生きて幸せになってほしい
数年前に書いた短編です。
書きたかったことは詰め込めたけど、まとまっているかと言えばまとまってない話。
もしも気力が湧けばもう少し長めのちゃんとした話に仕上げられればと思います。
私には、生後三秒の頃からの心残りが一つある。
私が"以前"に生きていたそのころに、私にとっての唯一のあの人から願われたあの言葉。
「約束だ。ただ生きて、幸せになってほしい」
あの人の最期のその言葉を守ることができなかったというその事実。
たとえ私にとってあの人のいない世界に幸せがないのだとわかっていても、それでも必死であの人の願いを叶えられればと一人になった私は二人だった時よりも心を動かして生きていたというのに。
やはり世界は恵まれた人間にとってとても不幸な世界だったのだ。
私とあの人は生まれ持っての才があった。剣武に優れ、魔術に高い素養を持っていた。ただしその才達は私達を不幸にこそすれ、何の利益ももたらしはしなかった。
望まれ疎まれ避けられる。格別の存在として、自身とは異なる生き物だとして孤独にされてきた。ただ私達は少し強く生まれただけの普通の人間だったのに。
生死すらが人のために望まれて、私達は普通になれなかった。
誰もが望む"出来ること"それが決して幸せではないのだと人生を賭けて理解してしまった私は……。
「リズベッタちゃんは本当に優秀ねえ。今すぐにでも王城の魔法師団に推薦が出せるわよ」
「いやですわお母さま。そこまで褒められると恥ずかしいです……。それに、私はまだ十六歳。魔法学校で学ぶべきことはまだまだたっくさんありますわ」
アリシア家の大きな庭の一角にこしらえられた、これまた巨大な訓練場にて。アリシア家が次女、リズベッタ・アリシアは魔術のトレーニングを行っていた。人よりも優れた魔力を持ち、剣術も十分すぎるほどの才を持つ彼女は両親からも王家からも多大な期待を受け、その期待を追い風としてまさしく天才の道を駆け抜けている。
彼女が祈れば風が跳ねる。彼女が願えば火が躍る。彼女が涙すれば水が癒し、彼女が笑えば地が歓喜する。そんなあふれんばかりの才覚を横目に、リズベッタの姉、ジュリアは訓練場の入り口を横切った。
「お姉さま!!」
「――リズ、お帰り」
「ただいま帰りましたわ!」
気が付かないはずのないその親子の会話をさも聞こえませんでしたというように通り過ぎようとしたジュリアは大好きな姉の姿を目ざとく見つけたリズベッタに捕捉される。
「ジュリアちゃん、お帰りなさい」
「ただいま」
おっとりとした母に迎えのあいさつをもらい、ジュリアが仕方なく訓練場内へ足を進めると、タックルする勢いでリズベッタが駆け寄ってきた。
「お姉さま! どうして今期はお手紙を送ってくださいませんでしたのっ。私、ずっと待っていたのに!」
「あー、とごめんね。ちょっとお仕事が忙しくって」
「~~、当然無理はしてほしくないのですけど! でも私毎日いつ来るかととても楽しみにしておりますのよ! 来期は一か月に一度。いえ、学期中に一度だけでもいいですから送ってくださいまし!!」
リズベッタと比較するのであればジュリアは至極平凡、むしろ落ちこぼれ一歩手前ぐらいの凡人である。全国民が行う義務を課せられている魔力測定の際には平均を少し欠けるぐらいの魔力値を出し。これまた国民の義務である九才から五年間の義務教育中には体育科目の武術のテストで手だの足だのをもつれさせ、十点中四点というなんとも微妙な数値を出していたほどの腕前だ。
そんな凡人の姉ジュリアをリズベッタはこれでもかというほどに敬愛し、とてつもなく愛している。
「どうしてそんな。私からの手紙なんて何の価値もないのに」
「お姉さまからの手紙が! 価値がないなんて! そんなわけないじゃないですか! だってお姉さまですもの!!」
勢いに押されてジュリアは思わず首を縦に振った。
その日リズベッタは上機嫌に校内を歩いていた。
理由は簡単。ちょうど朝にジュリアからの手紙が届いたことだった。
内容自体は当たり障りのない日常の事。リズベッタの姉、ジュリアが過ごしている日常をつらつらと便箋二枚ほどに連ねただけのものだ。
ただそれを、リズベッタの大好きな姉のジュリアが書いている。その事実がリズベッタの心をひたすらに弾ませていた。
ジュリアは本当に優れた人間だとリズベッタは確信している。けれど、なぜだか知らないがジュリアはいつだって自分を卑下するのだ。
みんなが全力を出すような試験で実力の半分も出さずに自分は落ちこぼれだと笑い、体術の類は得意のはずなのに他人が見ている場所ではだれにも気が付かれないほど自然に手足をもつれさせてみせる。
ジュリアは昔からリズベッタのあこがれで、自分には到底及ばないような実力を持っている。そしてそれを裏打ちする経験があるようにすらリズベッタは感じていた。
それなのになぜ。ジュリアが自身の実力を隠しているのか。リズベッタは幾度も考えてみたが、あまり納得できるものを思いつくことはなかった。
けれどそれでもジュリアが隠しているのだから、無理に暴くことは大好きな姉の考えや気持ちをを踏みにじることになってしまう。そう考えてリズベッタは不満を押し殺し日々を過ごしている。ただそれでもジュリアのことを慕うことだけは許してほしい。
「なんだ、随分と上機嫌だな」
「あら、アレン王子。ごきげんよう」
姉を思い、次の授業の教室についたらもう一度手紙を読み返そうと心持ち速足で歩いていたリズベッタは後ろから声を掛けられ振り返る。
そこにいたのは、まさしく絵にかいた王子様とでもいうような金色の髪と透き通るようなアクアグリーンの珍しい目をした第四王子、アレンだった。
アレンはリズベッタよりも少し年上で、魔術や武術などの才能により国内部でも一目置かれる王子様だ。ゆくゆくは王ではなく国の魔法師団のトップとして大活躍することが決まっている。
そんなアレンとリズベッタは魔術実技の授業で一緒になり、学校内でわずかの対等に渡り合える存在として複数回授業をともにするうちに話をするようになった。
「ルーベルト様もごきげんよう」
「ああ……」
アレンと連れ立って歩くルーベルトはアレンと幼馴染で、彼のお付きの騎士をしている。
ルーベルトは優し気な印象のアレンとは対照的な短い赤毛と意志の強そうな金色の目をしていて、魔法学校の女子生徒の間では派閥なんてものが分かれてファンクラブのようになっているという。
理想の王子様と硬派な騎士様。女の子たちの理想らしい。
「ルーベルト様、今日の本は何ですか?」
「これだ。なかなかいいぞ……そろそろ読み終わるから終わったら貸そう」
見せられた表紙に書かれていたタイトルは『そっと手を伸ばして』。つい最近発売したばかりの恋愛小説である。
リズベッタは見せられたタイトルを見てあっと声をあげる。
「それ、ちょうどお姉さまにもおすすめされたところだったんです。ありがとうございます!」
ルーベルトは武道派な見た目からは意外なほどに読書家な一面がある。そして一番好んでいるジャンルが淑女向けの恋愛小説だった。
ルーベルトの家系は代々続く騎士の家庭で男女問わず武道に精通する肉体派な人間が多い。そのため、読書を苦手とするものも多く、またルーベルト自身が騎士であるために周囲の人間にもあまり本を読む者はいない。特に恋愛小説はルーベルトの環境の中で一番かかわりが遠いものだった。
リズベッタとルーベルトが仲良くなったきっかけは当然その恋愛小説だった。実はリズベッタの姉のジュリアの職業はまさしくその恋愛小説家なのだ。
そのためリズベッタは魔法学校に入る前も入った後もたくさんの恋愛小説を読んでいた。そのためルーベルトとはものすごく話が合ったのだ。
「姉? 本当に存在していたのか」
「アレン様!? 実在していないとおもっていたんですか」
「いや、あまりにも手紙も来なければ、君が話す内容も過激になるものだからつい」
リズベッタはずっとジュリアからの手紙を待ち望んでいた。それをアレンとルーベルトに話したのは、偶然家族の話になったからだ。
実は姉がいて、その姉がとっても素晴らしい人なのだ。そういったリズベッタの言葉に嘘は一つも混じっていない。
過激といわれる内容だって、ジュリアが小説家だから手紙一つで心が動かされるような素晴らしい文章を書くだとか、ジュリアが本当はすごい魔術の使い手だからこの間二人で街に出かけたときはその力で助けられたのだとか、事実に基づいたリズベッタの本当の話である。
「嘘は一つも申しておりませんのに……ほら、みてください。この素晴らしい手紙、心打たれるでしょう?」
リズベッタは手紙を開き二人に見せる。便箋に乗せられた手書きの文字は若い娘にしては異常に書き慣れていて美しい。
その文字に驚き、アレンは思わず目を見張った。
「それ――」
「待て、確かリズベッタ嬢は姉が小説家だといったな」
しかし、その文字に驚いたのはアレンだけではなかった。文字を見た瞬間、ルーベルトも驚き声をあげる。
「そうですわね。ルーベルト様ももしかしたら読んだことがあるかもしれないって話をした覚えがありますわ」
「その文字、まさかリア・ジュリアノか?」
「ご存じなんです?」
「大ファンだ!」
興奮してルーベルトは続ける。
「人々の心をつかんで離さない、新進気鋭の恋愛作家。そんな彼女がまさかこんな身近な存在だったなんて」
「そんなにファンなのでしたら今度お会いになられますか? あまり表には出ないとは伺っておりますが、ファンレターなど嬉しそうに読んでいる姿は見るのです。直接お話したらお姉さまにもいい刺激になるのではないかと」
「可能ならばぜひ」
食い気味に返事をするルーベルトにリズベッタは思わず笑ってしまう。
「わかりました。お姉さまにもお話しておきます。っと、そろそろいかないと授業が始まってしまいますわね。またお話ししましょう」
「なあ―‐変なことを聞くようだが、君の姉、リアの目の色は何色だ」
ジュリアの手紙を見てから黙り、何事かを考える様子だったアレンは唐突にそう口を開いた。
「お姉さまですか? 青ですけど」
「光に当たると氷のように透ける?」
「……確かに光の加減で深海のようにも薄氷のようにも見える美しいブルートパーズの瞳をしていますが。なぜそんなことを。お姉さまとお知り合いだったのですか?」
「いや、その、すまない。忘れてくれ。昔よく似た人に会ったことがあるんだ。きっと偶然、だと思う。変なことを言った」
どこか困惑したアレンの様子に、リズベッタは過去にジュリアが見せた悩まし気な様子を思い出す。あれは確か、初めて書いた小説が人づてにあれよあれよと広まっていき、気が付けば出版社にたどり着いて大々的にデビューが確定した時のこと。
あの時のジュリアは見たこともない大人びた表情で、昔を思い出しただけ、と言っていた。
ただの直感ではあったが、リズベッタは二人を合わせるべきだと確信する。そして、
「わかりました。お姉さまに興味があるということですね。ではルーベルト様と一緒にご招待いたします」
ルーベルトにお願いをする。
「ルーベルト様、よければアレン様に『君がいてくれたなら』を貸して差し上げてくださいませんか。お姉さまのデビュー作、おそらく気に入られるんじゃないかと思うんです」
「もちろんだ」
リズベッタはこの時の行動を自身の取りうる最高の選択をしたと、後になってからも常々思っている。
「ジュリア、今日は花を持ってきたんだ。ミツバネ山の方にのみ咲くという赤のモイナ。きっと君は好きだろう?」
「――なぜそう思われたのかはわかりませんが、……まあ確かに美しい花ですね」
初めて会った日から半年ほどが経っただろうか。いつしかアレンは余裕さえあればジュリアの元を訪れるようになっていた。
魔法学校もあと半年で卒業するという時分になり、アレンはほとんどの授業を修め、学校にいる時間はほとんどなくなり、代わりに王城で過ごすようになっていた。
王族として、また魔法師団に入る騎士として学ぶこともやることもたくさんあるはずなのに、アレンは本当にマメにジュリアのもとを訪れる。
なぜそんなに自身に執着をするのか、なんとなくその理由を感じながらもジュリアはどうしても踏ん切りがつかず、あいまいな態度をとり続けていた。
「君に似合いの花だと思う。それに、君の小説。幾度も出てくる朱の花。それはきっとこのモイナなのだろう?」
「さあどうでしょう」
モイナの花、それはジュリアの過去の思い出の花だった。ジュリアが恵まれ幸せだった頃。そのころに彼と、ギルバートとともに見た花。
ギルバートが君の薄氷とよく似合うと、微笑み贈ってくれた思い出の花だった。
アレンは本当にギルバートによく似ている。
髪の色が違う。目の色も違う。育ちも声も違う。そのであるのに。
ジュリアを見つめる表情だとか。
「つれないなあ。あの花はそんなに大きな秘密なのか? まあ確かに『君がいてくれたなら』だけではなくて『夢から覚めなければ』の方でも話のカギになっていたからな」
「……本当に私の小説、お読みになってるんですね」
「当然だ。君のファンなのだといっただろう? 新作が出るのをルーベルトとずっと楽しみにしている」
「それは、まあ、ありがたいことです」
片目をつむり、肩をすくめておどけるしぐさだとか。そこからの話の語り口、展開だとか。そういったしぐさがよく似ていた。
一番他人がみてその人とわかることなのに、何よりもまねることが難しい細かい所作。それはまるで本人のようにそっくりで。
まさかもしかしたらといった考えがジュリアの頭を何度もめぐる。けれどそれ以上の何かをアレンが言うことはなかった。
「そうだ。じゃあこのモイラにまつわる面白い話を一つ聞かせよう。幼いころのルーベルトが起こした話なのだが」
似ている、けれど違う。そう思うことでジュリアは変に過去と今を結び付けないようにする。もし仮にアレンがギルバート本人だとして、もしジュリアが過去の恋人だと言ったとして、一体何が起きるというのか。
もし似ているだけの他人だったら。もしも本人だとして記憶があるわけではないのであれば。もしも私を覚えていたのだとして。
今の落ちこぼれの私と将来有望な第四王子がどうなれるというのだ。
好きで恐ろしくてたまらない。それでもアレンを拒絶しきれず、度々屋敷で話をするにいたっているのは、やはりジュリアもまだもしかしたらが捨てきれないのかもしれない。
それにただただアレンの話は魅力的だった。多様で、語りからもエピソードからもアレン自身の教養や感性の広さを感じる。飽きる暇もない会話はジュリアの心にアレンとの思い出として刻まれていた。
アレンはジュリアにとって大切になっていた。だからどのような形であれ、アレンとの仲が壊れてしまうこともジュリアにとっては恐怖でしかなかった。
「――それでこの間久々にモイラの花を見て、ルーベルトは確信をしたらしい。リアの小説に出てくる花はモイラなのだと」
「それは……見事としか言えませんわね」
考えても仕方のないようなことをつらつらと考えて、気もそぞろに会話をしていればいつしかアレンが帰らなければならない時間になっていた。机に置かれた紅茶のポットが一度メイドによって交換されるほどの時間が経っている。
「――っと、もうこんな時間になったのか。だいぶ話過ぎてしまったみたいだな。君と話をするのは楽しくて、つい話をし過ぎてしまったみたいだ」
ちょうどよくモイラの話が終わり、アレンはそう言って会話を切り上げた。
ジュリアはもうそんなに時間が過ぎていたのかと驚いて、とっさにもう少しだけと引き止めそうになった声を押しとどめる。
「こちらこそ長時間ごめんなさい。……とても、楽しかったです」
引き留める声こそ止まったものの、色々なことを考えすぎたせいだろうか。普段は口にしない素直な感想がジュリアの口からこぼれてしまう。小さな声ではあったがそれを聞き届けたアレンは少しばかり驚いてから柔らかく目を細めた。
「――そうか、そう言ってもらえると僕も救われる」
「アレン、すまないな。そろそろ時間だ」
ちょうどその時ルーベルトが控えめにノックし扉を開ける。
「ああ、今行く」
アレンはそう返事をしてルーベルトの後を追い扉へ向かう。
しかしふとジュリアのほうを振り返って、
「今度は君の話をもっと聞かせてくれないか。小説でも創作でも、先日のお茶会の話でもなんでもいい」
「えと……」
「約束だ」
そういって笑った。そのアレンの表情は、やはりギルバートとそっくりで。運命のあの日と同じようにジュリアの脳裏に焼き付いた。
ジュリアは王宮の奥、豪奢な扉の前に立っていた。
「リズベッタ様、お待ちしておりました」
「ご令姉様はこちらの部屋で」
「いいえ! お姉さまも一緒にいらしてください」
自室で今日も変わらず原稿と向き合っていたジュリアは突如飛び込んできたリズベッタに連れられてあれよあれよという間にこの場所に連れてこられていた。
ジュリアはただならぬリズベッタの様子に、何かただならぬことが起きていることだけは理解していたが、詳細は分からぬままにここにいる。
ただ渋る騎士を押しのけて、リズベッタが開けた扉の先を確認してジュリアはゆっくりと全てを理解した。
ジュリアまず感じたのは血の匂い。次に部屋のソファーに座り込む腕と太ももに大きな傷を受けている騎士ルーベルトの姿を認識する。それで、そのルーベルトが近くに控えているということは。ひときわ大掛かりに何人もの人間が手当や治癒術をかけているあれはつまり。
「アレン王子はどうなっていますの!」
間違いなく第四王子アレンだ。血の気の引いた顔で横たわる彼は人形のようで、ひどく冷たく見える。
「手は尽くしています! 城中から少しでも治癒術の使えるものは集め、医師もみな呼び寄せました。ただ、治癒術なんて高度な術を満足に使えるものはほとんどおらず……王子の傷はひどいうえに魔物の毒まで回っているので解毒中和が精いっぱいで」
「相当まずいですわね……。私も治癒術はそれほど使えるというわけではないのですが」
リズベッタはルーベルトに呼ばれてここに来ていた。厳密には呼ばれたわけではなく、ただアレンが危ないと教えられただけだが。
それを聞いたリズベッタ何を考えるよりも先にジュリアの部屋に飛び込んでいた。直感的に、必ずジュリアを連れていかなければならない気がしていたから。
けれどその直感はあながち間違いでもないようでジュリアの姿を見たルーベルトはほっとしたように息をついた。
「よかった。リズベッタがジュリアを連れてこなかったらどうしようかと思っていたんだ」
「だったらそうと言ってください。まあ……私もそのような気がしていたのですが」
「――――」
「お姉さま?」
リズベッタや城の人間達が何かを言っていた。その言葉はジュリアの耳に届かない。
青ざめた、血の気の抜けたアレンの顔を見て、ジュリアの世界は遠のいた。
一歩、一歩とさまようようにふらつきながら足を進める。国で一番の魔法使いと名高いリズベッタがどうしてもと連れてきた大した能力のないと噂の姉ジュリア。
そんな彼女が現在緊急救護対象の王子に近寄ろうとするものだから、近くで控えていた騎士たちはジュリアを引き離そうと動き出す。
「やめろ」
それを止めたのはルーベルトだった。
「大丈夫です。保証します。ジュリアの、彼女の好きにさせてあげてください」
リズベッタも言葉を続ける。
「ええ大丈夫です。絶対に。アレン王子は助けます。……だから少しだけ。私に時間をくれませんか? 大勢で治癒術をかけるのは魔力が混じってあまり体によくありません。今から私が治癒術を行います。ただ私はまだ未熟で大勢がいる中では集中が切れてしまうかもしれません。ですので三十分。それだけで構いませんのでこの部屋にはお姉さまだけを残してほかの方は外に出ていていただくことはできないでしょうか」
「しかし」
「ルーベルト様は残っていただいて結構です。何かあれば私の首を飛ばしていただいて構わない。ですので、どうか」
「……わかりました」
リズベッタが城の人間を説得する間、引き止める相手がいなくなったジュリアはついにアレンの横たわるベッドにたどり着く。
「どう、して」
血の気の抜けたアレンの表情がジュリアの古い記憶を呼び戻す。巨大なドラゴンに襲われて、体中傷だらけで、ジュリア自身の魔力ももうほとんどつきかけていて。聖女と呼ばれるほどに得意だった治癒術もろくに使うことができなくて。
こぼれていくギルバートの命をどうやっても救うことができなかった記憶。恐怖で手の震えが止まらない。
「いや、いやだ、まって」
すがるように手を伸ばし、ジュリアはアレンの手を握る。先まで冷えたその手はけれどまだかすかなぬくもりを残していた。
ほぼ無意識のままに、今世では一度も使ったことのなかった治癒術を発動させる。白く暖かい光と称されることの多い治癒術の輝きがジュリアとアレンを包み込んだ。
出力を増す光は部屋を大きく包んでいき、気が付けばルーベルトやリズベッタをも包む。
「すごい、これは……」
ルーベルトはあっけにとられてその光景を眺める。気が付けば腕や脚の痛みがいつの間にか消えていた。
「傷が」
「ええ。私ではこんな風にできないわ」
リズベッタも呆然とその光景を眺めていた。圧倒的な魔力、そして圧倒的な素養。これが本物の才能なのだと感じた。
圧倒され、近づくこともできずリズベッタとルーベルトはソファーの近くからジュリアとアレンの姿を見つめる。
「……リア」
「っ!」
その時、小さなかすれた声がした。
「ジュリア」
「――ギル」
アレンは鉛かと思うほどに重たい瞼を押し開ける。視界の先にはジュリア。あまり理解も及ばぬまま、アレンはジュリアに向けて手を伸ばす。
頬に伸ばされた手のひらを、一瞬だけ悩んだジュリアはそっと受け入れた。手のひらにジュリアの温もりを感じ、一瞬思考したアレンは理解し、そして観念した。
「やっぱり君は、マリアなんだな」
「…………」
「会いたかったんだ、ずっと。この世界に生まれて三秒の頃から。初めて君今世の君に会ったとき、言葉のままに心が震えたよ」
ふっと笑いアレンは、一息ついてジュリアの頬に添えた手をおろし額に乗せた。
ジュリアは涙が止まらなかった。何で泣いているのかもわからないまま、流れる涙を止められない。
アレンの手を握る力が抜けて、ジュリアは自身の顔を覆う。治癒術はすでに完了していた。
「マリア、君が君であることをどこかで確信しながら、でもやはりずっと不安だったんだ。君が覚えていなければ、君が僕のことをもう好きでなければって。ましてや今回の僕は王子だ。もし好きだと伝えてこの気持ちが一方通行だったらどうする。取り返しがつかないかもしれない。そう思っていた」
「私も、怖かった」
ジュリアが絞り出すようにそう言う。
その言葉を受け止めて、アレンは重たい瞼を閉じる。
「そうだよな。……しかも僕はたぶんあの日君に酷いことを言った。幸せになってほしいだなんて。もちろん本心からの言葉ではあったが、でも。こうして生まれ変わってみてわかった。一人で生きてるといつまでもいつまでも心に穴が空いているみたいだった」
「ギル」
「だから今ならこう言う。リア、僕の愛しい人、幸せにならなくてもいい。だから生きて、僕とまた巡り合ってほしい。そして今こうして巡り合ったのだから、どうかまた」
「私、ちゃんとただ生きたわ」
アレンの言葉を遮ってジュリアは口を開いた。彼に記憶がなければ、自分をもう好きでなければ。そもそも立場が違うのに。そんな悩みは気がつけば消えていた。
「すべてまっとうして死んで、そして、また生きているの。だから」
今度こそ生きて幸せにしてくれる?
きっとジュリアは生まれて一番の笑顔をしていた。