幼王女の憂鬱
ベアトリーチェ視点のお話です。
本編より残酷描写が多めとなっておりますので、苦手な方はご注意くださいませ。
――笑い声が響く中、目の前で、赤い血を噴き出し人が死ぬのを、初めて見たとき。
――ああ、こうはなりたくないな、と思ったことを、はっきりと覚えている。
私は、とある国の王女として生まれた。
母はいない。
私を生んだ後、とある「出来事」から世を儚み、自ら死を選んでしまったのだと、物心ついたころに知った。
では母のいない私が、不幸な境遇で育ったかというと――そんなことはない。
使用人たちは優しかったし、王族らしい立派に設えられた部屋で、何不自由なく過ごすことができた。
そして何と言っても素晴らしかったのが――「綺麗なもの」を、好きなだけ手に入れられたことだ。
綺麗なドレス、綺麗な宝石。
私を囲む、夜空に浮かぶ星のように、きらきらしたものたち。
幼い頃の私は、欲しいものがあればわがままを言って、使用人たちを困らせたものだった。
……けれど、いつからだろう。
心の底から美しいと思っていたそれらを、素直に喜べなくなったのは。
始まりは、ささいな気付きだった。
欲しがっていた綺麗なドレスを手に入れ、大喜びでそれに袖を通し、ねえ、綺麗でしょう、と、使用人たちに見せびらかして回っていたとき。
無邪気に喜ぶ私を見て笑顔を浮かべる、使用人たちの目が――全く、笑っていなかったのだ。
恐る恐る、周りを見回してみる。
彼らは一様に、良かったですね、お似合いですよ、と私を褒めそやしながら、その目はまるで、――そう、まるで心の底から憎いものを見るような、濁った視線で私を見つめていたのだ。
は、と、息が止まりそうになる。
突然顔を青くして蹲った私に驚き、使用人たちが口々に私へ声を掛けているのすら気づかず、たった一つの疑問が、ぐるぐると頭の中で渦巻いていた。
ねえ、どうして皆、そんな目で私を見るの?
……面と向かってそれを聞くのは、とても恐ろしくてできなかった。
その代わり私は、周りにある色々なものを注意深く観察し、時折聞こえてくる使用人たちの噂話に、こっそりと耳をそばだてるようになった。
入れ替わりの激しい使用人。
常にこちらの機嫌を伺う目つき。
古ぼけたお仕着せに、窓の端から目を凝らせば少しだけ見える、古く、今にも崩れ落ちそうな建物群。
そして噂話に時折登場する言葉――「狂王」「人殺し」「今日はあの子が」「怖い」「憎い」「どうして」……。
幼い頃の私には、理解できないことが、あまりにも多かった。
けれど、自分の知らないところで、何か恐ろしいことが起こっていることくらいは、なんとなく理解できた。
だからと言って自分がどうすれば良いのか、どうするのが正解なのか――そんなことが、分かるはずもなく。
加えて幼い私は動ける場所や出来ることも、制限されていて。
私はどうしようもないまま、使用人たちの濁った恐ろしい目線に身を凍らせそうになりながら、悶々と日々を送るしか無かった。
そして、10歳の誕生日を迎えた日。
私は、王宮内をある程度、自由に歩くことを許されたのだ。
それに勢いづいた私は、まず、窓から見えていた、ひどく気になる場所――古くぼろぼろの建物群がひしめき合っている場所に、行ってみることにした。
久しぶりにわがままを言い、私は戸惑った様子の使用人を1人引き連れ、案内をさせた。
……そこで、ひどく恐ろしいものを見るとは、知らずに。
そこに近づくにつれ――正確には王族が住まう区画から離れるにつれ、周りの様子は段々と、酷くなっていった。
荒れ放題の庭、ボロボロになっていく建物、そして、まるでこの空間に染みついてしまっているような、ひどく陰鬱な空気。
時折すれ違う使用人たちは皆俯き、不健康な程痩せ細っていて、何の光も宿さない瞳は、こちらに気付くと大げさな程恐縮し、怯えの色を宿すのだった。
「……姫様」
「……なあに、マギー」
私たちが通り過ぎた後、逃げるように駆けていった使用人をぼんやりと見送る私に、今まで黙って道案内をしていた使用人のマギーが話しかけた。
「姫様、もう、これ以上は。こちらは下級使用人たちの居住区です、姫様がご覧になるべきものは、何も」
そう、私に言い募る彼女は、いつどんな時でも、冷静沈着な人物だ。
そんな彼女の瞳に、はっきりとした恐怖が、滲んでいて。
それに対して何か言おうと口を開いた、その瞬間。
「―――――!!!」
悲鳴が、響いた。
はっと、マギーの背後、下級使用人たちの居住区だという場所に続く道を見る。
悲鳴は間違いなくそちらからで――いつも冷静に振舞っていて、私よりずっと年上なはずのマギーが、愕然と目を見開き、我が身を抱きしめ、小さく震えていたのだ。
「あなたは、ここで待っていて!」
「っ、姫様!?」
思わず走り出す。
マギーの様子から見ても、何か尋常でないことが起こっているのは間違いない。
恐らく、近づかない方が自分の為なのだろう。
けれど、どうしても放っておけなかった。
……それに。もしかしたらここで使用人たちの役に立てば、彼らが私のことを、怖い目で見ることも無くなるかもしれない!
――嗚呼、なんて愚かで、向こう見ずな行動だったろう。
そこでどんな凄惨な光景が待っているか、私は、知らなかったのだ。
しばらくすると、やがて人が集まっている場所に辿り着く。
彼らは私に気付くと、驚いた顔で道を開けた。
彼らの横を通り過ぎる時、どこか汗臭い、不快なにおいがぷんと漂う。
満足に身体も洗えていないのかと考える間もなく、今度は強くなってくる別のにおい――それは、鼻を衝く、鉄の。
「ははははははは! ああ、血が面白い位に噴き出す! よくもまあこれだけ……くく、薄汚い身体がまだマシに見えるというものだ、なあ?」
「ええ、ええお兄様……、はあ、なんと哀れな悲鳴でしょう。ねえ、もっと鳴きなさい、鳴きなさいなおまえ、……あら、もう終わり? ねえお兄様、もう少し刻みましょうよ。そしたらまだもう少し鳴いてくれるというものではない?」
赤い液体が滴る剣をだらりと下げ哄笑する、金髪の若い男。
そして男にしな垂れかかり、うっとりと甘えた声で囁く、同じく金髪の若い女。
そして彼らの足元に倒れ伏す、痩せ細った、本来その体内に収まっていた筈の単色に塗れた、ひと、であった、もの。
「あぁ? 目が悪いなキャシー、見てみろ、もうこいつは燃料切れだ。それより」
「お兄様」と呼ばれた男は、突如ぐりんとこちらを見る。
その瞳に浮かぶ、暗く深い狂気。それに身体をこわばらせた私の方に、男は一歩足を踏み出し――
「っ、やめろ!」
その声が聞こえたからか、それとも全く関係は無かったのか。
確かに私に標的を定めたように見えた男の血濡れた剣は、私のすぐ隣、目を見開き、小さく身体を震わせながらこちらを庇うように手を広げようとした男性の首に、吸い込まれ。
丸いものが飛んでいく。
ぐしゃ、と、変な音がする。
同時に、鮮血。
赤い、紅い、どろどろしたものが視界を覆う。
生暖かい温度が、私を抱きしめるように降り注ぐ。
「ほら。新しい玩具で遊んだ方が、なあ――新鮮で面白いじゃないか!」
はははははははは!
哄笑。
そうですわね、でも、今度は鳴かずに壊れてしまったわよお兄様――と、少し不満そうに頬を膨らませる金髪の娘。
「―――――ぁ」
そして、呆然と目を見開きふらふらと膝をつく、真っ赤に染まった、私。
赤い。紅い。目の前には肉片と化したひと、首のなくなったひと、笑う金髪の2人組。そこに立ち込める狂気、恐怖、絶望、そして周りからの――諦め。
「あら」
まるで今気付いたように、金髪の娘が私を見る。
「お前、知らない顔だけれど――いいえ、その瞳の色。知っているわ」
お前、末の妹ね?
にたりと笑う金髪の娘、あぁ、そういえばいたな、とぞんざいに頷く、金髪の男。
それは、目の前で凶行をいとも容易く繰り広げたこの2人組が、自分の家族であると。
「―――――ぅ」
目の前が真っ赤で、頭の中は真っ白で。
突如襲い来た感情の濁流と胃からせりあがってくる吐き気をどうすることも出来ず、明滅する視界の中、最後に浮かんできたのは。
――こんな風に、なりたくない。
そんな子供じみた、簡単で単純な反骨心――けれどもこれからあの日までの私を支える信念となった、たった一つの感情だった。