【reverse 6 雨と夕焼けと、I have a low exhaust】
朝。
クリオネキャンプ場。
最後の朝だ。
でも、まだ旅立たない。
今日は知床へ行く。
三人で。
*
国道334号線を北東へ走った。
右手に知床連山。
左手にオホーツク海。
二つの絶景が、同時に視界に入る。
本田は何度もどちらを見ればいいかわからなくなった。
アプリが先頭を走っている。
リリーが真ん中。
本田が最後尾。
リリーがインカムもないのに、時々振り返って何かを言っている。
聞こえない。
でも、楽しそうな顔をしている。
*
オシンコシンの滝に着いた。
道路のすぐそばに、滝がある。
二筋に分かれた水が、岩肌を叩いて流れ落ちている。
轟音だ。
水しぶきが、風に乗って頬に当たる。
「でか!!」
リリーがGoProを滝に向けた。
「近い!! こんなに近くで見られるの!!」
アプリが滝を見上げて、静かに言った。
「知床慕情のロケ地だな」
「知床慕情?」
「歌だ。知らないか」
「知らないです」
「そうか」
アプリが滝を見続けた。
本田も滝を見た。
水の音だけが、あたりに満ちていた。
*
ウトロ漁港に着いた。
道の駅でいくらを食べた。
三人が並んで食べた。
リリーがGoProを自分に向けて食レポをした。
「新鮮すぎてプチプチが暴力的です!!」
アプリが一言言った。
「暴力的な食べ物は美味い」
本田が聞いた。
「アプリさん、それはどういう理屈ですか?」
「知らん。でも美味い」
本田も食べた。
確かに美味かった。
理屈はわからなかった。
*
プユニ岬で止まった。
ウトロ港を見下ろした。
青い海が広がっている。
漁船が並んでいる。
知床連山が、港の背後に迫っている。
リリーがGoProを港に向けた。
「絶景すぎて語彙力がなくなります!!」
「それがYouTuberとして問題だな」
アプリが言った。
リリーが振り返った。
「アプリさん、今日一番辛辣です!!」
「事実だろ」
本田は港を見ながら、笑いをこらえていた。
*
知床五湖に着いた。
高架木道を歩いた。
一湖が、静かに広がっている。
湖面に、知床連山が映っている。
風がない。
完全に、静止した景色だ。
三人が並んで、湖を見た。
誰も何も言わなかった。
リリーでさえ、GoProを下ろしていた。
しばらくして、リリーが静かに言った。
「カメラ、要らないな……目で見たい」
本田は頷いた。
アプリは湖を見たまま、動かなかった。
知床の風が、三人の間を通り抜けていった。
*
クリオネキャンプ場に戻ったのは、夕方だった。
最後の夜だ。
焚き火を起こした。
三人が炎の前に座った。
リリーが、昨夜と少し違う目をしていた。
何かを考えている目だ。
やがてリリーが口を開いた。
「昨日、ミーハーさんのことを勉強したんですよ」
本田とアプリが、同時に少し身構えた。
「『百年経てば無茶も無謀も英雄譚に語り継がれる』って言葉、本当に染みますね! めちゃくちゃ刺さりましたよ! アプリさんも本田くんも、すごく良い人と巡り会ったんですね!」
本田が俯いた。
アプリも俯いた。
でもリリーは語り続ける。
「私も何か残してやろうって気持ちになりましたよ! 百年後の誰かに、私の旅が英雄譚として残るかもしれないじゃないですか!」
本田とアプリは炎を見たまま、何も言わなかった。
言えなかった。
「私もなんだかミーハーさんと同じバイクが欲しくなりましたよ! ジモティーとかで調べたら、なんかめちゃくちゃ安くないですか? あんなに美しいバイクなのに」
本田とアプリはさらに俯いた。
聞こえないふりをした。
「地元に帰ったらレッドバロンに注文してみようかな〜。アプリさんのおすすめの原付ってありますか?」
本田とアプリが顔を上げた。
この質問なら、答えられる。
むしろ答えたい。
アプリが炎を見ながら言った。
「今は大会用にアプリリアを乗ってるが、スペインの原付もかなりアツいぞ」
「カブなら間違いないです!」
本田が続けた。
アプリが本田を見た。
「カブが正解ってのは誰だって知ってる。リリーはおすすめを聞いてるんだ。本田が言ってるのはただの正解だ」
「正解でいいじゃないですか!」
「いきなり正解に乗ると他の原付に乗れなくなる!」
「カブにも色んな種類があるから大丈夫ですよ! ロリさんだってリトルカブだし!」
「プレスもリトルも変わらん」
「変わりますよ!」
「変わらん」
「変わります!」
リリーが両手を挙げた。
「ま、まあまあ! 二人とも!」
炎が揺れた。
本田とアプリが同時に炎を見た。
二人とも、口を閉じた。
その時。
本田のスマホが鳴った。
LINEの着信だ。
画面を見た。
チャンプだ。
久しぶりだ。
宗谷岬でtwo-finger saluteをして別れてから、もう二週間経つ。
メッセージを読んだ。
本田の目が、少し大きくなった。
アプリに向けた。
「アプリさん、チャンプから連絡が来ました」
「チャンプ?」
「帯広空港に着いて、今は十勝のサーキット場にいるそうです。モタチャンプの取材で十勝スピードウェイに来ていて……もし近くにいるなら、明後日の走行会にモタチャンプ枠として参加できると言ってます」
アプリが一秒だけ考えた。
「明日までに行く」
本田がすぐにチャンプにLINE電話をかけた。
繋がった。
「チャンプさん! 明後日、参加します!」
「来るか! 待ってるよ。アプリさんも?」
「はい!」
「最高だ。写真、撮らせてもらうよ」
電話を切った。
リリーが二人を見ていた。
「サーキット場? 原付でサーキットを走るの?」
「そうなりそうです」
「私も行って良いですか!?」
本田がアプリを見た。
アプリが空を見た。
返事はしなかった。
それが答えだった。
炎が、最後の夜に揺れていた。
*
翌朝。
五時。
まだ暗い。
テントを撤収した。
荷物を積んだ。
クリオネキャンプ場を、三台が出た。
雨だった。
*
雨の中を走った。
斜里の直線を、雨が叩く。
ヘルメットのシールドに、雨粒が張り付く。
ワイパーはない。
手で拭っても、すぐまた見えなくなる。
アプリのRS50が、白い排気煙を吐いている。
その煙が、雨に混ざって、後ろに流れてくる。
二ストの煙と雨が混ざった匂いが、朝の暗い道に漂う。
本田は前を見た。
アプリのテールランプが、雨の中に赤く光っている。
その後ろに、リリーのボルティのライトが続いている。
その後ろに、プレスカブが走っている。
寒い。
雨合羽の中まで、少しずつ染みてくる。
でも、止まれない。
止まる理由がない。
チャンプが待っている。
サーキットが、待っている。
*
網走に入った。
網走駅の近くで、モリヤ商店を見つけた。
七時半。
開いていた。
三人が雨合羽のまま入った。
店内が温かい。
体が、ほどけていく。
「帆立めし、三つ」
アプリが注文した。
リリーがGoProを取り出した。
「あ、GoProは駄目だ」
アプリが言った。
リリーが固まった。
「朝飯を静かに食え」
リリーがGoProをしまった。
珍しく、素直だった。
帆立めしが来た。
炊き込んだ帆立の香りが、濡れた体に染み込んでくる。
一口食べた。
(旨い)
熱い。
甘い。
帆立の出汁が、米全体に広がっている。
雨合羽の袖から、水が垂れている。
でも、それでいい。
濡れたまま食べる帆立めしが、旨い。
「美味い〜」
リリーが呟いた。
GoProがないから、ただ食べた。
ただ食べる時のリリーは、静かだった。
それはそれで、悪くなかった。
「チャンプさん、飛行機で来たんですね」
本田が言った。
「取材だからな。仕事で来てる」
「僕らは原付で来て、チャンプさんは飛行機で来て、同じサーキットで会うんですね」
「遠回りしてる分、お前たちの方が見てきたものが多い」
アプリが言った。
本田はその言葉を、心の中で繰り返した。
遠回りしてきたから、見てきたものが多い。
たぶん、それだけじゃない意味があると思った。
*
再び走り出した。
美幌峠へ向かった。
峠に入ると、霧が出てきた。
雨と霧が混ざって、前が見えない。
ヘルメットのシールドに水滴が張り付く。
道の端が、霧の中に消えている。
どこまで道があるのか、わからない。
リリーが、本田の後ろでクラクションを一回鳴らした。
何かを言っている。
聞こえない。
でも、たぶん「怖い」と言っているんだろう。
本田も怖かった。
アプリのテールランプだけを見て走った。
あの赤い点を見失ったら、終わりだ。
霧の中の赤い点を、ただ追い続けた。
峠を抜けた。
霧が晴れた。
国道242号線に入った。
十勝国道だ。
直線が、始まった。
牧草地が、左右に広がっている。
地平線まで、まっすぐだ。
まだ雨は降っている。
でも、霧よりはましだ。
視界が、一気に広がった。
本田は少し肩の力を抜いた。
*
足寄町に入った。
昼休憩だ。
あゆみの店に入った。
豚丼を三人で頼んだ。
豚丼が来た。
大きい。
肉が、ご飯の上に山積みになっている。
「でかっ!!」
リリーがGoProを取り出した。
今度はアプリも止めなかった。
「足寄の豚丼です!! これを食べないと足寄に来た意味がないですよ!!」
食レポが始まった。
本田とアプリはさっさと食べ始めた。
旨かった。
甘辛いタレが、分厚い豚肉に絡んでいる。
雨で冷えた体が、ご飯の熱で内側から温まっていく。
「本田くん! 一口ください!!」
「自分のがありますよ」
「でも本田くんのを食べたい!!」
「理由がわかりません」
アプリが静かに食べながら言った。
「人のものは美味く見える。原付も同じだ」
「どういう意味ですか?」
「他人のバイクに乗りたくなるだろ。それと同じだ」
リリーが大きく頷いた。
「確かに!! アプリさんのRS50、乗ってみたいです!!」
「駄目だ」
「なんでですか!!」
「お前には扱えない」
「そんな!!」
豚丼の湯気が、三人の間に上がっていた。
外は雨だ。
でも、店の中は温かい。
そして、なぜか三人とも笑っていた。
雨の中の昼飯が、格別に旨かった。
*
本別町に入った。
雨足が、少し弱まってきた。
空の端が、薄明るい。
十勝平野が、左右に広がっている。
広大な畑が、雨に濡れて光っている。
どこまでも続く、平らな大地だ。
北海道の骨格が、ここにある気がした。
本田は走りながら思った。
今日だけで、どれだけの雨を浴びたか。
シールドを何度拭ったか。
合羽の中が何度冷たくなったか。
でも、止まろうとは思わなかった。
走ることに、理由が要らなかった。
前にチャンプがいる。
その前にサーキットがある。
それだけで十分だった。
*
帯広市郊外に入った。
雨が、止んだ。
本当に、止んだ。
アプリが路肩に止まった。
リリーが止まった。
本田が止まった。
空を見上げた。
雲の切れ間から、光が差してきた。
濡れたアスファルトが、光を反射している。
空気が、洗い流された後の匂いがする。
遠くの日高山脈が、雨上がりの空気の中に浮かんでいる。
セイコーマートが、道路脇にあった。
三人が無言で吸い込まれていった。
合羽を脱いだ。
あちこちが濡れている。
靴の中まで濡れている。
でも、雨が止んだ。
それだけで、全てが報われた気がした。
フライドチキンを買った。
缶コーヒーを買った。
駐車場のベンチに三人で座った。
「セイコーマートって道内限定のコンビニなんですよね」
本田が言った。
「知ってるけど、今日初めてちゃんと見た気がする」
「北海道に来たらずっとあるんですよ。最初は気にしてなかったけど、今日すごく好きになりました」
「なんで今日?」
「雨の後に来たからだと思います」
リリーがフライドチキンを齧った。
「美味い!!」
GoProを取り出した。
「セイコーマートのフライドチキンです!! コンビニのフライドチキンとは思えない!! 皮がサクサクで中がジューシー!!」
アプリが缶コーヒーを飲んだ。
本田も飲んだ。
温かい缶コーヒーが、手の中で熱い。
「アプリさん、雨の中を走るのって慣れますか?」
「慣れない。慣れても困る」
「なんで?」
「慣れたら、ずぶ濡れになることを何とも思わなくなる。それは旅人として大事な感覚を失うことだ」
本田は缶コーヒーを握ったまま、空を見た。
日高山脈の方角に、夕焼けが始まっていた。
橙色が、地平線から広がっていく。
「行くぞ」
アプリが立ち上がった。
*
更別村に入った。
夕焼けだった。
十勝の夕焼けだ。
西の空が、燃えていた。
地平線まで続く十勝平野の向こうに、太陽が沈んでいく。
橙と赤と紫が、空の上で混ざっている。
濡れた三台のバイクが、その光を受けて赤く染まっている。
アプリのRS50が赤い。
リリーのボルティが赤い。
プレスカブが赤い。
本田はアクセルを緩めた。
この夕焼けを、少しでも長く見たかった。
雨の中を走ってきた。
霧の峠を越えてきた。
帯広のセイコーマートで冷えた体を温めた。
その全部の先に、この夕焼けがある。
(この景色を見るために、今日走ってきたんだ)
本田はそう思った。
そう思った瞬間、今日の雨が全部良い思い出になった。
十勝スピードウェイが見えてきた。
*
ゲート前に、人影があった。
チャンプだ。
三台が止まった。
ヘルメットを脱いだ。
「来たか!!」
チャンプが笑顔で近づいてきた。
「二週間ぶりだな」
本田が言った。
アプリが頷いた。
三人が顔を見合わせた。
本田とアプリとチャンプが、同時に口を開いた。
「I have a low exhaust!」
三人が大笑いした。
宗谷岬でチャンプがtwo-finger saluteをして去ってから、二週間。
同じ言葉が、十勝の夕焼けの下で響いた。
リリーが、三人を交互に見た。
「……それ、どういう意味ですか?」
「我には小さな排気あり、だ」
アプリが答えた。
リリーがますますわからない顔をした。
三人がまた笑った。
*
さらべつカントリーパークにテントを張った。
広大な敷地だ。
設備が整っている。
電源もある。
シャワーもある。
今日の雨で全部濡れた体と荷物を、乾かせる。
テントを張り終わると、チャンプが言った。
「飲みに行きましょうか。今夜は私が奢ります」
「チャンプさんはホテルじゃないんですか?」
「仕事ですからね。でも、今夜は仕事を忘れます」
チャンプが笑った。
カメラの代わりに、ただの笑顔だった。
夕焼けが、十勝の空でまだ燃えていた。
日高山脈のシルエットが、橙の空に浮かんでいる。
本田は空を見た。
雨の朝から始まって、霧の峠を抜けて、足寄の豚丼を食べて、帯広で雨が上がって、セイコーマートのフライドチキンを食べて、十勝の夕焼けを浴びて、チャンプと再会した。
十一時間の旅だ。
明後日は、あのサーキットを走る。
原付で。
本田はプレスカブのシートを一度だけ撫でた。
濡れていた。
でも、確かに温かかった。




