【最終話:草鞋一足で】
朝、六時。
ゴールデンビーチに、全員が集まった。
空がまだ暗い。
でも、東の方に、ほんのわずかに橙が滲んでいる。
夜が明けようとしている。
マジックアワーの始まりだ。
十台のバイクが、砂浜に並んでいる。
アプリリアRS50。
くまモンモンキー。
AV50。
DT50。
ジャイロX。
ストリートマジック。
ホンダビート。
ペリカンジョグ。
プレスカブ。
そして、一台だけ、誰も見たことのない形のバイクが加わっていた。
流線型の、古いスクーターだ。
赤い車体が、朝の薄闇の中で輝いている。
富士重工業、ラビットスカーレット。
ラビットの愛機だ。
十台が、宗谷岬へ向かって並んだ。
ラビットが全員を見渡した。
「行きましょうか」
それだけだった。
十台のエンジンが、一斉にかかった。
排気音が、朝のゴールデンビーチに重なった。
2stと4st。
単気筒と二気筒。
イタリアと日本。
全部違う音が、一つになって、留萌の朝に響いた。
走り出した。
振り返ると、留萌の街並みの向こうに朝焼けが広がっていた。
橙と紅が、空に滲んでいた。
前方には、日本海がどこまでも続いていた。
誰も言葉を言わなかった。
言葉はいらなかった。
ただ、走った。
*
オロロンラインに入った。
太陽が、少しずつ高くなっていく。
海の色が、灰色から青へと変わっていく。
初山別を過ぎた。
遠別を過ぎた。
天塩を過ぎた。
道道106号に入った瞬間、世界が変わった。
ガードレールが消えた。
電柱が消えた。
道路標識が消えた。
あるのは、道だけだ。
サロベツ原野が、両側に広がっている。
草の海が、地平線まで続いている。
その道が、まっすぐに、どこまでも続いている。
左手に、何かが見えた。
白い山だ。
いや、山ではない。
島だ。
日本海の上に、白い峰が浮かんでいる。
利尻富士だった。
十台が、自然と速度を落とした。
誰かが合図したわけじゃない。
全員が、同じタイミングで、アクセルを緩めた。
利尻富士が、海の上に浮かんでいる。
雲一つない青空に、白い頂が突き刺さっている。
こんな景色が、日本にあったのか。
こんな道が、日本にあったのか。
十台が、並んで走った。
サロベツ原野の一直線の道を、利尻富士を左手に、北へ向かって走った。
*
幌延町で、道路脇にモニュメントが見えた。
「北緯45度通過点」
ラビットが手を上げた。
全員が止まった。
北緯四十五度。
地球を北極と赤道で二等分した、ちょうど真ん中の線が、この道を横切っている。
佐多岬から走ってきた。
日本の南端から、地球の真ん中まで、走ってきた。
ラビットがカメラを取り出した。
全員が、モニュメントの前に並んだ。
十台のバイクも、並べた。
アプリリアから始まって、プレスカブで終わる、全部違うバイクが一列に並んだ。
シャッターが切れた。
何枚も切れた。
誰も動かなかった。
全員がモニュメントを見ていた。
ここに、それぞれの道が交わっている。
ラビットがカメラの液晶を全員に向けた。
十人と十台が、利尻富士を背景に並んでいる写真だった。
誰も何も言わなかった。
でも、全員がその写真を、しっかりと目に焼き付けた。
*
ノシャップ岬に着いた。
紅白の稚内灯台が、岬の先端に立っている。
海の向こうに、利尻島と礼文島が見える。
九月の澄んだ空気の中、さらにその向こうに、うっすらと島影が浮かんでいる。
サハリンだ。
ロシアの大地が、水平線のすぐ向こうにある。
ここは、日本の果てだ。
ラビットが皆を仕切った。
「サガレンに荷物を置いていきましょう。宗谷岬まで身軽に行きます」
ライダーハウスサガレンは、ノシャップ岬の徒歩圏内にあった。
小さな、でも温かみのある建物だ。
女将さんが、全員を笑顔で迎えてくれた。
「よく来ましたね。お疲れ様でした」
全員が荷物を降ろした。
バイクが軽くなった。
女将さんが、小さな袋を全員に手渡した。
「これ、持っていきなさい」
袋を開けると、白いお菓子が入っていた。
流氷まんじゅうだ。
ホワイトチョコでコーティングされた、真っ白なお菓子だ。
「稚内の老舗のお菓子です。宗谷岬で食べてください」
全員が頭を下げた。
*
郷土料理 車屋・源氏で昼食を食べた。
たこしゃぶが出てきた。
新鮮なミズダコを薄くスライスして、出汁にくぐらせる。
透き通ったタコが、出汁に触れた瞬間、白く変わる。
一口食べた。
旨かった。
北海道で食べるものは、全部旨かった。
テーブルを囲んで、全員が食べた。
誰も急いでいなかった。
誰も先を競っていなかった。
ただ、食べた。
それだけで、十分だった。
*
宗谷丘陵に入った。
氷河時代に形成されたなだらかな緑の丘が、どこまでも続いている。
日本の景色とは思えない。
ヨーロッパの牧草地みたいだ。
白い道が現れた。
ホタテの貝殻を敷き詰めた、白い道だ。
青い空と、緑の丘と、白い道が重なっている。
十台が、その道をゆっくりと走った。
貝殻がタイヤの下で、かすかな音を立てた。
誰も喋らなかった。
この景色を、音で壊したくなかった。
白い道を抜けた。
下り坂になった。
前方に、海が見えた。
宗谷海峡だ。
アプリが、少し速度を上げた。
全員が、それに続いた。
十台が、宗谷岬へ向かって、最後の坂を下った。
*
宗谷岬。
駐車場に、様々なナンバーのバイクが止まっていた。
ライダーたちが、海を見ている。
呆然と、ただ海を見ている。
宗谷海峡が、目の前に広がっている。
灰色の、広い海だ。
波が静かに寄せている。
その向こうに、サハリンが見える。
本田たちも、バイクを止めた。
海を見た。
何かを感じた。
言葉にならない何かだった。
達成感とも、喜びとも、悲しさとも、違う何かだった。
ここまで来た者だけが持てる感情だ。
それが何なのか、本田にはわからなかった。
でも、確かにそこにあった。
胸の奥の、深いところに。
ラビットが何か喋っていた。
結果発表をしているらしい。
一位はアプリだと、なんとなく聞こえた。
全員が頷いていた。
それ以上のことは、よく聞こえなかった。
波の音の方が、大きかった。
*
その時、本田の目が、ある方向を向いた。
宗谷岬の片隅に、一つの像が立っていた。
誰も注目していない。
観光客も、ライダーたちも、みんな「日本最北端の地の碑」の方を見ている。
その碑から少し離れた場所に、ひっそりと、一人の像が立っていた。
間宮林蔵。
江戸時代の探検家だ。
樺太がユーラシア大陸と繋がっているかを確かめるために、草鞋一足で海峡を渡った人だ。
地図も、GPSも、舗装路も、スマホも、何もない時代に、この場所から、さらに北へ渡った人だ。
本田は、像の前に立った。
間宮林蔵が、宗谷海峡を見ている。
ずっと、海を見ている。
二百年以上、この場所で、海を見続けている。
「草鞋一足で……」
本田は呟いた。
自分たちのことが、急に小さく感じた。
五十ccの原付に乗って、舗装された国道を走ってきた。
ガソリンスタンドがあった。
コンビニがあった。
ライダーハウスがあった。
仲間がいた。
でも間宮林蔵は、草鞋一足で、この海峡を越えた。
そんな無茶が、無謀が、二百年後に地図になっている。
本田は、ポケットに手を入れた。
サガレンの女将さんからもらった流氷まんじゅうが入っている。
それと、懐に入れていたホットの缶コーヒー。
朝から懐に入れていたから、まだ温かい。
本田は、像の前に、そっと置いた。
流氷まんじゅうと、缶コーヒーを。
「本当に……百年経てば……いや」
本田は海を見た。
「間宮さんはもっとだね。二百年か」
宗谷海峡が、静かに広がっていた。
水平線の向こうに、サハリンが見える。
あの島の向こうに、間宮林蔵が行った場所がある。
草鞋一足で行った場所が、まだそこにある。
本田は、鹿児島からの道のりを思った。
佐多岬の朝。
フェリーの揺れ。
しまなみ海道の風。
千里浜の夕日。
八甲田の後藤銅像。
青函フェリーの夢。
函館の夜景。
やす子さんのリンゴ。
オロロンラインの無人の道。
全部が、走馬灯のように流れた。
本田はまだ、間宮林蔵の像を見ていた。
間宮林蔵は、何も言わない。
ただ、海を見ている。
でも、少しだけ、微笑んでいるように見えた。
少年が供え物を置いたことを、嬉しく思っているように見えた。
二百年後も人間はこうして無茶をするのかと、温かく眺めているように見えた。
*
どこかで、誰かの声がした。
「日本最北端到着証明書でも貰いに行くか……」
全員が、ゆっくりと動き出した。
呆けていた顔が、少しずつ人間に戻ってきた。
本田も、間宮林蔵に一度だけ頭を下げた。
それから、皆の後について歩いた。
証明書を売っているお店に入った。
「日本最北端到着証明書」を買った。
自分の名前と日付が入った証明書だ。
百円だった。
本田は証明書を手に取って、しばらく見た。
鹿児島の少年が、宗谷岬まで来た。
百円の証明書が、それを証明している。
店を出た。
仲間たちが、「日本最北端の地の碑」の前で写真を撮っている。
ラビットがカメラを持っている。
アプリが無表情で立っている。
くま子がくまモンモンキーの横でポーズを取っている。
ミーハーがAV50に跨がって髪をなびかせている。
鈴菌が腕を組んでいる。
モト子がVタックさんと並んでいる。
ミルミルがジャイロXにもたれている。
チャンプがペリカンジョグの横に立っている。
「本田くん、早く来なさいよ」
くま子が手を振った。
本田は走った。
皆の輪に入った。
十人が、「日本最北端の地の碑」の前に並んだ。
十台のバイクも、並べた。
ラビットがカメラを構えた。
「はい、笑ってください」
シャッターが切れた。
宗谷岬の風が、全員の髪を揺らした。
九月の北の風は、冷たかった。
でも、誰も寒そうな顔をしていなかった。
*
しばらく後。
皆がそれぞれ、証明書を買ったり、写真を撮ったり、海を眺めたりしている中、本田は一人で間宮林蔵の像の方へ戻った。
像の前に、流氷まんじゅうと缶コーヒーが、まだある。
本田は像を見上げた。
間宮林蔵は、やはり海を見ている。
変わらず、宗谷海峡を見ている。
本田は小さく言った。
「また来ます」
それだけ言って、仲間たちの方へ歩いた。
間宮林蔵の像が、背中を見ていた。
微笑みながら、見ていた。
二百年以上前に草鞋一足でこの海峡を越えた男が、五十ccの原付で鹿児島から来た十七歳の背中を、静かに、温かく、見ていた。
宗谷海峡の風が、吹き続けていた。
波が、寄せて、返していた。
北の空が、高く、青く、広がっていた。
プレスカブが、仲間たちのバイクの隣に、止まっていた。
三十年前のプレスカブが、日本最北端の地に、止まっていた。
タイヤに、佐多岬の砂が、まだ残っているかもしれない。
しまなみ海道の塩が、まだ残っているかもしれない。
千里浜の砂が、八甲田の土が、オロロンラインの風が、まだ残っているかもしれない。
鹿児島から宗谷岬まで、このカブは走り切った。
一度も、止まらなかった。
毎朝、一発でかかった。
律儀な、古いカブだった。
本田は、プレスカブのシートを一度だけ、撫でた。
Move Forward。
その言葉が、風の中に、消えた。
無茶で無謀な原付キャノンボールランは、終わった。
富士重工業 ラビット スカーレット
型式 S-102 (A型)
最高出力 3.0PS / 6,000rpm




