【第十四話:焚き火と履歴書】
千里浜の夜は、静かだった。
波の音が遠くにある。
焚き火の炎が、十人の顔を照らしている。
チャンプがカメラをバッグにしまって、取材用のノートを取り出した。
「せっかく全員揃ったので、改めて皆さんの話を聞かせてください」
誰も反対しなかった。
スタートの佐多岬以来、全員が顔を揃えるのは今夜が初めてだ。
「まず」
チャンプがアプリを見た。
「アプリさん、お久しぶりです。確か耐久レースの時以来でしたよね」
「ああ」
アプリが短く答えた。
「皆さんに自己紹介していただけますか。アプリさんから」
アプリは少し間を置いた。
それから、焚き火を見たまま話し始めた。
「福岡在住。Uberの専業配達員だ。稼げる土地を探して引っ越しを繰り返してる。今は福岡が一番稼げる」
「配達用のバイクは?」
「スズキのハスラー50も持ってる。アプリリアは趣味だ」
「元々はどんなお仕事を?」
「乗馬インストラクター」
焚き火の周りが、少しざわついた。
「馬にも乗れるんですか」
「原付より速い」
誰かが笑った。
「2stへのこだわりは?」
アプリの目が、少し鋭くなった。
「排ガス規制が全部悪い。2stを殺したのは規制だ。あの音と加速は、4stじゃ絶対に出ない。今の日本から2stが消えたのは、文化の損失だ。2stを捨てた人類はいずれ滅びる」
鈴菌が深く頷いていた。
モドキも頷いていた。
*
「次は、くま子さん」
チャンプがくま子を見た。
「くま子さんのモンキー、今大会の目玉ですよね。過給機の」
「くまモン仕様の事たい?」
くま子が当然のように答えた。
「え……あ、はい。そちらも」
チャンプが少し困った顔をした。
過給機の話をするつもりだったのに、くまモンの話になりそうだ。
「うちがくまモングッズを集め始めたのはまだ子供の頃でね」
くま子が嬉しそうに語り始めた。
「自転車屋でくまモン仕様のモンキーを見かけて、親にねだって買ってもらったとよ。でも当時はまだ十四歳やったけん、敷地内でしか乗れなかったんよね」
「それは辛かったですね」
「うん! でも十六歳になった瞬間に免許取って、すぐ公道デビューしたとよ。それからは徐々に距離を伸ばしてって、今では九州一周は何度もしとる」
「今回の大会に出るまでに、すでにそれだけ走っていたんですね」
「うちのモンキーはくまモン仕様なんだから、九州くらいは走らんといかんとよ」
全員が笑った。
「最近ね、実はくまモン仕様ってモンキーだけじゃなくてスーパーカブも当時売られてたって知って、今それを探しとるんよね」
「くまモンカブ!?」
本田が声を上げた。
「そうたい。いつかくまモンカブも手に入れたかけん」
「現在は?」
「熊本の大学生たい。バイトはしてないよ。親が会社をやっとるけんね」
チャンプが「過給機については?」と聞こうとした瞬間、ミーハーが口を開いた。
「あら、私のカワサキだって世界一速いわよ?」
*
「ミーハーさんも自己紹介してください」
チャンプが切り替えた。
「カワサキはね、速さとカッコよさを兼ね備えた唯一のメーカーなのよ」
ミーハーが胸を張った。
「ヤンキー漫画を見てみなさいよ。みんなカワサキでしょ? それが全てを語ってるわ」
「AV50もカワサキですからね」
「当然よ。カワサキのAV50は世界一よ」
鈴菌以外の全員が、どこかで聞いたことのある流れだと思った。
「秋田の大学生で、就活中です。将来やりたいことが特にないので、このままではニートになりそうで」
急に正直になった。
「だから、通学に使ってたこのAV50で出ることにしました。大学入学の時に個人売買で買って、一度も壊れたことがないです」
「それはすごい」
「カワサキだから当然よ」
「旅の資金は?」
「お兄ちゃんが全部出してくれてます」
「お兄さんが!?」
「就活頑張れって。まあ、会社勤めもしたくないんですけど」
チャンプが苦笑した。
「実家は農家なんですけど、就活ダメだったら農業を手伝えって言われてて、それも嫌で」
「農業より就職より、今はレースですね」
「カワサキで走ってる間だけは、全部どうでもよくなるわ」
それは本音だと、全員が感じた。
*
鈴菌が身を乗り出した。
「ミーハー、一つ聞いていいか」
「なに?」
「カワサキはスズキのOEMを使っている部品があるのを知ってるか」
ミーハーが固まった。
「OEM……?」
「他社から部品や製品を供給してもらって、自社ブランドで売ることだ。つまりカワサキの一部はスズキ製ということになる」
ミーハーの顔が、みるみる変わっていった。
「……それは……つまり……」
「スズキがあってこそのカワサキ、という側面がある」
「そんな……嘘……」
「事実だ」
ミーハーが項垂れた。
くま子が「ドンマイたい」と言った。
「では鈴菌さんも」
チャンプがノートを構えた。
「静岡在住。スズキ関連の工場で派遣労働者をしていた。今はちょうど契約期間が終わったので出られた」
「次の仕事は?」
「もう決まってる。スズキ関連だ」
「ガレージには?」
「スズキの車とバイクが詰まってる」
「何台ですか?」
「数えたことがない」
チャンプが「既婚者と伺いましたが」と聞くと、鈴菌が頷いた。
「子供はいない。妻はスズキを理解してくれている」
「素晴らしい奥様ですね」
「スズキを理解できない人間とは生きていけない」
その言葉を聞いて、モト子が思わず口を開いた。
「鈴菌さんでも結婚できたの!?」
*
「モト子さんも聞かせてください」
「あと少しで三十歳なんです」
モト子が焚き火を見つめながら言った。
「職場でお局扱いされる前に、自分から辞めたんです。退職金をこの大会につぎ込みました。後戻りはできないです」
「退職金を全部!?」
「愛知県在住なんですが、愛知って結婚式が派手で豪華なんですよ。だから式のことを考えると焦ってて」
「DT50は?」
「バイク屋さんに『日本縦断できそうな原付ありますか』って聞いて買いました」
アプリと鈴菌とモドキが同時に天を仰いだ。
「自分のバイクがどういうバイクか知ったのはいつですか?」
「皆さんと走り始めてからです。こんなに速いバイクだとは知りませんでした」
「バイクの経験は?」
「元カレの後ろに乗ったことがあります。自分で運転するのはDT50が初めてです」
チャンプが「なるほど」と呟いた。
バイク屋の目利きの話は、ぜひ記事に書きたいと思った。
その時、ミルミルがモト子の隣に座って、そっと手渡した。
「大丈夫よ。こんな私でも結婚できたんだもん」
ソフールだった。
*
「ミルミルさんも聞かせてください」
「子供たちが独立してね、旦那も定年間近で釣りばかりしてて、急に何もすることがなくなっちゃって」
ミルミルが穏やかに話した。
「不幸じゃないんですよ。ただ、することがない毎日に嫌気がさして」
「それでヤクルトレディを?」
「ええ。やってみたら毎日一日中ジャイロに乗ることになって、それがすごく楽しくて。気づいたら、私にも出来ることがあるって思えてきて」
「ジャイロXへの愛着は?」
「仕事で乗ったジャイロが気に入りすぎて、自腹でレジャー用に買いました。職場のは2stで、私のは4stです。どちらも乗ってます」
「両方乗れるんですね」
「ジャイロのことなら任せてください」
ミルミルが少し胸を張った。
「大会に出てから、子供たちと旦那から毎日応援のLINEが来るようになりました。今まで家族の中で見えない存在みたいだったのに」
焚き火の周りが、少しだけ静かになった。
「群馬県在住です。よろしくお願いします」
*
「Vタックさんも」
「定年退職してな、急に毎日が空っぽになった」
Vタックさんが、日本酒を一口飲んで続けた。
「このビートを買ったのは三十年前だ。新車で買って、ずっと乗り続けてきた。近場しか走ったことがなかったが、このバイクでどこまで行けるか試してみたくなった」
「まさかここまで来れるとは思っていなかった?」
「思っていなかった。毎日、走行距離計を見て驚いてる。三重県からここまで来たのかって」
Vタックさんが静かに笑った。
「モト子さん」
Vタックさんがモト子を見た。
「大会が終わったら、息子を紹介しようか。まだ独身で」
モト子の目が輝いた。
「ぜひ!!」
全員が笑った。
*
「モドキさんも」
「東京在住、現在失業中の二十代です」
モドキがメイトのタンクを撫でながら言った。
「このメイト、高校卒業してからずっと乗ってます。最初は通勤用だったんですけど、休日に少しずつ遠くへ行くようになって、今では北関東あたりまでソロツーリングするようになりました」
「ビジネスバイクなのに二ストというのが?」
「四ストの代名詞みたいなカブに対抗したくて」
本田が少し苦笑した。
「実はこの大会で、メイトのオドメーターが四周しました」
モドキが嬉しそうに言った。
「四周!?」
全員がメイトを見た。
モドキが液晶を全員に向けた。
「一周九万九千九百九十九キロです。それが四回転した」
「四十万キロ近く走ってるってこと?」
「そうです」
チャンプが思わず立ち上がった。
「それは記事になります。絶対に記事になります」
本田とモト子がオドメーターを覗き込んでいた。
「オドメーターって、一周するんですか?」
「する」
鈴菌が答えた。
「九万九千九百九十九を超えるとゼロに戻る。二周目のバイクはざらにある」
「四周は?」
「ほとんどない」
アプリが静かに言った。
「2stは整備さえ完璧なら百年乗れる。それがこのメイトが証明してる」
「そうだそうだ」
モドキが頷いた。
「カブに負けてられない」
本田は笑いながら、自分のカブを見た。
三十年前のプレスカブ。
まだまだ走れそうだ。
*
「最後に本田くん」
全員の目が、本田に向いた。
本田は少し、焚き火を見た。
それから話し始めた。
「学校が嫌いで、辞めました。親とも疎遠になって、新聞配達をしながら毎日同じことを繰り返してました」
誰も笑わなかった。
「あるとき、Twitterでロリさんの投稿を見て、このレースを知りました。同じ職場の田辺さんという先輩が、背中を押してくれました。原付で海を越えられるって、知らなかったので」
「今は?」
チャンプが静かに聞いた。
「今は……生まれてきて良かったと思ってます」
全員が、本田を見た。
「アプリさんから教わった言葉なんですけど」
本田が続けた。
「伊根の舟屋で、アプリさんが言ってくれたんです。生まれてきて良かったなって思うことが何べんかある、そのために人間生きてんじゃねえかって。その言葉が、ずっと頭に残ってます」
「ほう」
チャンプが頷いた。
「それは良い言葉ですね。アプリさんの言葉ですか?」
「アプリさんが伊根で言ってくれた言葉です」
チャンプが少し考えた顔をした。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……あの、その言葉、もしかして」
モドキが先に言った。
「寅さんだよな?」
「あ、知ってる」
Vタックさんが頷いた。
「男はつらいよの名言ですね」
ミルミルが言った。
「第三十九作だったかしら」
本田が固まった。
アプリを見た。
アプリの顔が、真っ赤だった。
焚き火のせいだけではなかった。
「……アプリさん」
「…………」
「あれ、アプリさんの言葉じゃなかったんですか?」
「…………」
「アプリさん?」
「映画のセリフだ」
絞り出すように言った。
一瞬の沈黙の後、焚き火の周りで笑いが弾けた。
モドキが腹を抱えた。
くま子が「やっぱりな!」と叫んだ。
ミーハーが「セリフをパクったの!?」と言った。
鈴菌が珍しく声を上げて笑った。
アプリが顔を逸らした。
首のあたりまで赤くなっていた。
本田は笑いながら、でも思った。
映画のセリフでも、構わない。
伊根の舟屋で、あの景色の前で、アプリが自分に言ってくれた。
それは本当のことだ。
どんなセリフを借りていても、あの瞬間は本物だった。
だから、大切に持っていく。
*
「ところで」
笑いが落ち着いた頃、チャンプが言った。
「ロリさんがいたら全員集合だったのにね」
「全員?」
本田が首を傾げた。
「うん。生き残り全員」
「生き残り?」
くま子が聞いた。
「えっ……まさか皆さん、運営の情報を確認してないんですか?」
チャンプが少し驚いた顔をした。
「今、まだ走ってるのはここにいる十人と、ロリさんを合わせた十一人だけだよ。もう十七人はリタイアしてる」
焚き火の周りが、静かになった。
「まさか」
本田が言った。
「二十八人もいたのに?」
「そうだよ。残り十一人」
「耐久レースなんてそんなもんだ」
アプリが静かに言った。
「全員が完走できるわけない」
「原付ってのはもともと半径五キロ程度で設計されてるからな」
鈴菌が続けた。
「だからどの原付も燃料タンクは五リットル以内だろ。それで日本縦断をしようってんだから、そもそも無理がある」
「まあ、それほど過酷なチャレンジだってことだ」
モドキが言った。
「だからこそ挑む価値がある」
「私のDT50は大丈夫?」
モト子が不安そうに聞いた。
「だから優勝候補だって言ってるだろ」
アプリと鈴菌とモドキが声を揃えた。
「良かったあ」
「kawasakiには勝てないけどね」
ミーハーが言った。
「ジャイロも壊れないわよ」
ミルミルが続けた。
「ビートも三十年以上走っとる」
Vタックさんが言った。
「私のペリカンジョグも三十年以上ですよ」
チャンプが言った。
「僕のカブもそうです」
本田が言った。
全員がくま子を見た。
「うちのモンキーはまだ若かよ! でも、古かだけん、みんなのバイクはむぞなかなかもん! まあ、うちのモンキーの方がしゅっとしてカッコよかけどね!」
また笑いが起きた。
*
ミーハーがバッグを漁り始めた。
コーヒーの道具を取り出した。
「珠洲市で買ったのよ。二三味コーヒー」
豆を挽き始めた。
コーヒーの香りが、焚き火の煙に混ざって広がっていく。
「ミーハーさん、コーヒー豆まで持ってるんですか」
「当然よ。カワサキ乗りはコーヒーにもこだわるの」
「そういうものですか」
ドリップした一杯を、全員に配り始めた。
千里浜の夜の空気の中で、コーヒーの湯気が立ち上る。
「ところで」
ミーハーがドリップしながら言った。
「私、新潟から小樽までフェリーに乗ろうと思ってるんだけど」
「え、東北は走らないんですか?」
「秋田在住だから東北は走り慣れてて。今更走っても楽しくないのよ」
本田が、ぱっと思い出した。
「あ! ちょっと待ってください!」
バッグからメモ帳を取り出した。
愛媛からのフェリーの中で、ロリに予測してもらったペナルティタイムのメモだ。
「ロリさんがペナルティタイムを計算してくれたんです。新潟から小樽は、長くても六十時間のペナルティだって」
「六十時間!?」
「はい。小樽で六十時間あれば色々楽しめますよね、って」
ミーハーが微笑んだ。
「小樽で六十時間、か。楽しそうね」
コーヒーの香りが、夜の砂浜に広がっていく。
波の音が続いている。
炎が揺れている。
十人が、焚き火を囲んでいる。
それぞれがバラバラで、それぞれが全然違う人間で、それぞれが全然違うバイクに乗っていて。
でも今夜、同じ砂浜にいる。
本田はコーヒーを一口飲んだ。
旨かった。
珠洲の豆の、深い味がした。
関東のどこかを、ロリが走っている。
今夜も、誰かのバイクがどこかで動いている。
千里浜の夜は、まだ続いていた。




