最期まで見栄っ張り!(尚、うちら夫婦が死んだ時は地味な葬儀で良いって意見で一致した模様)
私ら夫婦はそれ程信心深い方ではない。
取りあえず死んだらお互いの家名が途切れる可能性が高いんだけど、特に気にしてない。
私んちの場合、現在一人暮らしの弟が結婚してくれたらまだワンチャンあるんだけど、もう37だしなぁ……。
ちなみに旦那の弟も現在30代後半で独身。
以前に比べて独身率が高いってのは、実際にそうみたいだ。
ま、それでも当事者の私ら世代はのほほんとしてる。
例えば皇族のような高貴な家系ならまだしも、旦那の実家なんてぶっちゃけたまたま長く続いただけの小金持ち農家の家系(旦那の祖父が亡くなった時点で離農してる)だし、だいたい旦那の遺伝子も私の遺伝子も、他のそこいらを歩いている一般人の遺伝子とそれ程変わんない。
いや、むしろ劣っている事も考えられる。わからんけど。
そりゃ最近は赤ん坊の出てくる小説を書いてて(ノベプラで書いてます)、やっぱり赤ちゃん欲しかったかな?なんて思った時期もあったけど、多発性硬化症を発症して車椅子生活になってから早5年。
この小説の舞台となっている、義父が亡くなった30代前半の頃ならワンチャンあったかも知れないけど、子供を生むなんて今となってはファンタジーの領域でございます。
私には目に入れても痛くないほどかわいい姪っ子が姉と義姉に1人ずついるし、猫も2匹飼っている。
その子達さえ健やかに過ごしてくれたらそれだけで良い。
私はこんな体になっちゃった事だし、好きに生きてくって旦那と話して決めたんだ。
さて、話は当時に戻ります。
仏教の世界には本名である俗名と、亡くなってから名付けられる戒名があるんだけど、さらにもう1つ、院号ってオプション(?)がある。
叔母が院号は絶対必要だって言うので、この事もイケメン坊主に言っておいた。
今回を書くにあたって調べなおしたんだけど、元々これって天皇の死後に名付けられたのが由来らしく、それが私ら高貴でも何でもない一般人にも浸透したみたい。
って言うか、なんで死んでるのにわざわざ見栄張るんだか。
そこまで見栄を張りたいなら生き様で見栄張れるように、生きているうちに頑張れよ!って思うのは私だけだろうか?
ちなみに旦那の実家は比較的その宗派の総本山が近い(って言っても車で1時間ほど)から、直接そこへ院号を貰いに行く事になった。
その途中で話してたんだけど、多分江戸時代辺りの死生観がそのまま残ってるんだろうって話だ。
どうも私は死後の世界ってのがあるだなんて考える事が出来ない。
だいたいそんなの証明されてなんかいないしね。
例えば臨死体験した人が三途の川を見たとか、自分の死にかけの体を上から見たとか、はっきり言ってそんなの必死に生きようとする脳が見せた夢みたいなもんなんだと思ってるし。
いや、私の周りにも霊が見える云々言ってる不思議ちゃんがいるけどさ、ちょっときつい言い方すると、まず自分の見たものを信じるよりもそんなのが見えてる自分の脳みそを疑うべきなんじゃない?って思うんだよね。
そんな私達夫婦は取りあえず現世とファンタジーが交差する旦那の宗派の総本山にやってきた。
院号の件については、既にイケメン坊主に話してあって、もう既に出来てるらしい。
そして寺務所に行き、院号をもらう。
「それでは15万円お納めください」
にこやかな笑顔でエグい金額をさらりと口にする坊主。
いや、事前に金額は聞いてたけど、わざわざ名前をもらうだけで15万って多くない?
こんな事書くと怒られそうだけど、印象的には価値があるかも知れないけど、実質的な価値の無い、生産性も無い物につける値段じゃないやって思った。
そう、はっきりと思う。
お金の使い方としては現代に全くそぐわない。
こう書いたら拝金主義だと思われそうだけど、現在の私が生業とする投資家目線で言わせてもらうと、同じお金出して『金のなる木(金融商品)』を買った方が、よっぽど生産性が高い。
って言ってもそれは心の中にしまい込んで、結局周りの圧力に屈した形でお金を出したんだけどさ!(血涙)
そう、私はこう言いたい。
『見栄を張りたいのなら、生きているうちに見栄を張れる生き方をしろ!』
金額の問題ではなく、そのお金を納得して出せるかどうかなんだよね。
私って基本的にドケチだしさ。