【reverse 2 旅人はつらいよ】
翌朝、まだ暗いうちに、誰かに肩を揺らされた。
アプリだった。
「起きろ」
それだけだった。
理由も、説明も、ない。
本田は目をこすりながら身支度をした。
アプリはすでに外にいた。
二台が、サガレンの前に並んでいる。
夜明け前の稚内は、冷たい。
どこへ行くのか聞かなかった。
アプリが走り出したから、ついていった。
*
街を抜けた。
郊外に出た。
広大な畑が、地平線まで続いている。
北海道の朝が、ゆっくりと明けていく。
アプリが一軒の農家の前で止まった。
作業着を着た中年の男性が、倉庫の前に立っている。
「お久しぶりです」
アプリが言った。
オジサンが笑顔で頷いた。
二人は倉庫へ消えた。
本田はプレスカブに跨ったまま、待った。
畑の向こうに、朝日が滲んでいる。
どこまでも続く畑と、どこまでも続く空が、ひとつになっている。
アプリが戻ってきた。
手に、軍手と作業用の前掛けを持っている。
本田に向かって、差し出した。
「バイクをここに停めて、これを付けろ」
*
作業場に入ると、地元の主婦たちがすでに集まっていた。
ワイワイと話しながら、準備をしている。
作業台とローラーが並んでいる。
じゃがいもの匂いが、空気に満ちている。
「ここで働けるんですね」
「あぁ。俺は前にも来たことがあるからな。俺たちは主に運ばれてきた芋を作業台に載せるだけだ。身体にはきつい。でも単純作業だから頑張れ」
本田が開始を待っていると、選別組の主婦たちの中から、ほっかむりを被った人影が駆け寄ってきた。
「本田くんもここでバイトなの!?」
ほっかむりを取ると、リンだった。
「リンさん!」
「私は稚内に来てからずっとここで働いてるの。仕事が終わったらお風呂と洗濯機も貸してもらえるから、めっちゃ助かってて」
「そうだったんですか」
「本田くんはどこに泊まってるの?」
「サガレン。アプリさんと一緒に」
リンがアプリに軽く会釈した。
アプリが小さく頷いた。
*
作業が始まった。
じゃがいもの入ったケースが、次々と運ばれてくる。
アプリと本田は、それを作業台に載せ続けた。
重い。
腰にくる。
日本を縦断してきた体でも、こたえる。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
これも旅の一部だ、と思うと、むしろ楽しかった。
アプリがこういう旅をずっとしてきた。
リンも、稚内でこうして働いてきた。
その仲間に、今日から入れてもらった。
少し、誇らしかった。
*
昼休みになった。
オジサンが全員分の昼食を持ってきた。
コンビニ弁当と、大きなざるに山盛りの、茹でたてのじゃがいもだ。
ゆらゆらと湯気が上がっている。
さっきまで自分たちが必死で作業台に載せていた芋が、熱々で目の前にある。
アプリがためらいなく芋を一つ取った。
バターをナイフで乗せた。
塩辛を隣に盛った。
かぶりついた。
リンも同じようにした。
旅人の手際だった。
本田も見よう見まねで、バターを乗せて、塩辛を添えた。
一口かじった。
目が、開いた。
(なんだこれ)
芋の甘みが、口の中に広がる。
バターがとろけて、それを包む。
塩辛の塩気が、後から追いかけてくる。
全部が合わさって、何かとんでもないものになっている。
「辞められなくなるよね」
リンが得意げに言った。
本田は激しく頷いた。
言葉が出なかった。
周りを見ると、地元の主婦たちは芋に手を伸ばしていない。
コンビニ弁当を食べている。
オジサンが用意したお菓子をつまんでいる。
「食べ飽きたのよ〜」
誰かが言った。
本田には信じられなかった。
こんなに美味いものが、飽きる。
北海道に生まれるとはそういうことか、と思った。
リンと本田が、芋ばかり食べていた。
アプリは黙って、弁当と芋を半分ずつ食べていた。
*
仕事が終わった。
リンが自転車に跨がって、颯爽と走り出そうとした。
その自転車の前輪を、アプリが無言でつかんだ。
「今月いっぱいならサガレンが貸切だ。ドームから引っ越してこい」
リンが目を丸くした。
アプリが本田を見た。
「引越しを手伝ってやれ」
それだけ言って、RS50でさっさと帰ってしまった。
本田とリンが残された。
夕方の風が、畑を渡っている。
「引っ越しましょう。荷物、多いですか?」
「テントと自転車があれば大丈夫」
「じゃあ、肩に捕まってください」
リンがプレスカブの横に立った。
本田の肩に手を置いた。
本田がリンの自転車のハンドルを右手でつかんだ。
プレスカブがゆっくり走り出した。
リンの自転車が、横に引かれて進む。
郊外の道が、夕方の光の中に続いている。
北海道の風が、二人の間を抜けていく。
街中に入る手前で、リンが足を地面につけた。
「ここからは自分で漕ぐ。危ないから」
「わかりました」
リンが漕ぎ始めた。
時速三十キロのプレスカブに、普通についてきた。
本田がちらりと横を見た。
GREAT JOURNEYのギアが、軽やかに回っている。
(速い……)
「速いですね」
「鹿児島から来たプレスカブには負けないよ」
リンが笑った。
日焼けした顔で笑った。
旅をしてきた顔だった。
*
防波堤ドームに着いた。
リンのテントを撤収した。
何日も張りっぱなしだったテントは、少し湿っていた。
二人でポールを抜いて、生地を畳んだ。
手慣れた動作のリンと、まだ少し不格好な本田の動作が、並んでいる。
テントを丸めて、プレスカブの荷台に積んだ。
リンの荷物と合わせると、ずいぶん高く積み上がった。
二人でロープで固定した。
ドームを出る時、本田は振り返った。
旅人たちのシュラフが、まだ柱の間に並んでいる。
明日も誰かが来て、明後日も誰かが来る。
この場所は、ずっとそういう場所なんだろう。
「行こう」
リンが言った。
*
サガレンに着いた。
アプリがすでに女将さんとラビットに話を通していた。
リンはすぐに部屋に案内された。
荷物を降ろして、ガレージに戻ってきたリンは、ラビットにきちんと礼を言った。
それから、真顔でラビットに言った。
「自転車のキャノンボールランも企画してもらえませんか。割と本気で」
ラビットが困り顔になった。
「ウチの運営的には難しいですぅ〜」
「考えてみてください」
「う〜ん……」
ラビットが話をそらそうとしたのか、リンに質問を始めた。
リンが語り出した。
十九歳。浪人生。法学部志望。都内で一人暮らし。
出身は岩手県花巻市。
父親は市議員。実家は旅館。旅館は今、母親が切り盛りしている。
将来のことが見えなくて、日本一周に出た。
「でも、最近は迷いがなくなりました」
「何かありましたか?」
「ミーハーさんのラジオで聞いたんです。『百年経てば無茶も無謀も英雄譚に語り継がれる』って言葉を聞いて、霧が晴れた感じがして」
本田とアプリとラビットが、同じタイミングで目をそらした。
「法律より先に、百年後の未来のことを考えるようになって。そしたら、父親の仕事がすごく面白そうに見えてきたんです。市議員って、百年後の街のことを考える仕事でしょ?」
「なるほど……」
「それから父親とよく話すようになって。今はほぼ毎日LINEが来ます」
リンが誇らしそうに言った。
「父親もあの言葉が大好きで。額に入れて飾りたいって」
ラビットが「そうですか〜」と言いながら、本田をちらりと見た。
本田は天井を見た。
アプリはチェーンの張りを確認し始めた。
誰も、それが後藤銅像の言葉だとは、言えなかった。
ミーハーがラジオで使ったあの言葉の出どころを、この場で明かすわけにはいかなかった。
夜が、静かに更けていった。
*
翌日も、農家バイトに励んだ。
三日目の夕方。
サガレンのガレージに戻ると、派手な飾り付けがあった。
風船が浮いている。
テーブルの真ん中に、真っ白なホールケーキが置かれている。
三人が不思議そうな顔をしていると、ラビットが歌い出した。
「ハッピーバースデートゥーユー♪ ハッピーバースデートゥーユー♪」
本田に向かって、クラッカーを鳴らした。
パン、という音が、ガレージに響いた。
本田は固まった。
今日が、誕生日だった。
自分の誕生日だった。
旅の途中で、すっかり忘れていた。
日付の感覚が、とっくになくなっていた。
十八歳に、なっていた。
サガレンの女将さんが、嬉しそうに立っている。
アプリが、いつもの無表情で立っている。
でも、このケーキを手配したのは、アプリだったに違いなかった。
リンが、目を細めて笑っている。
ラビットが、もう一度クラッカーを鳴らした。
ガレージの外にBBQ台が出ていた。
炭に火が起きている。
本田は、その光景を眺めた。
誰かに誕生日を祝ってもらったことが、これまでにあったか。
記憶の中を探した。
なかった気がした。
少なくとも、こんなに嬉しい誕生日は、なかった。
「ありがとうございます」
声が、少し震えた。
恥ずかしかったけど、隠せなかった。
この景色を、絶対に忘れない。
稚内のサガレンのガレージで、女将さんとラビットとアプリとリンに囲まれた、十八歳の夜を。
絶対に、忘れない。
*
翌日。
農家バイトを終えると、リンが本田に声をかけてきた。
「今日、時間ある?」
「あります」
「誕生日のお祝い、させてよ」
*
サガレン前のノシャップのバス停から、バスに乗った。
稚内の路線バスだ。
稚内駅前ターミナルまで、海沿いを走っていく。
夕方の日本海が、窓の外に広がっている。
リンが窓の外を見ている。
日焼けした横顔が、橙の光を受けている。
旅をしてきた顔だ。
花巻から自転車で来た顔だ。
本田は、その横顔を見ないようにした。
見てしまうと、なぜか困る気がした。
*
BISTRO U Keitoは、稚内駅の近くにあった。
モダンで、洗練された店内だ。
テーブルクロスが白い。
グラスが、やわらかい照明を反射している。
本田は入口で少し立ち止まった。
(こういう店、来たことない)
「大丈夫。入ろう」
リンが先に入った。
席に着いた。
メニューが来た。
フレンチとイタリアンが合わさったような料理が並んでいる。
値段を見た。
目をそらした。
「気にしないで。今日は私が払うから」
「でも」
「誕生日プレゼントだから」
リンがコース料理を二人分頼んだ。
*
しばらくして、料理が運ばれてきた。
最初に、小さな前菜が二品。
スプーンが二本、外側から並んでいる。
フォークが三本、並んでいる。
本田はどれを使えばいいのかわからなかった。
三本のフォークを、交互に見た。
リンが、静かに言った。
「外側から順番に使うんだよ」
「外側から」
「そう。最初の料理に一番外のフォークを使って、次の料理になったら一つ内側のフォークを使う。ナイフも同じ」
「なるほど……」
「スープが来たらスプーンで、手前から奥に向かって掬うようにして」
「なんで奥に向かって?」
「こぼれにくいから。それと、スープを飲む音を立てないのがマナーだよ。静かに、唇に運ぶ感じで」
本田は頷いた。
リンが実際にやってみせた。
スプーンが、静かにスープをすくう。
音がしない。
きれいだった。
本田も真似した。
少し音がした。
リンが笑った。
責めない笑い方だった。
もう一回、と目で促してくれた。
今度は音がしなかった。
「上手」
リンが言った。
次の料理が来た。
パンが来た。
本田が手でちぎろうとすると、リンが小さく声をかけた。
「一口分ずつちぎって食べるんだよ。全部ちぎってから食べるんじゃなくて、食べる直前に一口分だけ」
「一口ずつ」
「バターは、食べる分だけ自分の小皿に取って。バターナイフで直接パンに塗らないように」
「なんで?」
「パンくずがバターに混ざるから。バターはテーブルみんなで使うものだから、きれいに保つのがマナーなの」
なるほど、と思った。
マナーには、ちゃんと理由がある。
本田は一口分だけちぎった。
小皿にバターを少し取った。
丁寧に塗った。
食べた。
美味しかった。
メインが来た。
肉料理だった。
ナイフとフォークを持った。
どう持てばいいか、手が止まった。
「ナイフは右手、フォークは左手。切る時は端から少しずつ。食べる分だけ切って、全部一度に切らないように」
「一度に全部切っちゃいけないんですか?」
「子供みたいに見えるから」
本田は苦笑した。
一口分だけ切った。
口に運んだ。
地元の食材を使った料理が、ていねいな味で広がる。
農家バイトの芋とは違う美味さだ。
どちらも、北海道の食材なのに、全然違う顔をしている。
リンが隣で、同じように食べている。
迷いのない動作だった。
旅館の娘は、こういう場所で自然に食べられる。
本田はナイフとフォークを置いた。
「ありがとうございます」
リンが顔を上げた。
「料理じゃなくて、マナーを教えてもらえてること」
リンが少し驚いた顔をした。
「これ、ちゃんとどこかで使う場面が来ると思うんです。今日教えてもらえて、本当によかったです。リンさんがいなかったら、ずっとスープ飲む音を立てたまま生きてたと思うんで」
リンが、こらえきれなくなって笑った。
お腹を抱えて笑った。
「そういうこと言う人、初めてだ」
「本当のことですから」
「旅館の娘だから、こういうの小さい頃から当たり前に教わってたけど……普通じゃなかったのかな」
「普通じゃないですよ。すごいことですよ」
リンが窓の外を見た。
稚内の夜が、静かに広がっている。
港の灯りが、水面に映っている。
デザートが来た。
二人でコーヒーを飲んだ。
静かな時間が流れた。
「リンさんの誕生日はいつですか?」
本田が聞いた。
「十月二十五日」
「必ず、お返しします」
「え?」
「リンさんの誕生日に、何かします。約束します」
リンが少し目を細めた。
「十月になったら覚えてるかな」
「忘れません。十月二十五日。絶対に」
リンがコーヒーカップを置いた。
少し、照れた顔をした。
それを隠すように、窓の外を見た。
店の外に、稚内の夜が広がっている。
港の灯りが、やわらかく滲んでいる。
旅人が行き交う街の夜が、静かに続いている。
*
バス停で、バスを待った。
稚内の夜気が、ひんやりと冷たい。
九月も終わりに近づいている。
二人並んで、バスを待った。
特に何も話さなかった。
でも、黙っていて困らなかった。
旅人同士は、沈黙が苦手じゃない。
リンが、少し間を置いてから言った。
「本田くん、私、明日で農家バイト終わりなんだ」
「そうですか」
「明後日の朝に、出発する」
本田は夜空を見た。
星が出ている。
宗谷岬の方向に、北の星が光っている。
「たぶん、僕とアプリさんもそろそろ稚内を出るよ」
「そっか」
「リンさんは次、どこへ?」
「礼文島。それから南下する」
「僕はオホーツク側を走る」
「それじゃ、反対だね」
リンが言った。
静かな声だった。
「また会えるよ」
本田は言った。
根拠はなかった。
でも、言わずにいられなかった。
「うん」
リンが答えた。
それだけだった。
バスが来た。
乗り込んだ。
二人並んで座った。
窓の外に、稚内の夜が流れていった。
*
サガレンに戻ると、ガレージは暗かった。
アプリとラビットの姿がない。
女将さんが、二人はピータウンというパチンコ屋へ行ったと教えてくれた。
本田とリンは、廊下で別れた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
それだけだった。
ドアが閉まった。
*
部屋の布団に、仰向けに寝転んだ。
天井を見た。
サガレンの、白い天井だ。
今夜のことを、思い返した。
テーブルクロスの白さ。
外側から順番に使うフォーク。
リンが静かにスープをすくうのを見せてくれた、あの手つき。
窓の外の港の灯り。
バス停の、冷たい夜気。
また会えるよ、と言った。
うん、とリンは答えた。
それだけの話だ。
旅人同士の、それだけの話だ。
「きっとまた会えるさ」
声に出して言った。
天井に向かって言った。
自分に言い聞かせるように。
窓の外で、風が鳴っている。
宗谷の風だ。
北の果ての風だ。
この風は、リンの部屋の窓も揺らしているだろう。
同じ屋根の下で、同じ風を聞いている。
明後日には、違う風の中を走っている。
そういうものだ。
旅人というのは、そういうものだ。
本田は目を閉じた。
男はつらいよ、とアプリが言っていた映画を、本田はまだ見たことがない。
でも、なんとなく、今なら少しだけわかる気がした。
出会って、惹かれて、別れる。
それが旅だ。
それが旅人だ。
いつの間にか、本田は眠っていた。
十八歳の旅人が、稚内の夜に眠っていた。
窓の外で、風が鳴り続けていた。




