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天才魔導士とカナンの猟犬  作者: もにみぃ
魔導士アレットと亡国の姫君
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第49話:取り引き

 アレット達が傭兵団の拠点を経由し、いよいよトルクア領に入った頃。港町にある大きな邸宅へ、親不孝者の次女からの便りが二通、届いていた。一通目は王宮を解雇された事実と、実家に帰る旨が記載されていた。彼女が”家に帰る”ということは、すべてドミニクの指示に従うという意思表明に他ならなかった。

 ドミニクは親子とは思えないほど簡素な手紙に一度だけ目を通し、不敵に笑った。どうやらすべて計画通りに進んだらしい。彼は上機嫌で使用人に娘の婚約者候補へ文を出すよう命じた。

 そして上機嫌のまま二通目の手紙を開き、唖然とした。


『親愛なる守銭奴様へ。どこまで貴方の策略かは私の知るところではありません。しかし、私と供にいる”亡国の姫君”を保護しなければ、アダン商会が裏組織と密接に繋がっていることを公表し、命を絶ちます』


 二通目の手紙には、ご丁寧に血の染み込んだ布まで同封されていた。それは聞き分けのない娘からの手紙などではなく、殆ど脅迫文だった。


「――アレット……」


 そう名付けたのはドミニクだった。花とお菓子を何よりも愛し、週末は着飾って町へ出るのが大好きだった愛らしい娘は、一体どこへ消えてしまったのか。彼は大きな溜息を吐くと、怒りのまま白紙にペンを走らせた。


『アレット。私の悩みの種。お前は一体どこまで私を困らせる気なのか。どうやら本気で私を心労で殺すつもりらしい。君が早まった真似をする前に条件をのむ。ただし、二度と父の言葉に逆らうな。婚期を逃した愚かな娘には勿体ないほどの縁談が来ている。アダン家の敷居を跨ぐのは必要な挨拶を済ませてからだ』


 紙を乱暴に封へ入れ、報告に戻って来た使用人へ二通目の手紙とまとめて渡した。


「これを隠れ家にいるバージルへ。内容を確認しておけと伝えろ」


 そして不意に、ドミニクは激しく咳き込んだ。心臓を握りつぶすように胸を鷲掴みにし、必死に深呼吸を繰り返す。


「発作ですか? 奥様をお呼びします。薬もお持ちいただきましょう」


 使用人の気遣いに黙って頷き、彼は最愛の人が部屋を訪れるまで乱れる呼吸を整えながら、胸の痛みに耐え続けた。


 ◇


 貸し切り状態の荷馬車は、荒れた道を走っていた。決して乗り心地がいいと言えないそれは、アカデミーのブラッドバーン卿の指示により、猛スピードでトルクア領を目指していた。

 夕日の落ちかけた地平線を見て、ジャンは舌を打って嘆いた。

 

「ったく、説教の長いオッサンだぜ……」


 途端、宙に浮いた可愛らしい縫いぐるみが、ジャンの頭へ激突した。しかし、まったく痛みはなく、もふっとした布の触感がしただけだった。


『まぁ! もとはと言えば、あの場で冷静さを欠いた騎士様が原因でしてよ? あの御老人に感謝すべきですわ!』


「あー、わかった、わかってるよ……鬱陶しいから顔の周りを飛ばないでくれ」


 縫いぐるみを動かしているのはミレーヌだった。呼び方が剣士様から騎士様という肩書きに変わっている。ヴィミックの縫いぐるみは不機嫌そうに全身を震わせると、ジャンの隣に膝を立てて座るクリスの胸へ飛び込んだ。


「サリアに透視魔法の使い手がいて、運が良かったですな」


 クライブならアレットがどこにいるかを見通せる。それを知っていたジャンは朝からクリスと縫いぐるみに憑依したミレーヌを連れ、アカデミーの門を叩いた。

 当然、ジャンはアレットの恩師に大目玉を喰らう羽目になった。何故なら昨晩、ジャンが怒りに任せて屋敷で大暴れしている隙に、囚われていた少女達が攫われてしまったからである。ミレーヌが時間切れで倒れ、ジャンはようやく正気に戻った。彼女を慌ててクリスの下へ連れて行き、屋敷へ戻った時にはもう、地下牢は裳抜けの殻だった。


『我を忘れて彼女の命を危険に晒したことも、反省するべきですわね。腕輪がある以上、彼女にとって貴方は下手な盗賊よりよっぽど危険な男でしてよ』


「ちゃんと反省してるって……」


 今朝のアカデミーからずっと小言を聞かされ続けているジャンは、頭がおかしくなりそうだった。ミレーヌの声は、耳を塞いでも頭の中に直接響いてくるからだ。


「カルラ殿のことも心配ですな。アレット殿はいざとなればアダン商会という後ろ盾がありますが、彼女はすぐに殺されてもおかしくありません」


「アイツなら大丈夫だ。必要なことは俺が全て叩き込んだし、覚悟も決まってるだろ」


 割り切ったジャンの台詞をクリスは冷淡に感じたが、ミレーヌはなにも言わなかった。もう大昔の話だが、彼女は一時でも国の王妃であった。カルラの立場を誰より身近に感じているからこそ、過干渉を控えているのだろう。


「……十七歳の少女には酷なような気もします。死ぬ覚悟など――」


「ちげーよ、逆だ。例え死ぬ目にあっても生きることを諦めねぇ覚悟さ」


 死を選んだ方がマシだと思うような扱いを受けても、王女の矜持より生き延びることを考えろ。ジャンはカルラに、そう教えていた。彼の言葉に、クリスは深い笑みを浮かべた。


「流石はジャン殿です。私の憂いも少しばかり晴れたようだ」


「お前さん達までこっちの事情を気に病むことはねぇ」


『しかし、実際どうなんですの? 貴方が王になるならアレットとの婚約は難しいですわよ』


 いきなり核心を突いて来たミレーヌに、ジャンはピタリと呼吸を止めた。ガタガタ揺れる荷車の天幕を仰ぎ、頬を膨らませながら息を吐いた。


「……王になる気はねーよ。てか、なんの話だ? 俺は――」


『この際だから言わせてもらいますが、その腕輪の仕組みを知る者ならとっくに察していますわ。あれほど賢明なアレットがまったく気付いていないのが不思議なくらいです』


 この期に及んで言い逃れは許さないと、ミレーヌは釘を刺した。


「やっぱり気付くよな? アイツが鈍いのか、俺がよっぽど分かりにくいのか……」


「おそらく、両方でしょうな」


 ミレーヌの声はクリスには届いていない。彼は文脈から二人の会話の内容を察していた。おそらくクリスも、もどかしい思いで傍観に徹していたのだろう。


「俺はアレットの夢が実現する瞬間を、この眼で見てみたい。できるなら、特等席でな」


 ジャンは荷馬車の天幕をじっと見つめた。


「だから、王にはならねーよ。大体、もし俺が王になる気だったら姫さんは生かしておかない」


『あら、彼女を王妃に迎えることもできるのでは……? 貴方が婿入りしてもいいし、むしろその方が自然なんじゃありませんこと?』


「それだけは絶対に勘弁だ。姫さんにもそう伝えてる」


 カルラの好意には気付いていた。寧ろ、あの分かりやすい少女と五年も共に逃亡生活を過ごし、気付かないわけがなかった。ただ、彼女もそれを明確に口にしたことはなく、そもそもジャンに応える気はなかった。連れて逃げた当時は十二歳の少女だったし、ずっと妹のようにしか思っていなかった相手である。

 ミレーヌの言うように立場だけならばなにも不自然じゃない。しかし、ジャンはその立場や責任というものがなにより煩わしく、できるなら捨て去りたかった。もしかすると王都が燃えて、一番ホッとしたのは暴王派の貴族よりもジャンだったかもしれない。


 ”僕は母と一緒に死ぬはずだった。いま生きているのは兄さんのおかげだ。だから僕は、できることなら――”


 燃え盛る王都で、何故かそこに居ない筈の弟が自分を庇って死ぬ夢を何度も見た。それは脳が最悪な記憶を繋げて再現した、ただの悪夢である。弟が死んだのは、不衛生極まりない野営テントの中だった。

 その頃には流行病が手遅れになるまで進行し、もう長くはなかった。ならば囮でも盾でもいいから我が身を役立てて欲しいと、周囲の反対を押し切り、痩せこけた身体を引き摺りながら戦場へついてきた。しかし、実際は開戦にも間に合わなかった。”明日は自分が先陣を切るから必ず起こせ”と言ったきり目覚めなかったのである。ジャンはその防衛戦を、どう勝利したか覚えていない。理不尽に対する怒りに任せ、北方から攻め入る蛮族を殺して、殺して殺して――殺した。

 一度も戦場へ出ることなく、弟は静かに息を引き取った。少なくともジャンが率いる部隊の中には、もう彼を軟弱者だと罵る戦士はいなかった。だが、世間は彼の死後もその遺体に唾を吐いていただろう。ジャンは弟の亡骸を戦地に埋め、立派に戦死したことにした。


 自分の生まれた環境には、常に立場や責任が付いて回る。そう頭では理解できていても、ジャンは結局、非情になりきれない男であった。その優しさは国政を担う者として致命的である。

 その点から見れば、カルラは間違いなく王の器であった。元から備わっている素質なのか、教育の成せるわざか、ジャンのような半端な人間とは根本的に違っていた。村人の命を優先したというのは、おそらく建前だ。彼女が大人しく攫われたのは、自身の出自を徹底的に隠し通すためである。カルラにはいざとなれば身内をも切り捨てる覚悟と、非情さが備わっている。それは五年の逃亡生活の中で彼女の本質を見て来たジャンにしか分からないことだった。互いの相性が最悪であることは検証するまでもなかったが、それを悪だと断じるほどジャンも愚かではなかった。


「熱いようにみえて、誰よりもクールな女だ。王になるならアイツしかいねーし、その隣にはもっと相応しい奴がいる」


 攫われた少女二人に対するジャンの心境は、クリスやミレーヌの抱いている親心に近いものとは少し違っていた。カルラはいざとなればアレットを切り捨ててでも生き延びようとするだろう。だがおそらく、アレットは真逆である。多少無茶をしても、カルラを守ろうとするはずだ。冷静で泰然としているようにみえて、情に脆い女だ。芯は太いが繊細で、身を守るために張った防壁には、割とスカスカな隙間がある。元来、人懐っこい性格なのだろう。

 ジャンは思考を止めた。彼女のことを考えると、どうも落ち着かなくなってしまう。ただでさえ良くない状況なのに、また平静を保てなくなりそうだった。

 

『……そう、ならそちらは決着がついているのですね』


「さっきから、なんの話だよ?」


 ミレーヌの言わんとしていることも、大体察しはついている。しかし、ジャンは敢えて問いかけた。クリスの膝の上に乗ったミレーヌが、ひらひらと羽の部分を動かした。


『気持ちはきちんと言葉にして伝えなければ、ないものと同じですわ。伝えられるうちに覚悟を決めないと、きっと後悔なさいますわよ』


 彼女の言う通りだった。腕輪のおかげで生死の安否は分かるものの、無事であるとは限らない。いつ何があってもおかしくないのだ。再会したら、伝えるべき言葉を伝え、ちゃんと話をしよう。

 そう決心した途端、糸が切れたかのように睡魔がジャンを襲った。眠っている場合ではないのに、どうしても瞼が開かない。

 

「ちゃんと話すよ、……悪りぃけど、少し……寝るわ。次の町ついたら、起こしてくれ」


 ジャンは天幕を見上げながら、気を失うように意識を手放した。

 

 ◇


 傭兵団のアジトは、廃村だった。アレットとカルラはまとめて鉄格子の柵がある牢へ押し込まれた。屋敷の地下室よりも衛生環境が悪かったが、一時的な措置だったのか、半日ほどですぐに牢から出された。


「貴方も手紙の中身を見たの?」

 

 アレットは馬車の用意をするバージルを睨んだ。父からの手紙を受け取った時、アレットは自身の予想が間違っている可能性も考え、脱出計画を立てていた。しかし、中身を見た瞬間、疑念が確信に変わった。彼女の予想は概ね、的中したのである。

 腹の底から怒りが湧いたが、一先ずカルラの身の安全は確保できそうだ。しかし、それを喜ぶ前にレギオン傭兵団の団長を名乗る男に、確認しなくてはならないことがあった。


「ああ。手紙は検閲してる」


 バージルはアレットの手枷を外し、右手を差し出すと、馬車へとエスコートした。彼はアレットの手から黒曜石の手枷を取っても、危険がないことを確信しているのだ。トルクアに来る荷馬車の中でアレットが覚えた既視感は、気のせいではなかった。


「私はこれから、貴方のことを何と呼べばいいの……?」


「俺の本名はバージル・レギオンだ。好きに呼べばいい」


「……そう。姉様は知ってるの?」


「彼女は知らない。だが、俺の役目は昔から糞以下の連中から金を巻き上げることだ」

 

 拘束されたままのカルラは二人のやりとりを見て、首を傾げた。アレットは忌々し気にバージルを睨み、差し出された右手を無視して馬車へ乗り込んだ。そして、馬車の中からカルラが乗り込むのを手伝った。


「行き先は?」


「アダン家の別荘だ」


 どうやら、手紙に書かれていた”家の敷居を跨がせない”というのは本気らしい。アレットは鼻を鳴らして、馬車の戸を乱暴に閉めた。もう彼と話すことなど何もない。

 その様子の一部始終を注意深く観察していたカルラが、アレットに疑問を投げた。


「これって一体どういう状況? 貴女は事情を把握してるみたいだけど……」


 冗談めかした口調のわりに、目が笑っていない。カルラが警戒するのも無理はないと、アレットは深い溜息を吐いた。


「全部説明するよ。ただ少なくとも、父から手紙がくるまでは、私と貴女は同じ立場にいたし、事態を全て把握してるわけじゃない」


 アレットもトルクア領へ入るまでは自身が”アダン家と傭兵団の取引材料”であると信じ込んでいた。


「ドミニク卿からの手紙に、何が書いてあったの?」


 カルラの質問には答えなかった。無視したのではない。順を追って説明せねば、混乱するだろうと相手を慮ってのことだった。


「事実だけを簡潔に言うと、アダン家とレギオン傭兵団はグルだった」


「……それは、貴女もそうだということ?」


「さっき言ったでしょ? 手紙が来るまでは知らなかったって。手紙の内容を説明しようとすると、どうしても私の置かれた状況から話す必要があるんだけど――」


「構わないから全部話して」


 貴女を信用させてくれ、とカルラの琥珀色の瞳が訴えているような気がした。二人は向かい合って腰を掛け、互いを見つめた。短い沈黙の後、アレットは自身の置かれた状況を一から語り始めた。アダン家の次女としての役割を放棄し、家から逃げるため宮廷魔導士になったこと。そして王族との恋仲を疑われ解雇されたこと。それでもアダン家へ戻る気になれず、冒険者になりジャンと出会ったこと。これまでのことを全て打ち明けた。


「最初の違和感はバージルだった。近くで接してみて、妙な既視感を覚えたの。でも決定的だったのは、舌を噛んだとき」


「既視感て……もとから知らない相手じゃなかったんでしょう?」


「もちろん、王宮で見かけたことはあった。でも、もっと前から彼を知ってたんだ」


 カルラは緊張した面持ちで、アレットを見つめた。


「姉様にはセドリックっていう建築家の夫がいるの。多忙で殆ど家にはいないし、すごく影の薄い人なんだけど……とても穏やかで温かい。そんな人だった」


 義妹であるアレットのことも、よく可愛がってくれた。これといった特徴はないが、穏和な好青年だった。父と懇意の建築家の息子で、二人とも両親に連れられ土地の売買についてやり取りをするうちに、恋に落ちたのだと聞いていた。アレットは優しいセドリックのことが、義兄として好きだった。


「ま、まさか――」


「そのまさかだよ。半信半疑だったけど、父へ送った手紙でカマを掛けた」


 ただ似ているだけなら、思い違いの可能性もあった。セドリックの顔に傷はなかったし、竜の刺青もない。おまけに髪の色だって違う。だが、アレットが最後に彼を見たのは六年ほど前だ。それに、顔の傷や刺青は隠そうと思えば隠せるし、髪だって染めてしまえば簡単に誤魔化せる。


 ”――この馬鹿、どうしてこんなになるまで……アシュリー、早く水をッ!”


 セドリックとアシュリーの婚約が決まったのは、アレットが十歳の頃だ。マナー講師に叱られ、毎日泣いていた頃だった。厳しい訓練が嫌で、真夏の庭園に朝から夕暮れまで隠れていたアレットは、脱水症状で倒れているところをセドリックに救われたことがある。彼は神官であった祖父から癒しの魔法を習っていたので応急処置が可能だったのだ。

 あの時、普段は優しいばかりの義兄が、口調を荒げてアレットを叱った。思えばあれが素の顔、素の口調だったのだろう。


「バージル・レギオンは私の姉様……アシュリー・アダンの夫で、ドミニク・アダンの婿養子だよ。それが分かったから、アダン家と傭兵団の繋がりを公表すると、脅しをかけた」


「じゃ、じゃあ……乗り込む前の会話って――」


「最終確認だよ。父の手紙には”王女の無事を保障するから二度と逆らうな”としか書かれてなかったからね」


 できれば思い違いであって欲しかった。バージルは最初から自分が義賊であったことをアレットに告げた。建築家のセドリックという人物は、ハリボテだったのだ。アダン家と傭兵団の間にどのような取引があるかは分からないが、その事実を、姉は知らない。姉妹の人生をどこまで奪えば気が済むのか。身勝手な父親に対する怒りが沸々と煮え滾った。


「こうなってくると、スキャンダルの噂もバージルを王宮に送り込んで、父がでっち上げたとしか思えない。私がすぐに帰ってこなかったのは誤算だったかもしれないけど……問題は、カナンを襲った連中とアダン家が繋がってるかもしれないことだね」


「まるで自分には関係がないみたいに言うのね。貴女の家のことなのに」


 関係ないと言いたかった。全ての責任を放り出し、ジャン達とドラゴン退治の旅を続けることができたら、どんなに良かっただろう。しかし、最後まで逃げなかったミレーヌ、そして今、真っ向から己の役割に向き合っている少女のことを知ってしまった。そんな二人の手前、自分だけ自由に振る舞うことなど、恥ずかしくてできなかった。


「そう見える? でも、責任はちゃんと取ることにしたから。カルラのことも悪いようにはしない……いや、出来ないはずだよ」


 カルラの身の安全と引き換えに、アレットは父との交渉に応じると決めた。もしカルラの身に何かあれば、その時点でアレットはアダン家の闇を公表し、命を絶つ。嫁ぐと決まれば、もう死んだようなものだ。成り上がりの貴族令嬢など、どんな扱いを受けるか想像に難くない。少なくとも歓迎はされないだろう。正妻として扱われるかどうかも怪しい。父の望む役割を果たせば、粛々と死ぬのを待つだけだ。


「アレット……、まさか貴女――」

 

 揺れていた馬車が止まった。二人は神経を尖らせて馬車の窓から外の様子を伺った。目的に到着したのだろう。バージルの姿は見当たらなかったが、別荘の門が見えた。

 馬車の扉が開き、御者に促されるまま二人は馬車を降り、湿った土を踏んだ。目の前には湖が広がっていた。アレットは思わず呆然と景色を眺めてしまった。小さい頃、よく姉と二人で遊んだ湖だ。ドミニクが仕事の拠点としている別邸はいくつかあるが、湖畔の別荘だけは彼が休暇をとるために買い取った土地だった。その懐かしさに、眩暈がした。


「――よりにもよって、この場所で……」


 ここはアレットにとって、優しい思い出が詰まった小さな楽園だった。彼女は今日から、この場所で婚約の準備を始めなければならない。それが父ドミニクとの取り引きだった。

 去って行く馬車と入れ替わるように、見覚えのない使用人がアレット達を邸宅へと案内した。門を潜り、ホールの扉が開いた。最初にアレットの眼に入ったのは、玄関ホールに吊り下げられた豪奢なシャンデリアでも、正面階段に飾られた巨大な家族の肖像画でもなかった。

 彼女の眼に映っていたのは、黒いドレスを身に纏った美しい女性だけだった。


「――、アシュリー……姉様」


 喪服のようなドレスを着た女性は、アレットを見て優しく微笑んだのであった。

 

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