【第十二話:最強の弱点】
ボーダーを出たのは、十時だった。
アプリリアとプレスカブが、並んで京都市内を走る。
昨夜、ボーダーで一緒だったライダーたちとはLINEを交換した。
北海道から来た人、九州から来た人、東北から来た人。
本田のスマホの連絡先に、一晩で十人近く増えた。
鹿児島を出た時、旅人の知り合いはゼロだった。
今は、日本中に知り合いがいる。
(旅って、こういうことか)
信号待ちで、そんなことを思った。
*
琵琶湖大橋が見えてきた。
全長一・四キロ。
琵琶湖を横断する、大きな橋だ。
料金所がある。
原付は七十円だ。
本田が先に料金所へ向かった。
七十円を料金箱に入れる。
係員のおじさんが、軽く頷いた。
あっさり通れた。
本田は橋の入口で止まって、アプリを待った。
アプリが料金所へ向かった。
財布から小銭を取り出している。
係員のおじさんが、アプリリアを見た。
止まった。
おじさんの目が、アプリリアの車体をゆっくりと上から下まで見た。
それから、アプリを見た。
それから、またアプリリアを見た。
「……これ、原付ですか?」
本田には、その声が聞こえた。
アプリが頷いた。
「原付です。五十ccです」
「いや、でも……」
おじさんが首を傾げた。
「これは……原付には見えないんですが」
「原付です」
「でも、こんな形の原付は……」
「アプリリアRS50です。イタリア製の原付です」
おじさんが腕を組んだ。
本田は橋の入口から、その様子を眺めていた。
なんか、始まった。
そう思った。
「お客さん、これは自動二輪じゃないですか?」
「原付です」
「でも見た目が……」
「五十ccです。原付一種です」
「うーん……」
おじさんが無線機を取り出した。
何かを話している。
アプリは動かない。
表情も変わらない。
でも、耳のあたりが、少し赤くなっている気がした。
別の係員が来た。
二人でアプリリアを見ている。
話し合っている。
本田はプレスカブのエンジンを切った。
これは、時間がかかる。
*
五分が経った。
係員が二人から三人になっていた。
全員でアプリリアを囲んでいる。
アプリが何度目かの「原付です」を言っている。
十分が経った。
本田はカブを押して、料金所の脇まで戻ってきた。
「アプリさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない」
アプリが低い声で言った。
耳だけじゃなく、首のあたりまで赤くなっていた。
「こういうの、初めてですか?」
アプリが少し黙った。
「……二回目だ」
「え?」
「関門海峡でも同じことを言われた」
本田は目を丸くした。
「関門海峡でも!?」
「受付のじじいが信じなくてな。五十分かかった」
「五十分!?」
「最終的には通したけどな。一番最後に」
本田は状況を整理した。
関門海峡で五十分の押し問答。
今また、琵琶湖大橋で同じことが起きている。
アプリリアRS50。
このレースで最速のバイク。
しかし、どこへ行っても原付に見えない。
これが、最強の弱点だった。
「アプリさん……それ、これからも起きますよね?」
「わかってる」
アプリの声が、さらに低くなった。
係員たちがまだ話し合っている。
一人がスマホで何かを調べている。
アプリリアRS50を検索しているのかもしれない。
本田は自分のスマホを取り出した。
原付キャノンボールランのHPを開いた。
参加者プロフィールのページ。
アプリの名前がある。
アプリリアRS50の写真がある。
排気量、五十cc。
原付一種、と書いてある。
「あの、これ見せていいですか?」
本田が係員のおじさんに歩み寄った。
スマホを差し出した。
「これ、日本縦断レースのサイトなんですけど。このバイク、ここに載ってます。原付一種、五十ccって書いてあります」
おじさんがスマホを覗き込んだ。
もう一人も覗き込んだ。
「……ほんとだ」
「イタリアの原付なんですね」
「はあ……そういうものがあるんですね」
おじさんが、アプリを見た。
「失礼しました。どうぞ」
アプリが無言で七十円を料金箱に入れた。
係員たちが道を開けた。
本田とアプリが、並んで橋に入った。
*
橋の上に出た瞬間、琵琶湖が広がった。
でかい。
海みたいだ。
対岸が霞んで見える。
本田は笑いが込み上げてきた。
堪えようとしたが、無理だった。
「ぷっ……」
「笑うな」
アプリが前を向いたまま言った。
「すみません……でも」
「笑うな」
「関門海峡で五十分って……」
「笑うなと言ってる」
「今日は二十分で済みましたね」
「お前のおかげだ」
アプリが、ぼそっと言った。
感謝なのか、悔しいのか、よくわからない言い方だった。
本田はもう一度、笑いを堪えた。
でも、琵琶湖の風が気持ちよくて、笑いが止まらなかった。
アプリリアRS50が、橋の上を走っていく。
最速の原付が、最大の弱点を抱えて、琵琶湖大橋を渡っていく。
本田は思った。
完璧なものなんて、どこにもない。
プレスカブは遅い。
アプリリアは原付に見えない。
それでも、どちらも確かに前へ進んでいる。
*
橋を渡りきって、湖岸の道を走った。
ライダーズカフェ222は、琵琶湖の湖畔にあった。
バイクが何台も止まっている。
ライダーが集まる場所だということは、一目でわかった。
「琵琶湖って、ライダーが多いんですね」
「関西のライダーの聖地みたいなもんだ」
アプリが答えた。
カフェの中に入ると、壁にバイクの写真が貼ってある。
カウンターに座ったライダーたちが、思い思いに話している。
ここも、旅人が集まる場所だった。
アプリがまた迷わず注文した。
本田の分も頼んでいる。
「またご馳走になってしまう」
「気にするな」
「でも、昨日からずっと……」
「寅さんもいつもこうするんだ…」
アプリが、珍しく少し照れたような顔をした。
本田は意味がわからなかったが、なんとなく頷いた。
湖を眺めながら、料理を食べた。
琵琶湖が、昼の光を受けて輝いている。
風が吹くと、湖面が揺れる。
「琵琶湖、来るつもりなかったんですよ、実は」
「そうか」
「でも、来てよかったです」
アプリは何も言わなかった。
ただ、湖を見ていた。
*
222を出て、メタセコイア並木へ向かった。
マキノ高原の道に入った瞬間、視界が変わった。
両側に、高い木が並んでいる。
メタセコイアの並木が、二・四キロにわたって続いている。
空が、木のトンネルになっている。
「すごい……」
本田は思わずカブを止めた。
写真を撮った。
ロリに送った。
すぐに返信が来た。
『どこ?きれい』
『滋賀。琵琶湖のあたり』
『うらやましい。こっちは今、峠』
本田は笑った。
ロリは今日も、どこかの峠にいる。
アプリが並木の中をゆっくりと走っている。
最速の男が、メタセコイアの並木道をゆっくり走っている。
なんか、いい絵だと思った。
*
並木道を抜けた先の交差点で、二台は止まった。
ここで別れる時間だ。
アプリは次の聖地巡礼へ。
本田は鯖街道、国道367号線を北へ向かう。
「アプリさん」
「なんだ」
「昨日から、ありがとうございました。ボーダーも、チロルも、ここも」
アプリは少し間を置いた。
「料金所、助かった」
それだけだった。
でも、アプリにしては長い言葉だった。
「また、どこかで」
「ああ」
アプリが左手を上げた。
二本指。
Two-finger salute。
本田も左手を上げた。
アプリリアRS50が走り出した。
甲高い二ストの音が、遠ざかっていく。
あっという間に、見えなくなった。
さすがに速い。
本田は国道367号線へ向かった。
鯖街道だ。
かつて若狭の海でとれた鯖を、京都へ運んだ道だ。
山の中を、川沿いに走る。
木漏れ日が、路面に模様を作っている。
気持ちのいい道だった。
*
国道303号線へ入り、小浜市へ向かった。
十五時半。
小浜市三丁町を通過した。
古い街並みが続く。
かつての鯖街道の終点だった町だ。
若狭和田海水浴場に着いたのは、夕暮れ前だった。
砂浜に、人はいなかった。
シーズンが終わった海水浴場は、静かだった。
テントを張って、買い物に出た。
近くの平和堂で、夕飯を選んだ。
サラダパン。
滋賀から福井にかけての名物らしい。
コッペパンの中に、マヨネーズで和えた千切り沢庵が入っている。
見た目が独特だったが、手に取った。
それから、関西風の赤いきつね。
カップの色が、鹿児島で見たものと違う。
関西は赤いきつねの出汁が違うと、どこかで聞いたことがあった。
砂浜に戻って、ガスバーナーでお湯を沸かした。
赤いきつねに注いで、数分待つ。
サラダパンを一口食べた。
沢庵のしゃきしゃきとした食感がある。
マヨネーズと沢庵。
不思議な組み合わせだが、旨い。
これが名物になるのがわかる味だった。
赤いきつねを一口すすった。
出汁が、関東のものより優しい。
昆布の香りがする。
同じ商品なのに、こんなに違うのか。
「……うまい」
誰もいない砂浜で、独り言を言った。
昨日はカツカレーを奢ってもらった。
222でもご馳走になった。
今日の夕飯は、サラダパンと赤いきつね。
でも、不満は一切なかった。
むしろ、これが旅の本当の飯だと思った。
波が、繰り返している。
夕日が、日本海に沈んでいく。
アプリのことを思った。
ライダーハウスボーダーの店主のことを思った。
蘭のことを思った。
生まれてきて良かったなって思うことが何べんかあるじゃない。
そのために人間生きてんじゃねえか。
今日も、そう思った。
テントの中に潜り込んだ。
寝袋を引き寄せた。
若狭の波の音が、すぐそこにある。
本田は目を閉じた。
若狭和田の夜が、静かに始まっていた。




