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【reverse 9 五感は映らない】

 朝。


 栗山町。


 小雨だった。



 三人がレインウェアを着込んだ。


 三台が並んでいる。


 aprilia RS50。


 SUZUKIボルティ。


 プレスカブ。



 リリーがGoProをヘルメットに固定しながら言った。



「今日で私、函館に帰りますよ」



「わかってる」



 アプリが言った。


 本田も頷いた。


 栗山を出る前から、決めていたことだ。



 三台が走り出した。


 国道234号線を南下する。


 雨粒が、ヘルメットのシールドを叩く。


 霧雨が、道路を濡らしている。



   *



 苫小牧に入った。


 漁港の方へ向かった。



 マルトマ食堂。


 小さな食堂だ。


 でも、食堂の前にライダーが列を作っていた。


 こんな小雨の朝に、こんな小さな漁港の食堂に、これだけのライダーが並んでいる。



「何でこんなに並んでるんですか?」



 本田が不思議そうに言った。


 リリーも首をかしげた。



 アプリが言った。



「ここに寄るのはライダーとしての義務だ」



 それだけだった。



 列に並んだ。


 しばらく待った。


 席に着いた。


 メニューを見た。


 種類が多い。


 本田もリリーも迷った。



 アプリがメニューを一度見て、閉じた。



「ホッキカレー」



 本田もリリーも、アプリに倣った。



「ホッキカレー」


「ホッキカレー」



 来た。


 ホッキ貝が、カレーの中に入っている。


 大きい。


 プリプリしている。



 本田が一口食べた。



(なんだこれ)



 ホッキ貝の旨みが、カレーのルーに溶け込んでいる。


 貝の甘みと磯の香りが、スパイスと混ざって、口の中に広がる。


 こんなカレーを食べたことがない。


 いや、こんな味を想像したこともなかった。



「美味い……」



 リリーも固まっていた。



「これ……ホッキ入ってないカレー、二度と食べられないかもしれない……」



「私もです」



 本田が頷いた。


 それを聞いていた店主が、笑顔で厨房から出てきた。


 しばらくして、大きな刺身の盛り合わせが、テーブルに置かれた。



「サービスだよ。また来てくれ」



 本田とリリーが顔を見合わせた。


 アプリが静かに刺身を取った。



「ライダーとしての義務、の意味がわかりましたか」



「わかりました」



 本田が頷いた。


 リリーがGoProを食堂に向けた。


 雨の漁港。


 列を作るライダー。


 義務と言わしめる、ホッキカレー。



   *



 白老を抜けた。


 登別を抜けた。


 伊達を抜けた。


 洞爺湖の方角に、羊蹄山が霞んでいる。


 雨の中でも、その形は美しかった。



 小雨の中を、三台が走り続けた。


 リリーはアプリの後ろを走っていた。


 本田が最後尾。



 雨の日の走りは、乾いた日と違う。


 全てが濡れている。


 路面が光っている。


 タイヤが、水を切る音がする。


 でも、三台は止まらなかった。



   *



 長万部に着いた。


 国道5号線に入った途端、本田は覚えていた。



 廃墟が、連なっている。


 あの廃墟だ。


 来た時に見た、廃ドライブイン群だ。


 あの時は、ガソリンスタンドを探すのに必死で、よく見られなかった。


 今日は、ゆっくりと通った。



 アプリがボロボロの廃墟の前で止まった。


 本田も止まった。


 リリーも止まった。



 アプリが廃墟を見た。


 朽ちた看板が、傾いている。


 窓が、ベニヤ板で塞がれている。


 雑草が、駐車場を覆い尽くしている。



「ここはヒデっていう店でな」



 アプリが言った。


 静かな声だった。



「当時としては珍しい、二十四時間営業をしてた。本当にいい店だったんだ。カニチャーハンが美味くてな……」



 本田は、アプリの横顔を見た。


 この人は、ここに来たことがある。


 この廃墟が、まだ店だった頃に。


 そのカニチャーハンを食べたことがある。



「さあ、そこのかなやでカニ飯だ」



 アプリが向かいのドライブインを指した。


 今も営業しているドライブインが、廃墟群の中に一軒だけ生き残っていた。



   *



 かなやに入った。


 アプリと本田がカニ飯の大盛りを頼んだ。


 リリーがメニューをぱらぱらとめくった。


 それから、何でもないように言った。



「鍋焼きうどんにします」



「カニ飯じゃないんですか?」



 本田が聞いた。



「函館市民なんで、カニ飯は食べ飽きましたよ〜」



 リリーが笑った。


 アプリと本田がカニ飯を食べている横で、鍋焼きうどんが来た。


 土鍋から、湯気が上がっている。


 出汁の匂いが広がった。



 本田が思わずリリーの鍋を見た。


 旨そうだ。


 カニ飯も旨いが、その鍋焼きうどんも、かなり旨そうだった。



 アプリも横目で見ていた。



「……鍋焼きうどん、一つ追加で」



「僕もください」



 リリーがドヤ顔になった。


 この旅で初めて見るリリーのドヤ顔だった。



「かなやはカニ飯以外の方が美味しいんですよ! ここは地元の人も使うので!」



 アプリが何も言わずに鍋焼きうどんを食べ始めた。


 旨かった。


 出汁が深い。


 函館市民の言葉は、正しかった。


 リリーが、カニ飯を食べる二人を見ながら、ニヤニヤしていた。



   *



 午後、せたな町に着いた。


 立象山公園の中にある、せたな青少年旅行村だ。



 高台から、日本海が見えた。


 雨は止んでいた。


 水平線の向こうに、島の影が見える。


 奥尻島だ。


 薄く、遠く、確かにそこにある。



「あれが奥尻島ですか?」



「あぁ」



「明日、行くんですね」



 本田が言った。


 アプリが頷いた。



 テントを張った。


 荷物を降ろした。


 近くの瀬棚公営温泉で体を温めた。



 リリーが、ボルティの荷物をまとめ始めた。


 本田とアプリが、その様子を見ていた。



「リリーさん、気をつけて帰ってください」



「もうここまで来たら函館圏内ですよ! ナビ無しでも帰れるくらい!」



 リリーがボルティのセルを回した。


 エンジンがかかった。


 振り返って、二人を見た。


 少し、照れた顔をした。



「また函館で会いましょうね!」



「はい!」



「アプリさんも……まあ、よろしく」



 アプリが小さく頷いた。


 リリーがヘルメットをかぶった。


 カッコつけた顔になった。


 深呼吸した。



「アイ、ハブ、ア、エクスキューズ!」



 two-finger saluteをした。


 颯爽とした顔で、走り去った。



 本田とアプリが、その背中を見ていた。


 本田がアプリを見た。


 アプリが本田を見た。


 二人とも、何も言わなかった。


 ただ、ボルティが国道に消えるまで、見ていた。



   *



 リリー視点。


 七飯藤城ICで高速を降りた。


 函館の街並みが、見えてきた。



 白鳥町の実家に着いた。


 玄関を開けると、いつもの匂いがした。


 ただいま、と言った。


 母親が、台所から声を返した。



 リリーは二階の自分の部屋に直行した。


 ノートPCを開いた。


 GoProのデータを読み込んだ。



 編集作業を始めた。



   *



 最初のデータは、紋別のキャンプ場だった。


 セルが回らないボルティ。


 泣きそうな自分。


 それをヤレヤレという顔で直してくれたアプリ。


 押しがけを初めて見た時の、自分の間抜けな顔。



 リリーは笑いながら編集を進めた。



 次は、国道238号線の映像だ。


 地平線まで続く一本道を、本田が三十キロで走っている。


 鹿児島を出てから一人でゆっくりと走ってきた本田の後ろ姿。


 本当に、ゆっくりだ。


 でも、その背中は確かに前を向いていた。



 網走の観光映像が続いた。


 能取湖のサンゴ草。


 真っ赤な絨毯の中を歩く自分。


 木道の上で、リリーが北海道弁を出してしまって、本田に笑われているシーン。



(そういえば、あの時の本田くんの顔)



 リリーは映像を止めた。


 本田が笑っている顔を、静止画で見た。


 十八歳の少年が、笑っている。


 鹿児島で引きこもっていたとは思えない顔だ。


 この旅がその顔を作ったんだ、と思った。



 天に続く道の映像になった。


 本田にGoProを渡して、ボルティで走ったあの道だ。


 最初の三十秒、カメラが動いていない。


 本田が景色に見とれて、撮るのを忘れていた証拠だ。


 あの時は少し腹が立った。


 でも今、その三十秒の静止した映像を見ると、何となくわかる。


 あの景色は、カメラより目で見たかったんだ。


 本田にとって、それが正解だったんだ。



 サーキットの映像が来た。


 アプリのRS50が、コーナーを切り込んでいく。


 膝が、路面をかすめている。


 プロレーサーが逃げている。


 でも、振り切れない。



 リリーはその映像を、何度も見た。


 何度見ても、同じ感動があった。


 でも、映像越しに見ると、何かが足りない。


 あの時、客席で見ていた時の、あの高揚感が、映像には入っていない。



(なんだろう、この感じ)



 リリーは考えた。


 編集しながら、ずっと考えた。



   *



 一階から声がした。



「ご飯! 早く来なさい!」



 リリーはしぶしぶ作業を止めた。


 一階に降りた。


 食卓に座った。


 母親が、夕飯を並べていた。



「おかえり。どうだった?」



「もう最高だったよ!!」



 リリーは語り始めた。


 語り始めたが、言葉がついてこなかった。



「まずね、紋別でバイクが壊れてアプリさんっていう人がグワーッと直してくれてね!」



「グワーッと?」



「そう! グワーッと! もう手際が神なんだよ! で、押しがけっていうのをやってくれてエンジンがダダーンとかかって!」



「ダダーン?」



「そう! ダダーン! で、そのままクリオネキャンプ場についていったら網走でサンゴ草がバァーッと広がってて!」



「バァーッと」



「バァーッと!! 真っ赤な絨毯みたいで! で、知床に行ったら滝がドォーンとあって!」



「ドォーンと」



「ドォーンと! もう語彙力が死ぬくらい美しくて!」



 母親がお茶を飲みながら、ため息をついた。



「……クリエイターさんに向いてないね」



「バイクのことは伝わってる?」



「全然」



「じゃあサーキットは? アプリさんがプロのレーサー相手にグワーッと迫ってね!」



「また出た、グワーッと」



「もう、画面越しじゃないと絶対に伝わらないんだよ!!」



 リリーは立ち上がって、ノートPCを持ってきた。


 編集中の動画を再生した。


 知床半島を三人で巡っているシーンだ。


 オシンコシンの滝。


 ウトロ港。


 知床五湖。



 母親が画面を見た。


「綺麗ね」



「綺麗でしょ!!」



「うん、綺麗」



 でも、それだけだった。


 母親の顔に、感動の表情はなかった。


 綺麗、と言った。


 確かに綺麗な映像だ。


 でも、あの時リリーが五湖の木道で感じた、あの静寂は映っていない。


 風が止まって、湖面が静止して、知床連山が映り込んでいた、あの瞬間の息が詰まるような感覚は、映像の中にない。



 リリーは画面を閉じた。


 席に戻った。


 ご飯を食べた。


 ニヤニヤしながら食べていた。


 旅の記憶が、次から次へと溢れてくるから。



「何かいいことあった?」



 母親が聞いた。



「いいことしかなかったよ!!」



「具体的には」



「だから! ホッキカレーがズドーンと来てね!」



「ズドーン」



「ズドーン! もうホッキ入ってないカレーは食べられないくらい!」



「それは具体的ね」



「で、アプリさんがサーキットでプロ相手にギュワーンって!」



「ギュワーン」



「ギュワーンよ!!」



 母親がまたため息をついた。


 リリーは、また笑ってしまった。


 自分でも、上手く伝わっていないのはわかっていた。


 でも、伝わらなかった。


 どうしても、伝わらなかった。



   *



 食事を終えて、また二階に戻った。


 編集を再開した。



 映像を見ながら、考えた。



 何が映っていないのか。


 能取湖のサンゴ草の、あの赤を見た時の、突然世界が変わった感じ。


 天に続く道の、あの広さに体が飲み込まれそうになった感じ。


 サーキットの客席で、アプリのRS50がコーナーを切り込む瞬間、思わず立ち上がりそうになったあの感じ。


 栗山のキャンプ場で、約束通りにアプリと本田が辿り着いた時の、安心したような嬉しいような、あの感じ。



 全部、映っていない。



 映像を通すと、風が消える。


 匂いが消える。


 振動が消える。


 湿度が消える。


 寒さが消える。


 温もりが消える。



 五感が、全部消える。



 リリーは手を止めた。



 アプリが、何度も北海道を走っている理由。


 本田が、出会う人全員に「また必ず来ます」と言っている理由。


 あの二人がなぜ走り続けるのか、リリーはずっとわからなかった。


 バイクで走るよりも、飛行機で飛んだ方が速い。


 高速道路を使えば、もっと楽に移動できる。


 それでも、原付で走る理由。



 当たり前のことだった。


 当たり前すぎて、気づかなかった。



 体で走らないと、体で感じられない。



 あの五湖の静寂は、あの場所に立たないと感じられない。


 あのホッキカレーの旨さは、あの漁港まで走ってきた体で食べないと、あの旨さにはならない。


 あのサーキットの興奮は、あの客席にいないと、あの高揚感にはならない。



 映像は、事実を記録できる。


 でも、感動は記録できない。


 感動は、その場にいた人の体の中にしかない。



 リリーは画面を見た。


 GoProが撮ってきた映像が、並んでいる。


 何百ギガバイトものデータが、HDDの中にある。


 でも、全部が薄い。


 本物の体験の、表面だけを撮ってきた。



(もっと凄い映像を、撮りたい)



 リリーは思った。


 今まで撮ってきた映像では、足りない。


 見た人が、その場に行きたくなるような映像を撮りたい。


 見た人が、バイクに乗りたくなるような映像を撮りたい。


 見た人が、ホッキカレーを食べに走りたくなるような映像を撮りたい。



 それは、撮る側が本気で感動していないと、できないことだ。


 GoProを垂れ流すだけでは、できないことだ。



 リリーはノートPCのキーボードに手を置いた。


 もう一度、映像を最初から見た。


 紋別のキャンプ場。


 セルが回らないボルティ。


 泣きそうな自分の顔。


 それをヤレヤレという顔で直してくれたアプリ。



 あの瞬間から、旅が変わった。


 あの瞬間から、自分の顔が変わった。



 画面の中の自分の顔を見た。


 アプリと本田と合流してからの自分は、ずっと笑っている。


 雨の中でも。


 道に迷っていても。


 置いていかれても。


 笑っていた。



「辛いから、楽しいんだ」



 本田の言葉が、浮かんだ。


 あの時はよくわからなかった。


 でも今は、少しわかる。


 雨の中を走るから、セイコーマートのフライドチキンが最高になる。


 坂道でエンジンが悲鳴を上げるから、峠を越えた先の景色が美しくなる。


 辛い分だけ、体の感度が上がる。


 感度が上がった体で受け取るから、全部が鮮明になる。



 チャンプが「本田は詩人だ」と言っていた。


 あの時は笑ったが、今は笑えなかった。


 あれは詩じゃない。


 あれは、体で走ってきた人間が、走りながら発見した、本当のことだ。



 リリーは、深呼吸した。


 それから、編集を再開した。


 今夜中に終わるかどうかわからない。


 でも、やる。



 次の旅が、もう始まっている気がした。


 アプリと本田を追いかけて、ミーハーに会いに行く旅が。


 今度は、ただついていくんじゃない。


 自分の体で、自分の五感で、走る旅が。



 もっと凄い映像を、撮る。


 その決意だけが、函館の夜の中で確かだった。



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