【第二十二話:ゴールデンゴール】
オロロンラインはライダーの聖地。
石狩を抜けると、右手に山が迫り、左手の崖の下に日本海が広がった。
切り立った断崖が、波に洗われている。
道の駅あいろーど厚田の坂を登りきった瞬間、視界が一気に開けた。
真下に、日本海が広がっていた。
海の青さが、空と繋がっていた。
どこまでが海で、どこからが空なのか、わからないほど青かった。
(すごい……)
止まりたかった。
でも、今日は前へ進む日だ。
目に焼き付けて、走り続けた。
雄冬岬に入った。
かつて「陸の孤島」と呼ばれた難所だ。
巨大な岩壁が、道に迫ってくる。
トンネルに入った。
暗闇の中を、プレスカブの小さなライトだけで進む。
出口が光っている。
飛び込んだ瞬間、まぶしいほど青い海が目に飛び込んできた。
また暗いトンネルへ入る。
また光の中へ出る。
暗闇と青の繰り返しが、リズムになった。
白銀の滝が、道端に現れた。
本田はカブを止めた。
滝の前で、水を一口飲んだ。
冷たかった。
北海道の水の冷たさは、本州とは違う。
増毛の街に入った。
赤レンガの建物が並んでいる。
国稀酒造の看板が見えた。
最北の蔵元だと、オロロンラインの案内板に書いてあった。
増毛を抜けると、道が海と同じ高さになった。
ガードレールのすぐ向こうに、テトラポットと白波がある。
4stのエンジン音が、波の音と混ざる。
プレスカブの排気音と、日本海の波音が、重なって響く。
これが、原付旅の醍醐味だと思った。
車でもバイクでも自転車でもなく、原付だから、この速さで、この高さで、この音で走れる。
前へ進んだ。
ただ、前へ。
*
留萌の街が近づいてきた。
時刻は、夕方だった。
空の色が変わり始めていた。
青が、薄れていく。
橙が、滲み出てくる。
海沿いの道を曲がると、看板が見えた。
「ゴールデンビーチるもい」
砂浜が、見えた。
本田はアクセルを緩めなかった。
砂浜の入口へ向かった。
その先に、白いゲートが見えた。
ゴールゲートだ。
人が見えた。
バイクが見えた。
仲間たちが、ゲートの前で待っていた。
本田はアクセルを開けた。
*
ゴールデンビーチの夕日は、本物だった。
日本の夕陽百選に選ばれた黄金岬が、ビーチの北側に立っている。
沈みかけた太陽が、その岬を橙に染めている。
砂浜が、金色に輝いている。
波が、金色の光を返している。
海が、燃えている。
その金色の光の中を、プレスカブが走った。
ゲートをくぐった。
司会のラビットが、チェッカーフラッグを大袈裟に振り回した。
旗が、夕日の中で白と黒に輝いた。
「Congratulation!!」
ラビットが叫んだ。
声が、砂浜に響いた。
波が、それを受け止めた。
本田はプレスカブを止めた。
エンジンを切った。
静かになった。
波の音だけが残った。
風の音だけが残った。
夕日が、本田の顔を照らした。
金色の光が、十七歳の顔を照らした。
アプリが近づいてきた。
カツゲンを一本、差し出した。
北海道の乳飲料だ。
「飲め」
「ありがとうございます」
本田は紙パックを開けた。
一口飲んだ。
甘くて、冷たくて、体に染みた。
アプリが夕日を見た。
「日本一の夕陽だな」
それだけ言った。
それだけで十分だった。
二人で、しばらく黄金岬を見ていた。
金色の光の中に、二人が立っていた。
アプリリアRS50とプレスカブが、砂浜に並んで止まっていた。
最速の原付と、最遅の原付が、同じ夕日を浴びていた。
チャンプが近づいてきた。
カメラを持っていない。
ノートを持っている。
「どうですか?」
一言だけ聞いた。
本田は迷わなかった。
「まだまだ走り足りないですね」
チャンプが笑った。
頷きながら、何かをノートに書いた。
本田はプレスカブの荷物を降ろし始めた。
いつもの手順で、いつもの速さで、テントを広げた。
ラビットが近づいてきた。
「本田さん、運営が留萌館という宿を貸切にしてますよ。今夜はそちらへどうぞ」
本田は手を止めた。
仲間たちを見渡した。
ゴールゲートの前に、全員が揃っているわけじゃない。
「鈴菌さんは? ミルミルさんは? ロリさんは?」
「まだゴールしていません」
「じゃあ、ここで待ちます」
本田はテントのペグを打ち込んだ。
ラビットが何か言いかけたが、言わなかった。
アプリの隣でテントを張り始めた。
チャンプも、ペリカンジョグを砂浜に止めて、テントを引っ張り出した。
その少し離れた場所に、信じられない光景があった。
コールマンのインフィニティチェアが、鎮座していた。
リクライニングが最大まで倒れた、豪華なチェアだ。
その上に、ミーハーが寝そべっていた。
シャンパングラスを持って。
ラビットが、そのグラスに注いでいた。
「……なんですか、あれは」
本田がアプリに小声で聞いた。
「天狗になっただけだ。気にするな」
アプリも小声で答えた。
本田はミーハーに近づいた。
「ミーハーさん、そういえば倶知安でLINEしましたよね? 返信なかったんですけど」
ミーハーがシャンパングラスを傾けながら、こちらを見た。
目を細めた。
「ん? 何? 素人の人? サインが欲しいの? 僕ちゃん」
本田は一瞬固まった。
それから、静かに踵を返した。
アプリの隣に戻って、焚き火に薪を足した。
ラビットが苦笑しながら「ミーハーさんは今朝十一時にゴールされまして、その後運営がスター扱いを……してしまいまして」と小声で説明してくれた。
本田は頷いた。
倶知安でラジオを聞かせてくれた、あの真剣な顔のミーハーはどこへ行ったんだろうと思った。
でも、まあ、ミーハーはミーハーだ。
カツゲンを一口飲んだ。
その夜、鈴菌とミルミルとロリを待ちながら、キャンプ場で焚き火を囲んだ。
ミーハーのグランピングテントは、他のテントの三倍以上のサイズだった。
運営が用意した、白いベルテントだ。
「なんで私だけツェルトなんですか」とチャンプがぼやいた。
くま子とモト子とVタックは留萌館へ引き上げていった。
砂浜に残ったのは、アプリとミーハーとチャンプとラビットと本田だった。
黄金岬の向こうに、星が出てきた。
北海道の星は、多い。
宗谷岬はもうすぐそこにある。
本田は焚き火を見ながら、思った。
今日、ここに来た。
鹿児島から、ここまで来た。
それだけを、静かに、思った。
*
翌朝。
コインランドリーjabba留萌開運店。
洗濯機を回しながら、椅子に腰を下ろしていると、扉が開いた。
くま子だった。
「あ、本田くん!」
「くま子さん! 留萌館じゃなくて?」
「洗濯しに来たとよ。一緒やね」
くま子が隣の洗濯機を回し始めた。
二人で、椅子に並んで座った。
「ミーハーさん、見た?」
本田が言うと、くま子が吹き出した。
「成り上がりだね」
「ラビットさんをマネージャーみたいに使ってたよ」
「スター扱いした運営が悪かよ」
二人で笑った。
コインランドリーの機械が、ゴウゴウと回っている。
笑いが落ち着くと、くま子が少し真剣な顔になった。
「本田くん、十三峠のガソリン、ありがとうね」
「ああ、あれは全然。広島でお好み焼きご馳走になってたから、俺の方がまだ借りがあるくらいで」
「広島のこと、ちゃんと覚えとったんね」
「忘れるわけないですよ。あの日、俺、しまなみ海道を走った後でフラフラだったんです。くま子さんのお好み焼きで、なんか救われた感じがして」
くま子が少し目を細めた。
「あたしも広島で本田くんと会って良かったよ。あのとき本田くん、ちゃんとお礼言ってくれたじゃない。高校中退の十七歳が一人でここまで来てるって、なんかすごいなって思ったとよ」
「くま子さんの方がすごいですよ。九州一周を何度もして、過給機付きのモンキーで」
「うちはお金があっただけよ」
「それだけじゃないですよ。十三峠で、ガス欠で汗だくになりながら押し歩いてた時、全然腐ってなかった。あの顔が、俺は忘れられないです」
くま子が黙った。
洗濯機が回っている音だけが、しばらく続いた。
「本田くんは、旅してどうやった?」
「変わった気がします」
「どこが?」
「鹿児島を出た時は、ただ逃げたかっただけだったんです。学校から、家から、何もない毎日から。でも走ってるうちに、前に進みたいから走ってる、って変わっていった気がします」
くま子が頷いた。
「うちも、変わったよ」
「どこが?」
「友達ができた。くまモン仕様に乗ってることを変に思わない友達が、初めて出来た」
本田は、くま子を見た。
くまモンの話しかしなくて、熊本弁で笑って、お嬢様で、過給機付きのモンキーで峠を弾丸のように走る。
そういう人間と友達になりたい、と思ってくれる仲間が、ここに集まっていた。
「俺も、友達ができました。初めて」
本田が言うと、くま子が笑った。
「そうやね。ここの全員が、うちの初めての友達たい」
洗濯機のブザーが鳴った。
*
漁師の店、富丸。
くま子が「お礼させてよ」と言って、迷わず引っ張ってきた。
メニューを見た瞬間、本田は固まった。
「富丸丼、三千百五十円……」
「遠慮せんでよ。うちが奢るんだから」
「くま子さん、これ、勇者限定って書いてありますよ」
「本田くんは勇者でしょ。鹿児島から来たんやから」
本田は富丸丼を頼んだ。
運ばれてきた瞬間、また固まった。
寿司桶から、ネタが溢れている。
ウニが、イクラが、ホタテが、カニが、どこまで続くのかわからないほど盛られている。
留萌の漁師が、本気を出したらこうなる、という丼だ。
一口食べた。
「……うまっ」
また、声が出た。
北海道ではいつも声が出る。
それがここのルールらしかった。
くま子がウニいくら丼を食べながら、ニヤニヤしていた。
本田が夢中で食べているのを、嬉しそうに見ていた。
食べ終わった。
本田は財布を出そうとした。
「ダメよ」
くま子がピシャリと言った。
「でも」
「うちが奢るって言ったでしょ」
本田は財布をしまった。
でも、このままでは収まらなかった。
本田は首に手をやった。
ドッグタグだ。
京極のミリタリーショップで買った、自分の名前とプレスカブのナンバーが刻まれたやつだ。
二枚セットだった。
一枚を外した。
くま子に差し出した。
「これ、よかったら」
くま子が目を丸くした。
「これ、大事なやつでしょ?」
「大事だから、大事な人にあげたくて」
くま子が、ドッグタグを受け取った。
手のひらの上で、刻まれた文字を読んだ。
本田の名前。
プレスカブのナンバー。
くま子は黙って、ウエストポーチを開けた。
丁寧に、その中にしまった。
チャックを閉めた。
それから、少し笑った。
「ありがとね」
「こちらこそ」
*
お勝手屋萌でステッカーを買って、留萌の街をぶらぶらした。
くま子が萌えキャラのステッカーをモンキーに貼るか真剣に悩んでいる横で、本田は留萌限定のステッカーをカブのレッグシールドに貼った。
千望台へ向かった。
標高百八十メートルの高台から、留萌の街が見える。
港が見える。
海が見える。
天気が良ければ、利尻富士まで見えるという。
頂上のハートランドカフェに入った。
ハートのオブジェが、外に立っている。
「留萌って、ハートの街なんだって」
カフェの店員が教えてくれた。
黄金岬の形がハートに見えると。
街のあちこちにハートのモチーフがあると。
「栃木にも、ハートの湖があるよ」
くま子が言った。
「ハートの湖?」
「谷中湖って言うんだけど、渡良瀬遊水地にあってね。空から見るとハート形に見えるとよ」
「行ってみたい」
「でしょ? きれいなんよ」
本田は少し考えた。
「今度、二人で行ってみよう」
自然に、言葉が出ていた。
くま子が固まった。
一瞬だけ、固まった。
それから、ゆっくりと顔を窓の外に向けた。
耳が、少し赤かった。
「……う、うん。そうやね、行ってみようか」
カタコトのような返事だった。
留萌の港が、窓の向こうに広がっていた。
かずの子ジェラートを二つ頼んだ。
二人で食べた。
街が、眼下に広がっていた。
波が、遠くで光っていた。
ハートの街が、秋の光の中に静かにあった。
*
夕方、テントに戻るとチャンプが待っていた。
タブレットを持っている。
「本田くん、ちょっと見てもらえますか。原稿のチェックをお願いしたくて」
タブレットを受け取った。
本田の名前が、記事のタイトルに入っていた。
昨夜チャンプに語ったことが、美しい文章になっていた。
蔵王でのモドキのリタイアが書かれていた。
八甲田の後藤銅像が書かれていた。
プレスカブのエンジンが一発でかかること、田辺さんのこと、鹿児島の朝刊配達のことが書かれていた。
本田は、画面を何度も読み返した。
自分の旅が、文章になっている。
自分の旅が、誰かに読んでもらえる形になっている。
「チャンプさん、これ……俺が言った通りに書いてくれてますよね?」
「言葉は全部本田くんのものです。私はただ並べただけです」
本田は画面を下にスクロールした。
他の記事のタイトルが並んでいる。
アプリの名前。
くま子の名前。
ミーハーの名前。
モドキの名前。
鈴菌の名前。
全員の記事が、すでに完成していた。
本田は他の記事を開こうとした指を、止めた。
「読まないんですか?」
チャンプが聞いた。
「雑誌が出てからの楽しみにします」
チャンプがにやりと笑った。
「それが正解かもしれませんね」
*
アプリが声をかけてきた。
「飲みに行くぞ」
キャンプ場組が全員バイクに跨がった。
留萌館に寄って、くま子たちも誘った。
全員で五分ほど走ると、小さな灯りが見えた。
おばんざい屋だ。
アプリが先に扉を開けた。
女将さんが「また来たのね」と笑顔で出迎えた。
常連の入り方だった。
コの字型のカウンターに、全員が座った。
料理担当の息子さんが、厨房から出てきた。
三十代の男性だ。
店の外を見て、また窓を見て、全員を見渡した。
「皆さんって……どんなご関係なんですか? 外に、色んなナンバーの原付が止まってて」
その瞬間、ミーハーが身を乗り出した。
「この超有名人の私を知らないのね?」
全員が固まった。
ミーハーが続けようとした瞬間、モト子がさりげなくミーハーの肩を押さえた。
それと同時に、息子さんの方へ少し体を傾けた。
「原付仲間なの」
艶っぽい声で言った。
左手をカウンターに置いた。
薬指が、さりげなく息子さんの方に向いていた。
息子さんが頷いた。
「あぁ、なるほど。実は私も普段から原付に乗ってますよ」
モト子の目が、変わった。
「まあ! なんて運命的な出会いなのかしら。マスターは何に乗ってらっしゃるの?」
「スクーターです」
「え?」
「スクーターです」
「し、車種は?」
「スクーターです。赤い」
全員の頭の上に、大きな疑問符が浮かんだ。
アプリがため息をついた。
「この世には、自分の愛機の名称を知らん人間も多い……」
「えっ?」
息子さんが首を傾げた。
「スクーターに名前なんてあるんですか?」
モト子が、音もなく心の中で何かが折れた顔をした。
くま子が笑いをこらえている。
チャンプが天井を見ている。
チャンプが「原付文化の裾野の広さと薄さを同時に感じる……」と呟いた。
全員が爆笑した。
女将さんと息子さんが、皆が鹿児島からレースをしていたことを聞いて、目を丸くした。
息子さんが本田を見た。
「十七歳で、鹿児島からここまで?」
「はい」
「信じられない……すごいな、本当に」
本田は、シラフのまま、素直にその言葉を受け取った。
嬉しかった。
外から言われると、自分がどこまで来たのかが、少しだけわかる気がした。
夜が深くなった。
*
帰り道。
全員、バイクを押して歩いていた。
飲んだら乗らない。
それは旅人の鉄則だ。
留萌の九月の夜は、静かだった。
国道の街灯が、等間隔に続いている。
波の音が、遠くにある。
本田は空を見た。
満月だった。
雲一つない夜空に、大きな月が出ていた。
中秋の名月が、留萌の街を照らしていた。
街全体が、白銀の光に包まれていた。
地面に影が出来るほど、明るかった。
月明かりだけで、本の字が読めそうなほど、明るかった。
本田は足を止めた。
隣を歩いているくま子を見た。
「月が綺麗だね」
ただそう言った。
本心だった。
綺麗だと思ったから、言った。
それだけだった。
前を歩いていたミーハーの肩が、ぴくりと動いた。
モト子が、DT50のハンドルをにやにやしながら握った。
Vタックがチャンプに「わかるか?」と目で問うと、チャンプが小さく頷いた。
アプリだけが、前を向いたまま、少し歩幅を広げた。
くま子は動けなかった。
空を見ていた顔が、ゆっくりと下を向いた。
モンキーを押す手が、少し強くなった。
耳が、首が、見る間に赤くなっていった。
「う、うん……中秋の名月やもんね」
声が、かすかに震えていた。
熊本弁が、少しだけ崩れていた。
くま子は俯いたまま、ウエストポーチのチャックに手をやった。
チャックを開けた。
中にしまっていたドッグタグを取り出した。
バイクの鍵がある。
そこに、ドッグタグを通した。
キーホルダー代わりに、取り付けた。
本田の名前が刻まれたドッグタグが、くま子のモンキーの鍵にくまモンのキーホルダーと共に揺れた。
本田は気づいていない。
月を見ている。
純粋に、月を見ている。
前を歩く仲間たちが、それぞれ静かに笑っていた。
誰も何も言わなかった。
言う必要がなかった。
原付仲間たちは、バイクを押しながら、大きな月に向かって歩き続けた。
満月の光が、留萌の夜道を金色に照らしていた。
波の音が、遠くで続いていた。
ゴールデンビーチの夜は、ただ美しかった。
ただ、美しかった。




