恐怖の影
祖母の手紙を読んでから数日が経った。
あれから事あるごとにリアやカイルが顔を見せるようになった。
何を言うわけでもなく、ただ他愛のない会話をして帰っていく。
そんな二人のおかげで自分でもわかるほど、笑う回数が増えた。
エルも毎日結界の様子見に来ているらしいが、彼女は会いには来なかった。
リアに聞くと、「人見知りなんだ」と笑っていた。
空が薄暗くなってきた頃、私は一人コンビニへと向かっていた。
歩く道はいつもと変わらないはずなのに、どこか違和感があった。
人通りの少ない商店街。
すれ違う人々の顔は青白く、怯えたような表情を浮かべている。
その足取りはまるで何かから逃げているようにも思えた。
得体の知れない違和感に私も足を早またその時、かすかに声が聞こえてきた。
「やめて・・・怖いよ・・・」
立ち止まり、辺りを見回す。声の正体を探そうとする私の心臓が、一瞬だけ跳ね上がった。
――子どもの泣き声だ。
声がする方向に駆け寄ると、路地裏の隅で小さな男の子がしゃがみ込んでいた。
その背中は震えていて、顔を上げることすらできない様子だった。
「どうしたの?」
優しく声をかけるが、男の子は反応しない。
近づこうとした瞬間、全身を冷たい恐怖が覆った。
その場にいないはずの存在を、私は感じ取っていた。
!!
男の子のすすり泣く声とともに、彼の周囲に暗い影が揺れ始める。
そして現れたのは、ねじれた翼を持つ黒に包まれた男の姿――。
きっとこの人は、悪魔だ・・・・。
彼が纏う空気は異様に冷たく、重い。
その赤い瞳が男の子に向けられると、男の子は尋常じゃないくらいに震え出し、
泣き声すら上げられなくなっていく。
「また一人、恐怖の海に沈むのだな。お前の小さな心はいつまで抗うことができるかな。」
直接心を震わせるように響く、低い声を聞きながら、私は何もできずにその場に立ち尽くした。
全身を震わせ、耳や目を塞ぎ、必死に目の前の恐怖をやり過ごそうと耐える男の子の姿が、
あの日の私と重なる。
いつ命が脅かされるか分からない恐怖。終わりの見えない恐怖。
――もうやめて。
私の拳は、手のひらに爪が食い込み、血が流れるほど強く握りしめられていた。
「やめて・・・!もうこの子を解放して!」
声が震えている。
私の声に男の視線がこちらに向いた。
とてつもなく冷たいその視線は私を威圧するには十分だった。
「もうこのガキは見飽きたところだ。次はお前だ。
さぁ、お前はどんな顔をする。恐怖に歪むその姿で俺を楽しませるがいい。」
私は足が震えてその場から動くこともできない。
何もできない自分に、苛立ちを覚えた。
そのときだった。
「瑠衣!」
振り向くと、カイルとラフェルが駆け寄ってきた。
「大丈夫?」
カイルが私の隣に立ち、ラフェルは私を庇うように前に立った。
「その赤い瞳にねじれた翼。・・・ダルカスだな?」
ダルカスと呼ばれた男は彼らを一瞥し、嘲笑を浮かべた。
「ふっ。羽虫ども。無駄だ。この小さな心は既に壊れかけている。」
ダルカスの手が静かに動くと、暗闇が渦を巻いて男の子をさらに包み込む。
「ダメ!やめて・・・っ!」
――その瞬間、お守りとして持ち歩いていた、あのクリスタルが強く光り始めた。
「・・・!?」
光は私の身体全体を包み込むように広がり、暖かくて不思議な感覚が流れ込んでくる。
温かな光を放つそれは、祖母が託した想いそのもののように感じられた。
――私には「資格」がない。その「意志」もない。
そんなことを考え続けてきたけれど、今なら分かる気がする!
あのときの私と同じように理不尽な恐怖に苦しむ存在が目の前にいる。
家族を失ったあの日。親戚から受けた冷酷な仕打ち。
「助けて」と声をあげることさえできなかった幼い頃の自分。
いじめに耐えた日々。誰も信じられなくなった自分。
その全てが、胸に鋭く突き刺さるような痛みをもたらした。
(あの時の私も、誰かに救われたかった・・・)
「私は、もう逃げない!私が、あの時の私を救ってやるんだ!」
叫びながら、私は歩き出した。
光が私を導くように、暗闇を裂き、男の子の周囲を覆う影を消し去っていく。
驚いた表情を浮かべたダルカスの赤い瞳が、私を強く見据える。
「何だ、その力は!」
「分からない。でも、私はもう見て見ぬふりをして、諦めたりなんかしない!」
自分の声が震えていないことに気づいた。
私の心は、確かに進むべき道を見つけていた。
「ラフェル!カイル!」
二人が私の呼びかけに応えるように、同時にダルカスへと突撃する。
クリスタルの光が闇を照らす中、悪魔の影は一つ一つ薄れていった。
それを見ていたダルカスは「これは、あの女の力か・・・?」と呟くと
何かを思案した様子のまま闇へと姿をくらませた。
男の子の震えが少しずつ収まり、涙を拭う姿を見て、私は安堵のため息をついた。
――もしも過去の私に、この力があったなら・・・。
人間達を守るなんて立派なことは考えられないけど、
目の前で苦しむ誰かを救うために。
あの時の自分に届けるように、この力を使っていこう。
それが、私の出した答えだった。
私はクリスタルをそっと握り、目を閉じた。
すると私の決意に呼応するように優しく輝いた。
ラフェルとカイルが振り返り、私の瞳に宿った決意を見て、静かに頷いた。
「その意志があるなら、お前はもう前に進むだけだ。」
ラフェルの言葉に、私は初めて力強く頷き返した。