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【第十九話:後藤さんへ】

 三戸を七時に出た。



 国道4号線を北上する。


 朝の東北の空気が、肺に刺さる。


 九月の終わりが近い。


 もう、温かいとは言えない気温だ。



 右手に、奥入瀬川が光っている。


 川沿いの木々が、少しずつ色づき始めている。


 紅葉の走りだ。


 鹿児島では見られない色が、岩手と青森の境を流れている。



 十和田市に入った。


 日本の道百選に選ばれた駒街道を走った。


 整然と並ぶ松の木が、道の両側に続いている。


 馬のオブジェが、朝の光の中に立っている。


 静かな街が、静かに朝を始めていた。



 本田は、その静けさの中を走りながら、ずっと考えていた。



 モドキのことを。


 蔵王のエコーラインで、路肩に止まったメイトのことを。


 胸を張って「今回はリタイアだ」と言ったモドキの顔を。



 そして、SNSのことを。



 三本木の道の駅でスマホを開いた時、コメント欄を見てしまった。


 見なければよかった。


 でも、見てしまった。



 「公道でレースとか危険すぎる」


 「迷惑行為だろ」


 「未成年が何やってるんだ」



 全部が間違っているわけじゃない。


 だからこそ、刺さった。



 自分たちは、何をしているのか。


 原付で、日本を縦断している。


 たった五十ccで、佐多岬から宗谷岬まで。


 無謀だ。


 迷惑だ。


 そう言われれば、返す言葉が見つからない部分もある。



 それでも。



 それでも、走りたかった。


 それでも、前へ進みたかった。


 その答えを、本田はまだ見つけられていなかった。



   *



 十和田湖方面から国道103号へ入ると、道が変わった。


 山が、始まった。



 平坦だった道が、急に傾いた。


 プレスカブのエンジンが、唸り始めた。


 昨日のモドキのことを思い出しながら、丁寧にギアを落とした。


 大丈夫だ。


 カブは四ストだ。


 焼き付かない。


 でも、二ストへの哀悼を込めて、丁寧に扱った。



 ブナのトンネルに入った。


 両側から、ブナの木が覆いかぶさってくる。


 空が、葉っぱでできたトンネルになった。


 木漏れ日が、路面に揺れる模様を作っている。


 その中を、プレスカブが走る。


 エンジン音が、森に吸い込まれていく。



 美しかった。


 でも、今日の本田には、景色を楽しむ余裕がなかった。



 走ること。


 前へ進むこと。


 それだけに、全部を絞っていた。



 標高が上がるにつれて、気温がさらに下がった。


 睡蓮沼を過ぎた。


 八甲田連峰の主峰、大岳が見えてきた。


 荒々しい山肌が、空に向かってそびえている。


 秋の高山植物が、岩の間に小さく咲いている。



 酸ヶ湯温泉の近くで、硫黄の匂いがした。


 地獄沼から漂ってくる、独特の匂いだ。


 山の深くまで来た、と体が感じた。


 頭より先に、体が知っていた。



   *



 県道40号へ入った。


 田代平高原へ続く道だ。



 視界が開けた。


 高原が広がっている。


 湿原が広がっている。


 過酷な雪中行軍が行われたとは、とても思えない。


 静かで、穏やかで、美しい高原だ。



 その中に、小高い丘があった。


 丘の上に、銅像が立っていた。



 本田はプレスカブを止めた。


 エンジンを切った。



 風の音だけが残った。



 ゆっくりと、丘を登った。


 近づくにつれて、銅像が大きくなっていく。


 後藤房之助。


 雪中行軍遭難記念像。


 八甲田の山々を、じっと見据えて立っている。



 本田は銅像の前に立った。


 ヘルメットを脱いだ。



 風が吹いた。



   *



「……来ました」



 誰もいない高原で、本田は言った。


 声が、少し震えていた。



「後藤さん」



 見上げた顔は、険しくない。


 険しくないのに、揺るがない。


 吹雪の中を歩き続けた人間の顔だ。


 凍えながらも、やめなかった人間の顔だ。



「俺たちも、無茶だって言われてます」



 原付で縦断。


 公道レース。


 未成年が何をしているのか。


 迷惑だ。


 危険だ。



「たぶん、間違ってる部分もあります」



 風が強くなった。


 高原の草が、波のように揺れた。



「でも」



 本田は続けた。



「止まれないんです」



 声が、もっと震えた。



「走りたいんです。前に進みたいんです。それだけなんです。それだけのために、鹿児島から走ってきたんです」



 銅像は答えない。


 でも、本田には、後藤がどこかで聞いていると思えた。


 百年以上前に、この山で死にかけながらも歩き続けた人間が、今もここで聞いていると思えた。



「あなたも、言われたはずです」



 やめろ、と。


 無理だ、と。


 引き返せ、と。



「でも、歩いた」



 吹雪の中を。


 凍える山を。


 仲間たちが倒れていく中を。


 それでも、歩いた。



「仲間がリタイアしました」



 モドキの顔が浮かんだ。


 蔵王のエコーラインで、路肩に止まったメイトが浮かんだ。


 胸を張って「今回はリタイアだ」と言った顔が浮かんだ。


 そして、「Move Forward」と本田に言った声が聞こえた。



「ショックでした」



 本田の目が、熱くなった。



「怖くなりました。次は自分かもしれないって。プレスカブが止まったら、俺もそこで終わりなんだって。怖くて怖くて、それでも走ってたら、気づいたらここまで来てました」



 声が詰まった。


 涙なのか、寒いのか、自分でも分からなかった。


 でも、止まらなかった。



「それでも、俺は走ります」



 風が吹いた。


 高原の草が、また揺れた。



「だって、前に進むしかないから」



 鹿児島を出たあの朝から、本田はずっと前だけを見てきた。


 後ろには、もう戻れない。


 戻る場所が、もうどこにもない。


 前だけがある。


 前しかない。



「後藤さん」



 静かに、深く、頭を下げた。



「あなたは歩いた。俺は走ります」



 五十ccの小さなエンジンでも。


 誹謗中傷があっても。


 仲間が倒れても。


 三十キロ制限でも。



「Move Forward」



 その言葉が、答えだった。


 最初から、そこにあった答えだった。


 八甲田が、鹿児島の出発の朝から、ずっとそこにあった答えだった。



 本田は顔を上げた。


 後藤の銅像が、八甲田の山々を見据えている。


 その視線の先には、空がある。


 広い、青い空がある。



 本田はヘルメットをかぶった。


 プレスカブに跨がった。


 キックを踏んだ。



 一発でかかった。



 今日も律儀なやつだ。



 振り返らなかった。


 アクセルを開けた。


 八甲田の風を切り裂きながら、本田は前へ進んだ。



 無謀だと笑われてもいい。


 迷惑だと言われてもいい。



 それでも。


 前へ。


 ただ、前へ。



   *



 青森港に着いたのは、夜だった。



 青函フェリーの乗船口に、プレスカブを向けた。


 係員に手続きをして、フェリーに乗り込んだ。


 バイクを車両甲板に固定した。


 船室へ上がった。



 雑魚寝スペース。


 毛布を一枚借りた。


 隅の壁に、もたれた。



 その瞬間、意識が落ちた。



 八甲田の疲労。


 モドキのリタイア。


 誹謗中傷。


 後藤銅像の前で吐き出した全部。


 それを抱えたまま、本田は深い眠りへ沈んだ。



   *



 夢を、見た。



 吹雪だった。



 白い。


 何もかもが白い。


 風が唸っている。


 足元が見えない。


 どこへ進めばいいのか、わからない。



 その白の中に、人影があった。



 一人じゃなかった。


 何人もいた。


 みんな、軍服を着ていた。


 凍えた顔で、吹雪の中に立っていた。



 一番前に立つ人間の顔が、見えた。



 後藤だった。


 銅像で見た顔と同じだった。


 でも、銅像より温かい顔だった。


 生きている人間の顔だった。



 本田は夢の中でも、十七歳のままだった。


 ヘルメットも、プレスカブもない。


 ただの少年が、吹雪の中に立っていた。



「……俺、間違ってますか」



 本田は聞いた。


 声が、吹雪に飲まれそうになった。



「間違ってますか。原付で走ることは。宗谷岬を目指すことは。迷惑をかけながら前に進もうとすることは」



 後藤が、本田を見た。


 静かな目だった。


 この人の目は、吹雪の中でも静かだ、と思った。


 どんな風が吹いても、揺れない目だ。



 後藤が、口を開いた。



『百年経てば』



 低い声だった。


 でも、吹雪の中でも、はっきりと聞こえた。



『無茶も無謀も、英雄譚に語り継がれる』



 吹雪が、一瞬だけ止まった。



 後藤の後ろに並んでいた仲間たちが、全員、本田に向かって顔を上げた。


 凍えた顔で、でも笑っていた。


 穏やかに、温かく、笑っていた。



 全員が、敬礼をした。



 一糸乱れぬ敬礼が、吹雪の中に揃った。


 百年以上前に八甲田で命を失った人間たちが、十七歳の少年に向かって、笑顔で敬礼をしていた。



『Move Forward』



 後藤の声が、吹雪に広がった。



 視界が、白く弾けた。



   *



 目が覚めた。



 フェリーの天井だった。


 エンジンの低い振動が、船体を揺らしている。


 毛布を、両手で握りしめていた。


 気づかないうちに、握りしめていた。



「……夢、か」



 でも、後藤の声ははっきりと残っていた。


 笑顔の敬礼が、目の裏に残っていた。



 百年経てば。


 無茶も無謀も、英雄譚に語り継がれる。



 本田は、静かに自分の胸を叩いた。



「刻んだ」



 誰にも聞こえない声で言った。


 でも、自分には聞こえた。


 後藤にも、聞こえたと思った。



 本田は立ち上がった。


 甲板へ出た。



 真っ暗な海が広がっていた。


 津軽海峡の夜だ。


 星が出ていた。


 北の星が、南の星より多く見える。


 北海道が近い。



 本田は船の後方へ向いた。


 青森の方向を見た。


 もう、陸は見えない。


 でも、あの高原の丘の上に、後藤がまだ立っているのがわかった。



 本田は敬礼をした。


 十七歳の、不格好な敬礼だった。


 でも、精一杯の敬礼だった。



 風が吹いた。


 津軽海峡の風が、本田の頬を叩いた。



 本田は甲板に立ったまま、しばらく海を見ていた。


 波の音が、エンジンの振動と混ざっていた。


 フェリーは、北へ向かっていた。


 北海道へ向かっていた。



 宗谷へ向かっていた。



   *



 函館港に着いたのは、二十二時を過ぎていた。



 フェリーの使用によるペナルティタイムは六時間だった。


 ペナルティタイム消化中なので、夜でも走れる。



 プレスカブを車両甲板から出した。


 キックを踏んだ。


 一発でかかった。



 函館の夜気が、ひんやりと肺を満たした。


 北海道の空気だ。


 本州とは違う。


 もっと深くて、もっと冷たくて、もっと広い空気だ。



 函館山の夜景がチェックポイントだ。


 でも、プレスカブで山頂まで行くのは難しい。


 歩いて登るしかない。



 港近くにカブを停めて、歩き始めた。



 その途中だった。



 レンガ造りの建物が並ぶ一角に来た。


 金森赤レンガ倉庫だ。


 観光客はまばらだ。


 その一角に、小さな灯りがあった。



「Cafe CHI's」



 看板に、そう書いてあった。


 甘い匂いが、扉の隙間から漏れている。



 吸い寄せられるように、扉を押した。



「いらっしゃい」



 白髪混じりのマスターが、柔らかく笑った。


 カウンターの中で、コーヒーを淹れていた。



「こんな時間に珍しいね。観光?」



「……原付で、日本縦断してます」



 マスターの手が、一瞬止まった。


 それから、ゆっくりとこちらを見た。



「ほう」



 コーヒーと、甘いチーズケーキが出てきた。


 本田が財布を出そうとすると、マスターが手を振った。



「どこから?」



「鹿児島の佐多岬です」



「佐多岬から、函館まで」



 マスターが、静かに頷いた。



「若いな。俺も昔やったよ」



「え?」



「ヒッチハイクで北海道から沖縄まで。寝袋と親指一本でな」



 本田の目が、見開いた。



「本当ですか」



「ああ。無茶だって言われたよ。危ない、迷惑だ、やめろって」



 本田は、コーヒーを一口飲んだ。


 温かかった。


 体の芯まで、温かかった。



「今も言われてます」



「そうか」



 マスターが、カップを拭きながら言った。



「でもな、若い時の無茶は財産だ。財産は、歳をとってから利子をつけて返ってくる」



 本田は、夢の言葉を思い出した。


 後藤の声を思い出した。



「百年経てば、ってやつですか」



 マスターが、にやりと笑った。



「いいこと言うな。誰に教わった?」



「……八甲田で」



 マスターは少し間を置いた。


 それから、深く頷いた。



「なるほどな」



 二人は笑った。


 世代も手段も全然違う。


 でも、縦断という言葉だけで、通じ合えるものがあった。



 マスターが地図を広げた。



「函館山の登山口はここから回り込め。ロープウェイはもう終わってる。歩きなら三十分だ」



「ありがとうございます」



「朝市は四時開きだ。今から待つのは無駄だぞ」



「じゃあ、夜景だけ見て出ます」



「若いなあ」



 マスターが最後に言った。



「進め。止まるな」



 本田は深く頭を下げた。


 CHI'sの灯りを背中に感じながら、函館山へ向かった。



   *



 函館山を登った。


 足が重かった。


 息が上がった。


 三戸から走り続けた体に、登山は堪えた。


 でも、八甲田を越えた体は、止まらなかった。



 頂上が、見えた。


 視界が、開けた。



 函館の夜景が、眼下に広がっていた。



「……すげえ」



 声が出た。


 それ以外の言葉が、出なかった。



 宝石を、誰かが地面に散らしたようだった。


 街の灯りが、函館の地形に沿って広がっている。


 海が、その光を受けて黒く輝いている。



 本田はしばらく、動けなかった。


 ただ、見ていた。



 宗谷岬は、もうすぐだ。


 夢の言葉が、胸の奥で響いた。



 Move Forward。



   *



 午前零時を過ぎた頃、本田は山を下りた。


 プレスカブに跨がった。


 CHI'sのマスターに教えてもらった場所へ向かった。



 巴大橋の高架橋の下。


 函館市民でも知らない、閉ざされた空間。


 本田はそこにテントを張った。



 寝袋に潜り込んだ。


 フェリーのエンジン音が、まだ体に残っていた。


 後藤の声が、まだ耳に残っていた。


 CHI'sのマスターの「進め。止まるな」が、胸に残っていた。



 移動してきた距離が、頭の中で広がった。


 佐多岬。


 鹿児島。


 四国。


 広島。


 京都。


 千里浜。


 山形。


 青森。


 八甲田。


 そして今、函館。



 一本の線が、日本列島の上に引かれている。


 その線の先に、宗谷岬がある。



 プレスカブのエンジン音が、頭の中に流れた。


 一発でかかる、律儀なあのエンジン音が。



 本田は目を閉じた。



 Move Forward。



 函館の夜が、静かに更けていった。



後藤房之助伍長像のあらまし


この銅像は、1902年(明治35年)に起きた

「八甲田雪中行軍遭難事件」の悲劇と、

生存者の勇気を伝えるために建てられました。

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