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【プロローグ:三〇キロメートルの境界線】

チート能力なし。異世界なし。あるのは1990年製のプレスカブと30km制限だけ。

午前三時。


 鹿児島の街は、まだ深い群青色の底に沈んでいる。


 ビルの窓明かりは消え、コンビニの看板だけが白々と浮かんで、それ以外に動くものは何もない。


 この時間、世界に存在しているのは僕と、街灯の頼りない光と、そして相棒の排気音だけだ。



 トコトコトコ……。



 一九九〇年製のホンダ・プレスカブ。


 僕が生まれるずっと前からこの街の朝を走ってきた、泥除けに「〇〇新聞」の文字がうっすら残るお下がりだ。


 フロントキャリアの塗装は剥げ、ハンドルカバーはボロボロで、サスペンションはとっくにヘタりきっている。


 段差を越えるたびに、容赦なく僕の体を突き上げてくる。


 それでも、エンジンだけは一発でかかる。


 ポンコツなのに、妙に律儀なやつだ。



 これが僕の全財産であり、唯一の居場所だった。



「……よし、あと十部」



 自分に言い聞かせるように呟いて、フロントキャリアに積まれた朝刊の束に手を伸ばす。


 ずっしりとした重さが、掌に馴染んでいる。


 高校を辞めたあの日から、僕の日常はスマホの時計と、このカブのステップの間だけに収まってしまった。



 ポストに新聞を差し込む。


 次の家へ移動する。


 また差し込む。


 また移動する。



 それだけだ。


 それだけの日々が、もう一年以上続いている。



 教室という名の檻の中にいた頃、僕はいつも笑いものだった。


 別に、大したことじゃない。


 よくある話だ。


 だから余計に、誰にも言えなかった。



 ある朝、もう行けないと思った。


 理由なんてうまく言葉にできなかったけど、体が動かなかった。


 それきりだ。



 学校を辞めて、バイトを探して、たまたまこの販売店に拾ってもらった。


 住み込みで、飯付きで、カブ付きで。


 今思えば、あの時点で僕の世界は三〇キロ制限になったんだと思う。



 あいつらの顔を思い出さないように、僕はスロットルを回す。


 トコトコと、おとなしく、まじめに、夜の街を走る。


 追い越されても、煽られても、ただ走る。



 その時だった。



 ふと、昨日スマートフォンで見たタイムラインの残像が脳裏をかすめた。



『日本縦断レース、原付キャノンボールラン。鹿児島・佐多岬から北海道・宗谷岬まで、最短最速を競う。出場者募集――』



 日本一周をしているというライダーのアカウントが、熱っぽくリポストしていた投稿だ。


 写真には、宗谷岬の標柱が映っていた。


 最果て、という言葉がぴったりくる、荒涼とした風景だった。



 原付、つまり五〇cc。


 僕が今跨っている、この制限速度三〇キロの「働くバイク」で、日本を端から端まで走り抜けるという。



「……できるわけないよな」



 思わず声に出していた。


 周りに誰もいなくてよかった。



「こんな、新聞配達用のボロカブで」



 僕は手を止めて、自分のカブをまじまじと見つめた。


 ハンドルカバーのほつれ。


 サビが浮きかけたチェーンカバー。


 泥で汚れたタイヤ。


 どこからどう見ても、レースに出るような代物じゃない。



 宗谷岬まで、ここから二〇〇〇キロ以上あるはずだ。


 三〇キロ制限。二段階右折。バイパス進入禁止。


 高速道路には乗れない。幹線道路を延々と走るしかない。


 原付なんて、所詮は街の隙間を縫うためだけの道具だ。



 日常の「外」へなんて、行けるはずがない。



 ……だけど。



 ポストの奥に新聞を放り込んで、カブのキックを踏む。


 一発で目覚める単気筒エンジンの鼓動が、足の裏を通して心臓を叩く。



 トコトコトコ……。



 変わらない音だ。


 毎朝聞いている、変わらない音。


 でも今夜は、なぜかその音が少しだけ違って聞こえた。



「……確かめてみたい気もするな」



 誰にでもなく、呟く。



「こいつで、どこまで行けるのか。この日常の『外』には、何があるのか」



 空の端が、ほんの少しだけ白み始めていた。


 夜明けだ。


 また、いつもと同じ夜明けだ。



 他人事だ。


 僕のような、学校も居場所も失ったような人間には、そんな華やかなレースなんて縁がない。


 どうせ参加費もかかるだろうし、装備だって要るだろうし、そもそもこのカブじゃ話にならない。


 言い訳は、いくらでも出てくる。



 そう自分に言い聞かせながら、僕は今日最後の新聞を掴んだ。



 だけど。



 胸の奥で燻り始めた小さな火種は、三〇キロのスピードでは振り切ることができなかった。




プレスカブ

型式A-C50

空冷4st単気筒OHC(2バルブ)

排気量49cc

最高出力4.5ps/7000rpm

最大トルク0.52・m/4500rpm

変速機3段リターン

燃料供給方式キャブレター

始動方式キック式

ブレーキ前後ドラムブレーキ(プレスカブ専用大経仕様)


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