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第2話「その夜の出来事」

夜の道は、不安になるほど暗かった。


 旅館での夕食を終えたあと、監督が「ちょっと下見に行くぞ」と言い出し、選手たちは再びバスに乗り込んだ。

 明日の球場までのルート確認と、移動距離に身体を慣らす意味もあるらしい。


 「えー、もう腹いっぱいで動けねぇよ……」


 「寝てりゃ着くだろ」


 出発前、そんな冗談が交わされたものの、乗ってしまえば皆、それぞれの席で思い思いの姿勢を取っていた。

 背もたれに頭を預け、窓の外をぼんやり眺める者。

 スマホをいじりながら小さく笑っている者。

 すでに目を閉じて、浅い眠りに落ちている者もいた。


 車内はエンジン音が心地よい子守歌のようで、夕飯でいっぱいになった腹と疲労で、眠気はすぐにやってくる。


 「おい、さっきまであんなに元気だったのに、もう寝てんのかよ」


 近くの座席から聞こえた声に、控えの外野が頭を揺らして顔を上げる。


 「……はは、腹いっぱいでな」


 返事をしながら、どこか恥ずかしそうに頬をかいた。


 窓を少し開けると、夜風がひゅうっと吹き込んで、汗ばんだ肌を撫でた。

 昼間あんなに重かった空気はどこへ行ったのか、夜の山道はしんと冷えていた。


 運転席の方から監督と運転手が小さな声で何かを話しているのが聞こえる。

 

監督はさっき旅館を出るときに、女将さんに丁寧に頭を下げていた。

 選手たちが気づかぬうちに、ずっと気を張っているんだろう。


 「明日、勝てっかな」


 ぽつりと呟いたのはサードのやつだった。

 「おい弱気かよ」とキャッチャーが笑うと、「うるせーな」と口を尖らせる。

 その顔が、子どもみたいで少し可笑しかった。


 ヘッドライトが照らす細い山道。曲がりくねった道にタイヤが鳴る。


 バスはゆっくり進んでいるはずなのに、窓の外の木々は異様な速さで後ろへ流れていく。

 ふと、流れる景色が幻のように揺れて見えた。


 ——そのときだった。


 「おい、危ないっ!」


 誰かの叫び声。

 声を認識するより早く、フロントガラスの向こうに何かが飛び出してきた。


 大きな影だった。

 鹿か、もっと大きな何かか、それともただの影だったのか。もう分からなかった。


 運転手がハンドルを切る。

 バスは重心を狂わせ、悲鳴を上げるようにガードレールへ突っ込んだ。


 鋭い鉄の軋みと、ガラスが割れる音が耳を撃つ。


 視界が一気に傾いた。

 重力がおかしくなる。

 身体が座席からふわりと浮き上がる。


 「——あ」


 声にならない声が、喉の奥で泡のように弾けた。


 頭が重たい。

 なのに身体は軽くて、宙に放り出される感覚が続く。


 耳が詰まる。

 窓の外の星空が回転する。

 誰かが自分の腕をつかんでいる気がした。

 でもその感触も、すぐに闇に呑まれた。


 そこで一瞬だけ、何かが脳裏をよぎった。


 ——そういや、父さん、明日、見に来るって言ってたな。


 あの大きな手で、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくれる約束だった。

 母さんはお守りを鞄にこっそり入れてくれたっけ。


 小学生の頃、真夏のグラウンドで泣きながら素振りをしていた自分を、コーチが背中を叩いて笑った顔。

 中学最後の夏、打てなくて、泣いて、それでも来年は……と心に誓った日の夕焼け。


 全部が、めまぐるしく、ぐちゃぐちゃに混ざり合って流れていく。


 「……た、す……」


 すぐ近くで声がした。

 誰かが叫んでいる。けれど遠い。

 水の底から聴いているみたいに、こもって聞こえる。


 次の瞬間、視界いっぱいに夜空が広がった。

 星が粉のように散らばっている。


 ああ、きれいだな、なんて思った。

 意味もなく、ただその星々の冷たさに見惚れていた。


 そして、すべてが止まった。


 まるで時間がそこだけ抜け落ちたみたいに。


 重力も痛みも、何も感じなかった。

 暗闇に放り込まれて、自分がどこにいるのかも分からない。


 それでも確かに、自分はどこかにいる気がした。


 その闇の中で、誰かの声がかすかに響いた。


 ——なぁ、お前……まだ、野球やりたいか?


 問いかける声。

 知っている声だったのか、それとも自分自身の声だったのか。

 それさえもうまく思い出せなかった。


 ただ、その問いにどう答えればいいかも分からず、暗闇の奥で小さく息を吐いた。

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