プロローグ
目の前が真っ暗だ。誰かに両手で視界を塞がれている。誰の手かは分からないが、恐怖も何も無く、自分自身がこの理解不能な状況を受け入れているかのようだった。サーっと風が吹いた。心地いい。きっとここは草原だ。こんなに爽やかな風に吹かれたのはいつぶりだろう。風が心地いいと感じたのはいつぶりだろう。地面に足が着いている気がしない。おそらくここにいるのは私と私の視界を塞ぐ謎の人物のみだが、周りが見えないため確信は持てない。そして何故か体が動かない。どこにも行けない。
優しい匂いがする。柔軟剤の匂いか、シャンプーの匂い。この謎の人物は女性だろうか。
ふわふわとした感覚がしばらく続いたが、急に意識を取り戻したような、夢から覚めたような、この世に戻ってきたような感覚になった。だが、場所はおそらく変わっていない。風の心地よさもそのままだ。
やっと体が動いた。そして止まっているように感じていた時間が今、動き出した。視界を塞ぐ手は相変わらず、私の目の前にある。後ろから聞こえる女性のはしゃぐ声。やっぱり。謎の人物は女性だった。
「ここ虫いっぱいいるから踏まないで。エスコートするから目閉じて。いいよって言うまで絶対開けちゃダメだから」
私は言われた通りに目を瞑った。この状況を受け入れることにしよう。生きづらかった日々が終わる予感がしたから。
二人ではしゃぎながら、現在地も目的地も分からない中で、目を瞑りながら歩いた。右手は謎の女性に優しく握られている。エスコートする彼女の手は、私よりも少しだけ大きい。
十分近く歩き、謎の女性が「目を開けて」と言った。見覚えのある景色。私は家からすぐの所にある砂利道に立っていた。
「名前は?」
謎の女性の問いかけに答える。
「『咲く』に花の『百合』って書いて『さゆり』」
真っ青な空に指で書いてみせると、謎の女性は微笑んだ。
「綺麗な名前だね。名前の由来、聞いたことある?誕生日が夏に近いからなのかな。それとも百合の花言葉が好きだったからとかかな?」
「お母さんが大好きだった、歌手の名前。その人、私が産まれる一年前くらいかな。死んじゃったみたいで。相当ショックだったんだろうね。子供に死んだ人の名前つけるなんてさ。重すぎるよ」
ごめんね。そんな顔させたかったわけじゃないの。気まずそうに、寂しそうに俯く彼女を見て、私も俯いた。