【第十七話:Move Forward】
七時。
白い森オートキャンプ場を出た。
モドキのメイトが前を走る。
本田のプレスカブが続く。
2stと4st。
朝の山形の空気の中で、二台の排気音が重なっていく。
国道113号線を東へ。
飯豊町を抜けた。
道の駅いいでを通過した。
昨日、モドキと出会った場所だ。
一日でずいぶん遠くまで来た気がした。
南陽市の赤湯で、少し休憩した。
自販機の温かい缶コーヒーを二人で飲んだ。
モドキが地図を確認している。
本田は空を見た。
晴れている。
蔵王日和だ。
「行くか」
「はい」
二台が走り出した。
*
蔵王エコーラインの入り口に着いたのは、十時頃だった。
鳥居が立っている。
ここから先が、蔵王の領域だ。
道が、急に表情を変えた。
ワインディングロードが始まった。
カーブが連続する。
斜度が上がっていく。
木々が深くなる。
気温が、じわじわと下がっていく。
プレスカブがうなる。
二十キロを維持するのが、やっとだ。
それでも、前へ進む。
モドキのメイトが前を走っている。
安定したペースで、カーブを抜けていく。
さすがだ、と思った。
*
中腹に差し掛かった頃だった。
前を走るモドキのメイトのペースが、落ちた。
少し落ちた、じゃない。
明らかに遅くなっていた。
(どうした?)
本田はモドキとの車間を詰めた。
メイトのスピードが、さらに落ちている。
三十キロ。
二十五キロ。
二十キロ。
モドキが路肩にメイトを寄せた。
止まった。
本田もすぐ後ろに停めた。
バイクを降りて、モドキの元へ走った。
モドキはメイトのエンジンを見つめていた。
何も言わなかった。
「モドキさん、大丈夫ですか?」
モドキが答えなかった。
エコーラインの風が吹いている。
木々が揺れている。
遠くで鳥が鳴いている。
「終わりか〜〜」
溜息のような声だった。
独り言のような声だった。
でも、本田には聞こえた。
本田は黙って、モドキの隣に立った。
何が終わったのか、わからなかった。
でも、何かが終わったのはわかった。
モドキがゆっくりと顔を上げた。
胸を張った。
「焼き付いた。今回はリタイアだ」
本田の胸に、何かが刺さった。
「焼き付いた……?」
「エンジンが焼き付いた。オイル切れだ。2stはオイルが切れると、一瞬でエンジンが死ぬ」
本田は信じられなかった。
昨夜、あんなに元気に走っていたメイトが。
桂浜で龍馬と並んだメイトが。
オドメーターを四周したメイトが。
「でも、2stは百年乗れるって言ってたじゃないですか!」
本田は思わず詰め寄った。
「そうだ。2stは百年乗れる」
モドキが、晴れやかな顔で言った。
悔しそうじゃなかった。
悲しそうでもなかった。
ただ、静かに晴れていた。
「でも、今回だけは無理だ」
「なんで!」
「メイトのエンジンは、そう簡単には見つからない。乗せ換えなんて、制限時間内には不可能だ」
モドキがプレスカブを見た。
それから、本田を見た。
「だから、あとは本田に託す」
本田は言葉が出なかった。
モドキが続けた。
「行け」
「でも」
「行けって言ってる」
「でも、モドキさんは」
「速く行け」
モドキの声が、少し強くなった。
「2st乗りは焼き付きなんて慣れっこだ。オドメーター四周してんだぞ。これが初めての焼き付きじゃない」
「じゃあ、また走れますか?」
「必ず復活させる」
モドキが、エコーラインの上の方を見た。
お釜はまだ、ずっと上にある。
「今度はレース抜きで、ここに来るさ」
その言葉が、本田の胸に染みた。
「速く行け。お前は前へ進むんだろ」
モドキが本田を真っ直ぐ見た。
「Move Forward。Move Forward!」
本田の目が、熱くなった。
でも、泣いている場合じゃなかった。
プレスカブに跨がった。
キックを踏んだ。
一発でかかった。
一度だけ振り返ろうとした。
でも、やめた。
モドキの顔を見たら、動けなくなる気がした。
アクセルを回した。
Move Forward。
Move Forward。
本田は前だけを見て、エコーラインを登り始めた。
時速二十キロ。
プレスカブがうなる。
でも、止まらない。
Move Forward。
Move Forward。
言葉が、ペダルを踏む足になった。
言葉が、アクセルを握る手になった。
言葉が、曲がりくねった坂を登るエンジンになった。
*
お釜に着いた。
標高千六百メートル。
眼下に、翡翠色の湖が広がっていた。
火山が作った、丸いカルデラ湖だ。
その色が、この世のものとは思えなかった。
本田はプレスカブを止めて、柵の前に立った。
心が、沈んでいた。
モドキのことが頭から離れなかった。
蔵王まで一緒に来ると言っていたのに。
昨夜、焚き火を囲んで笑っていたのに。
でも。
お釜の色が、目に入った。
風が吹いた。
翡翠色の湖面が、波紋を広げた。
なぜか、心が晴れていった。
今度はレース抜きで、ここに来るさ。
モドキの言葉が、もう一度蘇った。
そうだ。
モドキは終わったんじゃない。
今回のレースが終わっただけだ。
モドキもまた、自由の翼を持っている。
翼がある限り、いつでもここに来れる。
その時は、自分もまた来ればいい。
「2st乗りはタフだな」
お釜に向かって、呟いた。
風が、その言葉を運んでいった。
*
下りは、登りとは別の道だ。
一気に下っていく。
カーブを抜けるたびに、山形の平野が広がっていく。
モドキがいた場所を通り過ぎた。
路肩に、メイトはなかった。
モドキも、いなかった。
運営のトラック部隊が、もう回収していったのだ。
何も残っていない路肩を、本田は通り過ぎた。
でも、ここにモドキがいたことは、覚えている。
胸を張って「今回はリタイアだ」と言ったモドキが、ここにいた。
それは消えない。
プレスカブが、蔵王を下っていった。
*
国道4号線を北へ。
仙台市内を抜けた。
大崎市へ入った。
道の駅三本木「やまなみ」に着いたのは、十八時を過ぎた頃だった。
国道4号沿いの、大きな道の駅だ。
駐車場に入ると、長距離トラックが何台も止まっている。
運転席の灯りが、夜の闇に浮かんでいる。
日本の物流を支える人間たちが、ここで眠っている。
バイクを止めて、荷物を下ろした。
テントを設営する場所を探した。
その時、道の駅の端の芝生エリアに、小さなテントが何張りかあるのに気づいた。
細長い、サイクル用のシングルテントだ。
自転車が、テントの横に立てかけてある。
チャリダーたちだ。
本田は近づいた。
一つのテントから、顔が出てきた。
同い年くらいの男だった。
日焼けした顔に、くたびれたバンダナを巻いている。
「原付?」
「そうです。日本縦断中で」
「俺も縦断中。自転車で」
男が出てきた。
脚が、信じられないくらい細かった。
でも、目が生きている。
「どこから?」
「鹿児島から。北海道目指してます」
「俺は北海道から。鹿児島目指してる」
お互いが、逆方向から来ていた。
「すごいですね、自転車で」
「原付も十分すごいよ。法定速度三十キロだろ?」
「そうです」
「俺の自転車と変わらないじゃないか」
二人で笑った。
隣のテントからも顔が出てきた。
また同い年くらいだった。
こちらは女の子だった。
同じように日焼けして、同じように目が生きていた。
「ここ、チャリダーがよく泊まるんですよ」
「原付の人は初めて見た」
「俺も、チャリダーがこんなにいるとは思わなかったです」
少し話した。
どこが良かったか。
どこが辛かったか。
どこのご飯が旨かったか。
話していると、遠くにいる人間が急に近くなった気がした。
自転車と原付。
乗り物は違う。
でも、前へ進もうとしているのは同じだ。
「LINE、交換しませんか」
本田が言っていた。
鹿児島を出た時の自分には、旅人に声をかけるなんてできなかった。
でも今は、自然に言葉が出た。
「いいよ」
男が頷いた。
女の子も頷いた。
三人でLINEを交換した。
本田のスマホの連絡先に、また新しい名前が増えた。
*
テントを張って、横になった。
国道4号を、トラックが走り続けている。
エンジン音が、低く、途切れなく続いている。
これが、旅の夜の音だ。
本田はスマホを取り出した。
モドキにLINEを送った。
『お釜、最高でした。今度一緒に行きましょう』
しばらくして、返信が来た。
『必ず行く。その時はキャンプ飯も作ってやる』
本田は笑った。
モドキは、もう次を見ている。
焼き付いたエンジンより、次のお釜を見ている。
やっぱり、タフだ。
チャリダーたちのテントが、暗闇の中に並んでいる。
トラックのエンジン音が続いている。
遠くで、誰かのバイクが走っている。
今夜も日本のどこかで、前へ進もうとしている人間がいる。
自転車で。
トラックで。
原付で。
Move Forward。
本田は目を閉じた。
三本木の夜が、エンジン音と共に更けていった。




