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天才魔導士とカナンの猟犬  作者: もにみぃ
魔導士アレットと誓いの腕輪
13/24

第12話:役なしの夢追い人

 川縁の砂利に足をとられたアレットは、派手に転んで身体のあちこちを擦りむいた。左手首の痛みも気にならないほど冷静さを失っていたアレットは、よろめきながら立ち上がると、半ばやけくそのように服を脱ぎ捨て、川へ入っていった。


「おい、アレット?!」

 

 背後から自分を呼ぶ声が聞こえた。彼に名を呼ばれたのはその時が初めてだったが、アレットは振り返らなかった。涙と汗と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、彼に見られたくなかったからだ。腰まで水に浸かったところで、息を止めて倒れ込むように川へ潜った。

 川の水の冷たさが、徐々にアレットの頭を冷やしていく。血流が止まり赤くなった左手も、冷えたおかげか痛みが和らいだ。水の中で顔と身体を軽く擦って、水面に上がる。


「ぷはぁっ……!」


 顔の水滴を拭って一呼吸置くと、アレットはやっと来た道を振り返った。すると、川縁の岩陰にジャンの姿が見えた。律儀に背を向けて、岩へ寄りかかるように立っている。

 アレットは川から出て脱ぎ捨てた服の傍でしゃがみ込み、石鹸と空のボトルを手に取った。そして再び川の中へ戻り、ボトルに水を汲み終えると、髪と身体を念入りに洗い流した。待機しているジャンを待たせぬよう、アレットはなるべく急いで水浴びを済ませた。


「終わったか?」


 腰から下を川の水に浸したまま、濡れた髪を魔法で乾かしている最中、岩陰からジャンの声が聞こえた。それが思ったよりも穏やかな口調だったので、アレットはまた羞恥心に襲われた。子供だと思われても仕方のないような行動をしてしまった自覚があったからだ。


「うん。ごめん……もうあがるから」


 アレットがそう返事をすると、ジャンは岩陰から顔を出した。


「あ、ちょっと! ま、まだ待って――」


 彼が出て来てしまったせいで、アレットはせっかく乾いた上半身を慌てて水中へ戻した。


「って、え……?」


 自身の身体を隠すのに気を取られていたアレットは、現れたジャンの姿をみて驚愕した。彼もアレットと同様に、なにも身に付けていなかったからだ。


「ちょ、な、なんで脱いでるの?!」


 アレットは咄嗟に身体を捻り、ジャンに背を向けた。せっかく落ち着いていた感情が、また暴れはじめる。心臓が張り裂けそうなほど脈打ち、思考が働かず、文句の一言も出て来なかった。

 ドボンと川の水が音を立て、その波紋がアレットの肌に伝わる。

 

「俺も入る」


「は、入るって……そ、それなら普通、交代でしょ?! 私が出るまで待っててよッ!」


 アレットは自身の控えめな胸元を左腕で慌てて覆い隠した。しかし、彼女が恥じらう様子など気にも留めず、ジャンは正面に回り込んできた。澄んだ水面越しに彼の腰から下が見えてしまいそうで、アレットは咄嗟に顔を上げた。

 鍛え上げられた鋼のような胸筋が視界に入り、慌てて目を逸らす。

 

「それじゃあ落ち着かねーだろ。慌てず、もっとゆっくり浸かっとけ」


 ジャンは相変わらず穏やかな口調で諭すように言った。やはり、子ども扱いされているのだろうか。アレットはジャンを睨みつけた。


「だっ、だからって……一緒に入るほうが落ち着かな――」


 アレットは今日、初めてジャンの顔をまともに見た。途端、彼女は言葉を失った。彼が見たこともない穏やかな笑顔でアレットを見つめていたからだ。

 始めて見る顔だった。別段意識したことはなかったが、垂れ目がちな眼元の泣き黒子が上品な顔立ちを際立たせていた。撫でつけた短い髪から遅れ毛が額に掛かっているのも、やたらに色っぽく見える。


(やっぱりこの人、かなりの色男かも……)


 なんて呑気な感想を抱いている場合ではなかった。彼の容姿に思わず見惚れて固まっていたアレットは、伸びてきた大きな手にあっさり捕まってしまった。反射的に身を引くが、強く握られた右手はビクともしなかった。


「な、なに……? いや、は、離してッ――」


 本能的な危険を察知した時には、もう遅かった。男の穏やかな微笑みが捕食者の笑みへと変わる。痛むはずの無い左手首が、ズキズキと痛み始めた。


「柔らかくて美しい――、美味そうな娘だ」


 ジャンの全身がぐにゃりと渦巻いた。蛇のようにうねる水流がアレットの口内へ入り込み、悲鳴を殺した。口から大量の水を注ぎこまれ、気管を塞がれたアレットは、川の底に足がついていながら溺れてしまった。

 必死で藻掻くが、自由に動く左手は標的をすり抜けて空を切る。遠のく意識の中、アレットは目の前にいる怪物の正体を悟った。


(――水魔、か……)

 

 水魔とは水辺に生息する精霊の一種で、変幻自在に姿や形を変え、人を惑わし水に引きずり込む魔物である。警戒心が強く、臆病な魔物だが、心の弱った人間をみると嬉々として襲って来る。水面に自身の姿を映すときは、心に隙を見せてはならない。それはこのラヴィア地方では有名な戒めの言葉であった。

 装備も道具も全て川縁に脱ぎ捨ててしまったアレットは、水魔に抵抗する術がなかった。


「――、ッ!」


 抵抗も徐々に弱々しくなり、窒息により意識を失いかけた時、ふいに左手の腕輪が熱を放った。稲妻のような閃光が目を刺したかと思えば、詰まっていた気管が解放され、アレットは噎せ返った。咳き込みながら水を吐き、自由になった手足を必死に動かして岸へ上がる。

 なにが起きたのか分からなかったが、水魔の拘束から逃れることができたアレットは、脱ぎ捨てた自身の服の元へ這って行った。鞄から取り出した魔鉱石を握り、川の水面へ向かって拳を突き出す。

 突き出した拳の周りから、複数の光の矢が顕現した。その矢はうねりながら追ってきた水の大蛇をあっさり射殺した。水魔は臆病で弱い魔物であり、本来ならアレットの敵ではない。彼女は川縁の小石の上に散らばった水魔の核を睨みつけた。魔物は人の心を読み、親しい者や苦手な者にその姿を変え、油断を誘う。しかし、それほど巧妙ではない。事実、アレットは自分に対して穏やかに微笑むジャンの顔など見たことが無かった。冷静に考えれば怪しすぎるのに、すっかり罠に嵌った自分が許せなかった。


「おーい!」


 遠くから聞こえた声に、ハッとして顔をあげる。すると、下流の方から走ってくるジャンの姿が見えた。アレットは素っ裸のままだったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。

 服と荷物を拾い上げ、前だけ隠しつつ、今度こそ本物の彼と合流した。


「……ジャン、本物だよね?」


「あ? こんな男前が俺以外にいるかよ」


 駆け寄ってきたジャンはアレットが裸であることに気付くと、すぐに自身の外套を外して彼女の身体へ覆いかぶせた。ずぶ濡れのまま服も着ていないアレットを見て、トラブルがあったことを見抜いたのだろう。

 

「無事か?」


「なんとかね……」


 アレットの言葉に、ジャンは複雑な表情を浮かべた。


「すまん、遅くなった」


 どうやらアレットを見失ったジャンは、道に迷っていたらしい。それで川への到着が遅れたようだった。

 

「水浴びしてたら水魔に襲われて……腕輪のおかげで助かったんだよ」


「なるほどな。実は俺も、川に出られたのは腕輪のおかげだ」


 ジャン曰く、森で迷子になっていた時、急に腕輪が熱を持って右手が勝手に方角を示し始めたという。


「話はあとだ。日が暮れてきやがった」


 彼は薄暗くなった周囲を見渡しながらそう言った。アレットのことを極力視界に入れないよう努めている様子だった。魔物に襲われ、すっかり冷静になったアレットは素直に謝罪の言葉を口にした。


「あの、さ……取り乱してごめん」

 

「まったくだ。状況わかってるのか? ガキのお守りは御免だって俺は最初に言ったはずだぜ」

 

 勝手に走り出して仲間とはぐれ、忍び寄る魔物に気付かず無防備な姿をさらし、襲われて死にかけた。アレットは彼の非難を大人しく浴びた。反論の余地もないからである。

 

「まぁ、なんだ……水魔に目を付けられるほど俺がアンタの心の傷を抉ったなら、悪かったけどよ」


 確かにトドメを指したのはジャンだ。しかし、ストレスの原因となったこれまでの出来事はジャンには一切無関係である。それらはすべて彼女の事情であり、アレットが自分で解決すべき問題だった。


「ち、ちがう! それはその……自分でも気づかない内に、ダメージが積み重なってたみたいで……上手く感情を制御できなかったのは私の落ち度だし、原因は貴方じゃないから」


「あのなぁ……感情の制御なんてできるわけねーだろ。我慢したら誰だってそうなるんだよ。別にアンタの落ち度じゃねぇ」


 ジャンは握った拳で、自分の胸をトンと叩いた。


「だから、今度からムカついたら俺を殴れ。そしたら少しはスッキリすんだろ」


「は? な、なにそれ……なんでそうなるの?!」


「腕輪のこともあるんだ。走ってどこか行かれるよりマシだろ。ああ、遠慮はいらねーぞ? そんな細腕に引っ叩かれたところで痛くも痒くもねーからな」

 

 溜め込むよりマシだと言い放って、ジャンはアレットに背を向けた。この話はこれで終わりだと言わんばかりに歩き出すジャンを、アレットは慌てて呼び止めた。


「ま、待って!」


「なんだよ、まだ何かあんのか?」


 うんざりした様子で振り返った彼の顔を見て、アレットは躊躇いつつ、自分たちが来た方角をそっと指さした。


「……野営地はあっちだよ。そっちは逆方向」


 真っ赤になりながらよく分からない言い訳を始めたジャンをあしらいながら、アレットは野営地へと歩き出した。

 

 ◇ 

 

 夢を見た。

 まるで幼い頃に戻ったみたいな、愉快な夢だ。アレットはその夢の中で、何故か見知らぬ男と二人、よくある造りの部屋にいた。どうやら宿の一室のようで、アレットはそこで魔鉱石が創り出す魔法を次々とその男に披露していた。それも、王宮で求められていた実戦向きの危険な代物ではなく、くだらない効果の魔法ばかりだ。

 例えば、人の鼾によく似た間抜けな音が鳴るだけの魔法とか、念じたイメージに形を変えるだけの魔鉱石とか、そんな役にも立たないようなものばかりを自慢げに紹介していた。


(どうせ見せるのなら、もっと有益なものを見せて自分の有能さをアピールすればいいのに……)


 夢の中のアレットは自分の存在価値などまるでどうでもいいかのように、楽しそうに笑っていた。男は驚いたり、面白がったり、律儀にアレットの魔法に反応していた。心の底から笑って楽しめるような愉快で便利な魔鉱石を世の中に普及し、人々を豊かにする。そんなバカげた望みを体現したような心地の良い夢だった。


「……い、……おい――……!」


 遠くから、声が聞こえた。


「う、……ん?」


 宿屋の景色が遠のき、心地のいい夢から一気に意識が浮上した。


「おいコラ、いい加減起きねーか!」


「うわぁ?!」

 

 急に大きな声が鼓膜を揺さぶった衝撃で、頭がキンと痛んだ。驚いて飛び起きると、宿は消えていて、真っ暗闇の中に焚火の小さな残り火が揺れていた。肌寒さに毛布を手繰り寄せて肩を抱く。夢から現実へと戻されたアレットは、無意識に周囲を見渡した。星と月の明かりが微かに周囲を照らしている。


「あー、ごめん……もう交代かぁ」


「ああ、頼むぜ」


 ジャンはアレットが身体を起こしたのを確認すると、胸当てのバックルを外して横たわり、すぐに寝息を立て始めた。

 川から野営地へ戻った後、二人はすぐに腕輪の異変に関する情報を交換し合った。しかし結局、腕輪の力がなんであるかは考えても分からなかった。互いの異変については物理的な距離が離れて一定時間経過したことが原因であると結論を出した。それ以外に考えようがないからである。なんにせよ、距離が離れすぎると腕輪が縮み続けると思っていた二人は一先ず安堵した。


「もうちょっと情報があればいいんだけどなぁ」


 調べ物はアレットの得意分野だが、森に書物はない。残り火の僅かな灯りを頼りに、アレットは手帳に書き写した遺跡の文言を読み返した。そこに少しでも腕輪に関する情報がないか探すためである。


「っくしゅん……!」


 初夏だというのに妙に肌寒く感じるのは、濡れた体のまま長時間過ごしたせいだろう。毛布を肩に掛け、手帳を読んでいるうちに、四肢に気怠さが出てきた。視界がぼんやりと歪んで、全身に熱っぽさを感じる。


「あー、まずい。このタイミングでそれはダメだって……」

 

 野営地に戻る前、身体を乾かして服を着る時間さえあったならと悔やんだところでどうしようもない。出発日から今日まで、失態続きである。できれば、これ以上ジャンにも迷惑を掛けたくない。腕輪の件で一刻も早く王都に戻らなければならないのに、熱を出すなどもっての外だった。

 とにかく無理はよくないと慌てて手帳を仕舞おうとしたアレットは、手を滑らせて鞄の中身をその場にぶちまけてしまった。彼女は散らかった芝生の上を呆然と眺めて、極端に落ち込んだ。


(お父様の言う通りだ……どう頑張ったって補えない部分もあるよね。だって、最初から出来が悪いんだもん)


 アレットは父の言葉を思い出していた。ドミニクはよくアレットの不出来をカードゲームに例えた。


『成功を収めるにはとても大きな運も必要だ。アレット、君には運がなかった。生まれた時に配られた手札が悪かったんだ。いい役を揃えるには、手札を捨てて入れ替えるしかない』


 アレットが真っ先に捨てたかったのはアダン家という切り札である。しかし、彼女は未だにそれを手放せずにいた。捨て切れないのはアダン家の持つ富や名声ではなく、親を持つ子なら誰もが持っている感情だった。アレットは父に認められたかったのである。姉のように、アレットのことも誇りに思って欲しかった。王宮を解雇されるまで、その希望を捨てきれなかった。身体の怠さと熱で後ろ向きな考えが増幅し、アレットはとことん落ち込んでしまった。

 滲む視界の中、ぶちまけられた鞄の中身を緩慢な手つきで拾い集めていると、見慣れぬ小瓶が目に入った。それは出発日に門番がくれた万能薬だった。アレットは小瓶を掴むと蓋を開け、その中身を一気に飲み干した。腹の底がカッと熱くなり、大量の汗とともに急激に熱が覚めていく。即効性のある、かなり品質のいい万能薬だった。


「た、助かったぁ……」


 青年のはにかんだ笑顔が脳裏に浮かんだ。彼はアレットが冒険者になってから知り合った人物だった。今頃は眠い目を擦りながら、仕事をこなしているだろうか。その姿を想像し、少しだけ元気が湧いてきた。

 大した才能に恵まれなかった運の無いアレットには、選択の自由がない。ドミニクはその残酷な事実を幼い娘に突き付けた。しかし、そのおかげで彼女は自らの不運に抗った。その時間は、決して無駄ではないはずである。

 門番との良き出会いに救われたアレットは、気を持ち直して鞄を整頓すると、再び手帳を開き明け方まで腕輪の情報を探し続けた。


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