【reverse 3 地平線の自問自答】
リンがサガレンを去ってから、二日が経った。
雨だった。
ガレージのシャッターを半分だけ開けて、本田は外を見ていた。
アスファルトが濡れている。
雨粒が、水たまりに落ちている。
その輪紋が、広がっては消える。
広がっては、消える。
何も考えていなかった。
何も考えなくていい時間だった。
農家バイトは、雨で休みだ。
行くあてもない。
ただ、雨を見ていた。
足音がした。
アプリがガレージに降りてきた。
本田の隣に立って、同じように雨を見た。
しばらく、何も言わなかった。
それから、ぽつりと言った。
「明日、行くぞ」
本田は立ち上がった。
気がついたら、ニヤッとしていた。
自分でも驚くくらい、すぐに顔が変わった。
*
ラビットが、二人を見ていた。
少し寂しそうな顔をしていた。
「それではお二人には、皆さんと同じようにこちらをどうぞ」
封筒を二つ、差し出した。
帰り賃だ。
本田とアプリは領収書を書いた。
それから、荷造りを始めた。
手慣れたものだった。
プレスカブのキャリアにバッグを括り付ける。
ロープを通す。
テントを固定する。
鹿児島を出た時は三十分かかっていた作業が、今は十分で終わる。
荷造りが終わったバイクを見た。
旅仕様の、重たいプレスカブだ。
早く走り出したかった。
今すぐアクセルを開けたかった。
でも、外はまだ雨だ。
本田はシートを一度だけ撫でて、部屋に戻った。
この日は早めに眠った。
アプリも、同じだったと思う。
*
翌朝。
夜明け前から、空が明るかった。
雨が上がっていた。
ラビットが、玄関の前に立っていた。
見送りに来ていた。
いつものスーツ姿で、いつものように少し猫背で、立っていた。
本田はラビットの前に立った。
何を言えばいいか、少し考えた。
でも、考えるまでもなかった。
「本当にお世話になりました。原付キャノンボールランは……僕にとって、自由の翼を与えてくれました」
ラビットが、少し目を細めた。
それから、本田を抱きしめた。
本田は固まった。
生まれて初めて、女性にハグされた。
どうしていいかわからなかった。
手をどこに置けばいいかわからなかった。
息をどこに吐けばいいかわからなかった。
アプリを見た。
助けを求めるように見た。
アプリが、静かに言った。
「ラビット。青少年保護育成条例」
ラビットが、ぱっと本田を放した。
本田の顔が、耳まで赤かった。
「本田さんはもう十八歳です! 合法です!」
ラビットがアプリに笑顔で拳を突き出した。
「それよりアプリさん、次はパチンコ負けませんよ!」
アプリが拳を合わせた。
グータッチだ。
「パチンコで俺に勝つことは不可能だ」
アプリがRS50に跨がった。
エンジンをかけた。
二ストの甲高い音が、朝の稚内に響いた。
本田もプレスカブに跨がった。
キックを踏んだ。
一発でかかった。
律儀なやつだ。
ラビットに、もう一度頭を下げた。
「本当にお世話になりました」
ラビットが笑顔で手を振った。
アプリがローに入れた。
本田もローに入れた。
二台が、サガレンの前を離れた。
バックミラーに、ラビットが映っていた。
ずっと手を振っていた。
曲がり角を曲がるまで、ずっと手を振っていた。
*
宗谷岬に寄った。
少しだけ。
本当に少しだけ。
駐車場にバイクを止めた。
アプリが缶コーヒーを二本、自販機で買ってきた。
一本を本田に渡した。
二人で、海を見た。
灰色の、広い海だ。
本田は、間宮林蔵の像の前に行った。
流氷まんじゅうはない。
缶コーヒーも今回は持っていない。
でも、来た。
軽く、会釈した。
「お世話になりました」
間宮林蔵は、海を見ていた。
変わらず、宗谷海峡を見ていた。
微笑んでいるように見えた。
気のせいかもしれない。
でも、微笑んでいるように見えた。
アプリが缶コーヒーを飲み終わって、立ち上がった。
それだけで、出発の合図になった。
二台が、南へ向かった。
*
猿払村に入った。
エサヌカ線。
ガードレールがない。
電柱がない。
ただ、道だけがある。
地平線まで、まっすぐな道だけがある。
アプリが、加速した。
二ストの音が高くなった。
みるみる遠ざかる。
オレンジのヘルメットが、小さくなった。
小さくなった。
見えなくなった。
本田は追わなかった。
時速三十キロで、その道を進んだ。
ガードレールがない道を、本田一人で走っている。
地平線まで、誰もいない。
アプリの姿もない。
でも、道は一本だ。
迷いようがない。
(地平線を、独り占めしてる)
そう思ったら、心が踊った。
誰かに追いつこうとしなくていい。
誰かと競わなくていい。
三十キロで、地平線に向かって走るだけでいい。
こんな贅沢が、あるだろうか。
*
浅茅野付近に入った。
左手に、オホーツク海が広がった。
青い。
北海道のオホーツクの青は、日本海の青とも太平洋の青とも違う。
もっと深くて、もっと冷たい青だ。
その青が、地平線まで続いている。
右手には、牧草地が広がっている。
牛が、のんびりと草を食んでいる。
牛が本田を見た。
本田が牛を見た。
牛は興味をなくして、また草を食った。
信号がない。
止まれない。
ただ、走り続ける。
(原付って、こんなに気持ちよかったっけ)
声に出さずに、思った。
声に出したら、風に消えるから。
胸の中だけで、思った。
農家バイトの数日間、ほとんど原付に乗っていなかった。
乗らない日があったのは、このレースを始めてから初めてだ。
だから今日の走りは、全部が新鮮に感じる。
エンジンの振動が、ハンドルを通して伝わってくる。
風が、ヘルメットのシールドを叩く。
タイヤが、路面を踏んでいる。
これが、走るということだ。
(きっとアプリさんやロリさんは、いつもこれを感じてたんだな)
先ほど地平線の向こうに消えたアプリのことを思った。
ロリが利島の嵐の中でずぶ濡れになって笑っていたことを思った。
二人とも、旅の高揚感を知っている。
それを知っているから、止まれない。
それを知っているから、また走り出す。
本田は今、その感覚の入口に立っている気がした。
*
走りながら、本田は一年前を思い出した。
鹿児島の、あの部屋。
新聞配達所の寮の、六畳の部屋。
窓の外に、電線が見える部屋。
朝、四時に起きた。
新聞を積んで、暗い街を走った。
配り終えると、寮に戻った。
また眠った。
夕刊を配った。
また眠った。
それだけだった。
それだけの、一年だった。
集金がある日だけ、外に出た。
スーパーで食材を買った。
コンビニに寄った。
それ以外は、部屋にいた。
プレスカブには、毎日乗っていた。
でも、楽しいと思ったことは、一度もなかった。
暗い街を、新聞を積んで走るだけだった。
信号で止まるたびに、何も考えなかった。
エンジンの振動も、感じなかった。
ただ、こなしていた。
ただ、続けていた。
学校を辞めてから、親とはほとんど話していなかった。
話すことが、なかった。
謝りたいとも思っていなかった。
ただ、申し訳なかった。
でも、申し訳ないとちゃんと言える言葉が、出てこなかった。
だから、黙っていた。
世界が、色褪せていた。
本当に、色がなかった。
空も、海も、道も、全部灰色に見えた。
給料は、使わなかった。
使う場所がなかった。
使う理由がなかった。
一年分の給料が、通帳に積み上がっていた。
それを、キャノンボールの資金にした。
田辺さんに言われるまで、そんな使い方があるとは思っていなかった。
(ロリさんのTwitterが無ければ、どうなってたんだろう)
本田は思った。
エサヌカ線を過ぎて、オホーツク沿いの道に出ていた。
左手に海がある。
右手に牧草地がある。
空が広い。
あの頃の自分が、この景色を見たら、何を思っただろう。
たぶん、何も思わなかった。
綺麗だな、とも思わなかった。
早く配達を終わらせたい、とだけ思った。
それだけだった。
でも今は、違う。
オホーツクの青が、目に飛び込んでくる。
風が、気持ちいい。
エンジンが、心地いい音を立てている。
なぜ変わったのか。
わからない。
でも、変わった。
確かに、変わった。
(旅に出たから、か)
たぶん、そうだ。
たぶん、それだけだ。
ロリのTwitterを見て、田辺さんに背中を押されて、プレスカブに荷物を積んで、走り出した。
それだけで、世界の色が変わった。
一年間、灰色だった世界が、今は青い。
牧草地の緑が、眩しい。
空の広さに、息が詰まりそうになる。
走ることで、世界は変わる。
止まっていたら、変わらなかった。
前の自分に、言ってやりたかった。
寮の六畳の部屋で天井を見つめていた自分に。
電線の向こうの灰色の空を見ていた自分に。
走れ、と言ってやりたかった。
どこへでもいいから、走れ、と。
*
ベニヤ原生花園の前を通った。
広大な湿原の中に、木道が伸びている。
バイクを止めた。
少しだけ歩いた。
湿原の静寂に、風の音だけが混ざっている。
遠くで、鳥が鳴いた。
何の鳥かわからない。
でも、いい声だった。
また走り出した。
*
ベニヤ原生花園を出て少し走ると、道路脇にRS50が止まっていた。
アプリが、腕を組んで待っていた。
「あれ? 待っててくれたんですか?」
「あぁ。この先の街で少し休む。着いて来い」
アプリが走り出した。
浜頓別の街へ向かう。
本田が続いた。
しばらく走ると、浜頓別町のカントリーサインが見えてきた。
着いたのは、古びた小さなビジネスホテルだった。
外観は地味だ。
観光客が入るような雰囲気じゃない。
まだ昼前だ。
チェックインには早すぎる。
本田が不思議そうな顔をしていると、アプリが言った。
「ここは飯と風呂だ」
中に入ると、一階が食堂になっていた。
地元の人が数人、昼食を食べている。
「アプリさんじゃないですか!」
ホテルの支配人らしき中年のオジサンが、アプリを見て顔を輝かせた。
小走りで近づいてきた。
「また北海道を走ってたんですか!?」
「まあ、そういうことだ」
アプリが答えた。
支配人とアプリが、肩を叩き合って話し始めた。
二人は本当に仲が良さそうだった。
しばらく話してから、支配人が料理人に何かを頼んだ。
それから本田たちを席に案内してくれた。
料理が来た。
二人分にしては、少し多い。
でも、遠慮なく食べた。
北海道の食材を使った、素朴で旨い料理だった。
食べ終わると、温泉に案内してくれた。
このホテルに温泉があるとは、外からはわからなかった。
湯船に浸かった。
体の疲れが、ほどけていく。
本田はアプリに聞いた。
「支配人と知り合いだったんですね」
「まあ、ただの飲み仲間だ」
「全国を旅してると、こういう友達が日本各地にいるんですか?」
アプリが湯船を見ながら、少し間を置いた。
「まあ、そうだな」
羨ましかった。
本当に羨ましかった。
アプリが普通のことのように言った「飲み仲間」が、北海道の小さなビジネスホテルの支配人だ。
ロリも、日本中に仲間がいるんだろう。
旅人は、走った分だけ、友達が増えていく。
自分もいつか、そういう旅人になれるだろうか。
「俺もいつか、アプリさんみたいになれますかね」
「さあ。なってみればわかる」
それだけだった。
でも、本田には十分だった。
*
温泉から上がって、支配人に礼を言った。
支配人がおにぎりを二つ、紙袋に入れて渡してくれた。
「食事と温泉の代金を……」
「いい。次は泊まりに来てくれたらそれで良い」
支配人が本田に言った。
「君もまた来てくれよ。アプリさんの旅の仲間なら、大歓迎だ」
「必ずまた来ます」
本田は言った。
本当に、また来たいと思った。
今度は泊まりで。
今度は一人でも来られるように。
外に出た。
バイクに荷物をつけた。
アプリが走り出す前に、本田に言った。
「はぐれたら、カニの爪で集合だ」
「カニの爪?」
「紋別に大きなカニの爪のオブジェがある。でかくて見逃せない。あそこで待つ」
アプリがRS50のエンジンをかけた。
甲高い二ストの音が、浜頓別の昼の空気を裂いた。
それだけで、本田より先に走り出した。
圧倒的な加速だ。
プレスカブが追いつける速さじゃない。
本田は苦笑した。
それから、プレスカブのキックを踏んだ。
南へ。
カニの爪へ向かって。
*
走り続けた。
神威岬の岩肌を、遠くに見た。
オホーツク海に突き出した、荒々しい岩が続いている。
宗谷岬とは違う険しさがある。
道の駅マリーンアイランド岡島で、トイレ休憩をした。
船の形をした、ユニークな建物だ。
自販機で水を買って、飲んだ。
また走り出した。
日の出岬に着いた。
ガラス張りの展望台、ラ・ルーナから、オホーツク海を見下ろした。
青い海が、どこまでも広がっている。
ここまで来た、と思った。
稚内からここまで、止まらずに来た。
信号がないから、止まらない。
止まらないから、遠くまで来れる。
原付なのに、遠くまで来れる。
興部の国道沿いで、ソフトクリームを食べた。
酪農の盛んな興部の牛乳で作ったソフトクリームだ。
濃い。
甘い。
疲れた体に、染みた。
オホーツクの青が、ずっと左手にある。
遠くに見える水平線が、まっすぐだ。
風が、ヘルメットを叩く。
エンジンが、一定のリズムで動いている。
今日だけで、何百キロ走っただろう。
でも、疲れていなかった。
むしろ、走れば走るほど、体が軽くなる気がした。
一年前の自分が、このことを知っていたら。
寮の部屋で天井を見つめていた自分が、このことを知っていたら。
あの部屋を、もっと早く出られたかもしれない。
いや、田辺さんがいなければ出られなかった。
ロリのTwitterがなければ、知ろうとしなかった。
今、この道にいる。
オホーツクの風の中に、いる。
それだけで十分だ。
紋別市に入った。
道路脇に、何かが見えた。
大きい。
でかい。
高さ十二メートルのカニの爪のオブジェが、空に向かって伸びていた。
どう見ても見逃せない。
アプリの言葉通りだった。
オブジェの前に、RS50が止まっていた。
アプリが腕を組んで、待っていた。
「合流した」
「合流しました」
二人でカニの爪を見上げた。
しばらく見上げた。
それから、二人とも特に何も言わなかった。
言う必要もなかった。
*
紋別市港湾緑地キャンプスペース。
通称、ガリヤゾーン。
市街地にあって、無料で泊まれる。
ライダーやチャリダーのバイクが、すでに数台止まっていた。
二人でテントを張った。
手慣れた作業だ。
あっという間に終わった。
支配人にもらったおにぎりを取り出した。
アプリがザックからマルちゃん焼きそば弁当を取り出した。
二人で、地べたに座って食べた。
おにぎりは、冷えていたけど旨かった。
焼きそば弁当は、アプリが慣れた手つきでお湯を注いで、蓋の上で待った。
本田は初めて食べた。
独特の甘辛い味が、疲れた体に合った。
オホーツクの夜が、静かに落ちてきた。
港の灯りが、水面に映っている。
波の音が、遠くに聞こえる。
本田はテントの前に座って、海を見た。
今日だけで、どれだけの景色を見たか。
エサヌカ線の地平線。
オホーツクの青。
ベニヤ原生花園の湿原。
浜頓別ホテルの温泉の熱さ。
日の出岬の荒海。
興部のソフトクリームの甘さ。
カニの爪のでかさ。
全部が、一日の中にあった。
一年前の自分は、一日でこれだけのものを見たことがあっただろうか。
なかった。
一年間で、これだけのものを見たことがあっただろうか。
なかった気がする。
「アプリさん」
「なんだ」
「俺、鹿児島でほとんど引きこもってたんです。一年間」
アプリが焼きそばを食べながら、返事をしなかった。
続けろという意味だと思った。
「学校辞めて、新聞配達して、部屋で寝て、また配達して。それだけの一年でした。プレスカブに毎日乗ってたのに、楽しいと思ったことが一度もなかったです」
「そうか」
「でも今日、走りながら思ったんです。あの頃と今で、プレスカブは何も変わってないのに、全然違う乗り物みたいに感じるって」
アプリが空を見た。
オホーツクの夜空に、星が出始めている。
「バイクは変わらん。乗る人間が変わっただけだ」
それだけだった。
でも、本田には十分だった。
バイクは変わらない。
乗る人間が変わる。
走ることで、変わる。
本田はテントに潜り込んだ。
シュラフに包まった。
オホーツクの波音が、遠くに聞こえる。
今日走った道を、目を閉じながら思い出した。
地平線まで続くエサヌカ線。
誰もいない一本道を、三十キロで走った。
その時の、胸の高鳴り。
一年前の自分には、なかった感覚だ。
今の自分にある感覚だ。
それだけで、来た甲斐がある。
それだけで、走り続ける理由がある。
本田は眠った。
オホーツクの夜が、静かにその上に降りてきた。




