シグニの村
革命終結から、更に数か月後。
復興が進む各地、その地方拠点の一つ――かつて第6王女ベアトリーチェの領地であった辺境の村・シグニに、降り立つ人影があった。
彼は灰色の髪に、同じく灰色がかった青の瞳を持つ、中々の色男――かつては「グレイ」と名乗っていた革命軍元参謀・エディであった。
彼はその村を、どこか懐かしそうに見渡す。
ここには数度しか来たことが無かったが、長閑ながら活気のある村の雰囲気は、既に滅び去った彼の生まれ故郷によく似ていた。
「あ」
と、そこに和気あいあいと話す村人の集団が通りかかり、灰色の青年を見つける。
途端に不愛想になる彼らの様子に苦笑しながら、彼はとある人物の居所を聞いた。
しぶしぶ、といった様子で教えてくれた彼らに丁重に礼を尽くし、エディはそちらへ向かう。
目的の人物は今日も、家の中に居るとのことだった。
彼は逸る心を抑えながら、足早に道を辿る。
遠目に見えた家は、集落よりも少し離れた高台にあった。
けれども近づくにつれ、道についた足跡の数から、そこに頻繁に村人たちが訪れているであろうことが一目で分かる。
特に一番真新しい、小さな沢山の足跡は、この足跡の主たちが今も家に滞在していることを示していた。
扉の前に立つ。
部屋の中から、子どもたちのはしゃいだ声と、女性の小さな、優しげな声が聞こえてくる。
彼は深呼吸し、呼吸を整え、それでも少し迷ってから――扉をコンコン、とノックした。
「――はあい、どなた?」
「どなたー?」
「あ、こらだめよ、誰か確かめてから開けないと――あ」
女性の応えからすぐに、小さな足音がぱたぱたと近づき、勢いよく扉が開かれる。
そこから顔を出したあどけない顔の少女と、後ろからこちらを覗き込む子どもたち、その更に後ろで慌てた様に腕を伸ばす、美しい、金髪の女性。
「……お元気そうで、何よりです。……姫様」
エディの表情が、くしゃりと崩れる。
それほど広くない家の中、窓際のベッドで上体を起こしながら子どもたちの相手をしていた、金髪の美女――かつてエディの主人であった末王女・ベアトリーチェは、驚いたように目を見開いた後、ころころと笑った。
「ええ。おかげさまで、とっても元気よ。……ネズミさん」
ぶうぶう文句を言う子どもたちを何とか説得し、今日の所は集落に帰ってもらい、エディは数カ月ぶりに、彼女と2人きりになることができた。
横に避けてあった大人用の椅子を持って来て、彼は彼女と向き合うようにして腰掛ける。
「……今は、アトリと名乗っているのでしたか」
「ええ、そう。ふふ、短くて、綺麗な響きでしょう? 自分で考えたのよ」
「それはそれは。はい、とても、良い響きに聞こえます」
……沈黙。やはりあんなことがあったからか、2人の間にはぎこちない雰囲気が流れる。
「……良かったのかしら」
ややあって、ベアトリーチェ――アトリは、ぽつりと呟く。
「他の王族は、みんな死んでしまったのに。報いを受けたのに――私だけ、のうのうと生きている」
「姫様」
「本当はね、私、ずっと生きたかった。目の前でいとも容易く死んでいく人たちを見て、それを見て楽しそうに笑う家族を見て、絶対に、ああはなりたくないと、思った。……でも。大きくなるにつれて、周りが――あいつらの目が、悍ましい手が――」
「姫様、もう」
「……生きたかった。死にたくなかった。でも、生きる意味も、よく分からなくなった。けれど変わらず、ああはなりたくないという気持ちがあって……出来ることを、精一杯、やった」
「……」
「でもやっぱり、私は王族の娘で――国のあちこちで、お腹を空かして死んでいく人たちがたくさんいたのに。そんな時、私は王宮で、食べきれないくらいの豪華な食事を頬張っていた。……恵まれていた。……やっぱり、私は罰を受けるべきじゃあ、なかったかしら」
姫様、と、エディは彼女に呼びかける。
彼女はいつの間にか俯かせていた顔を、ふっと上げて、かつて側仕えだった青年の顔を見る。
彼は昔と変わらぬまっすぐな視線で、彼女の瞳を射抜いた。
「……正解は、分かりません。でも、もし貴女が言った通り、罰が必要だったとしても。俺はもう、十分だと。そう、思います」
「エディ……」
「貴女は王族の中でも、決して強い立場ではなかった。後ろ盾もいない中、いらぬ疑いをかけられぬように振舞いながら、沢山の人々を助けていた。……この村が良い例です。彼らは今でも貴女を慕い、貴女の敵だった俺を嫌っている」
「敵、だなんて」
「いいえ、彼らは間違っていない。俺は貴女を断頭台にまで追い込んだ男だ。本当ならば革命がなされた時点で、貴女の恩に報いることを第一に考えるべきだった。……俺が参謀にまでなれたのは。そう、密かに仕込んでくれたのは、貴女だ。俺に学をくれた。情報をくれた。……命を二度も、救ってくれた。……感謝しても、しきれない」
そう言って、エディは彼女に深く、頭を下げる。
側仕えの時でさえ、彼がここまで深々と、頭を下げることはなかった。
「どの面下げて、というべきでしょうが。……お願いですから、生きてください、姫様。貴女にはその資格がある。……これからこの国がどう変わっていくのか。貴女に、見ていてほしい」
「……エディ」
彼の名を呟き、彼女は沈黙する。
エディに言われた言葉が、ぐるぐると頭の中を回っている。
しばらくして、それなら、と、彼女は呟いた。
「ねえ、それなら。私も、おまえにお願いをしても、良いかしら」
「! ……ええ、何でも。貴女が望むことであれば、この命にかけて」
「まあ。騎士みたいなことを言うのね」
アトリが、ころころと笑う。
そして笑いを収め、彼への願いごとを口にする――と、思いきや。
彼女はなぜか、ええっと、とか、でも、とか、もごもごと口を動かしつつ、はっきりとそれを口にしない。
「……姫様?」
「ええと、……あの、その」
「はい」
「その……やっぱり、これは」
「……姫様」
「……うぅ」
遂には何も言わず縮こまってしまった彼女に、彼は身を乗り出してこう言った。
「姫様、遠慮せずなんなりとおっしゃってください。俺は全身全霊を掛けて、その願いにお応えします」
「ひいい」
そしてのけ反られた。何故だ。
「う、うぅ……言ったわね!? その言葉、取り消そうったってそうはいかないからね!?」
「ええ、勿論」
大きく頷き、相も変わらずまっすぐこちらを見るエディの視線を、今だけは見返すことが出来ず。
アトリは両手で顔を隠しながら、ぼそぼそと願いを呟いた。
「……っしょに」
「はい?」
「……い、っしょに! おまえが、あなたが私に、生きろと言うのなら。……あなたも……お願いだから……私と、一緒に、生きて!」
「……は?」
思ってもみない言葉だった。
てっきり、物品や、住まいの改善か何かを、求められるとばかり。
私と、一緒に、生きて。
……一緒に……?
「……あの、姫様? ええと、それは、つまり」
「もう、まだ言わせるの!? お馬鹿!」
「ばっ……いやでもあの、しかし」
そろそろと、彼女の顔を見る。
両手で隠した彼女の顔は――隠しきれていない耳なんかは、もう、真っ赤、で。
やがて両手の隙間から現れた彼女の美しい薄紫の瞳は、羞恥と、得体の知れぬ熱で潤んでいて。
その言葉がどういう意味か――それを理解した瞬間、エディの顔がぼぼぼ、と赤く染まる。
「……姫様」
「……なによう」
「本当に、良いのですか。俺は、貴女を追いつめた存在なのに」
「それは私が望んだこと。あなたは立派にやってのけた。……逆に、感謝したいぐらい。だから、もう、良いの」
「そう、……そう、ですか、そう……」
有難うございます、と。顔をくしゃくしゃにして、彼は小さな声で、そう呟く。
ややあって、彼はふるふると首を振り、顔を改めたものにして。掛けていた椅子から立ち上がり、そっと椅子を遠ざける。そして不思議そうにこちらを見ている王女の前で――ゆっくりと、跪いた。
「えと、あの……エディ?」
「姫様」
「は、はい」
「……ずっと、考えていたことを――、決して、言葉にするまいと、思っていたことを。今、ここで、お伝えしても良いでしょうか」
「な、なんでしょう」
「姫様、……いいえ、アトリ様」
お願いですから、俺の伴侶になってくださいませんか――
その言葉の意味を、ゆっくりと理解したとき。
かつて王女だった、いまはただのアトリとなったひとりの女性は、顔を真っ赤にして、跪く青年の手を取り。
花が咲くような笑みを浮かべながら、絶えず流れゆく涙を、その時だけは、気にすることもなく。
何度も何度も、頷いたのだという。