最終話「明日は絶対勝つぞ」
それから、どれだけの時間が過ぎただろう。
旅館の古い掛け時計は相変わらず十時を指したままだった。
窓の外の月は微動だにせず、まるで世界が静止してしまったかのようだった。
だが、妙なことに、もう恐怖は感じなかった。
重く覆いかぶさっていた恐怖の影が、少しずつ薄れていくようだった。
「なあ……もう俺、甲子園いいかもしれねえ」
キャプテンの声が静かに響いた。
その顔は、どこか穏やかで、疲れきったようにも見えた。
「そうだな…俺たち、もう本当に死んじまったんだしな……悔しいけど」
周りの誰もが、ゆっくりとうなずいた。
泣き腫らした目の控え投手が、ふっと小さく笑みをこぼした。
「でも、俺たち、よくここまで頑張ってやったよな。
毎日泥だらけになって、血豆潰して、肩が上がらなくなるまで投げて……。
あれだけ野球やったんだ。なあ?」
「……ああ」
畳の上で向き合う仲間たちは、少しずつ声を出して笑い合った。
それは泣き笑いだった。
「明日……勝とうぜ。俺たちはもう試合には出られねえけど……勝つつもりでいようぜ」
キャプテンがそう言い、両手を膝に置いた。
「そうだ——明日は絶対勝つぞ!!」
その言葉に、皆が拳を握った。
声には出さなかったが、胸の中で強くそう思った。
すると、ほんの一瞬だけ、部屋にまぶしい光が差し込んだように感じた。
見上げると、静かに動かなかったはずの月が、ゆっくりと雲に隠れかけていた。
「……おい、時計、動いてる」
誰かが息を呑み、指差した。
止まったままだった旅館の時計の秒針が、ゆっくりとだが確かに動き出していた。
——コチ、コチ、コチ。
刻まれる静かな音が響くたび、畳の床が柔らかく震えた。
誰も口を開かなかった。
ただ全員が次に何が起こるのか、息を止めて待っていた。
気づけば部屋の景色が白く霞み、視界がぼんやりと遠のいていく。
仲間の顔も少しずつ形を失い、輪郭が溶けていった。
それでも、不思議と怖くはなかった。
最後にキャプテンと目が合った。
彼は微かに笑っているように見えた。
——明日は絶対、勝つぞ。
その言葉だけが、胸の奥で何度も繰り返し響いていた。
そして、世界は静かに、完全な白へと溶けていった。