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【第二十一話:もぎたての世界】

 余市のカントリーサインを過ぎると、国道5号線の両側に、小さな看板が並び始めた。



 無人販売店だ。


 一軒、また一軒と続いている。


 リンゴ、ぶどう、とうきび。


 手書きの値札が、風に揺れている。



 本田はアクセルを緩めた。


 プレスカブをゆっくり走らせながら、看板を見ていく。



(デザートにしたい)



 スガワラのパンはまだある。


 でも、北海道の果物を一つくらい食べたかった。



 値段を見た。


 リンゴ一袋、五百円。


 ぶどう一袋、五百円。


 どちらも袋単位だ。


 一人では食べきれない量が入っている。



 スーパーのカット野菜コーナーで「旅中だぞ。余らせたら捨てるしかない」と言ったモドキの声が、頭に蘇った。


 確かにそうだ。


 一人で旅している人間が、リンゴ一袋を食べきれるわけがない。



 本田は何軒かの前で止まっては、また走り出すことを繰り返した。



 とある無人販売の前で、また止まった。


 悩んでいると、奥の方で動く気配があった。



 小柄なおばあちゃんが、販売台の商品を片付け始めていた。


 店仕舞いの時間らしい。



「欲しいものがあるのかい?」



 おばあちゃんが、こちらを見て声をかけてきた。


 人の良さそうな目が、細くなっている。



「あ、一人なので一個だけ欲しかったんですけど、バラ売りってできませんよね?」



「それなら、店仕舞いを手伝ってくれたら一個くらいあげるよ。何が食べたいんだい?」



「リンゴ……いや、ぶどうかな?」



「良いよ、どっちもあげるから。これを全部倉庫に片付けるのを手伝っておくれよ」



 本田は頷いた。



   *



 無人販売に並んでいた商品を、全部おばあちゃんが案内する倉庫へ運んだ。


 リンゴの箱が重い。


 でも、三十分もかからなかった。



「ありがとうよ」



 おばあちゃんが、本田を手招きした。


 畑の方へ歩き始めた。


 本田もついていった。



 リンゴの木が並んでいた。


 枝に、赤いリンゴがびっしりついている。


 夕方の光を受けて、つやつやと輝いている。



 おばあちゃんが、一つもぎ取った。


 本田に手渡した。



「食べてみな」



 本田はそのまま、かぶりついた。



 皮ごと、かぶりついた。



 その瞬間、口の中に何かが弾けた。



(な、なんだこれ)



 果汁が、溢れた。


 甘い。


 でも、甘いだけじゃない。


 冷たくて、みずみずしくて、まるで桃みたいだった。


 リンゴの話なのに、桃みたいだった。


 今まで食べてきたリンゴとは、全然違う何かだった。



 スーパーで売っているリンゴも、コンビニで売っているリンゴも、全部知っていた。


 でも、これは違う。


 もぎたては、別の食べ物だ。


 マタリアベーカリーのチーズケーキの時と、同じ衝撃だった。



「美味い……」



 口に果汁をつけたまま、呟いた。



「もぎたては美味しいっしょ」



 おばあちゃんが、優しく微笑んだ。



「バイクで何処から来たのさ」



「鹿児島です」



 おばあちゃんの目が、見開いた。


 それから、みるみる心配そうな顔になった。



「鹿児島!? 一人でかい?」



「はい」



「ご飯、ちゃんと食べてるの?」



「食べてます」



「何処で寝てるの?」



「テントです。道の駅とか、キャンプ場とか」



「家出したの?」



「してないです! 原付のレースに出てて、北海道まで走ってきたんです」



 おばあちゃんがしばらく、本田の顔を見た。


 それから、リンゴの木を見た。


 それから、また本田を見た。



「今夜、うちに泊まりなさい」



 決定事項のように言った。



   *



 畑のすぐ隣に、大きな一軒家があった。


 おばあちゃんは歩きながら「やす子っていうのよ」と自己紹介した。



 玄関を開けると、中から声が聞こえた。


 日本語じゃない。



 リビングに三人の男性がいた。


 みんな、本田と同じくらいか、少し上の年齢だ。


 アジア系の顔立ちをしている。



「アン、グエン、トゥアン。この子、今夜泊めてあげるからね」



 やす子が言うと、三人が一斉にこちらを見た。



 一番背の高い男が、丁寧な日本語で言った。



「はじめまして。アンです。よろしくお願いします」



 次に、ニコニコした顔の男が本田の横に来た。


 プレスカブを見て、目を輝かせた。



「これ、カブ!? このカブ、ベトナムで乗ったらモテるよ! 絶対モテるよ!」



「グエンです!」と笑いながら続けた。



 最後に、一番若そうな男が、少し恥ずかしそうに近づいてきた。


 カタコトの日本語で言った。



「トゥアン。カブ、好き」



 本田は笑った。



   *



 夜が始まった。



 本田は鹿児島からここまでのスマホの写真を見せながら、旅の話をした。


 アンが「フムフム」と言いながら、メモを取り始めた。


 グエンが「ここ、どこ?きれい!」と何度も声を上げた。


 トゥアンが、プレスカブの写真を見るたびに目を輝かせた。



「ベトナムにもカブがあるんですか?」



 本田が聞くと、グエンが「あるある! カブはベトナム人みんな乗ってる!」と答えた。



「ベトナム人、バイク好き。車よりバイク」



 トゥアンがカタコトで続けた。


 スマホを取り出して、写真を見せてくれた。


 ベトナムのカブだ。


 日本のカブとよく似ているが、微妙に違う。


 タンクの形が違う。


 メーターの位置が違う。



「これ、ベトナムのカブですか!」



「そう。ホンダDream。ベトナムでたくさんいる」



「すごい、本当にあるんだ」



「ベトナム来る?」



 トゥアンが、期待するような顔で聞いた。



「行きたいです! 絶対行きたいです!」



「次、里帰り、来る?」



「僕もバイトしてお金貯めます!」



 トゥアンが笑った。


 アンが「いつでも案内しますよ」と言った。


 グエンが「ベトナムのカブで走ったら、もっとモテるよ!」と言った。


 全員が笑った。



 やす子が台所から料理を運んできた。


 本田はキャリアから大量のパンを持ってきた。


 スガワラのパンと、やす子の料理が、テーブルに並んだ。


 五人でそれを分け合って食べた。



 北海道の一軒家で、十七歳の鹿児島の少年と、三人のベトナム人と、余市のおばあちゃんが、食卓を囲んでいる。


 そんな夜が、世界のどこかにある。


 旅をしていなければ、絶対に来られなかった夜だ。


 田辺さんに背中を押されなければ、来られなかった夜だ。



 本田は、リンゴをもぎったやす子の手を見た。


 皺だらけの、働き続けた手だ。


 その手が、見ず知らずの少年を招き入れた。



(生まれてきて良かった)



 その言葉が、また胸に浮かんだ。


 アプリが言った言葉が。


 伊根の舟屋で聞いた言葉が。



 夜は、ゆっくりと更けていった。



   *



 翌朝。


 やす子に礼を言って、出発しようとした時、やす子が言った。



「ニッカ工場、行ってみな。すぐ近くだから」



   *



 ニッカウヰスキー余市蒸溜所。


 石造りの建物が並んでいる。


 煙突が空に伸びている。



 受付でガイドツアーを申し込んだ。


 受付のお姉さんが、本田を見て、少し目を細めた。



「キャノンボールランの方ですよね?」



「あ、はい。よく知っていますね」



「ミーハーさんのラジオ、聞きましたよ。感動しました」



 本田は頭を掻いた。


 ミーハーは、こんな所まで届いていた。



 ガイドのお姉さんに連れられて、他のお客さんたちと工場内を回った。


 蒸留釜が並んでいる。


 樽が積み上げられている。


 ウイスキーの甘い香りが、空気に溶けている。



 竹鶴政孝という人物の話を聞いた。


 スコットランドまで渡って本物のウイスキーを学んだ職人の話を、本田は初めて聞いた。


 ウイスキーという飲み物があることは知っていた。


 でも、誰かがこんなに必死で、日本に本物を作ろうとした話は知らなかった。



 ツアーの終わりに、試飲コーナーへ案内された。


 お客さんたちがウイスキーのグラスを手に取る中、本田だけジュースが出てきた。


 ガイドのお姉さんが、本田の隣に来た。



「未成年だから試飲はできないけど」



 お姉さんが、蒸留釜を見ながら言った。



「面白いことを知っていますか。竹鶴さんが作ったこの蒸留釜と、本田さんが乗ってきたスーパーカブは、同じ精神で作られているんですよ」



「えっ? 全然違うじゃないですか」



「逃げ道がない、という点で同じです」



 お姉さんが続けた。



「カブは高速道路を使えない。誤魔化しが効かない道を、ひたすら走るしかない。エンジンの調子が悪ければ、ダイレクトに走りに出る」



「そうですね」



「ウイスキーも同じです。竹鶴さんは石炭の直火でガツンと焚き上げることにこだわりました。時間がかかる。手間がかかる。でも、その誤魔化しのない製法だから、何十年経っても崩れない味になる」



 本田は、蒸留釜を見た。


 機能のために研ぎ澄まされた金属の塊だ。


 カブのシリンダーヘッドと、どこか似ている気がした。



「竹鶴さんは、日本人の手に届く本物を作りたかった。本田宗一郎さんも、誰もが乗れる本物のバイクを作りたかった。職人が泥臭く現場に向き合って、妥協せずに作り続けた。その精神が、どちらにも入っています」



 本田は、しばらく黙っていた。



「俺が乗ってるカブに、そんな話があったんですか」



「ありますよ。あなたが鹿児島からここまで走ってこれたのも、その精神のおかげかもしれません」



 本田は駐車場に戻って、プレスカブを見た。


 三十年前のプレスカブが、余市の朝の光を受けて立っている。


 何十万キロも走り続けた後継者たちと同じエンジンが、この小さな車体に入っている。



(なんか、ここに来た気がする)



 やす子に勧められて良かった、と思った。



「次は酒が飲める歳になってから来よう」



 蒸留釜に向かって、小さく呟いた。



   *



 小樽に入った。


 給油のためにスタンドに寄った。


 店員に、バイク屋を尋ねた。



「オイル交換できるとこ、知ってますか?」



「ポパイ自転車店に行ってみてください」



「自転車屋ですか?」



「大丈夫です。行ってみてください」



 店員が笑顔で言った。


 本田は半信半疑でポパイ自転車店へ向かった。



 店の扉を開けると、自転車が所狭しと並んでいる。


 どう見ても、バイク屋ではない。



「オイル交換お願いできますか?」



 店主が、少し困った顔をした。


 でも、すぐに工具を手に取った。


 鮮やかな手つきで、プレスカブの下に潜り込んだ。


 迷いがない。


 慣れている。



 本田が「自転車屋なのに、なんで?」と聞くと、店主が笑った。



「ほら、うちは小樽に入って最初のガソリンスタンドの近所だろ? たぶんキミも、そこで教えられたんじゃないかな?」



「はい、その通りです」



「あそこの店員は必ずうちをライダーたちに教えるんだよ。うちは自転車屋なのにね」



「でも、断らないんですか?」



 店主がオイルを拭きながら言った。



「うちに来るライダーはほぼ全員が旅人だからね。市内のバイク屋を教えて突き返すのも可哀想でね。毎年こうして旅人が来てくれるおかげで、俺も楽しくてさ」



 店主が立ち上がった。



「たぶんここに来たってことは、今からオロロンラインに入るんだろ? 稚内に行く途中で困ったことがあれば電話してくれよ。軽トラで迎えに行くから」



「えっ! そんなことまで?」



「当たり前だ! アフターサービス!」



 本田は笑った。


 そして、ガソリンスタンドの店員がここを勧めた理由が、完全にわかった。


 このお店に来るライダーは、みんなこの人に救われていくんだ。



 爽やかな気持ちで、本田は小樽を後にした。



   *



 オロロンラインへの入口が、見えてきた。



 本田はその手前のセイコーマートに立ち寄った。


 飲み物を買うつもりだった。


 でも、買ったペットボトルを持ったまま、本田は動けなくなった。



 オロロンラインが、目の前に伸びている。


 どこまでも、まっすぐに。


 海が、左手にある。


 空が、広い。


 雲が、ゆっくりと流れている。


 この道の先に、稚内がある。


 宗谷岬がある。


 ゴールがある。



 本田の目が、熱くなった。



 涙が、出てきた。


 止まらなかった。


 運転できる状態じゃなかった。


 本田はセイコーマートの前で、ただ立ち尽くした。



 泣いている理由が、自分でもよくわからなかった。


 嬉しいのか、寂しいのか、怖いのか。


 全部が混ざっていた。



 アプリはもう、この道を走った。


 くま子も、この道を走った。


 ミーハーも、もう走っているはずだ。


 モドキは蔵王で止まった。


 鈴菌は今、どこにいるだろう。


 チャンプは今、どこで写真を撮っているだろう。



 仲間たちが、この道を走っていた。


 自分と同じように、信号もない、誰もいない道を、それぞれのペースで走っていた。


 そのことが、急に、胸に迫ってきた。



(自分が来れたというよりも……みんなで来れたんだ)



 鹿児島を一緒に出た仲間たちの顔が、浮かんだ。


 千里浜で横一列に並んだあの夕日が、浮かんだ。


 焚き火を囲んで笑った夜が、浮かんだ。



 一人じゃ、ここまで来られなかった。


 田辺さんがいなければ、出発できなかった。


 くま子のお好み焼きがなければ、続けられなかったかもしれない。


 アプリの「生まれてきて良かった」がなければ、揺れていたかもしれない。


 モドキの「Move Forward」がなければ、八甲田で止まっていたかもしれない。



 全部が繋がって、ここに立っている。



 でも同時に、本田はわかっていた。



 今日の夕方には、ゴールしてしまう。


 あと百三十キロ。


 オロロンラインなら、三時間もあれば走れる。


 そうしたら、終わる。


 このレースが、終わる。



 終わってしまう。



 早くゴールしたかった。


 宗谷岬が見たかった。


 それだけを思って、鹿児島から走ってきた。



 でも今は、このまま終わっていいのか、という気持ちが、どこかにあった。


 終わったら、何が残るんだろう。


 終わったら、どこへ向かえばいいんだろう。



 本田はオロロンラインを見つめていた。


 どこまでもまっすぐな道が、北の空へ続いている。



 その時だった。



 どこからか、声が聞こえた気がした。


 風の音の中に、混ざっている気がした。



『Move Forward』



 聞こえた。


 確かに聞こえた。



 モドキの声だった。


 後藤の声だった。


 田辺さんの声だった。


 誰の声でもあって、誰の声でもなかった。



 本田は、ペットボトルを握りしめた。


 目の端に残った涙を、袖で拭いた。


 深呼吸をした。



 プレスカブに跨がった。


 キックを踏んだ。



 一発でかかった。



 今日も、律儀なやつだ。



 アクセルを開けた。


 オロロンラインへ入った。


 海が、左手に広がった。


 風が、正面から来た。


 北の風だ。


 宗谷から吹いてくる風だ。



 前に、進む。



 この道の先に、ゴールがある。


 終わりがある。


 でも、終わりは始まりだと、田辺さんが言っていた。



 Move Forward。



 プレスカブが、オロロンラインを北へ向かって走り始めた。


 ホクレンの旗が、風になびいている。


 オレンジの旗が、北の空を指している。



 宗谷岬まで、あとわずかだ。



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