一番、大事なこと
エディの特訓は、かなり長引いていた。
こんな狂った国だ。上級使用人といえども、それほど多くの作法を覚える必要はない。
……かつて美しく、穏やかだった時代から続いていた儀式や礼法は、その殆どが現王によって廃れてしまったから。
だから通常、どんなに田舎から来た使用人であっても、1週間もすればその教育は終了し、人々に交じって働き始めるのが常だ。
けれど、エディは違う。彼は1か月が経とうとする今でさえも、側仕えとしての仕事を許されていない。
それは私が、というより、使用人たちが渋っているのだ。
あの子はまだなのかと訊く度、様々に言い繕う彼らはきっと、あることを恐れている。
そしてそれが判るからこそ、私も静観していた。が、このままではどうにも埒が明かなそうだ。
私はエディを任せていた使用人、ラルフを呼び出し、こう言った。
「あの子ネズミを連れてきなさい」
「は、しかし、殿下」
「うるさいわね。私の言うことが聞けないの?」
じろりと睨む。それだけで、ラルフは冷や汗を垂らし、もごもごと口籠った。
「明日には連れてきなさい。いいわね」
「……は」
そうして、翌日。エディは私の前に連れてこられた。
初めて会った時と変わらぬ、真っすぐな目。
私が好きな瞳。
ああでも、やっぱり、と、心の中でため息をつく。
彼は、何も変わっていない。
それはつまり、この少年はそれほど頭が回る方では無い、ということで。
私はゆっくりと片手を上げ、テーブルの上の茶器を指し示す。
「お茶を淹れなさいな」
「……」
渋々、といった風に淹れられたものを一口、嚥下する。
余計なものは入っていないし、味も悪くない。
こういう技術的な修行自体は、ちゃんとしていたようだと思いながら。
私は思い切りカップを床に叩きつけた。
「なッ」
「不味い。飲めたものではないわ」
愕然と目を見開くエディと、息を呑む使用人、平然とした私。
少し冷めた茶色の液体が無残に飛び散り、彼の靴と私のドレスの端にかかる。
「ああ、汚れちゃったじゃないの」
そう言って、私は持っていた扇子で粉々に砕け散ったカップを指す。
「片付けておきなさい」
「……」
「いいわね?」
刺すような視線を感じながら、身を翻す。
……もう、こういうことをしても、それほど心は痛まなくなってしまった。
『綺麗好きな末王女』が使うだけあって、あのカップだってそれなりの逸品だった。
少し残念に思う感情をため息で逃しながら、私は考えを巡らせる。
さて、どうやってあの子をいじめてやろうか。
その日は1日中、エディを側に侍らせ、仕事をさせた。
お茶を淹れさせる。不味いと彼に中身をかける。
書類を整えさせる。揃っていないと床にぶちまける。
代筆をさせる。字が読めず書けないことを嘲笑い、びりびりに引き裂く。
靴を用意させる。手つきが拙いと罵り、足で頭を小突く。
今の私が思いつく限りの悪行。
使用人たちの顔色がどんどんと悪くなっていき、エディの目つきはまるで、私を射殺さんばかりだ。
そして、夕方。私は、さて、と、エディを私の目の前に立たせる。
お茶をかけられ、小突かれ、ぞんざいに扱われた彼の身だしなみは、朝と比べかなりの乱れようだった。
そして凶悪に光る灰の眼、顔はゆがみ、今にも飛び掛かってきそうな雰囲気をまとう、小さな体。
それらを上から下までじろじろ眺めた後、私は深くため息をついた。
「駄目ね。まるで駄目。ねぇラルフ、あなたこの一か月、この子ネズミに何を教えていたのかしら」
「も、申し訳」
「なんで!」
エディが叫ぶ。
「なんで、この人が悪いことになる!」
四方八方からひっ、と息を呑む音が聞こえてくる。
「……そういうところよ」
深く、ため息。まずは、と、私は彼を半分開いた扇子で指し示す。
「髪はあちこち跳ねているし、服は縒れて汚い。おまえに身だしなみを気にする心は無いのしかしら」
「それは、あんたのせいだろう!?」
「黙りなさい」
「嫌だ!」
「……あのね」
ぴしゃりと扇子を閉じ、私は椅子からゆっくりと立ち上がる。
彼から見れば、私があんまりにも筋が通らないことを言っているのは分かっている。それに反抗したい気持ちも、充分に。
ああ、けれど、そんなことでは。
私はいい加減、彼のわからなさ加減に頭に来ていた。
「おまえ。か弱く、無力な、子ネズミさん。この王宮で、一番大事なことは何か、分かる?」
かつ、かつ。静まり返った部屋に、私の靴の音が響く。
低い位置にある彼の顎を扇子で持ち上げ、至近距離で灰の瞳をじっと見つめる。
「……っ」
彼は少し臆したのか、僅かに顎を引いたあと。それが恥だというように、怒りで輝く瞳でこちらを睨みつけてきた。
それをいっそかわいらしく思いながら、私は彼の耳元で囁く。
「それはね――『生き残ること』」
「……は?」
「その為には、頭を使いなさい。擬態しなさい。隠しなさい。それを――その、願いを」
瞳を通り越し、彼の心の奥底にまで刻み付けるように。
「死んでくれないかと、おまえは私にそう願ったわね」
彼の顎を開放し、一歩、二歩、下がってから。
「いいわ。結構なことじゃないの」
私は、彼に対してにっこりと微笑んで見せた。
「けれど」
すぐに、真顔に切り替えて。
「その前に死なれては困るのよ」
そう言い捨てて、ひらひらと手を振り。私はぽかんと目を見開く彼を下がらせた。