れた。


 出汁が、白い身の中まで染み込んでいる。


 口に入れた。



(なんだ、これは)



 甘い。


 しょっぱい。


 ホッケの脂が、煮汁と混ざって、口の中でとろけた。


 一夜干しの時の、香ばしくて塩気の強い味とは、全然違う。


 干すことで旨みが凝縮されるのが一夜干しなら、煮付けは素材そのものの旨みが汁に溶け出している。


 そのとろけた旨みが、汁ごと体に入ってくる。


 ほかほかとした温かさが、喉を通っていく。



「美味い……」



 アプリが言った。


 アプリが自分から「美味い」と言うのを、本田は久しぶりに聞いた気がした。



「僕も初めて食べました、ホッケの煮付け」



「俺も同じだ。焼くもんだと思ってた」



「こんなに美味いなら、毎回煮付けにすればいいじゃないですか」



「一夜干しにする意味もわかるだろ。あれはあれで別の美味さだ」



「そうか……ホッケって奥が深いんですね」



 赤マルが笑った。



「奥尻のホッケは特に美味いんですよ。水温と漁場の関係で、脂の乗りが違うんです」



 本田は煮付けをもう一口食べた。


 自分が釣った魚だ。


 自分で捌いた魚だ。


 それが、こんなに美味いものになっている。



 釣りが楽しかった。


 でも、食べるともっと楽しくなった。


 明日もまた釣りに行きたかった。



   *



 夕飯が終わった頃、窓を雨が激しく叩き始めた。


 風の音が、宿の外で唸っている。



 赤マルが言った。



「明日はフェリーも出ないと思いますよ。たぶんですけど」



 本田は、一瞬だけ焦った。


 日程が、ずれる。


 秋田のミーハーへの約束が、遅れるかもしれない。



 でも、その次の瞬間に、ロリのことを思い出した。


 レース中に、利島に渡って、帰れなくなった。


 大荒れの海の前で、島の子供たちと笑って遊んでいた。


 あの時のロリの顔が、くっきりと浮かんだ。



 本田はクスっと笑った。



「なるようにしかならんな」



 アプリが言った。


 本田が頷いた。



「はい。なるようにしかならないですね」



 赤マルが酒を注いだ。


 アプリが受け取った。



 本田は、自室に向かった。


 布団に入った。


 スマホを開いた。


 皆からのLINEが、まだ続いていた。


 くま子が、また送ってきていた。



『ところで、いつ帰ってくるとね? 早う来んとホッケば全部食べちゃうよ!』



 本田は笑いながら、スマホを置いた。


 外では風が唸っている。


 波が、防波堤を叩いている。


 島が、嵐の中にある。



 でも、宿の中は温かい。


 ホッケの煮付けが、まだ体の中にある。


 赤マルが人のよさそうな顔で、また明日も釣りに行きましょうと言うだろう。


 アプリがヤレヤレという顔をして、それでも竿を持つだろう。



 本田は目を閉じた。


 奥尻島の嵐が、窓を揺らしていた。


 でも、本田はもう、その音の中で眠っていた。



SUZUKIエブリィワゴン

型式 DA17W

最高出力 64ps/6000rpm

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