【番外編:利尻島ツーリング、そして——】
バカ騒ぎの翌朝。
ラビットが、サガレンのガレージで全員を集めた。
「利尻島へ行きましょう」
全員が顔を見合わせた。
「運営からの提案です。費用は全額出ます」
誰も理由を聞かなかった。
理由より先に、全員の顔が輝いていた。
チャンプ等の大人たちはラビットの表情から察した。
謎の運営には、どうやら予算が余っているらしい。
ミーハーという予期せぬ救世主のおかげで、運営の本業が潤っているようだった。
今回の利尻島行きは、恐らく参加者を使ったPRの一環なのかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
利尻島だ。
島のツーリングだ。
*
稚内港へ向かった。
港が見えてきた瞬間、本田は思わず声を上げた。
「なんですか、あれ……」
北防波堤ドームだ。
半円筒形の巨大な回廊が、港に沿って延びている。
白いコンクリートの列柱が、天井を支えている。
古代ローマの神殿が、北海道の港に紛れ込んだような光景だ。
くま子が口を開けた。
ミーハーが「まあ……」と珍しく言葉を失った。
モト子が「日本にこんな場所があったの……」と呟いた。
本田はただ、見上げていた。
ドームの内側に入ると、薄暗い回廊が続いている。
ライダーのバイクが止まっている。
自転車が並んでいる。
シュラフに包まれた旅人が、柱の間で眠っている。
本田がふと、ある自転車の前で足を止めた。
見覚えがある。
GIANTのロゴ。
GREAT JOURNEYだ。
隣に、細長いシングルテントがある。
「まさか……」
テントのチャックが開いた。
中から、日焼けした顔が出てきた。
バンダナを巻いた、十九歳の女の子だ。
「本田くん!?」
「リンさん!!」
三本木の道の駅で、LINEを交換したチャリダーだ。
あの時は鹿児島から北上中で、今は北海道でまた出逢えた。
それが、稚内まで来ていた。
「来たんだ、本当に!」
「リンさんも!」
二人が同時に笑った。
お互いの距離が、また縮まっていた。
三本木から、リンは自転車で、本田は原付で、同じ方向へ走ってきた。
「すごいよ、自転車で稚内まで」
「原付の方がすごいでしょ。三十キロ制限で!」
二人が笑い合っていると、リンの目が本田の後ろに向いた。
止まった。
完全に、止まった。
「……ミーハーさん?」
声が震えていた。
ミーハーが、さりげなく立っている。
朝の薄明かりの中で、黒髪が揺れている。
リンの顔が、見る間に赤くなった。
「本物のミーハーさんだ……」
リンがスマホを取り出した。
本田のことは、もう見えていない。
完全に見えていない。
「ミーハーさん、写真いいですか!」
「もちろんよ」
「サインもいいですか!」
「いいわよ」
「ラジオ、聞きました!感動しました!100年経てば無茶も無謀も英雄譚ですよね!凄く感動しました!」
「ありがとう。チャリダーにも届いてたのね」
ミーハーが優雅に微笑んだ。
リンがその横に並んで、スマホを自撮りモードにした。
本田は、そこに立っていた。
(俺は?)
さっきまで「本田くん!」と笑っていた子が、今は本田の存在を完全に忘れている。
なんとなく、ちょっと、切なかった。
隣に気配がした。
くま子だ。
くま子が、本田の横に来た。
最初は少しだけ、眉間に皺があった。
でも次の瞬間、その皺が消えた。
くま子が、ゆっくりと笑い始めた。
「元気出しんね」
本田の肩を、軽く叩いた。
慰めているのに、嬉しそうだった。
どこか楽しそうだった。
少し離れたところで、モト子が一人で爆笑していた。
声を押し殺しながら、肩を震わせていた。
ラビットが乗船手続きを終えて、戻ってきた。
「皆さん、乗船します」
本田がリンに声をかけた。
「行きます。気をつけて」
「うん! また絶対どこかで!」
リンが手を振った。
その目は、まだミーハーの方を向いていた。
ミーハーが優雅に手を振り返した。
完璧な笑顔で。
本田はフェリーへ向かいながら、思った。
ミーハーの影響力は、原付ライダーだけじゃない。
チャリダーにも届いていた。
道の駅で眠る旅人にも、届いているかもしれない。
ラジオの電波が届く場所なら、どこにでも。
カワサキの秋田美人は、知らないうちに伝説になっていた。
*
フェリーが、日本海を進んだ。
利尻富士が、近づいてくる。
昨日、オロロンラインから遠く眺めた白い峰が、今は目の前にある。
島が、近い。
本田は甲板に立って、利尻富士を見ていた。
隣にくま子が来た。
また、自然に来た。
二人で、島を見た。
誰も何も言わなかった。
それで、十分だった。
*
鴛泊港に着いた。
バイクを降ろした。
島のツーリングが、始まった。
利尻島を、原付で走る。
信号がない。
海が、すぐそこにある。
利尻富士が、どこを走っても見える。
島を一周する道を、全員で走った。
本田の初めての島ツーリングだった。
北海道の無人の国道も衝撃だったが、島は違う。
海に囲まれている。
どこへ向かっても、海に行き着く。
逃げ場がない、という感覚と、解放されている、という感覚が同時にある。
不思議な自由だった。
全員が、それを感じていた。
誰も声に出さなかったが、全員が感じていた。
*
沼裏展望台に上がった。
白い恋人の展望台とも呼ばれる場所だ。
九月なので、利尻富士に雪はない。
でも、眼下に広がる利尻の街と、その向こうの日本海と、稚内の方向に見える大地の広がりが、全員の言葉を奪った。
チャンプがカメラを取り出した。
いつものように、シャッターを切り始めた。
でもこの時だけは、カメラを下ろして、しばらく景色を見ていた。
カメラより先に、目で見たかったのかもしれない。
*
仙法崎公園に着いた。
岩場の向こうに、海が広がっている。
波打ち際に、丸い生き物がいる。
アザラシだ。
岩の上で、のんびりと転がっている。
全員が近づいた。
アザラシが、全員を見た。
それから、鈴菌を見た。
鈴菌だけを、じっと見た。
アザラシが、岩から降りてきた。
鈴菌の方へ、ずりずりと近づいてきた。
「えっ」
全員が声を上げた。
頭上では、海鳥がいつの間にか鈴菌の周りを旋回していた。
鈴菌は特に驚いていない。
腕を組んで、アザラシを見下ろしている。
「鈴菌さん、なんで……」
本田が聞くと、鈴菌が答えた。
「昔からこうだ」
「動物に好かれやすいんですか?」
「子供もよく寄ってくる。商店街を歩いていると知らない子供が手を繋いでくることがある。理由はわからない」
鈴菌がアザラシの頭を撫でた。
アザラシが目を細めた。
「SUZUKIの匂いがするのかもしれない」
鈴菌が真顔で言った。
全員が笑った。
アザラシだけが、鈴菌を真剣な目で見ていた。
*
ミルピス商店に着いた。
島の老舗だ。
乳酸菌飲料「ミルピス」を作り続ける、利尻の名店だ。
木造の小さな建物から、優しい匂いが漂っている。
おばあさんが出てきた。
温かい笑顔で、全員を迎えてくれた。
「いらっしゃい。皆さん、本土から?」
「はい! 全員分のミルピスをお願いできますか?」
ラビットが注文した。
その時だった。
ミルミルの顔が、変わった。
本田がちらりと横を見た。
ミルミルの顔を見て、背筋が伸びた。
「ミ、ミルミルさん……顔が怖いですよ?」
ミルミルは答えなかった。
おばあさんに向かって、静かに、しかし確かな圧を持って言った。
「こちらにはシロタ株は入ってらっしゃるのかしら」
おばあさんの目が、変わった。
さっきまでの優しい笑顔が、一瞬で引いた。
猛禽類のような鋭い目が、ミルミルを見た。
「アンタはヤクルトおばさんだね?」
「えぇ。そのヤクルトおばさんですわ」
二人の間に、気流が生まれた。
北海道の島の小さな商店の前で、ヤクルトレディと乳酸菌飲料職人が、ラオウとケンシロウのようなオーラを纏っていた。
誰も動けなかった。
その瞬間だった。
空気を読めない男、鈴菌が、音もなくミルピスを受け取って、一口飲んだ。
「おっ。結構美味い」
全員の緊張が、一瞬だけ揺れた。
モト子が恐る恐るミルピスを受け取った。
飲んだ。
「……美味しい」
本田も飲んだ。
本当に美味しかった。
さっぱりした、でも深みのある甘さだ。
乳酸菌の香りが、鼻を抜ける。
Vタックさんが、静かに二人の間に入った。
「まあまあ、お二人とも。まずはお互いの物を飲んでみては如何かな?」
ミルミルがウエストポーチを開けた。
ヤクルト1000を取り出した。
おばあさんに、差し出した。
おばあさんが受け取った。
ミルミルもミルピスを受け取った。
二人が、同時に飲んだ。
静かになった。
おばあさんが、ゆっくりと頷いた。
「……悪くない」
ミルミルが、目を閉じた。
「……美味しい」
次の瞬間、二人の表情が変わった。
さっきまでの剣気が消えた。
二人が、互いを見た。
それから、笑った。
ミルミルがウエストポーチから、ヤクルト1000のパッケージとソフール各種を取り出した。
おばあさんに手渡した。
二人は和解した。
和解というより、戦友になった。
乳酸菌の世界で、同じ方向を向いている者同士の、深い握手だった。
本田は心の中で誓った。
稚内市内に戻っても、ミルミルの前ではカツゲンを飲まないようにしよう。
*
日帰りのツーリングを終えて、サガレンに戻った。
ラビットが、全員の前に立った。
「帰りについてお伝えします」
三つの発表があった。
参加者のバイクはトラック部隊が自宅まで届けること。
帰りの交通費は全額運営が負担すること。
サガレンは今月いっぱい、運営の貸切になっていること。
現在、九月十八日。
くま子がすぐに手を挙げた。
「飛行機の手配をお願いします。父親がうるさいんです」
くま子が少し苦い顔をした。
費用を全額出してもらっている以上、父親には逆らえないらしい。
ミーハーも手を挙げた。
「私も飛行機で。早く帰って、お兄ちゃんを安心させたいし、芸能事務所と話がしたいから」
ミルミルが続いた。
「私も飛行機で。主婦がこんなに長く家を空けてはいけません」
モト子は手を挙げなかった。
何かを考えている顔だった。
男性陣も、まだ悩んでいた。
本田は、ラビットの話を聞きながら、初めて帰りのことを真剣に考えていた。
くま子が本田を見た。
「一緒に帰ろう。熊本まで同じ飛行機で帰れるから」
真剣な顔だった。
割と本気で誘っている。
本田は「一晩考えます」と言った。
*
夜。
本田は一人で、プレスカブに跨がった。
稚内港北防波堤ドームへ向かった。
夜のドームは、昼間とは別の場所みたいだった。
暗い回廊に、旅人たちが眠っている。
シュラフが、柱の間に並んでいる。
静かな呼吸が、ドームに満ちている。
本田はバイクを止めて、回廊を歩いた。
眠る旅人たちを、起こさないように歩いた。
懐かしかった。
野宿の匂いだ。
テントの感触だ。
知らない場所で、知らない人間と並んで眠る夜の感じだ。
ふと思い出した。
(そういえば野宿してると、カレーヌードルがやたらと美味く感じたな)
思い出したら、もう迷わなかった。
答えは、最初からあった。
飛行機じゃない。
プレスカブで帰る。
来た道を、戻る。
いや、違う道を走る。
まだ走っていない道を、走る。
本田はドームの出口から、夜の稚内港を見た。
暗い海が、静かに揺れている。
宗谷岬の方向に、星が出ている。
プレスカブに跨がった。
キックを踏んだ。
一発でかかった。
律儀なやつだ。
サガレンへ戻った。
*
翌朝。
サガレンのガレージで、くま子と顔が合った。
くま子が、期待するような目で本田を見た。
本田はプレスカブのシートを、一度だけ撫でた。
それから、顔を上げた。
笑顔だった。
「コイツで南下するよ」
くま子が、一瞬だけ目を見開いた。
それから、笑った。
最初から知っていたような顔で、笑った。
「九州で待っとるわ」
ガレージの朝の光が、二台のバイクを照らしていた。
プレスカブと、くまモンモンキー。
本田とくま子が、並んで立っていた。
九州で、待っている。
その言葉が、プレスカブのエンジンより先に、本田の胸で燃えた。
北から、南へ。
宗谷岬から、佐多岬へ。
来た道ではなく、新しい道を。
今度は、レースじゃない旅人として。
Move Forward。
プレスカブが、南を向いた。
原付転生 reverse 突入
ミルピスとは?
利尻町の「ミルピス商店」で製造・販売されている飲料です。かつて酪農を営んでいた店主が、自家製の牛乳を使って作り始めたのがきっかけです。
味わい: カルピスよりも酸味が少し強く、さらっとしていて後味がスッキリしています。
特徴: 1本ずつ手作業で瓶詰めされており、利尻島内でしかほぼ手に入りません。
バリエーション: プレーンの他に、利尻昆布、クマザサ、ハマナス、アロニアなどの島らしいフレーバーも展開されています。




