第1話「明日は絶対勝つ」
甲子園行きの大型バスは、午後の陽を背にして走っていた。
窓の外には、どこまでも続く田んぼと、その向こうに青くぼんやり霞む山並み。高速道路を降りてからは、のどかな田舎道が続いている。
少し窓を開けると、むっとするような湿気に混じって、稲の匂いや土の匂いが鼻を突いた。
車内はクーラーが効いているはずなのに、どこかむわっとした匂いが充満していた。
皆、午前中の最後の練習を終えてからすぐバスに飛び乗ったので、ユニフォームの下にはまだ汗が残っている。硬式球の革の匂い、汗と土の混じったにおい。それが、このバスの匂いだった。
「おい見ろよ! 甲子園の旗、立ってんじゃん!」
車内後方で誰かが叫ぶと、一気にわっと声が広がった。
小さな町の電柱や商店の軒先には、『祝 甲子園出場 広海高校野球部』と書かれた赤い旗や横断幕があちこちに掛かっていた。風に揺れて、まるで手を振っているように見える。
「いいなぁ……これ一生モンじゃん」
「なーに言ってんだよ。これから優勝して、もっとすげぇ景色見せてやるよ!」
座席のあちこちでスマホを取り出し、旗を撮る者もいれば、隣のやつを無理やりカメラに収めてはしゃぐ者もいた。
「おいふざけんなって、やめろって! 変な顔写っただろーが!」
「お前それ素やん。いつもの顔やん」
くだらないやり取りに、車内のあちこちから笑いがこぼれた。
ベンチ入りメンバーも控えの選手も、真っ黒に日焼けした顔を並べて、額に薄い汗をにじませていた。
細くなった腕の傷や、指のマメの跡。それぞれの夏がそこにあった。
やがてバスは旅館へと到着した。外はもう夕暮れで、茜色が空をゆっくり染めている。
「よし、今日から二泊三日だ。気を引き締めていこうな」
バスを降りたところで監督がそう言うと、全員が大きな声で「はいっ!」と答えた。
監督は無愛想そうに見えて、実は選手たちのことを誰よりもよく見ている。
そんなことを、みんな分かっていた。
旅館の玄関をくぐると、畳と白木の匂いが鼻をくすぐった。
帳場の女将さんは緊張した顔で迎えてくれ、選手たちはぺこぺこと頭を下げて廊下を通った。
広い大部屋に荷物を置くと、自然とテレビのリモコンを探していた。
「つけてみろよ。地元のニュースやってるかも」
「俺映ってたらスクショ撮れよ!」
テレビをつけると、本当にちょうど広海高校特集が流れ出した。
画面の中では、監督のインタビューや練習風景、県大会決勝のハイライトが流れる。
あの土壇場でサヨナラヒットを放ったキャプテンの顔がアップで映った瞬間、部屋中から歓声が上がった。
「来た来た! ヒロアキ映ってんぞ!」
「おーいヒロアキ、全国デビューだな!」
みんな口々に冷やかすが、その目はどこか誇らしそうだった。
「……明日は絶対、勝とうな」
ぽつりと、キャプテンが呟いた。
その声に、自然と全員がうなずいた。
勝ちたい。絶対に負けたくない。
この仲間と一緒に、あの夢の舞台で。
まだ夜は早かったが、全員布団を敷くと自然と横になった。
試合に備えて少しでも体を休めたい——いや、本当は興奮して眠れそうになかったのかもしれない。
——その静かな部屋の隅で、いつもは一番うるさい控え投手が、ぽつんと天井を見つめていた。
何かを感じ取ったような、不安げで、けれどどこか遠くを見ているような瞳で。