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【第一話:三〇キロメートルの翼】

その日は、ひどく霧の深い朝だった。



 街の輪郭がぼんやりと滲んで、信号の赤すら遠くかすんで見える。


 視界が白く覆われると、世界がぐっと狭くなる気がした。


 まるで、今の僕の毎日みたいだと思った。



 配達を終えた販売所の裏手で、僕はプレスカブのエンジンを切る。


 パキパキと冷えていくシリンダーの音が、静かな朝に溶けていく。


 僕は泥除けの汚れを軍手でゆっくりと拭った。


 特に意味はない。


 ただ、そうしないと手持ち無沙汰になるから。



「お疲れさん、本田くん。今日も早かったな」



 声をかけてきたのは、田辺さんだ。


 同じ販売所で長年働いているベテランで、六〇を過ぎた白髪混じりの小柄な男性。


 僕のことを「本田くん」と呼ぶのは、この職場では田辺さんだけだ。


 他の人は、せいぜい「おい」か「お前」くらいだった。



 田辺さんもまた、僕と同じ一九九〇年製のプレスカブに乗っている。


 ボロさは僕のと大差ないのに、なぜかいつも丁寧に磨かれていて、愛されているのがわかった。



「田辺さん、お疲れ様です」



 僕は軍手を外しながら答えた。



「……このバイク、もう三十年以上前のものなんですよね。よく壊れないなって、いつも思って」



「はは、カブを舐めちゃいかんよ。こいつはタフだ」



 田辺さんは愛機のシートをポンと叩いて、遠い目をして笑った。


 その笑い方が、なんとなく好きだった。


 自慢でも押しつけでもなく、ただ本当に、そう思っているという顔だった。



「俺がまだ君くらいの頃かな」



 田辺さんはゆっくりと話し始めた。



「こいつと同じカブで、鹿児島からフェリーに乗って沖縄まで遊びに行ったもんさ。一週間かけて島を一周してね」



「……沖縄、ですか」



「そう。空も海も、今の百倍は青かったよ」



 田辺さんは霧の中の空を見上げて、目を細めた。


 まるで、あの頃の青空がそこに見えているかのように。



 その時、僕の口から自然に言葉が出ていた。



「……原付って、船に乗れるんですか?」



「当たり前だよ」



 田辺さんはきっぱりと言った。



「切符を買えば、どこへだって連れて行ってくれる。こいつはただの『仕事道具』じゃない」



 一拍置いて、田辺さんは僕を見た。



「お前の意志次第で、どこへでも飛べる『翼』になるんだ」



 翼。



 僕は手元の、錆の浮いたハンドルを見た。


 ボロボロのハンドルカバー。


 細くて頼りないタイヤ。


 何度拭いても取れない、泥の染み。



 でも、その瞬間だった。



 このタイヤが、海を越えて、見知らぬ土地の土を踏む。


 その映像が、頭の中にくっきりと浮かんだ。



 視界を覆っていた霧が、すうっと晴れていくような感覚があった。



   *



 部屋に戻っても、田辺さんの言葉が耳から離れなかった。



 翼になる。


 翼に、なる。



 スマホを開けば、Twitterのタイムラインに例の単語が流れてくる。


 以前は流し見していた投稿が、今日はなぜか目に飛び込んできた。



『原付キャノンボールラン』



 狂った連中の遊びだと思っていた。


 自分には関係ないと思っていた。


 でも今は、画面から目が離せない。



 ルールを読んだ。


 出場者のリストを見た。


 コースを地図で調べた。



 鹿児島から北海道まで。


 原付で。


 二十日以内に。



 馬鹿げている、と頭の片隅が言う。


 無理だ、とも言う。


 お前には無理だ、とも。



 でも胸の奥に灯った火は、そういう声をじわじわと飲み込んでいった。



 気づいた時には、僕は販売所の所長に「辞めます」と伝えていた。



 所長は驚いた顔をした。


 引き止めようともした。


 将来を心配する声も、もったいないという声も、もらった。



 全部、聞こえていた。


 でも、届かなかった。



 僕はただ、確かめたかった。


 この三十年前の鉄屑が、本当に僕を「外の世界」へ連れ出してくれるのかを。



   *



 数日後。


 僕は震える指で、公式サイトの応募フォームからオンライン面接の予約を入れた。



 指定された時刻、画面が繋がった。



 現れた「運営」と名乗る人物は、顔を隠したままだった。


 声も加工されていて、男なのか女なのかすらわからない。


 不気味といえば不気味だ。


 でも、なぜか嘘くさくはなかった。



 その人物は、淡々と規約を読み上げた。



『……以上が基本ルールです。確認してください』



────────────────────


・優勝賞金: 五十万円


・参加資格: 排気量50cc以下の車両であること


・期間: スタートから二十日以内に、北海道・留萌市のゴールデンビーチへ到達すること


・走行時間: 午前七時から午後七時まで。夜間の走行は一切禁止


・自己責任: 交通違反、事故、故障。すべては参加者の責任とする


・フェリー: 使用可能。ただし、到着港にて運営が指定するペナルティタイムを消化すること


・チェックポイント: 立ち寄りは任意。ただし、ポイント合計が順位に直結する


・二十日を過ぎると1日毎に1000ポイントを消費する


────────────────────



 読み上げが終わって、沈黙が一瞬あった。


 それから、運営の声が続いた。



『……よろしいですね? 最後に聞きます』



 画面越しの声が、少しだけトーンを落とした。



『これは命懸けの旅になるかもしれない。それでも出場しますか?』



 僕は一秒も迷わなかった。



「……はい。出ます」



 迷いはなかった。


 本当に、一ミリも。



   *



 その日の夜、公式ホームページの「出場者リスト」の末尾に、新しい項目が追加された。



────────────────────


【Entry No.28】


名前 : 本田

車両 : ホンダ・プレスカブ(1990年製)

拠点 : 鹿児島県


────────────────────



 スマホの画面に並ぶ、他の参加者たちのエントリー。


 アプリリア。ストマジ。ジャイロ。


 名前からして、強烈な個性を放つマシンたちが並んでいる。


 そこに、僕のボロボロなカブが紛れ込んでいる。


 場違いにもほどがある。


 でも、それでいいと思った。



「……行くんだ。北海道まで」



 声に出してみた。


 誰もいない六畳一間の部屋に、その言葉が小さく広がって、消えた。



 一七歳の僕。


 イジメに負けて逃げ出した僕。


 学校も居場所も、なくした僕。



 そんな僕の、三〇キロメートル制限の反撃が——



 今ここから、始まろうとしていた。




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