【第十八話:美しすぎる珍車娘】
三本木を七時に出た。
今日は長い。
宮城から青森の三戸まで、約二百五十キロ。
原付で十時間の道のりだ。
チェックポイントは全てスルーすると決めた。
今日は走るだけの日だ。
国道4号線を北上する。
朝の東北の空気が、頬に当たる。
気温が下がってきている。
九月とは思えない冷たさだ。
でも、体が慣れてきた。
三瓶山の夜から比べれば、これくらいは平気だった。
ひたすら走る。
信号で止まる。
また走る。
景色が流れていく。
田んぼが続く。
山が近くなる。
また田んぼになる。
東北の国道4号線は、まっすぐだ。
まっすぐで、長くて、どこまでも続いている。
この道が、青森まで繋がっている。
*
盛岡市内に入ったのは、十一時前だった。
昨夜チャリダーから聞いた店を目指した。
国道4号から少しだけ外れた場所にある。
福田パン。
長田町本店。
店の前に着いた瞬間、列があった。
地元の人間が並んでいる。
学生も、サラリーマンも、お母さんも、みんな並んでいる。
本田も並んだ。
順番が来た。
カウンター越しに、店員さんが立っている。
「何にしますか?」
「あんバターを二つ」
「はい!」
店員さんの手が動いた。
シュパパッ、という音がした。
巨大なコッペパンに、あんこが広がった。
次の瞬間、バターが重なった。
全部で三秒もかからなかった。
「すごい……」
思わず声が出た。
もう一つ頼んだ。
こちらはキーマカレーとたまご。
また三秒で完成した。
一つをすぐに食べた。
もう一つはバッグにしまった。
今夜の夜食だ。
あんバターを一口かじった。
甘い。
ボリュームがある。
コッペパンがふかふかだ。
「うまい」
立ったまま食べた。
三分で食べ終えた。
プレスカブに跨がった。
走り出した。
チャリダー情報は正しかった。
昨夜のLINEに「ありがとうございました」と送った。
すぐに「気をつけて」と返ってきた。
*
ひたすら走った。
二戸を過ぎた。
山が深くなった。
気温がさらに下がった。
道の駅さんのへに着いたのは、十七時半だった。
予定より早かった。
今日はよく走れた。
荷物を下ろして、近くのこま温泉へ向かった。
大人四百八十円。
リニューアルしたばかりの施設だ。
サウナがある。
電気風呂がある。
本田は湯船に浸かった。
長い。
今日は長く走った。
二百五十キロ近く、ひたすら国道4号線を北上した。
体の芯まで、疲れが溜まっている。
お湯が、その疲れを溶かしていく。
目を閉じた。
*
そういえば、と本田は思った。
まだ東北地方を走っていた僕らには、一足早く北海道へ渡っていたミーハーの身に起こっていた出来事について、誰一人気づいていなかった。
***
ミーハーが新潟港からフェリーに乗ったのは、本田が山形の十三峠を越えていた日のことだ。
新日本海フェリーの船内は、思っていたより広かった。
AV50は車両甲板に残してきた。
ミーハーは個室に荷物を下ろして、展望デッキへ出た。
新潟の港が遠ざかっていく。
日本海が、どこまでも広がっていく。
(これが、フェリー)
風が強い。
潮の匂いがする。
甲板の手すりを握りながら、ミーハーは水平線を見た。
鹿児島から、ここまで来た。
AV50で、ここまで来た。
カワサキで、ここまで来た。
当たり前じゃない、と思った。
就活もしていない、農家の娘が、秋田のAV50で、鹿児島から新潟まで走ってきた。
当たり前じゃない。
でも、やれた。
小樽まで、十八時間の船旅だ。
ミーハーは展望デッキで、ずっと海を見ていた。
*
小樽港に着いたのは、翌朝だった。
ロリが予測した通り、ペナルティタイムは六十時間だった。
六十時間。
二泊半。
ミーハーは小樽市内のグリーンホテル本館にチェックインした。
ベッドに倒れ込んだ。
白いシーツが、気持ちよかった。
(久しぶりのベッド)
旅に出てから、野宿とテントが続いていた。
ベッドがこんなに柔らかかったことを、忘れていた。
六十時間。
小樽を、満喫することにした。
*
翌朝、北一ホールへ行った。
石油ランプが、百個以上灯っている。
朝の光の中で、ランプの炎が揺れている。
観光客たちが、静かにその光を眺めている。
ミーハーも、その中に立った。
不思議な光だった。
電気じゃない。
石油の炎が、百個並んでいる。
温かくて、揺れていて、呼吸しているみたいな光だ。
(カワサキのプラグのスパークみたいな光だわ)
ミーハーは心の中でそう思った。
揺れていて、生きていて、代わりが効かない。
三角市場へ行った。
海鮮丼を食べた。
ウニとイクラが、丼の上で輝いていた。
一口食べた瞬間、目を閉じた。
こんな朝食を食べながら、東北のどこかを仲間たちが走っている。
本田は今日もプレスカブで国道を走っているはずだ。
(負けてられないわ)
ミーハーは海鮮丼を平らげた。
*
午後、LeTAOへ行った。
小樽の洋菓子の名店だ。
二階のカフェに座って、ドゥーブルフロマージュと、コーヒーを頼んだ。
ケーキが運ばれてきた。
二層のチーズケーキが、皿の上で静かに輝いている。
一口食べた。
「……すごい」
思わず声が出た。
濃厚なのに、軽い。
口の中で溶ける。
コーヒーが、その余韻を引き立てる。
(私の街にも欲しい。秋田に欲しい。いや、AV50で小樽まで来れば良いだけか)
ミーハーは窓の外を見た。
小樽の街が広がっている。
石造りの倉庫が並んでいる。
観光客が歩いている。
コーヒーを一口飲んだ。
豆にこだわるミーハーには、このコーヒーも合格点だった。
その時だった。
*
店の外が、少し騒がしくなった。
テレビカメラが見えた。
アナウンサーらしき女性が、マイクを持って立っている。
ロケの途中らしい。
ミーハーは会計を済ませて、外へ出た。
AV50の元へ向かった。
ヘルメットを取り出した。
バイクに跨がろうとした。
その瞬間だった。
「あの、すみません!」
アナウンサーが、ミーハーに近づいてきた。
カメラが、こちらを向いた。
ミーハーは振り返った。
アナウンサーが、一瞬だけ目を見開いた。
それから、プロの笑顔に戻った。
でも、その一瞬は確かにあった。
北海道の地元テレビ局のアナウンサーが、ミーハーの顔を見て、思わず目を見開いた。
秋田美人、という言葉がある。
秋田県は美人が多いと言われる。
ミーハーは、その言葉を体現していた。
長い黒髪。
整った顔立ち。
スラリとした立ち姿。
それが今、ヘルメットを片手に、秋田ナンバーのカワサキに跨がろうとしている。
ディレクターが見逃せるはずがなかった。
「秋田から来られたんですか?」
アナウンサーが聞いた。
「いいえ。鹿児島からですよ」
ミーハーが答えた。
当然のように。
「えっ?」
「鹿児島です。佐多岬をスタートしました」
「でも、ナンバーが秋田で……」
「私が秋田在住だからですよ。このカワサキも秋田のバイクです」
アナウンサーが固まった。
カメラマンが、AV50にレンズを向けた。
「あの、よろしければ……詳しく聞かせてもらえますか?」
ミーハーはスマホを取り出した。
原付キャノンボールランのHPを開いた。
アナウンサーに見せた。
「私、このレースに出ているんです。今はルール上のペナルティタイム消化中で、小樽観光をしていたんです」
アナウンサーとディレクターが、スマホの画面を覗き込んだ。
参加者一覧。
チェックポイント。
ルール説明。
「これ……原付で日本縦断のレース?」
「そうです」
「参加者が……二十八人?」
「スタート時はそうでした。今は十一人が生き残っています」
「生き残り……」
ディレクターが何かを確認している。
アナウンサーが画面を指差した。
「あの……これ、現在の順位って見られますか?」
「見られますよ」
ミーハーがページを切り替えた。
順位表が出てきた。
アナウンサーが画面を見た。
それから、ミーハーを見た。
「お姉さん、今……トップですか?」
「カワサキですから。当たり前です」
ミーハーが微笑んだ。
淀みなく、自然に、当然のように言った。
アナウンサーが笑った。
ディレクターも笑った。
カメラマンも、カメラを持ったまま笑った。
*
その夜、どさんこワイドの街角コーナーで映像が流れた。
LeTAOの前に止まった秋田ナンバーのカワサキ。
ヘルメットを持った長身の美女。
「鹿児島からですよ」という一言。
「カワサキですから当たり前です」という微笑み。
ネットが動いた。
『美しすぎる珍車娘』
その夜のうちに、ミーハーのことがSNSで拡散された。
原付キャノンボールランのHPへのアクセスが、急激に増えた。
それまで誹謗中傷しか書かれていなかったコメント欄が、一夜にしてひっくり返った。
『カワサキのAV50って何?』
『鹿児島から来たの本当に?』
『美しすぎる。原付乗りに見えない』
『他の参加者も見たい』
『運営のHP、ちゃんと見たら面白い』
運営への問い合わせが、翌朝から殺到した。
*
翌日、ミーハーはSTVラジオのスタジオにいた。
どさんこワイドの放送を見たラジオ局のスタッフから、連絡が来たのだ。
スタジオは思ったより小さかった。
マイクが目の前にある。
パーソナリティが隣に座っている。
リクエスト曲が流れて、曲が終わった。
「さて、ここからは特別ゲストをお迎えしております。原付キャノンボールランに出場中の、ミーハーさんです。ミーハーさんはペナルティタイム消化中ということで、小樽の街を観光されていたそうですが、小樽の街はいかがでしたか?」
「すごく良かったですよ。LeTAOが最高すぎて、私の街にも欲しいくらいです」
「LeTAOは美味しいですよね。ところで、ミーハーさんはここまで原付で来られたということで、大変だったんじゃないですか?」
「カワサキなので全然平気です」
パーソナリティが少し笑った。
「でも、運営のHPには、かなりの誹謗中傷が書かれていますよね?」
ミーハーの表情が、少し変わった。
カワサキの話をする時とは、違う顔になった。
静かで、真剣な顔だった。
「まあ、原付ってただでさえ邪魔者扱いですからね。私のカワサキでさえ、酷い幅寄せをされますから」
「そんな誹謗中傷や悪質な嫌がらせを受けて、どうやってメンタル面を保っているんですか?」
ミーハーが少し間を置いた。
「私がこの小樽に来てから、既に何度も国道5号線を走りました。小樽の主要道路ですからね。5号線の制限速度って、ご存知ですか?」
「えっ……えーと……六十キロ? あれ、四十キロかな?」
「市民の皆さんは毎日、ラッシュ時間以外は八十キロ近く出してますよね?」
「まあ……そうですね」
「でも、自動車のスピード違反やマナー違反には、誹謗中傷は起こりにくいんです。もちろん事故を起こせばニュースで取り上げられて、ネット上で特定されることもあります。でも今日も小樽の皆さんは5号線を七十キロ、八十キロで走っていました」
ミーハーが続けた。
「人は弱い者を叩きたくなるんです。原付は、その対象にしやすいだけなんです。制限速度三十キロで走る原付は、邪魔に見える。だから叩く。そんな、ただそれだけの理由なんです」
「なるほど……」
「そんな適当な誹謗中傷しかできない人たちからの言葉は、私たちの心には響きません。そんなことをいちいち気にしてしまうような人には、原付で日本縦断は不可能なんです」
ミーハーは一呼吸置いた。
「メンタル面をどう保つかって質問でしたけど、ごめんなさい。今、生き残っている参加者たちで、誹謗中傷で心が傷つく人はいないんです」
スタジオが、静かになった。
パーソナリティが、何も言わなかった。
言葉を探している顔だった。
でも、言葉より先に、ミーハーが微笑んだ。
「鹿児島から、ここまで来ましたから」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
*
この放送は、STVラジオのSNS公式アカウントから発信された。
前日のどさんこワイドの映像と合わさって、拡散が加速した。
コメント欄がさらにひっくり返った。
『この人の言葉、刺さった』
『原付で日本縦断してる人たちに失礼なことしてたかもしれない』
『他の参加者の動向も追いたい』
『AV50ってカワサキなの?かっこいい』
『美しすぎる珍車娘、伝説』
運営のHPへのアクセスが、また跳ね上がった。
チェックポイントのリアルタイム更新が、初めて注目された。
残り十一人の参加者が、今どこを走っているか。
それを、日本中の人間が見始めた。
美しすぎる珍車娘は、この日、伝説になった。
***
しかし、東北地方を必死で走っていた僕らには、その事に全く気づくことなく、ただ前へ前へと進むだけだった。
三戸の温泉で、本田は湯船の中で目を閉じた。
お湯が、体の芯まで温めていく。
外の気温は、また下がっている。
明日も走る。
北へ。
ただ、北へ。
三戸の夜が、静かに更けていった。




