【reverse 7 ロストテクノロジーの咆哮】
タクシーが、更別の夜を走った。
チャンプが案内したのは、帯広市内の大衆食堂だった。
肉汁餃子と小籠包の店、宮。
のれんをくぐると、賑やかな声が出迎えた。
四人が席についた。
ビールが来た。
本田だけジュースだ。
「乾杯」
チャンプが言った。
グラスが合わさった。
チャンプがリリーを見た。
「初めまして。本田くんから話は聞いてますが、紋別からずっと一緒に?」
「はい! 最初はトラブルで助けてもらっただけなんですけど、気づいたらここまで来てました」
「ずっと着いてきた、が正解だろ」
アプリが言った。
リリーが笑った。
「まあ、そうですね」
本田がこれまでの経緯を話した。
キャブが詰まったこと。
バッテリーが上がったこと。
押しがけをアプリが鮮やかにやってのけたこと。
レッドバロン北見まで付き添ったこと。
気づいたらクリオネキャンプ場まで着いてきていたこと。
チャンプが相槌を打ちながら聞いた。
リリーの最終目的がミーハーだとわかると、少し顔を輝かせた。
「ちょうど良い。皆の近況を話そうと思ってたところだ」
*
チャンプが語り始めた。
ミーハーは、大手の芸能事務所との契約がほぼ決まりかけている。
くま子は実家で大人しくしている。
ミルミルは家族から温かく迎えられて、円満な関係に戻っている。
鈴菌はもう次の仕事を始めていて、SUZUKI関連の工場で働き始めた。
Vタックは今は愛機でソロツーリングを楽しむようになった。
モト子は失業保険で暮らしながら、たまにVタックと東海地方を二人でツーリングしている。
「全員が、それぞれの場所で動いてるんですね」
本田が言った。
「あの旅の後でも、みんな変わってるんだよ。目の色が違う。会えばわかる」
チャンプがビールを飲んだ。
黙って聞いていたリリーが、チャンプに尋ねた。
「チャンプさんも大会に出てたんですか?」
「あぁ、取材を兼ねてね。一応私も完走したんだよ」
「原付で日本縦断って……辛いですよね?」
「うん! 想像を絶するほど辛いよ」
リリーが本田とアプリを見た。
「お二人はそんな過酷なことをまだ辞めないの?」
本田は少し考えた。
辛いかと聞かれれば、辛い。
でも、それだけじゃない。
うまく言葉が出てこなかったが、出てきた。
「あ、僕は辛いというか……うまく言えないんだけど、辛いから楽しいんだ」
チャンプが目を細めた。
ポケットからメモを取り出した。
「また本田くんの名言が出たね」
「名言?」
リリーが首をかしげた。
「うん。本田くんは詩人でね。でも本田くんの言葉で一番僕が好きなのは、やっぱり『百年経てば無茶も無謀も英雄譚に語り継がれる』だな〜。編集部でもこの名言は見事だって全員が言ってたよ!」
リリーが少し声を大きくした。
「は? それはミーハーさんの言葉ですよ?」
チャンプが吹き出した。
「あぁ、そうか! 一般の人はミーハーさんの言葉だと認識してるんだね! ハハハハ!」
笑いが止まらなくなった。
本田もつられて笑い出した。
アプリも笑っていた。
リリーが目を細めた。
「……なんで笑ってるんですか?」
アプリが笑いを収めた。
真顔になった。
それから、静かに言った。
「言葉は違いなくあの時のミーハーの本音だ。リリーはミーハーの言葉を聞いて胸に刻んだ。それは揺るがない」
本田が続けた。
「そうです! 僕だって、あの言葉は僕が発した言葉ではありませんからね! 僕は後藤さんから言われただけです!」
リリーが首をかしげた。
「後藤さん? って誰?」
「昔の兵隊さん。原付旅よりも、はるかに過酷なことをしてた人だよ」
チャンプが餃子を置いた。
静かな声で、語り始めた。
「リリーさんは青森県の八甲田山の雪中行軍遭難事件って知らないんだね。明治時代に、二百人の兵隊が雪中行軍という雪山訓練をしたんだよ。そしたら全員で遭難した」
テーブルが、静かになった。
「その時に、救助隊を呼びに行こうとした後藤房之助伍長という人がいた。彼は歩きながら凍ってしまって、立ったまま救助隊を待ち続けた。動かせるのは眼球だけ。救助隊が来た時、後藤さんは立ったまま凍りついた状態で発見された。それでも必死で、唯一動かせる眼球を動かして、まだ仲間がいるということを伝えたんだよ」
餃子の湯気が、ゆっくりと上がっていた。
でも、誰も箸を動かしていなかった。
「本田くんはその人の銅像から、あの言葉を聞いたのさ。八甲田の山の中で」
リリーが、テーブルを見た。
無茶で無謀、とはそういうことだ。
立ったまま凍りながら、眼球だけを動かして仲間を救おうとした人が、あの言葉を残した。
自分はさっき、軽々しく秋田県まで着いていきたいとアプリと本田にお願いをしていた。
でも、彼らの覚悟は、そんな軽いものじゃなかった。
アプリを見た。
アプリが小籠包を食べていた。
何も言わない。
でも、この人はずっと走ってきた。
日本中を、走ってきた。
宿がなくても、雨が降っても、バイクが止まりかけても、走ってきた。
本田を見た。
本田がジュースを飲んでいた。
まだ十八歳だ。
学校も辞めて、引きこもって、それでも走り出した。
鹿児島から宗谷岬まで走って、今また南を目指している。
ミーハーのことを思った。
女性の身で、この過酷な旅を完走した。
あの言葉を発したのは、そういう場所で、そういう覚悟で走ってきた人たちの前でのことだ。
だから、あの言葉は重い。
リリーは、改めて二人を見た。
今度は、真剣な顔で言った。
「秋田県まで、一緒に連れて行ってもらえませんか。本気でお願いします」
アプリが小籠包を噛みながら、からかうように言った。
「だが、断る」
間があった。
全員が笑った。
チャンプが腹を抱えた。
本田も笑った。
リリーも、笑いながら目が少し潤んでいた。
*
笑いが収まったころ、チャンプが神妙な顔をした。
「でも、リリーさんをミーハーさんのところに連れて行っても大丈夫? リリーさんってボルティだよね?」
「それならアプリさんがとっておきのアイデアを授けてくれました!」
「はい! SUZUKIのエンブレムを取って、kawasakiのステッカーを貼るんです!」
リリーが自信満々に言った。
チャンプが、椅子から落ちそうなほど笑い転げた。
本田も笑った。
アプリも笑った。
リリーは笑いながら、なぜそんなに笑えるのかが少しわかってきた。
夜が更けた。
餃子と小籠包がなくなった。
チャンプが会計を済ませた。
タクシーチケットを三人に渡した。
「明日はゆっくり休んでください。走行会で会いましょう」
チャンプがホテルへ消えた。
三人はタクシーに乗った。
更別の夜が、窓の外を流れていった。
キャンプ場に着いた。
テントに潜り込んだ。
十勝の星空が、大地の上に広がっていた。
本田は目を閉じた。
明日、サーキットを走る。
プレスカブで。
その事実が、胸の中でじわじわと燃えていた。
*
翌日。
十勝スピードウェイ、ジュニアコース。
ピットに、三人が立っていた。
全長一千七百メートル。
コンパクトで、テクニカルなコースだ。
コーナーが連続して、ミスがタイムに直結する。
狭いコース幅が、バイクの腕前を容赦なく映し出す。
参加者のバイクが並んでいた。
原付から二百五十ccまで、様々なバイクが並んでいる。
GPX125、グロム、KSR、NSR。
その中に、aprilia RS50とSUZUKIボルティとプレスカブが並んでいる。
本田はプレスカブを見た。
新聞配達用の、三十年前のバイクだ。
このコースの中で、おそらく一番古いバイクだ。
一番遅いバイクだろう。
でも、ここにいる。
鹿児島から宗谷岬まで走ってきた。
そして今日、サーキットに立っている。
アプリがリリーに言った。
「無理するなよ。ボルティはトップスピードがそこまで出ない。周りの速いバイクは無視して、ゆっくり走れ。俺も本気は出さない。それから本田」
「はい」
「俺とリリーに無理して着いてくるな。カブにはカブのペースがある」
本田は、少し肩の力が抜けた。
(そうだ。プレスカブでRS50についていこうとしても意味がない。カブのペースで走ろう)
リリーがアプリを見た。
「すぐ後ろを走って良いですか?」
「まあ、無理するなよ」
アプリが答えた。
*
走行会がスタートした。
先頭のプロレーサーが走り出した。
バイクは、SUZUKIのアドレスV125だ。
スクーターだ。
でも、乗り手が違う。
一周目。
プロレーサーは、かなりゆっくりと走った。
全員が団子状態で走っている。
リリーが余裕の笑顔で走っていた。
本田もその横で笑顔を返した。
アプリが前を走っている。
チャンプが客席でカメラを構えている。
一周目が終わった。
次の瞬間だった。
アドレスが、消えた。
音が変わった。
プロレーサーがトップスピードで走り出した。
最後尾の本田からは、アドレスが一瞬で見えなくなった。
参加者たちが、一斉に加速した。
本田もフルスロットルを開けた。
プレスカブのエンジンが、唸った。
回転数が上がる。
速度が上がる。
でも、なかなか最高速に届かない。
それでも、上がり続けた。
メーターを見た。
五十キロ。
六十キロ。
六十の目盛りに、針が達した。
そこで終わらなかった。
針が、六十の目盛りを超えた。
(あれ?)
はみ出している。
メーターの最大値を、針が超えていた。
目算で、六十五キロ。
本田は驚いた。
プレスカブをここまで走らせたことがなかった。
新聞配達の時は、住宅街を三十キロで走っていた。
オロロンラインでも、法定速度を守っていた。
このバイクの本当の速さを、本田は知らなかった。
ストレートに入った。
針が、さらに動いた。
七十キロ。
いや、それ以上かもしれない。
(凄いぞ、プレスカブ!)
本田の頭の中に、人吉市の声が戻ってきた。
鈴菌の声。
モドキの声。
純国産のプレスカブ。
三十年前に、日本で作られたバイク。
今の日本では、もう作れない。
その意味が、今わかった。
このエンジンは、三十年間一度も止まらなかった。
鹿児島から宗谷岬まで走った。
雨の中も走った。
峠も走った。
農道も走った。
そして今、サーキットのストレートを走っている。
メーターをはみ出して走っている。
(お前、こんなに走れたのか)
プレスカブのハンドルを、本田は握り直した。
律儀な古いカブが、サーキットで咆哮していた。
誰よりも遅く、誰よりも古く、誰よりも誠実に、このコースを走っていた。
本田は、ピットに戻ることにした。
まだ周回が残っていた。
でも、もう十分だった。
見たいものを、見た。
知りたいことを、知った。
プレスカブの、本当の顔を。
ピットに戻ると、チャンプが駆け寄ってきた。
「大丈夫か!?」
「はい! 満足できました!」
本田が笑顔で言った。
チャンプが安心したのか、また取材に戻った。
本田はプレスカブを端に停めた。
客席に向かった。
コースを探した。
リリーが一人で走っていた。
しかも、遅い。
アプリのすぐ後ろを走ると言っていたのに、どこへ行ったんだろう。
本田がコースを目で追った。
見えてきた。
先頭のアドレスの、真後ろに張り付いているバイクがあった。
真っ赤なボディ。
aprilia RS50だ。
(アプリさん……)
本気を出さない、と言っていた。
でも、本気だった。
プロレーサーを煽っていた。
本気じゃなければ、できないことだった。
アプリがコーナーに入った。
バイクが、信じられないほど倒れた。
膝が、路面をかすめるほど傾いた。
それでも、滑らない。
コーナーの頂点をぴたりとトレースして、立ち上がる。
次のコーナーへ向かって、加速する。
プロレーサーが必死で逃げている。
アドレスのエンジン音が上がる。
でも、振り切れない。
アドレスとRS50が、一千七百メートルのジュニアコースの中でデッドヒートを繰り広げていた。
本田はその走りを見ながら、理解した。
ボルティがあの後ろについていけるはずがない。
プロレーサーが逃げ切れないほどの走りをするアプリに、二輪免許を取ったばかりのリリーがついていけるはずがない。
リトルカブと同じ原付で走りながら、プロのペースメーカーを煽る。
これが、アプリという人間だった。
横に、リリーが来た。
半べそをかいていた。
「……一周目が終わった瞬間に、消えた」
「ですよね」
「ゆっくり走るって言ってたのに」
「ですよね」
「なんであの原付があんな……」
「アプリリアだからだと思います」
二人で、コースを見た。
アプリとアドレスがコーナーを抜けてきた。
RS50が、膝を路面にかすめながらコーナーを回った。
リリーが、半べそも、置いていかれた怒りも、全部忘れた顔になった。
ただ、見惚れていた。
人が、バイクと一体になっている瞬間だった。
コーナーでは二つが一つになって、ストレートでは二つが互いを引き出し合っている。
カブで、プレスカブで、どこまでも走ってきた本田にも、あの走りはできない。
あれはアプリだから、RS50だから、その二つが合わさっているから、できることだ。
走行会が終わった。
*
チャンプが仕事に戻った。
三人がキャンプ場に戻った。
焚き火を起こした。
三人が、炎の前に座った。
誰も、何も言わなかった。
でも、誰も、何も言う必要がなかった。
アプリが炎を見ていた。
本田が炎を見ていた。
リリーが炎を見ていた。
三人とも、笑っていた。
声を出さなくても、笑っていた。
今日走ったコースのことを、それぞれが思い出していた。
炎が揺れた。
十勝の夜風が、煙を流した。
プレスカブが、テントの横に停まっていた。
三十年前の、律儀な古いカブが、十勝の夜の中に静かに立っていた。
今日はメーターをはみ出して走った。
誰も知らない。
本田だけが知っている。
それで、十分だった。
SUZUKIアドレスV125
型式: BC-CF46A
最高出力: 11.4ps / 7,500rpm




