灰色の少年
お待たせいたしました。前日譚に続く、本編の時間軸でのベアトリーチェ視点です。
残酷描写が苦手な方は注意してくださいませ。
今年もよろしくお願いします!
あれから、数日が経った。
あの日、私を罵倒した少年を、私は有無を言わさずその場で捕らえさせた。
使用人に命じ、身体にこびりついた垢を落とさせ、髪を整え、上級使用人と同じ服を着せ。そしてそのまま、短期間で最低限の礼儀を叩き込ませた。
そうして、今。主である私の前に立ち、教わったばかりの所作でぎこちなく頭を下げた彼の姿を見て、私はへえ、と眉を上げた。
「おまえ、意外と見られる姿をしていたのね」
「……」
無言でこちらを睨み付ける少年。
その瞳は数日前と相変わらずで、私は小さく目を細める。
彼は真っ直ぐな瞳をしていた。
刺すようにこちらを見据える、真っ直ぐな灰色。
憎しみを隠そうともしない、愚かで純粋な彼の瞳。
それほどまでの憎悪を抱いておきながら、彼は捕獲され、連行されるときも、その過程で私と距離が近づいた時でさえ、握られた拳を振るうことは決してなかった。
愚かしく、心のままに振舞いながら、決して、人を――それが心の底から憎い存在であれ――傷つけることなんて考えもしない、常識的な倫理観を保った、垢まみれの小柄な少年。
私は彼を、その在り方を。
とても、とても綺麗だと、心の底から、そう思ってしまったのだ。
「それで。おまえ、名前は」
「……」
「まぁた、だんまり?」
生意気ねぇ、と不機嫌そうに言いながら、私は内心ため息をつく。
彼はあれから、私に対しても、そして私付きの使用人に対しても、誰に対しても口を利かなくなっていた。まあ、彼の内心を慮ってみれば、それは当然かもしれないけれど。
実はもう、私は彼の名前を知っている。
彼がここに来ることになった、簡単な事情も。
彼の最低限の教育を待つ間、下級使用人の居住区画を視察に行った際、心配顔のジョンに、こっそり教えられたのだ――あの子、エディには注意した方が良い、と。
「最近、王宮には、その……王族の方々を害そうとする者たちが少しずつ、入り込んでおります。エディと一緒に入った者たちは全員、その仲間と見られますので……恐らく、あの子も」
ですので、注意してくださいませ、と、周りに誰もいないとき、念を押すようにそう言った彼を、私は精一杯高慢で意地悪気な顔で、ぎろりと睨みつけた。
「おまえ、それをわざわざ私に教えるなんてどういうつもり? 気でも狂ったのかしら」
「いいえ殿下、そのようなことは。……ただ、私は」
そこで言葉を区切り、いつもおどおどしたように下を向いていたジョンは、初めて私の目を真っ直ぐ見て、こう言った。
「自分の目を、耳を、勘を。何より信じておるだけです」
「―――……」
その時。私の稚拙な演技は、彼にはお見通しだったのだと知った。
そのうえで彼は私を尊重し、こうして誰にも知られないタイミングで、王族である私に忠告するという、危ない橋を渡ってくれたのだと。
彼のうっすらと入った目尻の皴、どろどろとした憎しみを宿さない温かな光は、かつて失った大切なあのひとを思い出させて。
「……有難う、ジョン。嬉しく思うわ。でも、あまり危ないことはしないで」
そうして私は少しだけ、本来の私で笑うことが出来たのだ。
「姫様?」
そっとささやく声がして、私は過去から引き戻される。
声をかけたのは、私の後ろに控えていた、使用人のメニエだった。ぼんやりしていた私の様子を不審に思ったようだ。
なんともない、という仕草をしつつ、さて、と私は目の前の少年――エディに向き直る。
知っているのに名前を訊いたのは、彼自身の口から教えてもらえる方が信頼関係を築けるかと思ったからだ。けれど少年は口を割る様子もない。
さて、と考える。
選択肢は概ね2つだ。無理矢理名前を言わせるか、もしくは、別の名前で呼ぶか。
少し考えて、私は結局後者を取ることにした。
「まぁ、いいわ。名乗らないなら、おまえは今日から「ネズミ」よ。目も髪も灰色なんだもの、それがお似合いというものよね?」
くすくすと笑いながらそう言い放つと、少年は反抗的な目でこちらを睨む。予想通りではあったけれど、私はその反応に少しがっかりしながら、首を傾け、目を細める。
「反抗的な態度を取れるのは今のうちよ。死にたくなかったら……分かるわよね?」
「!」
少年の気丈な顔に一瞬、恐怖が走る。
脅したくはないが、それをまったくやらないというのも不自然になってしまう。とりあえずこのくらいで良いだろう、と思って、私は使用人に合図をし、少年を下がらせた。
そしてメニエたちにも用事を言いつけて、私は部屋に一人になった。
ふぅー、と、大きなため息が出る。思ったより肩に力が入っていたようだった。
彼とはできるだけ早く、最低限でも信頼関係を築いておきたい。けれど、あまりスムーズにはいかなそうだと、先ほどの様子で否が応でも察せられた。
彼は本当に最適な人材なのだ。
年が近くて、私を憎んでいて、暴力的ではなく、私が、嫌悪感を抱かない、異性。
私よりいくらか年下のようだから、今はやせ細っていても、栄養を摂り、鍛錬を行えば、体格だって良くなる筈。
加えて幸運にも、王族に反抗的な人々――おそらく反乱組織とか、革命組織とか、そういうものだろう――とも、通じているのだという。
こんなに完璧な存在はなかなかいない。
彼があの時声を上げてくれたのは、本当に幸運だった。
……でも、だからこそ、焦ってはいけない。
たとえ身の安全の為に、一刻も早く、頼りになる存在が欲しいと願っていても。
気が急くまま行動したって、良い結果は絶対に出ない。
私は目をぐっと瞑ったまま、戻ってきた使用人に声を掛けられるまで、しばらくその場に立ち尽くしていたのだった。