-5-
その日の夜、村山広治は一人で寿司店の暖簾をくぐっていた。
「来たぜ」
「来たか、小役人」
店主はこちらを振り向きもせず、しきりに包丁を動かしている。
「いらっしゃい、村山さん」
若い女が、笑顔で迎えてくれる。
「利害関係者の店に来たりしていいのか」
店主が憎まれ口を叩く。
村山はカウンターを挟んでその真向かいに座ると、すぐにやり返す。
「てめえの金で飲み食いするのに、何の文句がある。お前のようなことを言っていたら、公務員はどこも行くところがなくて、みな飢え死にしちまう」
「おう死んじまえ、死んじまえ。日本がもっといい国になる」
「お父さんったら……。ご免なさい、村山さん」
「いいんだよ、みっちゃん。いつものことなんだから」と苦笑いで応じる。
しかしすぐに店主の方に向き直り、負けずにまた言い返した。
「おい一志、お前の方こそ店がガラガラなのに、そんなに寿司ネタばかりたくさんこさえてどうするんだ」
店主は大場一志と言って、村山とは学生時代からの友人だった。
互いに遠く離れた所に就職してからは、そう会うこともなかったが、手紙などで交流は続いていた。
一年半ほど前に偶然こちらの方に単身赴任することとなり、足繁く店を訪れるようになったのである。
大場はしばらく黙々と手を動かしていたが、切った寿司ネタをケースに並べると、村山を睨んだ。
「いくつこさえようと、俺の勝手だ。だいたいここはな、お前みたいな貧乏役人が来られるような所じゃないんだ。なんだ、寿司の食べ方も分からないくせに」
村山は苦笑しながら、首をすくめた。
「今日は一段と手厳しいなあ。みっちゃん、この前の若い人は?」
「あれなら、たった今逃げ出したばかりだ」
娘が口を開く前に、一志のほうが答える。
「お前の役所が寄越す人間に、ろくなもんはいない」
「またぶん殴ったんだろう」
「今度は殴っちゃいない。俺は丁寧に丁寧に教えたんだ。いいか広治、一人前の寿司職人になるのに、最低十年から十五年はかかるんだぞ。ところがお前んとこから来るのは、たいてい年を食ってる。良くて二十五ぐらいだ。それだけでも十年遅れてる。だから俺は少しでも早く仕事を覚えてもらおうと――」
「お父さんはもっと遅かったじゃない。二十八の時でしょう」
村山に燗酒を注ぎながら、娘が口を挟む。
「だから苦労したんだ。ずっと年下の兄弟子にいびられたり、親方にはそれこそ何度ぶん殴られたことか。それでも俺は、じっと歯を噛んで我慢した。だいたい今の若い奴は口先ばかり達者だが、辛抱が足りない。ほらよ」
注文したわけでもないのに刺身が出る。いつもそうである。こちらから何かを注文すると叱られる。