【reverse 5 自由の翼の渡し方】
朝。
クリオネキャンプ場。
アプリがすでに起きていた。
テントの前で、コーヒーを飲んでいた。
本田が這い出てくると、アプリが言った。
「今日は網走観光でもしてろ。俺だけ別行動でも良いか?」
本田が不思議そうな顔をした。
「別行動ですか?珍しいですね。何かあるんですか?」
「今日は俺についてきても楽しくないぞ」
ますます不思議そうな顔になった。
アプリがコーヒーを一口飲んで、少し間を置いた。
「……網走は、寅さんの聖地なんだ」
ぽつりと言った。
独り言みたいな声だった。
本田は少し考えた。
寅さん。
男はつらいよ。
アプリさんがレース中も聖地巡礼していた映画だ。
「あぁ! なるほど! そんなに楽しくない聖地巡礼なんですか?」
「ん? あぁ、ただの橋とか神社とかだな……」
アプリが遠くを見ながら言った。
その目が、少しだけ違う色をしていた。
本田は色々と察した。
アプリにも、誰にも言えない好きなものがある。
それだけわかれば、十分だった。
「……わかりました! 網走監獄とか見てきます!」
そう言ったところで、テントのチャックが開いた。
リリーが這い出てきた。
寝起きの顔で、アプリの隣に自然に座った。
「おはようございます〜。今日の予定は何ですか?」
アプリが今日の予定を話した。
橋と神社の巡礼だと聞いたリリーが、露骨に顔を曇らせた。
(撮れ高がなさすぎる)
リリーの顔に、はっきりそう書いてあった。
本田の予定を聞くと、リリーの顔が戻った。
「私は本田くんと一緒に回ります!」
アプリは特に何も言わなかった。
コーヒーを飲み終えて、荷物を持った。
RS50のエンジンをかけた。
甲高い2stの音が、朝のキャンプ場に響いた。
本田に一言だけ言った。
「夕方にここで合流する」
それだけ言って、走り去った。
本田とリリーが残された。
リリーがGoProを取り出した。
「行きましょう!」
*
最初に向かったのは、能取湖のサンゴ草群落地だった。
駐車場にバイクを止めた瞬間、本田は声を失った。
湖畔が、赤い。
真っ赤だ。
湖面に沿って、どこまでも赤い絨毯が広がっている。
サンゴ草だ。
九月中旬から下旬がちょうど見頃らしい。
木道が赤い群落の中を通っていて、その上を歩くと、足元から赤が広がっている。
「これ……日本ですか?」
本田が呟いた。
「日本です!!」
リリーがGoProを向けながら叫んだ。
「能取湖のサンゴ草です!! この赤さ見てください!! 木道の上に立ってるんですけど、足元が全部真っ赤で、もう、ここどこ?ってなりますよね!!」
本田は木道の端に立って、湖面を見た。
赤と青が、水面に映っている。
九月の空の青と、サンゴ草の赤が、湖に混ざり合っている。
こんな景色が、北海道にあった。
いつか北海道に移住しても良いかもしれない、と思い始めていた。
それが今日、さらに強くなった。
「ねぇねぇ、本田くん」
リリーがGoProを止めて、本田の隣に来た。
「アプリさんには彼女いる?」
「百パーセントいないと思います」
「なんで断言できるの?」
「旅しながら日雇いで生きてる人に彼女がいると思いますか?」
「……確かに」
リリーが湖を見た。
遠くを見る目をしていた。
*
次は能取岬へ向かった。
岬の先端に出た瞬間、風が強くなった。
牧草地の緑と、オホーツクの青が、目の前に広がっている。
牛が、のんびりと草を食んでいる。
牛が本田を見た。
本田が牛を見た。
牛は興味をなくして、また草を食った。
リリーがGoProを構えた。
「能取岬です! CMとか映画のロケ地にもなってるところで、この牛と海のコントラストが最高なんです! あー、牛さん、もう少しこっち向いて!」
牛は振り向かなかった。
「ねぇ、本田くん」
GoProを止めてリリーが言った。
「アプリさんのナンバープレート、久留米って書いてたけど、どこの人?」
「福岡県ですよ」
「う〜ん、ちょっと遠いな〜」
「何が遠いんですか」
「何でもない」
リリーがGoProを再び構えた。
牛がようやくこちらを向いた。
「あっ! 向いた!! 撮れた!!」
本田は苦笑した。
*
天都山展望台に上がった。
オホーツク流氷館だ。
冬でなくても楽しめる施設で、流氷体感テラスでマイナス十五度を体験できる。
「マイナス十五度?」
本田が首をすくめた。
「行くしかないでしょ!」
リリーが引っ張った。
テラスに入った瞬間、肺が縮んだ。
冷たい、というより、刺さる。
空気が刺さる。
吐く息が、白い煙になる。
「さっさーむ!!」
リリーがGoProを向けながら叫んだ。
本田は寒くて笑えなかった。
「本田くん、ちゃんとリアクションして! カメラ映ってるから!」
「さ、寒い、です……」
「もっとリアクション!」
「北海道、恐ろしいです……」
「それで良い!!」
名物の流氷ソフトクリームを買った。
キャラメル味に、青い塩が振ってある。
一口食べた。
甘さと塩気が、同時にくる。
冷えた体に、不思議なくらい合う。
「これ、ただのソフトクリームじゃないですよ」
「でしょ!!」
屋上から、オホーツク海と知床連山を見た。
青い海と、色づき始めた山が、並んでいる。
知床は、もうすぐそこだ。
「キャブって何?」
景色を見ながら、リリーが聞いた。
「たぶん空気を吸うところかな?」
「空気? なんで?」
「ガソリンを燃やすためですよ。ガソリンって、空気と混ぜないと燃えないんです」
「あぁ、なるほど。そういう仕組みだったんだ」
「僕も昨日初めてちゃんと理解しました」
「ありがとう、本田くん。わかりやすい」
本田は少し得意な気分になった。
*
博物館網走監獄に着いた。
広大な敷地に、重厚な木造建築が並んでいる。
重要文化財だ。
明治時代の監獄が、そのまま保存されている。
五翼放射状平屋舎房の廊下に入ると、左右に無数の独居房が続いている。
この廊下の長さを、看守一人で見張ることができたという。
「なんか怖い……」
本田がぼそっと言った。
「わかる」
リリーが珍しく小声で答えた。
GoProは回っているが、実況が静かだ。
この場所の重さが、リリーのテンションを少し落ち着かせていた。
「本田くん達はこの後、北海道一周するの?」
廊下を歩きながら、リリーが聞いた。
「まあ、ほぼ一周するのかな?」
「良かった!」
「良かった?」
「同じ方向ならついていけるじゃないですか」
「まだついてくるんですか?」
「同じ方向なんだから仕方ないでしょ?」
本田はため息をついた。
でも、口元が緩んでいた。
*
大空町のメルヘンの丘へ向かった。
夕暮れが近い。
七本のカラマツが、なだらかな丘の上に立っている。
それだけの景色なのに、なぜか目が離せない。
空が、橙に変わっていく。
カラマツのシルエットが、夕空に黒く浮かんだ。
本田とリリーが、黙って見ていた。
リリーがGoProを構えていた。
でも、実況しなかった。
この景色に、言葉はいらなかった。
「いつか北海道に住んでみたいな」
本田が呟いた。
リリーが横を向いた。
「本田くん、今いくつ?」
「十八歳です」
「若いね」
「リリーさんは?」
「二十七」
「若いじゃないですか」
「そうかな」
「全然若いですよ。YouTuberとして伸びしろしかないですよ」
リリーが少し笑った。
カラマツのシルエットが、夕空に溶けていった。
*
帰り道。
バイクを走らせながら、本田はリリーに聞かれた。
「ところで、本田くんとアプリさんってどんな関係なの? 兄弟にも見えないんだけど」
本田は説明が面倒になった。
スマホを取り出した。
原付キャノンボールランの公式HPを開いて、リリーに見せた。
リリーが画面を覗いた。
走りながら見るのは危ないので、一旦止まった。
リリーがスマホを受け取って、画面を見た。
最初に目に入ったのは、アクセスカウンターだった。
54,236,980。
「……ご、ごせん、よんひゃく……に、に……」
リリーの口が、動かなくなった。
「五千四百万アクセスです」
「……チャンネル登録者二千人の私のYouTubeと、同じインターネット上にあるの、これ?」
「そうですね」
リリーがスクロールした。
コメント欄が、埋まっている。
どこまでスクロールしても、コメントが続いている。
さらにスクロールした。
参加者の一覧があった。
優勝者の名前を見た。
「アプリ……優勝してる」
「はい。圧倒的な速さで」
「あのRS50で?」
「あの五十ccで」
リリーがまたスクロールした。
参加者のサムネイルが並んでいる。
その中の一人を見て、リリーの手が止まった。
「……ミ、ミーハーさん?」
「はい。一緒に走った仲間です」
リリーが顔を上げた。
目が、大きく開いている。
本田を見た。
スマホを見た。
また本田を見た。
「ほ、ほ、本田くん……いや、本田様」
「様はやめてください」
「ミーハーさんとはお知り合い?」
「はい。仲間です」
「しょ、しょ、紹介して!!」
「な、な、何故です?」
「ミーハーさんがうちの動画に出てくれたら、絶対にバズるもん!! これで一生YouTubeで食っていけるわ!! もはや私は勝ち組なのよ!!」
本田は少し考えた。
「でも、ミーハーさんは秋田県に住んでますよ?」
「あ、秋田県……」
「僕とアプリさんは南下する時に会いに行く予定なので、一応伝えてはおきますけど……リリーさんが乗ってるバイクが、少しだけ問題がありまして」
「私のバイクが? どうして?」
本田は言いにくそうに言った。
「よりによってSUZUKIはまずいです。せめてHONDAかYAMAHAなら、ワンチャンミーハーさんも快く引き受けてくれたかもしれないんですけど、今のミーハーさんはSUZUKIのことを嫌っていまして……」
「えっ!? そんな理不尽な!」
「今大会にSUZUKIにとても熱い人がいまして、その人からカワサキはSUZUKIの子会社扱いされちゃって、それ以来、SUZUKIとかOEMとか聞くと、ミーハーさんが現実逃避するようになっちゃったんです」
「……カワサキがSUZUKIの子会社?」
「違います。でも、ミーハーさんはそう思い込まされてしまって」
「じゃあ、私はどうすれば……」
「僕にもわかりません。夜にアプリさんに相談しましょう」
リリーが、シルバーのボルティをしばらく見つめた。
ボルティのタンクに、SUZUKIのエンブレムが輝いている。
「なんでSUZUKIにしたんですか」
「安かったから」
リリーが、遠い目をした。
*
クリオネキャンプ場に戻ると、アプリがすでにテントの前に座っていた。
本田とリリーが戻ってきた。
アプリが本田を見た。
一日どうだったか、という目だった。
本田が頷いた。
それで十分だった。
焚き火を起こした。
三人が、火を囲んだ。
オホーツクの夜が、静かに降りてきた。
リリーがアプリに向き直った。
真剣な顔だった。
「アプリさん、相談があります」
「なんだ」
「ミーハーさんに動画に出てもらいたいんですけど、私のバイクがSUZUKIだからまずいって本田くんから聞いて……どうすれば良いですか?」
アプリが、焚き火を見ながら言った。
「SUZUKIのエンブレムをkawasakiに変えれば良いだろ。ネットでkawasakiのステッカーを買え」
リリーが固まった。
「……それだけですか?」
「それだけだ」
リリーが立ち上がった。
アプリに飛びついた。
アプリの首に腕を回した。
「アプリさん天才!! 大好き!!」
アプリが、少し固まった。
それから、リリーの腕を静かに引き剥がした。
本田は焚き火を見つめた。
笑いをこらえるのに必死だった。
肩が震えていた。
*
焚き火の炎が、落ち着いてきた頃。
本田がリリーに聞いた。
「もしもミーハーさんがリリーさんの動画に出てくれるとなれば、リリーさんが秋田まで行くんですか?」
「そうですね。函館からは新幹線ですぐですからね!」
「えっ? ボルティでは行かないんですか?」
リリーが少し間を置いた。
「えっ? ボルティで行けるんですか?」
「えっ? 行けないと思ってるんですか?」
「バイクって……フェリーに載せられるの?」
本田の頭の中に、田辺さんの顔が浮かんだ。
かつて僕が勤めていた、新聞配達所だ。
田辺さんが、缶コーヒーを差し出しながら言った。
「フェリーに乗ればいい。切符を買えば、バイクも乗れる。海を越えられる」
あの時の、自分の顔を思い出した。
目が、丸くなった。
知らなかった。
バイクでフェリーに乗れることを、知らなかった。
本田は、田辺さんと同じ顔をして、リリーに言った。
「はい! 切符を買えば誰だって海を越えられます! バイクは自由の翼を手に入れるためのチケットなんですから!」
リリーが、目を丸くした。
本田がかつて丸くしたのと、同じ目をした。
「自由の翼……」
リリーが呟いた。
焚き火の炎が、その顔を照らしている。
「私でも……秋田県まで走れると思う?」
「当たり前です。僕らはわずか五十ccでここまで来れたんですから」
アプリが焚き火を見ながら、静かに言った。
「ボルティはSUZUKIが作った名機だと思うぞ。新車価格が安すぎたから舐められがちだが、カブに匹敵する単純なエンジンだ。今のバイクには無いシンプルな構造で、メンテナンスさえサボらなければ長く乗れる」
リリーが、ボルティを見た。
駐輪スペースに止まっている、シルバーのボルティだ。
昨日の朝、セルを回しすぎてバッテリーが上がったバイクだ。
でも、それ以外はずっと走り続けてきた。
函館から、留萌から、稚内から、紋別から、ここまで。
一度も、止まらなかった。
「そうなんですか……私は安いからこれにしただけなのに」
「アプリさん、SUZUKIってチョイノリとかレッツとか、他社より圧倒的に安い車種を出しますよね?」
「まあ、そこがSUZUKI信者が増える理由だな。ガレージの中をSUZUKIだらけにできるだろ?」
「なるほど」
本田はアプリの言葉を聞きながら、鈴菌さんのガレージを想像した。
きっと、凄いことになっているだろう。
SUZUKIがどこを見ても、あるんだろう。
想像したら、なぜか少し温かい気持ちになった。
リリーが、焚き火をじっと見た。
しばらく黙っていた。
それから、顔を上げた。
「私も……秋田県まで、ついていっても良いですか?」
アプリが、間を置いた。
リリーを見た。
それから、ゆっくりと言った。
「だが、断る」
からかうような声だった。
でも、リリーには通じなかった。
「えええええ!!」
リリーがアプリにしがみついた。
本当に泣きそうな顔だった。
「お願いします!! アプリさんがいないと何かあった時に困るんです!! バッテリーだって上がるし!! キャブだって詰まるし!!」
「メンテナンスを覚えれば済む話だろ」
「覚えられません!! センスが無いんです!!」
「断る」
「お願いします!!!」
本田は焚き火を見た。
笑いをこらえるのが、また大変になっていた。
炎が揺れている。
オホーツクの風が、焚き火を揺らしている。
リンが去った夜も、こうして焚き火を見ていた。
寅さんみたいだと、ラビットが言っていた。
本田には、まだよくわからない。
でも、出会って、別れて、また出会うのが旅だということは、わかってきた。
リリーがアプリにしがみついたまま、泣き落としを続けている。
アプリが少しずつ疲れてきている顔をしている。
本田は星を見た。
オホーツクの星が、今夜も広がっていた。
知床が、もうすぐそこにある。
この旅は、まだ続く。
どこまで続くか、わからない。
でも、続く。
それだけで、十分だった。




