【reverse 8 高速道路が殺した街】
朝。
旧幸福駅。
かつての駅舎が、静かに建っている。
幸福、という名前だけが残っている駅だ。
列車は、もう来ない。
三人が、駅舎の前に立っていた。
木造の古い駅名板を、三人が見上げた。
「幸福」
リリーが呟いた。
GoProを駅名板に向けた。
「幸福行きの切符を買えば、幸福になれるって言い伝えがあるんですよ!」
アプリが言った。
「昭和の話だ」
「ロマンがあるじゃないですか!」
本田が駅舎の中を覗いた。
壁に、切符が何枚も貼り付けてある。
全国から旅人が来て、貼っていくらしい。
幸福行きの切符。
それを買って、ここまで来た人たちがいる。
(幸福、か)
本田はその壁を見た。
鹿児島を出た時の自分は、幸福だったか。
たぶん、違った。
今は、幸福だろうか。
たぶん、そうだ。
三人が、駅舎を背景に話し合っていた。
「栗山町で待ってますよ」
リリーが言った。
「はい! 必ず辿り着きますね!」
「なんか、私だけ先に行くなんて申し訳なくて……」
「仕方ないですよ。千メートル越えの峠は、原付は歩くくらいまでスピードが落ちますからね。そんな低速でリリーさんが走ったら絶対に立ちゴケの嵐になりますもん」
「すいません、未熟で……。昨日もアプリさんにコテンパンにされちゃったし……。ボルティはRS50の五倍の排気量なのに……」
アプリが言った。
「二ストと四ストではこんなもんだ。こいつはコースに恵まれただけだな」
タンクを、一度だけ撫でた。
RS50が、朝の光の中に光っていた。
リリーが深呼吸した。
決意した顔だった。
ボルティのセルを回した。
エンジンがかかった。
「それじゃお先に!」
リリーが少し間を置いた。
何かを言おうとしている顔だった。
カッコつけた顔になった。
「アイ……ハブ? エクスタシー?」
two-finger saluteをして、ヨロヨロと走り去った。
本田とアプリが、顔を見合わせた。
二人とも、苦笑いだった。
「I have a low exhaust、でしたね」
「あぁ」
「覚えてなかったんですね」
「あぁ」
アプリがRS50のエンジンをかけた。
本田もプレスカブのキックを踏んだ。
二台が、旧幸福駅を後にした。
*
リリー視点。
更別ICから道東道に乗った。
ソロだ。
久しぶりのソロだ。
紋別でアプリと本田に会ってから、ずっと誰かの後ろを走っていた。
ずっと前に走る人がいた。
迷わなくて良かった。
止まる場所を誰かが決めてくれた。
今日は、一人だ。
高速に乗ったとたん、その事実が体にのしかかってきた。
不安だ。
でも、下道で日勝峠を越えるよりはましだと自分に言い聞かせた。
原付の速度まで落ちた状態でボルティを走らせたら、昨日のサーキット以上に情けない姿になることは目に見えていた。
高速の流れに乗った方が、ずっと楽だ。
昨夜、チャンプから聞いた話が頭の中で繰り返されていた。
後藤房之助伍長。
眼球だけを動かして、仲間の場所を伝えた人。
仲間のために、その場で待ち続けた人。
栗山町で先に行って、二人を待つ。
それは、後藤さんがしたことと同じではないかもしれない。
でも、何となく、重ねていた。
仲間のために先に行って待つ。
それだけのことでも、意味がある気がした。
十勝平野が広がっている。
防風林のシラカバが、高速の脇に白い列を作っている。
十勝川を渡った。
前方に、日高山脈が迫ってきた。
でかい。
北海道の山は、でかい。
本州の山と質が違う。
壁みたいに、前に立ちはだかっている。
トンネルに入った。
ボルティの単気筒が、トンネルの中で反響した。
暗い。
長い。
光の点が、向こうに見える。
あの点に向かって走れば、山を越えられる。
出た。
占冠付近だった。
深い森が、左右に広がっている。
人工物が少ない。
ここが本当の北海道だと思った。
夕張ICで高速を降りた。
一般道に入った。
なだらかな丘陵地帯が広がっている。
田んぼ。
玉ねぎ畑。
穏やかな景色だ。
栗山町に入った。
十時四十分。
本田とアプリより、相当早い。
*
GoProを取り出した。
「栗山町に到着しました! 更別から高速を使って二時間二十分です! 日高山脈のトンネル、めちゃくちゃ長かったですよ!!」
リリーが撮影しながら、小林酒造の方へ向かった。
レンガ造りの蔵が、通りに並んでいる。
明治時代から続く建物だ。
栗山の中に、突然こんな場所があるとは思わなかった。
「見てください、このレンガ造りの蔵!! 小林酒造さんの北の錦記念館です!! 無料で見学できます!!」
中に入った。
重厚な建築の中に、酒造りの歴史が並んでいる。
じっくり見た。
一人だから、じっくり見られた。
誰かのペースに合わせなくていい。
ソロの良さが、ここで初めてわかった。
錦水庵で蕎麦を食べた。
古民家の中の、落ち着いた空間だ。
二八蕎麦が来た。
「古民家の蕎麦屋さん、錦水庵です! コシがあって、出汁が上品で……これは動画で伝わらないのが悔しいですよ!!」
GoProに向かって言いながら、一人で笑った。
東京堂コーヒー店に寄った。
自家焙煎の匂いが、店内に満ちている。
コーヒーを飲んだ。
豆を少し買った。
焚き火の時に、二人に飲ませてやろうと思った。
*
撮影を終えた。
御大師山展望台に上がった。
栗山の街並みと、石狩平野が広がっている。
どこまでも、平らだ。
北海道は、どこへ行っても広い。
本田とアプリが来るまで、まだ時間がある。
ベンチに座った。
GoProをしまった。
カメラがないと、何もしなくていい。
ただ、景色を見た。
バイクの音がした。
ホンダのCBR400Rと、カワサキのNinja400が展望台に上がってきた。
二人の男が降りた。
若い。
チャラい。
「こんにちは〜。ツーリングですか?」
一人が声をかけてきた。
もう一人が、リリーのボルティを眺めながら近づいてきた。
ナンパだ。
すぐわかった。
普段のリリーなら、適当に話を合わせていた。
バイクの話をして、どこから来たかを話して、連絡先を聞かれたらはぐらかして、という流れだ。
でも、今日は違った。
昨日が、頭の中に浮かんだ。
アプリのRS50が、コーナーで膝を路面にかすめながら切り込んでいく。
プロレーサーが逃げる。
でも、振り切れない。
あの走りが、リフレインで浮かんでくる。
目の前の二台を見た。
CBR400R。
Ninja400。
400ccのバイクだ。
立派なバイクだ。
でも、乗り手がバイクに乗られているように見えた。
バイクを持て余している。
バイクの方が、乗り手より大きい。
そう見えた。
あの五十ccのRS50と比べたら。
あの走りを見た後では。
こんな感想しか、出てこなかった。
リリーは黙って、ため息をついた。
ボルティのセルを回した。
エンジンがかかった。
何も言わずに、展望台を下りた。
二人が固まっているのが、バックミラーに映っていた。
でも、振り返らなかった。
*
栗山公園キャンプ場に着いた。
テントを張った。
本田とアプリを待った。
コーヒーの準備をした。
空が、夕方の色になっていた。
*
本田視点。
日勝峠を越えていた。
アプリが前を走っている。
峠道は急勾配だ。
プレスカブのエンジンが、悲鳴に近い音を立てている。
速度が落ちる。
落ちる。
落ちる。
二十キロ。
十五キロ。
もはや歩行者と変わらない速度だ。
後ろから来るトラックが、大きなエンジン音を鳴らして抜いていく。
横を通過する時の風圧が、プレスカブを揺らす。
(リリーさんが一人でここを走ってたら、確かに怖かっただろうな)
本田はそう思った。
ボルティは排気量が大きい分、まだ走れる。
でも、慣れていない一人のライダーには、この峠の圧力は相当だ。
アプリの判断は正しかった。
峠を越えた。
下りに入った。
速度が回復した。
体の力が抜けた。
夕張に入った。
*
夕張の街が、見えてきた。
最初に気づいたのは、人がいないことだった。
昼間なのに、歩道に人がいない。
商店が閉まっている。
シャッターが、通りに並んでいる。
草が歩道を侵食していて、人が歩けそうにない。
本田は、少し怖くなった。
ゴーストタウン。
その言葉が頭に浮かんだ。
ここは、本当に人が住んでいるのだろうか。
栗下食堂に入った。
店内に、人がいた。
それだけで、少し安心した。
カレーそばを頼んだ。
昭和の匂いがする店内だ。
古い木の壁。
手書きのメニュー。
カレーそばが来た。
熱い。
出汁の効いたそばに、カレーのルーが合わさっている。
不思議な組み合わせだが、旨かった。
「破綻した街だからな」
アプリが言った。
そばをすすりながら、窓の外を見ていた。
「財政破綻、ですか?」
「あぁ。夕張市は二〇〇六年に財政破綻した。日本で唯一の財政再生団体だ。以来、公共サービスが削られ続けて、人が出ていった」
本田はカレーそばを食べながら、窓の外を見た。
誰もいない歩道。
草に侵食された道。
かつてここに、人が溢れていたとは思えない。
そばを食べ終わると、アプリが立ち上がった。
「少し案内する」
*
最初に、巨大なリゾートホテルの跡地に連れていかれた。
廃墟だった。
かつては大きなホテルだったらしい。
窓が割れている。
外壁が崩れかけている。
それが、夕張の街の中心にある。
次に、市役所を見た。
ボロボロだった。
これが現役の市役所なのか、と本田は疑った。
でも、表札に夕張市役所と書いてある。
財政破綻した街の市役所は、修繕する予算がない。
そして、最後に連れていかれたのは、旧北炭清水沢火力発電所だった。
廃墟の発電所が、空に向かってそびえ立っていた。
巨大だ。
鉄骨が剥き出しになっている。
外壁が崩れている。
でも、その圧倒的な体積は、往時の規模を物語っていた。
かつてここで、何百人もの人間が働いていた。
何千トンの石炭が燃えていた。
北海道の電力を、この建物が担っていた。
今は、草が生えている。
本田は、その廃墟を見上げた。
言葉が出てこなかった。
夏草や兵どもが夢の跡。
松尾芭蕉の句が、突然頭の中に浮かんだ。
学校の授業で覚えた句だ。
でも、今初めて、その意味が体でわかった気がした。
ここにあったものが、全部消えている。
でも、確かにここにあったことは、この廃墟が証明している。
本田は、思わずアプリに呟いた。
「アプリさん、この街、何とかならないんですか?」
アプリがエンジンを止めた。
本田もプレスカブのエンジンを止めた。
廃発電所の前に、二台が静かに停まっている。
鉄骨の錆びる音だけが、風の中にある。
「俺たちなら何とかできるかもな」
本田は聞き返した。
「えっ? 僕らが?」
「そばを食ったろ?」
「えっ? 食いましたけど……」
「あの食堂に、俺たちの金が落ちた。高速道路が出来てから北海道にはこんな街がたくさんある。ここだけじゃない。お前も長万部を通ってきただろ? 廃墟になっていたドライブインが連なってたのを見てきただろ?」
本田は思い出した。
あの時、ガソリンが心細くて、廃墟の中からようやく一軒のガソリンスタンドを見つけた。
あの廃墟のドライブイン群。
「あの長万部も?」
「あぁ。あの街も高速道路ができるまではもっと栄えてた。今は廃墟しかないが、あのドライブインは全て連日混みあっていたらしい。国道を走るトラックドライバーたちが必ず立ち寄っていた。それが高速道路一本でなくなった」
本田は、廃発電所を見上げながら考えた。
高速道路は便利だ。
速い。
安全だ。
目的地に早く着ける。
リリーも今日、高速を使った。
本田だって、使えるなら使いたいと思う時がある。
でも、その陰で。
この廃墟が生まれた。
この街が、人を失った。
「もしかして、僕らができることって……!」
「そうだ。原付だからこそ全ての街に立ち寄れる。その土地の飯を食う。タバコを吸うやつなら尚更、税金を大量に落とすことになるからな」
「そうか! 僕らだからこそ、救える街もあるんですね!」
「高速道路は確かに安全で楽だ。でも、その陰ではこんな街が犠牲になってる。原付は遅いから、道沿いの全ての街に立ち寄るしかない。それが、どこかの街の誰かを助けていることになる」
本田は、プレスカブのハンドルを握り直した。
謎の運営が、どうして原付だったのか。
賞金もほとんど出ない。
タイムを競うわけでもない。
ただ、原付で走ることを、あの運営は求めた。
今なら、少しわかる気がした。
原付で走ることは、道沿いの全ての街に立ち寄ることだ。
全ての街で、少しずつ、お金を使うことだ。
誰かのそばを食べる。
誰かのガソリンを入れる。
誰かの宿に泊まる。
それが、積み重なる。
「行くぞ」
アプリがRS50のエンジンをかけた。
本田もプレスカブのキックを踏んだ。
廃発電所が、バックミラーの中に小さくなっていった。
錆びた鉄骨が、夕方の空を背景にそびえていた。
*
栗山公園キャンプ場に着いた。
夕方だった。
リリーが、テントの前に座っていた。
二人を見て、立ち上がった。
手に、コーヒーの器具を持っている。
「お帰りなさい! コーヒー、入れますよ!」
東京堂コーヒー店の豆だった。
リリーが丁寧にドリップした。
焚き火の前に、三人が座った。
コーヒーが手渡された。
本田が飲んだ。
旨かった。
栗山のコーヒーが、焚き火の前で旨かった。
アプリも飲んだ。
何も言わなかった。
でも、悪い顔をしていなかった。
しばらく、焚き火を見た。
本田が思い出したように言った。
「そういえばリリーさん! ミーハーさんはコーヒーが好きなんですよ。お土産にコーヒー豆を持っていけば、かなり好印象ですよ!」
リリーの目が輝いた。
「えっ? 本当ですか? それなら、私の地元の函館にも有名なコーヒー屋さんがあるんです! そこの豆をお土産にします!」
函館のコーヒー、と聞いて本田は思い出した。
Cafe CHI'sのマスター。
あの人のコーヒーが、函館の夜に旨かった。
「函館に着いたら、お二人を連れて行きたいカフェがあるんですよ!」
本田が言った。
リリーが「どこどこ?」と前のめりになった。
アプリがコーヒーを飲んだ。
焚き火が揺れた。
栗山の夜が、静かに降りてきた。
夕張の廃発電所が、まだ頭の中にあった。
でも、今はコーヒーが旨い。
今いる場所が、温かい。
廃墟も、温かい夜も、全部が北海道だった。
全部が、この旅の中にある。
Honda CBR400R
型式 8BL-NC65
最高出力 46ps / 9,000prm
Kawasaki Ninja 400
型式 2BL-EX400G
最高出力 48ps / 10,000rpm




