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【第十話:生まれて良かった!】

 鳥取砂丘を出て、日本海沿いを西へ向かった。



 夕暮れの海が、オレンジに染まっていく。


 風が強い。


 ハンドルを取られないように、体で受ける。



 舞鶴の前島みなと公園に着いたのは、夜だった。


 港の見える静かな公園だ。


 テントを張って、寝袋に潜り込んだ。


 波の音が、子守唄になった。



   *



 翌朝七時。


 国道178号線を東へ向かった。



 伊根の舟屋まで、六十三キロ。


 朝の海沿いの道を、プレスカブがトコトコと走る。


 山と海が交互に現れる、変化のある道だ。


 朝霧が、山の稜線を覆っている。



 九時。


 伊根湾が見えてきた。



「……なんだここ」



 思わず声が出た。



 海に、家が並んでいる。


 正確には、海の上に家が建っている。


 一階部分が船のガレージになっていて、そのまま海に繋がっている。


 舟屋だ。


 江戸時代から続く、伊根の漁師たちの家だ。



 停まって、しばらく眺めた。


 こんな場所が日本にあるとは知らなかった。


 同じ国の中に、全然違う世界がある。



 漁港の方へ歩いていくと、活気のある声が聞こえてきた。


 水揚げの時間だ。


 漁師たちが魚を運んでいる。


 大きな声で、何かを叫び合っている。



 そして、本田は気づいた。



 漁師の多くが、カブに乗っている。


 荷台に魚箱を積んで、港の中をトコトコと走り回っている。


 色も年式もバラバラのカブが、漁港を縦横に走り回っている。



(カブって、こういう場所でも走ってるんだ)



 農道でも、新聞配達でも、漁港でも。


 プレスカブは、日本のあらゆる場所で走り続けている。


 自分のカブが、少し誇らしくなった。



   *



 その時だった。



 派手な赤いバイクが、本田の横に近づいてきた。


 アプリリアRS50。


 間違いない。



「よお」



 ヘルメットを脱いだのは、アプリだった。



「アプリさん!!」



 本田は思わず叫んだ。



「どうしてこんなところに!? アプリさん、もう北海道に着いてるかと思ってました」



 アプリは少し遠くを見た。


 それから、ぶっきらぼうに言った。



「男はつらいよだな」



 本田は首を傾げた。



「え?」



「男はつらいよ」



「……アプリさん、今、つらいんですか?」



 本田は真剣な顔になった。



「疲労ですか?それとも精神的な……?ちゃんと寝てますか?食べてますか?」



 アプリが固まった。



「違う」



「違うって、でも今、つらいって」



「映画だ」



「映画?」



「男はつらいよ、っていう映画のタイトルだ。知らないのか」



 本田は正直に首を振った。



「聞いたことないです」



 アプリが、少し天を仰いだ。


 それから、丁寧に説明し始めた。



「寅さんっていう男が主人公の映画シリーズだ。昭和から平成にかけて、四十八作も作られた。全国を旅して回る、フーテンの男の話だ」



「四十八作!?」



「ここ伊根も、ロケ地の一つだ。だから来た」



 本田はようやく理解した。


 アプリは聖地巡礼をしていたのだ。


 日本縦断レースの最中に。



「アプリさんって、寅さんが好きなんですか?」



「ああ」



 それだけだった。


 でも、その一言には、確かな重みがあった。



   *



 二人で、伊根の舟屋の街を走った。


 アプリリアとプレスカブが、細い路地を並んで進む。


 海沿いの道を、ゆっくりと走る。


 急ぐ必要はなかった。


 というか、急げない道だった。



 舟屋を見渡せる高台へ上がった。


 眼下に、伊根湾が広がっている。


 舟屋が並んでいる。


 漁港が見える。


 カブが走り回っている。


 その全部が、穏やかな朝の光の中にある。



 本田はしばらく、その景色を見ていた。



「こんなに狭い街で、何十年も変わらずに生活をしてる人もいるんですね……」



 ぽつりと呟いた。



 アプリが、景色を見たまま静かに言った。



「あぁ、生まれてきて良かったなって思うことが何べんかあるじゃない。そのために人間生きてんじゃねえか」



 本田は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が震えた。



 鹿児島を出た朝。


 田辺さんのカブ。


ロリに教えられて初めて乗ったフェリー。


 しまなみ海道の橋の上。


 くま子と並んで見た厳島神社の鳥居。




 全部、生まれてきて良かったと思った瞬間だった。


 それを、アプリが言葉にしてくれた。



 本田はアプリを見た。


 キラキラした目で、まっすぐ見た。



「アプリさん……すごい言葉ですね。それ、アプリさんの言葉ですか?」



 アプリは少し困った顔をした。



(言えない)



 映画の中の寅さんの名セリフだとは、今更言えなかった。


 こんな目で見られたら、言えるわけがなかった。



「……まあ」



 アプリは目を逸らした。



 本田はそれを肯定と受け取った。


 アプリへの尊敬が、また一段上がった。



 アプリは舌打ちをしたいのを、堪えた。



   *



「今夜、いい宿知ってるか?」



 アプリが唐突に言った。



「野宿しようと思ってたんですけど」



「奢ってやる。ついてこい」



「え?」



「いいから」



 アプリが走り出した。


 本田は慌てて後を追った。



 国道178号線から府道へ。


 山を越えて、京都市内へ入っていく。


 百二十キロほどの道のりを、アプリリアとプレスカブが並んで走った。



 夕方、京都市内に入った。


 観光客が多い。


 修学旅行生も多い。


 その中を、二台の原付が走り抜ける。



 二条城の近くで、アプリが止まった。



 古い建物だった。


 看板に「田中米穀店」と書いてある。


 そして、小さく「ライダーハウスボーダー」とも書いてある。



「ライダーハウス?」



「ライダー専用の簡易宿だ」



 アプリがドアを開けた。


 本田もついて入った。



 店主が出てきた。


 六十代くらいの男性だ。


 アプリの顔を見て、顔がほころんだ。



「おう、アプリ! 久しぶりだな」



「また来ました。今日は連れがいます」



「いらっしゃい。初めてか?」



 店主が本田に聞いた。



「はい。ライダーハウスに来るのは初めてです」



「そうか。じゃあ色々教えてやる。一泊二千五百円だ。まずは上がれ」



   *



 店主から聞いた話は、本田には全部が新鮮だった。



 日本全国に、ライダーハウスがある。


 無料の宿もある。


 ライダー専用の炊事場があって、風呂があって、布団がある。


 旅人が旅人を助ける、そういう文化がある。



「このボーダーはな」



 店主が静かに言った。



「息子が三十歳で逝ったんだ。バイクが好きな子でな。全国からライダーが集まるようにって、女房と二人で始めた」



 本田は言葉が出なかった。



「だから、ここに来るライダーは全員、息子の仲間だと思ってる。ゆっくりしていけ」



 アプリが黙って、店主に頭を下げた。


 本田も、深く頭を下げた。



 店主がライダーハウスのマナーを教えてくれた。


 布団は使ったら必ずしまうこと。


 無料宿でもコインシャワーやコインランドリーは必ず使ってお金を落とすこと。


 夜のBBQや飲み会には五百円くらいカンパすること。



「旅人は旅人同士で助け合う。それだけ守れば、どこへ行っても歓迎される」



 本田は全部、頭に刻んだ。


 これは、鹿児島の学校では教えてもらえないことだった。



   *



 夜になると、他のライダーたちが集まってきた。


 北海道から来た人。


 九州から来た人。


 それぞれの旅の話が、飛び交う。



 飲み会が始まった。


 アプリが五百円をカンパした。


 本田は未成年なので、カンパはしなくていいと言われた。


 ジュースとお菓子で参加した。



 ライダーたちの話は、尽きなかった。


 どの峠が良かった。


 どの道の駅で野宿した。


 どこのラーメンが旨かった。


 どこで道に迷った。



 本田は聞いているだけで、十分だった。


 自分と同じように、日本中を走っている人間がこんなにいる。


 みんな、何かを探して走っている。



 アプリは少し離れた場所で、静かにビールを飲んでいた。


 他のライダーと話すでもなく、でも場の空気を壊すでもなく、ただそこにいた。



 本田はアプリを見た。


 さっきの言葉が、また頭に蘇った。



 生まれてきて良かったなって思うことが何べんかあるじゃない。


 そのために人間生きてんじゃねえか。



(今夜も、そう思う)



 ジュースを一口飲んだ。


 お菓子を一口食べた。


 ライダーたちの笑い声が、部屋に満ちていた。



   *



 二十二時を過ぎると、ライダーたちが一人、また一人とベッドルームへ消えていった。


 明日も走る人間は、早く眠る。



 本田も寝袋に潜り込んだ。


 天井を見た。


 木の天井だ。


 古い建物の、温かい天井だ。



 三十歳で逝った息子さんが、バイク好きだった。


 その親が、ライダーのために宿を開いた。


 全国からライダーが集まるように。



 今夜、自分はここにいる。


 鹿児島から走ってきた十七歳が、京都の二条城の近くのライダーハウスで眠ろうとしている。



(生まれてきて良かった)



 また、そう思った。


 アプリの言葉が、寝袋の中で温かくなった。



 本田は目を閉じた。


 京都の夜が、静かに更けていった。




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