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【reverse 4 雨上がりに唱えば】

 朝。


 紋別市港湾緑地キャンプスペース。



 本田は荷造りをしていた。


 アプリも、黙々とRS50に荷物を積んでいる。


 オホーツクの朝は、静かだ。


 波の音が、遠くに聞こえる。



 その静けさの中に、妙な音が混じっていた。



 キュルキュルキュル……。


 キュルキュルキュル……。



 セルの音だ。


 しかも、なかなかかからない。


 何度も、何度も回し続けている。



 本田が音の方を見た。


 シルバーのバイクが、一台止まっている。


 SUZUKIボルティ250だ。


 跨がっているのは、華奢な女性だ。


 眉間に皺を寄せて、必死でセルを押し続けている。



「アプリさん」



 本田がアプリに声をかけた。


 アプリがちらりとボルティを見た。



「キャブだな」



 それだけ言って、また荷物を積み始めた。


 助ける様子は、ない。



 本田は女性の方へ歩いた。



「あの……キャブってところが悪いみたいですよ?」



 女性が顔を上げた。


 目が、潤んでいる。


 半泣きだ。



「キャブ……? キャブって何?」



「えっと、僕もよくわからないんですけど、アプリさんがそう言ってて……」



「お願い! 直して〜!」



 女性が本田の腕にしがみついた。


 本田は固まった。



(直せない……キャブなんてイジれない……)



 本田はアプリの方を振り返った。


 縋るような目で見た。



 アプリがため息をついた。


 工具を持って、ボルティに近づいてきた。


 ヤレヤレという顔だった。



   *



 アプリの手が、迷いなく動いた。


 ボルティのキャブレターを外した。


 逆さにした。


 黒っぽい水が、ぽたぽたと垂れてきた。



「昨日、大雨の中を走ったな?」



 女性が頷いた。


 アプリが、キャブを丁寧に洗った。


 乾かした。


 また装着した。


 全部で十分とかからなかった。



「かけてみろ」



 女性が嬉しそうにセルを押した。


 キュルキュル……。


 キュルキュルキュル……。


 キュル……キュ……カチ。



 セルの音が、みるみる弱くなった。


 やがて、カチカチという音だけになった。



 女性と本田が、顔を見合わせた。


 二人とも、何が起きているのかわからない。



「バッテリーだ」



 アプリが言った。


 呆れた顔だった。



「セルを回しすぎた。バッテリーが上がった」



 女性の目から、ついに涙が一粒落ちた。


 本田も、もらい泣きしそうになった。



 アプリがボルティを受け取った。


 スタンドを払って、バイクを押し始めた。


 助走をつけた。


 飛び乗った。


 ガシャン、とギアを入れた。


 ボルティが動きながら、ドン、とエンジンがかかった。



 女性と本田が、目を丸くした。



(なんで?)



 かかった。


 何もしていないのに、かかった。


 いや、何かをした。


 でも、何をしたのかわからない。


 まるで手品だった。



 アプリが戻ってきてボルティを返した。


 女性が嬉しそうに受け取って、お礼を言おうとして、エンジンを切った。



「あっ!」



 アプリが短く言った。


 女性が、不思議そうな顔をした。



「エンジンを切るな」



「え? でもお礼を……」



「いい。かけてみろ」



 女性が再びセルを押した。


 カチカチ。


 カチカチ。



 かからなかった。



 アプリが再びボルティを受け取った。


 また押しがけをした。


 エンジンがかかった。


 今度はボルティを返さずに、女性に言った。



「次のバイク屋までエンジンを切るな。信号でも止まるな。アイドリングのまま待て」



「え……ええ!?」



 女性の顔が、みるみる青くなった。


 エンストできない。


 それがどういうことか、ようやく理解したらしい。



「あの……お願いします。次のバイク屋まで、一緒に来てもらえませんか」



 泣きながら言った。


 アプリが黙った。



 本田が口を挟んだ。



「押しがけを自分で覚えたら?」



 本音を半分隠した言い方だった。


 自分も習いたかったのだ。



 アプリがヤレヤレという顔をして、女性にボルティの押しがけを教え始めた。


 でも、華奢な体では、250ccのバイクを押すのが一苦労だった。


 よろよろしながら押して、乗り込むタイミングがわからず、ギアを入れる前に失速する。


 三回試して、三回とも失敗した。



 代わりに本田が試した。


 一回目は失速した。


 二回目は少しエンジンがかかりかけた。


 三回目。


 コツをつかんだ。


 ガシャン。


 ドン。



 ボルティのエンジンがかかった。


 本田が、思わず声を上げた。



「できた!」



 アプリが本田を見た。



「やるなら覚えておけ。カブにはキックがあるから押しがけは必要ない。だがどうしてもやるなら、カブにはクラッチがないから、下り坂で乗った状態でエンジンを点火しろ。ローで押しがけしたらいきなりギアが繋がってウィリーして激突する」



「なるほど……じゃあ、これで僕もバッテリーが上がった時に押しがけできますね!」



「カブにはキックがあるだろ」



 本田は固まった。


 そうだ。


 プレスカブにはキックがある。


 今の練習は、完全に無意味だった。



 女性だけが、笑えなかった。


 エンストできない問題は、まだ解決していないからだ。


 女性がアプリに再び向き直った。


 今度は、泣きながら手を合わせた。



「お願いします。本当にお願いします。一人じゃ怖くて走れないです」



 アプリが空を見た。


 しばらく黙っていた。


 ため息をついた。



「わかった。次のバイク屋まで付き合う」



 女性の顔が、ぱっと輝いた。



 アプリがボルティのステッカーを確認した。


 レッドバロンのステッカーが貼ってある。



「北見まで行くぞ。レッドバロンがある」



   *



 出発前に、女性がGoProを取り出した。


 カメラを自分に向けて、語り始めた。



「いや〜、今ちょっとボルティにトラブル発生中です! 朝から出発しようとしてセルを回したらエンジンが全然かからなくて、親切な人にキャブ?ってところを直してもらったんですけど、な、なんと、私がセルを回しすぎた為に!! ボルティのバッテリーが上がりました〜〜!!」



 アプリが完全に無視して荷物の確認をしている。


 本田は少し笑った。



 女性が一頻り状況を説明してから、カメラを止めた。


 それから、本田とアプリに改めて顔を向けた。



「自己紹介が遅れました。リリーって呼んでください」



 よろしく、と手を差し出した。


 アプリが軽く握った。


 本田も握った。



「底辺YouTuberで、今は企画で北海道一周してます。まだ収益化したばかりで、正直YouTubeじゃ食えないんで、フリーターもしてたんですけど、今は旅に専念してて無職です。あははっ」



 リリーが屈託なく笑った。


 本田は、なんと言っていいかわからなかった。



「バイクは……ど素人です。免許、取ったばかりで。メンテナンスとか全然わかんなくて。今回のトラブルもほとんど意味わかってないです。でも楽しいんですよね〜、北海道ツーリング!」



「函館から来たんですか?」



「そうです! 函館→留萌→稚内→紋別って来て、今日で三泊目です。まあトラブルさえなければ順調なんですけどね〜。あははっ」



 リリーがアプリを見た。


 アプリが荷物を確認していた。


 リリーがアプリの腕にそっと触れた。



「アプリさんって、本当に頼りになりますね〜。かっこいいですよ〜」



 アプリが少し固まった。


 本田は思い出した。


 琵琶湖の料金所以来だ。


 アプリが戸惑っている。



 本田は笑いをこらえた。



   *



 三台が走り出した。


 アプリが先頭。


 リリーが真ん中。


 本田が最後尾。



 国道238号線を南下する。


 左手に、オホーツク海が広がっている。


 朝の光を受けたオホーツクが、きらきらと光っている。



 道の駅愛ランド湧別に寄った。


 少し高台になっていて、サロマ湖の入り口が見渡せる。


 観覧車が、青空に向かって立っている。



 リリーがGoProを取り出して、景色を撮り始めた。


 一人でぶつぶつ実況している。



 アプリはすでに自販機でコーヒーを買って、海を見ている。


 本田もその隣に並んだ。



「アプリさん、リリーさんってああいう人なんですかね」



「知らん」



「どう思います?」



「知らん」



 アプリがコーヒーを飲んだ。


 本田も自販機でコーヒーを買って飲んだ。



   *



 道の駅サロマ湖に着いた。


 サロマ湖のほぼ中間地点だ。


 湖の向こうに、うっすらとオホーツク海が見える。



 ホタテ焼きを売っていた。


 三人で買った。


 リリーが「ほたてやき!!」とGoProを向けた。


 本田とアプリは無言で食べた。


 旨かった。


 炭火で焼いたホタテが、汁を溢れさせていた。


 一口かぶりつくと、熱い汁が口の中に広がった。



「あちっ! あちっ! でも美味い!!」



 リリーが叫びながらGoProを自分に向けていた。


 食レポらしい。



 本田がアプリに言った。



「ボルティ、ここで切りますよね」



「あぁ」



 アプリがリリーに言った。



「エンジン、切るぞ」



 リリーがホタテを食べながら頷いた。


 アプリがエンジンを切った。



「さっきの練習の本番だ。本田、やってみろ」



 本田が立ち上がった。


 ボルティを押した。


 助走をつけた。


 乗り込んだ。


 ギアを入れた。


 ドン。



 エンジンがかかった。



「おおっ!」



 リリーが拍手した。


 GoProが本田に向いた。



「今何が起きたんですか!?」



「押しがけというやつです」



「かっこいい!!」



 本田は少し照れた。


 アプリが「行くぞ」と言って先に走り出した。



   *



 佐呂間町のキムアネップ岬付近を抜けた。


 サロマ湖に突き出した岬の先に、静かな湖面が広がっている。


 湿生植物が、湖畔に揺れている。


 三台が、静かな湖沿いの道をゆっくりと走った。



 常呂から内陸へ向かった。


 景色が、海から畑へと変わった。


 北海道の内陸の、広大な畑が広がっている。


 タマネギ畑。


 小麦畑。


 どこまでも続く、平らな大地だ。



   *



 レッドバロン北見店に着いた。


 スタッフが出てきた。


 アプリが状況を説明した。


 バッテリーを確認したスタッフが、在庫を調べて戻ってきた。



 あっという間にバッテリーが交換された。


 リリーがセルを押した。


 一発でエンジンがかかった。



「やった!!」



 リリーが歓声を上げた。


 GoProが回っている。



 アプリが本田に目を向けた。


 行くぞ、という目だった。


 本田も頷いた。



 二台が走り出した。


 南へ。


 斜里へ。



 バックミラーを見た。


 リリーのボルティが、勝手についてきていた。



 本田はため息をついた。


 でも、口元が少し緩んでいた。



   *



 小清水原生花園に差し掛かった。


 左手にオホーツク海。


 右手に濤沸湖。


 細い砂州の上を、道が続いている。



 本田は思わずアクセルから手を浮かせた。


 右を見た。


 左を見た。


 海と湖が、同時に視界に入る。


 こんな道が、あるのか。


 右も海みたいで、左も海みたいな道だ。


 砂州の上を、三十キロで走っている。


 この景色を見るためだけに、ここまで来た甲斐があると思った。



 やがて斜里町に入った。


 道が、まっすぐになった。


 信号がない。


 電柱が少ない。


 どこまでも、まっすぐだ。


 地平線に向かって、道が続いている。



「天に続く道」の入り口が見えた。


 三台が止まった。


 リリーがGoProをすでに構えていた。



「本田くん、GoProお願い! 私が走るシーン撮って!」



 リリーがGoProを本田に押し付けた。


 本田は受け取った。



 リリーがボルティに跨がった。


 天に続く道の、緩やかな丘の上の直線を走り始めた。



 本田はGoProを構えた。


 ファインダーの中に、道が広がった。



(これは……)



 丘の稜線に沿って、道がまっすぐ空へ向かって続いている。


 その道をボルティが走っている。


 シルバーのボルティが、空に向かって吸い込まれていく。


 雲が、広い空に浮かんでいる。


 左手のオホーツク海が、遠くに光っている。



(日本に、こんな道があるのか)



 本田はGoProを持ったまま、しばらく動けなかった。


 カメラを回していることを忘れていた。


 ただ、その景色を見ていた。


 この道を走ったら、どこへでも行けそうな気がした。


 空でも、海でも、どこへでも。


 プレスカブで、この道を走ったら。


 三十キロの全速力で。



 折り返してきたリリーが止まった。



「どうだった!? 撮れてた!?」



 本田がGoProを返した。


 リリーが再生して確認した。



「あっ……」



 リリーが固まった。



「最初の三十秒、ぼーっとしてた? ボルティがだいぶ遠くなってから撮り始まってる……」



「すみません。景色に見とれてしまって」



「う〜ん……まあ、使えなくもないか……」



 リリーがブツブツ言った。


 アプリが横で腕を組んで、遠くを見ていた。


 その横顔には「知らん」と書いてあった。



 本田は少し申し訳なかった。


 でも、あの景色は、カメラより先に目で見たかった。


 それだけは、後悔していなかった。



   *



 クリオネキャンプ場に着いた。


とうとうリリーはここまで勝手に着いて来てしまった。


「もう仲間じゃないですか〜!」



 リリーが荷物を降ろしながら、悪びれもなく言った。



 本田はバックミラーを思い出した。


 紋別を出てからずっと、シルバーのボルティが映っていた。



「リリーさん、僕らは原付なんで三十キロしか出ませんよ?」



「アプリさんは大型に乗ってるじゃない!」



 リリーがRS50を指さした。


 アプリが一言だけ言った。



「これも原付だ」



「えっ」



「五十ccだ」



 リリーが目を細めた。


 RS50とアプリを交互に見た。


 明らかに信じていない顔だった。



「……まあいいや」



 リリーがそう言ってテントを広げ始めた。


 本田とアプリの隣に、張り始めた。



 本田はアプリを見た。


 アプリは空を見ていた。


 もう、リリーのことは考えないことにしたらしい。



 本田もテントを張った。


 仕方なかった。



   *



 夜。


 キャンプ場のにゃんきゅ〜食堂。



 キャンプ場に泊まっている誰かが、テーブルに料理を並べていた。


 二百九十円以上払うと、手料理食べ放題だという。



「二百九十円!?」



 本田とリリーが、声を揃えた。



「二百九十円です」



「ほんとに!?」



「ほんとです」



 既に席に座っていたライダーが笑った。



 テーブルには、イクラご飯があった。


 宿泊客が今日釣ってきた秋鮭の塩焼きがあった。


 ザンギがあった。


 トウモロコシがあった。


 その全部が手作りで、湯気が立っていた。



 リリーがGoProを取り出した。



「これは撮らなきゃ!! 二百九十円で食べ放題って何ですか!? 北海道最高すぎる!!」



 食レポが始まった。



 イクラご飯を一口食べた。



「んんん!! プチプチがすごい!! イクラが全然しょっぱくなくてフレッシュ!! 北海道のイクラって別物ですよこれ!!」



 鮭を食べた。



「脂がのってる〜!! 皮がパリパリで身がふわっふわ!! これで二百九十円って意味わかんないです!!」



 テーブルの周りに、いつの間にか他のライダーたちが集まってきていた。


 リリーの騒がしさにつられて、みんな皿に料理を取り始めた。


 誰かが誰かに話しかけて、気づいたら大きな輪になっていた。


 クリオネが仕掛けた魔法だ。


 料理が人を集めて、人が話し始めて、笑いが重なる。


 シンプルで、最強の魔法だ。



 アプリがビールを持ってきた。


 本田にはコーラを持ってきた。


 本田が受け取ると、アプリは黙って座った。



 本田はまた、いろんな人のLINEを交換した。


 鹿児島を出た時は、LINE登録者が片手で数えられるほどしかいなかった。


 今は、何人になったかわからない。



 テーブルの向こうで、アプリにリリーが話しかけていた。


 お酒が入って、さらに距離が近い。


 リリーがアプリの腕を触った。


 アプリが少し体をずらした。


 リリーがまた寄った。


 アプリがまた少しずれた。


リリーは酔って

「♪Singin after the Rain〜♪」と上機嫌に鼻歌を歌いながらアプリにすり寄っていた。



 本田はGoProを手に取った。


 リリーがアプリに絡んでいる場面を、こっそり撮った。


 アプリが気づいて、本田を見た。



 本田は、GoProを持ったままにこにこしていた。


 アプリが無言で本田を見た。


 本田は笑顔のまま、GoProを下ろした。



 テーブルの笑い声が、クリオネキャンプ場の夜に広がっていった。


 オホーツクの星空が、その上に広がっていた。


 遠くに、知床の山影が見える。


 進路はあの山の向こうへ行く。



 本田は星を見ながら、コーラを飲んだ。


 旨かった。


 二百九十円の夜が、格別に旨かった。



SUZUKIボルティType I


型式 NJ47A型

最高出力 20ps / 7500rpm

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