【第十一話:若さとは、振り向かない事】
目が覚めると、木の天井があった。
一瞬、ここがどこかわからなかった。
でも、すぐに思い出した。
京都。
二条城の近く。
ライダーハウスボーダー。
隣のベッドはもう空になっていた。
早立ちのライダーが多い。
みんな、今日も走る場所がある。
起き上がると、アプリが入口の壁に寄りかかって立っていた。
「起きたか」
「おはようございます」
「飯食いに行くぞ」
*
ボーダーから歩いてすぐの場所に、喫茶チロルはあった。
古い喫茶店だ。
扉を開けると、コーヒーの匂いがした。
落ち着いた、年季の入った内装だ。
アプリが迷わずカウンターへ座った。
常連の座り方だった。
「カツカレー、二つ」
本田はメニューを見た。
朝からカツカレー。
「朝からカツカレーですか?」
「京都の喫茶店の朝飯はカツカレーだ。文句あるか」
「ないです」
しばらくすると、カツカレーが運ばれてきた。
朝から、本格的なカレーの匂いが漂う。
カツが、どっしりと乗っている。
一口食べた。
「……うまい」
「そうだろう」
アプリがまたドヤ顔をした。
昨日のポプ弁の鈴菌と、同じ顔をしている。
旅の先輩たちは、みんなこの顔が好きらしい。
その時、扉が開いた。
昨夜ボーダーで一緒だったライダーが、二人入ってきた。
「おう、ここにいたか」
「チロル来たか、正解だ」
ライダーたちがカウンターに並んで座った。
同じようにカツカレーを頼んでいる。
旅人たちの朝が、喫茶チロルに集まっていた。
本田はその光景を見渡した。
鹿児島の朝は、一人で新聞を配っていた。
でも今は、こんな朝がある。
*
チロルを出て、二人で二条城へ向かった。
アプリはチェックポイント提出用の写真を撮って、さっさとスマホをしまった。
「もう何度も来てる。先に戻ってる」
「わかりました」
アプリが踵を返して歩いていく。
本田は一人で二条城の中へ入った。
二の丸御殿。
鶯張りの廊下を歩くと、足元がキュッキュッと鳴く。
将軍の身を守るために、わざと音が鳴るように作られた廊下だ。
何百年も前に、この床の上を歴史の人間たちが歩いた。
本田もその上を歩いている。
なんか、すごいことだと思った。
庭園を一周して、駐車場へ戻ってきた。
プレスカブが、観光バスの脇に小さく止まっている。
ステッカーだらけのレッグシールドが、朝の光に光っている。
本田はカブに近づいた。
跨がろうとした。
その時だった。
「……本田くん?」
女性の声だった。
聞き覚えのある声だった。
本田は手を止めた。
振り返った。
制服を着た女生徒が、目を丸くしてこちらを見ていた。
その後ろに、同じ制服のクラスメイトが何人もいる。
蘭だった。
中学から同じで、高校でもクラスが同じだった。
本田が高校を辞めるまで、席が隣だった。
「蘭か。あれ、修学旅行?」
「う、うん……修学旅行だよ」
蘭の目が、本田からプレスカブへ、またプレスカブから本田へ動いた。
「本田くんは……なんでこんなところに?」
周りのクラスメイトたちも気づき始めていた。
ざわめきが広がっていく。
「あれ、本田じゃね?」
「え、なんでいるの?」
「修学旅行来てるの?でも制服じゃないし……」
本田は少し笑った。
「これで来たんだ」
プレスカブを指した。
「鹿児島から走ってきて、これから北海道の宗谷岬まで行くんだ」
蘭が固まった。
周りも固まった。
「え……」
「嘘……」
「原付で?」
蘭がもう一度、プレスカブを見た。
ステッカーが貼られたレッグシールド。
荷物が積まれたキャリア。
旅の汚れが残った車体。
「えっ……そのスクーターで? 嘘……だよね……?」
本田はスマホを取り出した。
原付キャノンボールランのHPを開いた。
参加者プロフィールのページに、自分の名前がある。
プレスカブの写真がある。
「これ、俺のプロフィール。日本縦断レースに出てるんだ」
蘭がスマホを覗き込んだ。
周りのクラスメイトも、首を伸ばして見ている。
「行けるかどうかはわからない。でも、前へ進むよ。ここまで来れたんだもん」
本田はスマホをポケットにしまった。
プレスカブに跨がった。
キックを踏んだ。
一発でかかった。
エンジン音が、駐車場に響く。
観光バスのエンジン音とは違う、小さくて、でも確かな音だ。
蘭が何か言おうとしていた。
でも言葉が出てこないようだった。
本田はニコッと笑った。
それだけだった。
それで十分だった。
プレスカブがゆっくりと動き出した。
駐車場を出て、国道へ合流する。
振り返らなかった。
*
かつてのクラスメイトたちは、しばらく動けなかった。
あの本田くんが。
いつも隅の方にいた、目立たない本田くんが。
高校を辞めて、新聞配達をしていた本田くんが。
ステッカーだらけの原付で、鹿児島から京都まで走ってきた。
これから北海道まで行くと、笑って言った。
そして、振り返らずに走り去った。
先生とバスガイドに促されて、クラスメイトたちは二条城へと消えていった。
蘭だけが、もう少しだけ、その場に立っていた。
プレスカブが走り去った方向を、見ていた。
*
ボーダーへ戻ると、アプリが荷造りをしていた。
本田も自分の荷物をまとめ始めた。
寝袋を丸める。
着替えをバッグに詰める。
カブのキャリアに積み直す。
しばらく無言で荷造りをしていると、アプリが静かに言った。
「なんかあったのか?」
「え?」
本田は手を止めた。
「何故ですか?」
アプリが本田を見た。
何かを確認するような目だった。
本田の顔を見た。
立ち方を見た。
荷造りの手つきを見た。
「……いや、なんでもない。気のせいだった」
アプリは視線を荷物に戻した。
本田は少し首を傾けた。
でも、聞き返さなかった。
荷造りを続けた。
カブのエンジンをかけた。
一発でかかった。
アプリリアとプレスカブが、ボーダーの駐車場を出た。
二台並んで、琵琶湖を目指す。
京都の朝の空気が、頬に当たった。
本田は前を見ていた。
ただ、前を見ていた。




