2話 事、成る
取っつきにくいジャンルですかね笑
明応2年3月某日、密使が畠山基家のもとにたどり着いた。
「...ほう。細川殿からの密書とな?」
「はっ。いかがなさいますか?」
「...その使者は密書を渡させたあとは城下町で待たせておけ。書を読んだ後に下知を下す。この部屋には誰も入れるでないぞ。」
「はっ。」
家臣が退出すると、基家は密書を取り出し、目を通した。
基家に乗らぬ理由はなかった。なぜなら時の権力者で、義材の側近でもある政長は、父・義就の長年の政敵であったからである。
父の仇であり、自らをどのみち追ってくるであろう強敵。
ならば力を持つ政元に与して、こちらから奴らを叩けばよいだけのことである。
もちろん、不安材料はある。しかし、齢24、血気盛んな基家に「拒否」の2文字は存在しえなかった。
3日後、密使は京に戻った。
基家は密かに軍備を進めていった。
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ここで少し、足利義材という人物の話をしよう。
義材は室町幕府10代将軍という肩書きこそ持っているものの、その立場は決して義尚の後を継ぐにふさわしいものではなかった。
なぜなら義材は、前話で名前のみ登場していて、応仁の乱を学習する時に義務教育で一度は必ず見聞きするはずの、足利義視の息子だからである。
義視は本来、義政の弟で、僧であったため、政争に関与する運命にはなかった。義政の軽率な後継ぎ決定に振り回され、しかし強かに立ち回り、義尚の死後に瞬く間に実権を握ったのである。
義材はその恩恵を受け、叔父の息子、いわゆる従兄弟という間柄ながら義尚の後を継いで将軍となった。
彼は若年の頃、政元に政治を任せることを約束していた。しかし、歳を取るにつれてその約束を破り、自ら大規模な軍事作戦を行うようになった。
これが政元の琴線に触れた、もしくは政元を恐れさせたと考えられている。
また、政元はそもそも最初から義材の将軍就任に反対しており、当初から後の義澄、足利清晃を推していた。
これは伊勢貞宗も同様で、この事も政変に影響を及ぼしたと考えられる。
日野富子は当初、義材の擁立に賛成していたが、それはあくまでも義材、そして義視が適度な権力を行使するという前提でのことで、専横を始めた2人に反感を覚えていたから、当初の主張を翻して政変を推進させたのだと思われる。
畠山政長が重用されたのは、応仁の乱以降分裂していた畠山家の再統一を推し進めるためと考えられ、それが実現されれば政元には強敵となり、同時に、政元の父であり、応仁の乱東軍大将の細川勝元が削り続けてきた畠山家の力を復活させることになる。
細川家は窮地に立たされていたのだ。
また、基家は畠山家再統一の煽りを受けて滅亡寸前までに追い詰められており、いくら力を持っているとはいえ、このままでは没落してしまう。
飛び付かないはずはなかった。
つまるところ、早雲の提案は時代の流れを読んだ、非常に見識があることが分かるものであったのだ。
閑話休題。
明応2年4月。
厳かな出陣式を経て、遂に義材は政長らを連れて、畠山基家追討に向かった。
度重なる基家の反抗に、無視できなくなったからである。
権勢を誇ったこの2人の凋落の始まりである。
合戦は長く続いたが、反乱分子である基家が幕府直営軍に敵し得るはずもなく、基家は河内国高屋城に籠ってしまった。
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「室町様、そろそろ基家を滅ぼすことが出来ます。それもこれも全て、室町様のお陰にござりまする。」
「さもあろう。政長、そちも私によく尽くしてくれる。基家を滅ぼしたあとは、天下に我ら幕府ありを示そうぞ。」
「はっ。」
政長は、心底義材に服していた。
無論、政長の才覚は義材よりも上であることに間違いはなかったが、それでもやはり、政元よりは下である。
政長と義材はもちろん、しぶとく耐え続けたことが功を奏していたのもあったわけだが。
政長は義材にではなく時の運にもっと感謝すべきだったのだろう。
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清晃は、心底うんざりしていた。
毎日毎日同じことの繰り返し。由緒ある武家に生まれていながらやっていることは坊主の修行。
ああ、何たる苦痛!
曲がりなりとも足利一族、いつかはこの手で剣を握り、そして権力を掌握することを夢見ていた清晃からすれば、この現状は退屈以外のなにものでもなかった。
それもこれも全て、あの時のせいだ!
清晃の脳裏には、ある記憶が巡りめぐっていた。
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長享3年3月、足利義尚、永眠。享年25歳。あまりにも若すぎる死だった。
死因は酒の呑みすぎによる脳溢血とされているが、荒婬によるという説もある。
だが、そこは問題ではない。
この頃と言えば、応仁の乱がまだ記憶に新しい頃。
応仁の乱の原因と言えば、そう、後継ぎ争いであった。
日本史上最大にして最低の後継者争いの余韻も傷跡も残るまま、また新たに後継者争いを行うことになった足利家。
この頃からすでに、室町幕府の崩壊は決定的であった。
そんな時、清晃はその真っ只中にいた。
政元がその時に擁立していた将軍候補こそが、清晃だったのだ。
この陣営には伊勢貞宗、つまり早雲の父親も加わっていた。
しかし、義材が将軍となった。義視、さらには富子の権勢の前に、才能、血筋ともに申し分のない家臣であった政元でさえ、立ち向かえるはずもなかったのである。
あの時のことは未だに清晃の脳裏をよぎる。朧気ながら覚えているのは、政元が自身へ跪く姿と、それへの異様なまでの優越感だった。
清晃は、誰よりも本能的に権力を欲していた。そういう人間だったのだ。
それだけに、僧となってもその欲を捨てきれず、結果このように修行に身が入らずにいつも無気力に生きているのだ。
だが、万物は流転する。海辺の巨岩も、膨大な時が流れれば潮に削られ、消えてしまう。
政元の使者は、すでに彼のもとを発って清晃の住む香厳院に近づいていた。
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政元は自らの屋敷をそわそわとしながら歩き回っていた。
果たして、この計画は本当に成功するのだろうか。
うまく行っている時に、人は不安を抱かない。だが、危うい時、もしくはうまく行きすぎている時、人は不安に陥る。
そんな風に政元が、思案を巡らせていると、家臣が駆け込んできた。
「申し上げます!清晃様、ご到着されました!」
「おお!!そうか!」
政元は顔を上げた。
賽は投げられた。あとは駒を進めるのみである。
政元は、進軍の下知を出した。
夜の闇に紛れ、政元軍は、義材の関係者邸宅や、弟、妹が入寺している寺に進軍を始めた。
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反乱は、1日にして成った。
4月22日の挙兵からすぐ、23日には清晃が新たな将軍になることが発表された。
まさに電光石火の勢いであった。
政長を河内守護職から解くことも同日、発表され、権勢を誇った2人はついに、坂道を転がり落ちるように転落していくこととなる。
反乱から5日、清晃はついに、還俗し、将軍に就いた。
名を、義遐という。