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楽園を追われる

作者: 月岡 あそぶ

あの日、津波に拐われたのは善人だけだったか……


徹底的な男尊女卑の世界で生きてきた花。大学生になり、目の前に開けた自由な世界に戸惑いを覚えながら日々を過ごしていた。

そんな中、図書館で出会った一人の男性。彼女は、その人の香りに何故か心を奪われる。


異母姉との関わりや、憎み続けていた父の死の記憶。それらと絡み合い、織りなされていく人間模様。


しかし、男を恐れていた彼女にやっと芽生えた淡い恋心は、思ってもみない方向へと流れていく。

      ー楽園を追われるー



   その人からは焚き火の匂いがした。


   私と同じ傷を持つあの人。

   ただ、一緒にいたかった。

   その感情が恋だと思った。

 

   でも私は、本当の彼を知らない。




 大学に入学して間もない頃、自分は塀の外に出たばかりの元受刑者のような気持ちだった。

 もしくは、見渡す限り続いていく白い砂浜に一人。空っぽの玉手箱を目の前にして、時代に取り残された浦島太郎の気持ち。

 もちろん塀の中に入った経験も、三百年の時を飛び越えた経験もない。それはあくまで自分の中の勝手な思い込み。

 あの頃の自分は、人々のざわめきの中にすんなりと入る事ができなかった。どこに行っても、流れの中に溶け込めない違和感。

 まるで一本だけ脚の長さの違う椅子のよう。

 ほんの僅かな違い。それでもその異質な一本が、座っている人を不快にさせる。

 誰もが持っている異物排除のセンサーは、そんな小さな違いさえ上手に拾い上げて選別していく。知らぬ間に選別が繰り返され、編み目からこぼれ落ちていく悲しさ。

 入学して間もない頃は、新入生の誰もが主人がいなくなった飼い犬みたいな不安げな表情を浮かべていた。でも、日を追うにつれ昔からその場所にいたかのように、その場その場にすんなりと馴染んでいった。

 私一人を、置いてけぼりにして。

 キャンパス中央通り。頼りなさげに、やわやわと日に透けていた若葉も、一ヶ月も経つ頃にはしっかりとその色を増していた。今では見違えるほど逞しくなって、周辺に太陽の光を反射させる。

 それは、それぞれの枝先に己の居場所を見つけた彼らが、我も我も、と主張しているようにも見えた。

 それらは風が吹き抜ける度にいっせいに同じ方向にそよぐ。その様を見ていると、同一方向に渦を巻くイワシの大群に巻き込まれたようでクラクラと目眩がした。

 それでも、自分にとって大学生活は楽しかった。

 小・中・高の十二年。私の子供時代の色は、ミッションスクールの重厚な石造りのグレー。

 今どき珍しい、時代錯誤な厳しい校則。清らかで厳格なシスター達。

 そこは良家の娘達が厳しい戒律の下で、従順で穏やかな神の僕として成長する場所とされていた。  

 でも実際は、神の教えは子羊たちに届くことなく、幼子達は、親の階級や互いの成績に敏感に反応し合い、十重二十重の見えない鎖を辺りに張り巡らせていた。

 そんな、見えないカースト制度の敷かれる中、なるべく目立たないようにひっそりと生きてきた自分にとっては、大学はまるっきりの別世界に思えた。

 顔見知りも何人かでき、自分としてはまずまずな滑り出しだった。

 新しい知り合いは皆、口をそろえて言う。花はどこか浮き世離れしてるよねって。

 ついたニックネームはショウ。昭和の昭。きっとそうなんだろう。十二年も、お堅いミッションスクールで過ごしてきた。私の生きてきた時間は、みんなにとっては前世紀の遺物のようなものなんだろう。蝶々のように軽やかに、周囲に輝く鱗粉を振りまく彼女たちの目は物語ってる。私は明らかな異物だと。

 そう、それで構わない。ただその時を一緒に過ごせればいい。深いつきあいなんて必要ない。

 十二年で身についた習慣は、そうそう変わらない。

 でもその場限りの他人より、肉親の方がよっぽど毒となる。自分にとっては家という空間が、最大の苦行の場だった。

 生まれ落ちてからずっと、我が家においての法は父だった。絶対の権威者。

 そんな父に逆らうことは誰であろうと許されなかった。お手伝いさんや運転手さんはもちろんの事、足繁く我が家に通い詰める何処の何某かもわからない来客の数々も、父の経営する会社の社員達も誰一人として。

 人生の伴侶である母も、当然のごとく父にかしずいていた。それが我が家の日常であり、しごく当たり前の光景だった。

 超ワンマンの父からは、世間ではよくある我が子への溺愛の情などは微塵も感じられなかった。まあ、そのおかげで時折世間を騒がすような、わがままなドラ娘にはなり損ねたけれど。

 そのタイプのご学友は、ミッションスクール時代に掃いて捨てるほど見てきた。

 自身が生まれ落ちると同時にそこにあった権力や財力の椅子。子供の頃からそれ当たり前のもとして享受し、両親の揺るぎない愛情をも浴びるほど受けて育った彼女達。

 華やかな印象を周りに振りまく彼女達は、良くも悪くも、この世の全てに愛されているという自信に満ち溢れていた。どんな出来事も、彼女達の中にある正しさをぶれさせる事などなく、その輝きが曇る事など彼女達の世界ではあり得なかった。

 彼女達の強さの後に、自分の父と同じ姿が透けて見えた。何処に行っても誰と話しても、父の姿が覆い被さってきた。支配する者、される者。そんな図式が何処に行っても成立する。

 そして、私は何処へ行っても支配される者だった。

 物心ついた時からすでにそうだった。父が家にいる時、子供っぽく無邪気に騒いだり、泣いてぐずぐず言ったのが耳に入ろうものなら「静かにしないか!」そう大声で怒鳴られた。 

 すぐに泣き止まないものならば、次には父の分厚い平手が飛んで来た。絶対的な力の差は、人から反抗などという気力を簡単に奪っていく。

 空気になりたい。

 幼い頃から、本気でそう思っていた。足音を立てることはおろか、息を吸うことすら気を使っていた。

 友人を家に招くことも御法度。記憶をたどってみても、家の中で誰かとおもちゃを散らかして遊んだり、顔をつきあわせてゲームに興じた記憶はどこにもない。

 それに、決められた習い事で、毎日のスケジュールは埋められていた。何時だったか、女は良き母になればそれで良い。そう父が母に向かって言っていた言葉がぼんやりと記憶の片隅に残る。

 その父の言葉に答えるように母は静かに微笑んでいた。美しい能面のような母の顔。私の中の母はいつもそう。感情を伴わない微笑みの恐ろしさ。

 時間だけが無為に過ぎ、孤独は自分の隣にいつもたたずんでいた。寂しさ。それだけが私に寄り添ってくれる唯一の友だった。

 私には兄が一人いる。私と違って、兄には数多い友人いる。いつも明るく楽しげで、誰に対してもスマートに意見を言う。それが父であっても。

 だから、自分の要領の悪さや、後ろ向きな性格を環境のせいにしてはいけないのだろう。

 以前、たまたま乗り合わせたバスの中で、繁殖期のカラスみたいに姦しくお喋りに興じていたおばさん二人組。

 同じお腹を痛めた我が子なのに、可愛く思う子供と、憎らしい、鬱陶しいだけの子供とがいるのよね。なぜかしら?

 そう言いながらケラケラと笑った。その笑い声が鼓膜に貼りつき、今も私を震わせ続ける。おばさん達の口から吐き出される無数のカラスの羽。

 ぬばたまの闇色をしたそれは、今でも私の心に降り積もる。おばさん達の悪意のない軽口が、黒曜石を切り欠いた鋭い切っ先となって私の心を切り裂いた。後には、どす黒い血が何時までもジクジクと滲み出て、中途半端に固っては剥がれ、完治することがない。

 優秀な兄とは違い、要領の悪い自分はたびたび父を怒らせた。父に大声で怒鳴られるとそれだけで恐怖でパニックになった。

 一旦そうなると、追い詰められた小動物のようにすくみ上がるのみ。自分がどう振る舞えば良いのか訳がわからなくなった。

 その場に縮こまり泣き声を上げまいと必死にこらえる。それでも噛みしめた歯の隙間から漏れ出る嗚咽。父の腕が自分を容赦なく引き起こし、頬に平手打ちが飛んできた。子供の小さな体など、嵐に翻弄される枯れ枝のように部屋の隅にまではね飛ばされた。

 殴られた耳は外界の音を遮断した。まるで金属の弁に変化してしまったかのように、キーンと音をたて鼓膜が震え始める。じんじんとした痛みが熱を持った。

 圧倒的な力の前で、臆病者の思考は停止する。

 自分はダメなんだ。ダメな人間なんだ。この世に生きる価値がない、罰を受けるべき人間なんだ。痛みや恐怖によって体の隅々にまでしみこんだ諦めの記憶。おばさん達の言葉が頭を巡る。私は憎らしい、鬱陶しい側の子供なんだろうか。

 父が側にいるだけで体がすくみ上がって動けなくなった。男という存在すべてが、恐怖の対象となっっていくのにそう長い時間はかからなかった。

「人を動かすのは力だ。その強者が作り出した掟によって弱者は支配される」

 傍らに立つ兄に向かって父が言う。兄が頷く。

「支配されるのが嫌なら努力してのし上がればいい。それだけだ」

 それが父の口癖だった。それがこの世の真実だと言うならば、のし上がる事のできない弱者はどうすればいいのだろう?

 子供の頃、私のランドセルにぶら下がっていたお守り袋。その中には父の名に重ね「シネ」と彫り込まれた木の切れ端が入っていた。

 それは、工作であまった木ぎれに父の名を刻みこんだもの。自分の中に押さえ込まれた憎しみの発露。

 子供部屋の窓からは月の光が差し込み、自分の手が、お化け屋敷の死人の手のように蒼く染まっていたのを覚えている。

 彫刻刀の切っ先に自分の憎しみの炎がとまっているのが見える。炎のくせに冷たく凍り付き、いかなる物事も変化させる事はない。

 その無為を知りつつ、ザクザクと木をえぐっていく。その乾いた音を耳にし、吐き気がするほどの父への憎しみの念を込め、一文字一文字彫り進んだ。

 幼いながらも、まるで丑の刻参りをする鬼女のような表情で一心不乱に木をえぐっていた時、下の風呂場から母を呼ぶ父の声が聞こえた。

(ああ、また母に体を洗えって言ってるんだ・・・・・・きっとそう・・・・・・)

 それは、毎日繰り返される我が家の一連の習わし。

 父が帰ってくると、まず母は玄関で三つ指をついて父を迎えた。

「笑える・・・・・・」

 唇の端をゆがめながら吐き捨てるように呟いた。

 しかし自分もその場にいれば、両手をついて我が家の神に向かって頭を下げる。

 そう、お前は誰のおかげで生きていられのか・・・・・・

 だけど人は、パンのみにて生くるにあらず・・・・・・

 そう思いつつも手が震えてくる。臆病者の自分はどうしようもなく父が恐ろしかった。

 絶対の神。圧倒的存在から自分に向けられるあの厳しい眼差し、振り上げられる腕によって与えられる痛み。

 そこから這い上がる力のない弱者は、蔑みの目と共にそこに放置される。彫刻刀を握る手が、じっとりと汗に濡れた。

 お前は駄目だ、どうしようもない奴だ!なぜこんな事すらできないのだ!兄とは雲泥の差だ!唾棄するように吐き出された言葉の数々がグルグルと頭を巡る。

 父は、帰ってくるとまず風呂に入った。そして檜の湯船にゆったりとつかり、体が温まると大声で母を呼びつけた。母は、昔の仇討ちの女房のようにしゅっとたすきをかけ、毎日、自分でピカピカに磨き上げた廊下を、きびきびと歩いて行った。

(小学生だって自分で体を洗えるよ・・・・・・あんたは将軍様か、ローマの貴族か・・・・・・いや、それとも、もっと下卑た・・・・・・)

 想像が卑猥な方向にぶれて、机に自分の頭を思いっきり打ち付けた。痛くて涙が浮かんだ。胸がふくらみをおびはじめ、思春期の入り口に立っていたあの頃。

 呼びつけられては父親の体を洗う母。その母の姿は耐えがたかった。

 それは、照れくさいほどの夫婦仲の良さを示すもの……そんな愛情の形とは明らかに異なっていた。

 もしその根底に愛を感じる事ができたのなら、どんなにか救われただろう。

 それは、君主への奉仕。主人に仕える古代の奴隷の図。母が服を着たまま、命ぜられるとおりに丁寧に父の体を洗っていく。それはあまりにも屈辱的な図にしかならなかった。

 そして、そんな立場をあたりまえの事として受け入れている母に、どろどろとした怒りの感情が溶岩のように湧き出してくるのが常だった。

 その怒りは、その主人に養われている自分自身に対しても向けられた。

 彫刻刀の鋭い切っ先を自分の指先にあてて力を込める。プツっと赤い血がにじみ出て珊瑚玉のように丸く震えながら指先にとまった。

 舌を出し、その血をペロリと舐めてみた。薄っぺらで、頼りない味。舌先に拡がってあっという間に消えていく。私の脆弱さをそのままを表すかのような血の味。

 張り詰めた精神がプツリと切れそうになる。惨めさに打ちひしがれ、こんな自分に生きる価値があるのか。そんな不安に押しつぶされそうになる。

 そんな時にいつも行う儀式。彫刻刀を取り出し、肌の上にその刃をすべらせる。

 凍り付く時間。一瞬だけ時が止まる。

 そしてジワリと傷口から吹き出してくる生暖かな血液。体に走る痛みのシグナル。タイムラグを経て脳に無事到着する信号。

 はあっと小さく息を吐く。自分が生きている証に安堵する瞬間。

 こんな事でしか保てない自分。ちっぽけな自分。こんな私に生きる価値などあるのだろうか。一筋の涙が流れ落ち、パジャマの上に小さな滲みを作った。


 父が風呂から出てくると、次は夕食が始まった。

 しかし父は、せっかく母が食事を用意していても、仕事だ何だと外で食べてきて結局箸をつけない事も多い。

 でも母は、毎日きちっと準備をし、父が全く手を付けない時は酒とおつまみを出す。そして隅々まで気を抜かない。おしぼりに至るまで冬は暖かく、夏は冷やして・・・・・・

(細やかな愛情?いや違う、これはサービス・・・・・・そうサービス)

 その老舗旅館のような一分の隙もない食卓の風景は、家庭の温もりを感じさせるものではなかった。

 幸いなことに、いつも帰宅が遅くなる父とは、食卓を共にする事などめったになかった。しかし時折、父と同席する羽目に陥ると緊張のあまり食べ物が喉を通らなくなってしまう。何の気まぐれか、父が自分に向かって言葉を投げかけてきても、その隅々にまで女という生き物への蔑視がにじみ出しているのを感じる。その無意識の毒にあてられ、吐き気をこらえるのがやっとだった。

 大学生になると兄は東京に出ていった。兄と比べられる周囲の眼差しに縮こまりながらも、兄がいた頃はまだ良かった。優秀な兄は父のお気に入りだったから、もっぱら言葉をかけられるのは兄ばかりで、自分はその影で小さくなっていれば良かったのだから・・・・・・

 無意識の男尊女卑が染み込んでいる世界・・・・・・父の周りもそうだった。

 毎年、親族一同が集まって祖父の家で正月を迎えた。そこでは古式ゆかしい正月のしきたりが繰り広げられた。

 そのひとつに、親族が祝いの膳を囲み、神様の御霊である餅を頂いて、おのおのが新年の抱負を語る場が設けられていた。

 以前その場で高校生だった兄が、僕は父の後を継げるように日々精進していきます。と胸を張り堂々と言った。学校でも、クラス委員や生徒会長などを務めてきた兄は、既にリーダーの風格をただよわせていた。

 祖父は厳しい顔を崩さずに、人の上に立つ者の心構えについて薫陶をたれた。続いて自分も緊張しながら将来の夢を語った。

「私は将来科学者になりたいです。その為に理科の勉強を頑張ります」

 勉強を頑張るとさえ言っておけば、皆に受けが良いだろう。幼いなりに姑息に計算していた心もあった。実際、理科は好きな科目だったから、自分の中にぼんやりとした憧れの気持ちもあった。褒められる事を期待してはいなかったが、祖父からはこんな言葉が返ってきた。

「花、おなごは嫁さ行って初めでそこで人生が決まんだ。自分の頭がええど思っとるおなごなんぞ、気位ばっか高くでわがねぇだ。そだおなごは生きる基本の家事なんぞ小馬鹿にしてろぐすっぽ学べどしにゃあ。箸にも棒にもががらね。花、おなごは良い嫁とならねっかなんね。次の子のだめにもな。んだがら今がら母親の手伝いをきっちりしとったらええ。昔はおなごさ生まれるは、大変な事だっちゃぞ。死んだ婆さなんが座ってだのを見だことがねぇ。今の時代さ生まれだお前は果報もんだ、背伸びしにゃあでめんこく生きたらええ」

     

 そう語る祖父は、いつもの如く黒紋付羽織袴姿でしゃんと背筋を伸ばして上座に座っていた。絶対の正さがそこにも存在した。

 ちらりと横を見ると、母はいつものように微笑んでいた。そんな母の微笑みが自分は心底嫌だと思った。

 でも祖父の言葉を受けながら、自分の顔は勝手に笑顔を作っていた。

 いかなる時も、波風を立てない……それより他の方法を自分は知らなかった。それに、父よりも、また一段と上に君臨する祖父に対して反論することなど、自分にできるとも思えなかった。

 でも、もしかしたら……母も心の中では祖父に対してやりきれない想いを味わっているのかもしれない。そんな思いがふと頭をよぎった。うつむき加減に小さな笑いを浮かべながら、横目で母の顔をもう一度見た。

 しかし隣に座する、母の微笑みは、父に対するのと同じく、祖父への絶対の肯定しか感じさせなかった。

 私の微笑みは、人とぶつからないための作り物。母の微笑みは、教祖への絶対の信奉。同じ微笑みでもその内面は全く違う・・・・・・

 華やかな宴の席の中で、たった一人の孤独がひたひたと打ち寄せた。

 その場に集まった親戚連も、祖父の言葉を受けて、今時の女性社員の使いづらさ、男性社員の不甲斐なさを口にしながら、酒の杯を重ね、正月料理に舌鼓をうっている。

 父も気の強い女性議員をやり玉に上げ、タバコの煙をくゆらせながら困ったものだと談笑していた。

「絶対的少数の意見を、さも鬼の首を取ったように声高に叫んで恥じることがない。もっと彼女らには大局を見て欲しいもんだがね。どうせ議案が通ることもないし、馬鹿馬鹿しいと思わないのかね。つくづく女は考え方が政治向きじゃないのだと思わずにはいられないね」

 そう言いつつ呆れたように肩をすくめて見せた。

 自分たちの斜め向かいに座っている、自らいくつもの会社を経営している気の強い頼子伯母ですら、表だって祖父達に逆らう姿など一度も見たことがない。反対にそれらの話を受け、明るく笑いながら祖父達に酒を勧めている。

 この社会なんてそんなものかもしれない。正直に男社会の本音を口にするだけでも、まだ我が一族の人間は可愛らしいのかもしれない。そう思いつつも、生きながらヘビに飲まれていくカエルのような絶望的な気分に襲われ続けた。

 女に生まれた事に、そしてよりにもよってこの自由な時代に、こんな家に生まれてきた我が身が嫌になった。頼子伯母のようにそんな事は気にも留めず、自分にとって都合の良い事だけ上手く利用しながら生きる方法もあるかもしれない。いや、むしろそのほうが賢い行き方なのだろう。いや、こんな事ぐらいで痛みを感じてしまう自分は、異常に敏感すぎるだけなのだろうか・・・・・・

 それでも、父や祖父の言動が刃のようにこの身を切り刻み、体中に激痛が走るのを止めようもなかった。

 かと言ってその痛みにあらがう強さは自分の中に存在しない。どうせ世の中そんなもの。自分一人がそれにあらがったって何も変わらない・・・・・・

 そんな、無力感に心がむしばまれていく。絶望だけが渦を巻き、そこから抜け出せない。

 この苦痛が、少しでも早く過ぎ去ってほしい。そう願いながら、アメを引き延ばしたようにゆっくりと過ぎていく時を耐えていた。

 奇しくもその時、床の間にかけられていた掛け軸には「天照大神」の名がのびのびと墨色も美しくしたためられていた。しかしその輝かしい女神の名は、はるか遠くにかすんでどんなに手を伸ばしても届きそうにはなかった。

 明るく燦然と輝く太陽神。ほとばしるエネルギーを周囲に放つ原始の巫女。そんな存在を心から求めた。目をつむると、瞼の裏にオレンジに縁取りされた彼女のシルエットが浮かび上がる。

 しかし、目を開いて現実を見つめてもそのような存在は自分の周りのどこにもいなかった。諦めの中で、自分を押し殺すように生きてきた。自分の考えを表に出す事なく、相手の顔色をうかがい、言われた通りに動く。それが、自分の生きる唯一の方法だった。

 あの父はもういない。

 なのに、私は変わらない。変われない。その中に身を置き続けている。






 その日は、午前中で授業が終わり、大学の図書館で資料探しをしていた。

 民俗学のコーナー。今はもう、消えてしまった日本人の魂の記録。私は、時代を間違えて生まれてきたのかもしれない。この時代に生きていたなら、当たり前に生きる事ができたのかも。そうぼんやりと考える。

 その時。燻されたような、ツンと来るような。そんな独特の香りが鼻腔の中に滑り込んできた。何故だか懐かしい気持ちが胸をよぎる。

 記憶を探ってみてもその香りは存在しない。それなのに自分は確かにその存在を知っている。忘れかけた何かを呼びさまし、魂の奥底を揺さぶる本能的な匂い。

 遠い生命の営み。

 水底に漂う太古の自分。

 そこから幾筋もの光の差し込む海面を見上げる。

 沸き立つような浮遊感。

 無数の命が生まれ、進化の道を枝分かれしていく。

 命は伸びやかに成長し、やがては老いて死を迎える。

 朽ちていく体。

 火山のマグマのように輝きながら流れ出す魂。

 入滅の時。

 そして、再び巡りはじめる命の循環。

 不思議な感覚を覚えながら香りの根源を探る。すぐ隣に立つ一人の男性からその香りは漂ってくるようだった。

 がっしりとした体型に、無地のグレーのTシャツとカーキ色のカーゴパンツ。よく履き込まれ、少しくたびれた印象を与える焦げ茶色のブーツ。一般によくいるタイプの人。顔かたちもハッとするようなイケメンでもない。取り立てて際だった印象は見受けられない。もし道ですれ違ったとしても記憶に残ることはないだろう。

 その人は書棚に向かって手を伸ばしていた。学生にしては一回りほど年が上。知らない顔だけど、きっと先生か、もしくは山ほどいる職員の中の誰かなんだろう。

 本を取ろうとしていたその人と目が合う。

 柔らかな微笑み。

 なんて優しく笑うんだろう。少し日に焼けた顔。笑った時にできる目尻のしわが、何とも言えない人の良さを表しているようだ。その人は、私に笑顔を向けた後、手に取った本を持ってカウンターの方へ歩いて行こうとした。

 その人が体をくるりと回した時、その香りはもっと強く濃くなって、私の周りに小さな渦を巻いた。足元から、蛇が絡みつくように立ちのぼる。

「あの・・・・・・」思わず声が出ていた。

 しまった!そう思った。自分はこの見ず知らずの人にいったい何を聞くつもりなんだろう?

 その香りは何ですか?なんて間抜けな質問なんだろう。変な女だと思われるのが関の山だ。

「昆虫について興味をお持ちなんですか?」その人の持っている昆虫民俗学の本を見て、とっさに口に出た。

「ああ、この本ね。日本ミツバチを飼ってるんだけど、人とミツバチの伝承や歴史ってあまり資料がないんだね。養蜂についてはけっこうあるんだけど」

 明るく笑う。子供のような笑顔。今までにこんな風に屈託なく笑う人を、自分は見たことがない。邪気というものがないみたいだ。

「良かったら、日本ミツバチの話。聞かせてもらえませんか?」

 嘘みたいだと思った。自分の中に、こんな大胆さがあったなんて。今までの人生の中で、なるべく男性とは関わらないようにして生きてきたはずなのに。

「君、学生さん?日本ミツバチに興味があるの?」

「はい。ここの学生です。実際に、日本ミツバチを飼っている方に初めてお目にかかりました。養蜂をされているんですか?私、昔からの人々の暮らしに興味があって、自然と人間が共生しながら生きていく取り組みに興味があるんです」

「へ~そうなんだ。若い女の子が珍しいね」

 その人はまた笑った。この笑顔には、何故だか心を揺さぶられる。その香りとあいまって強く強く引きつけられる。

「お昼はもう食べられました?もし、まだなら学食に行きませんか?」

 すごく強引な自分。心臓がバクバク音をたてているのが相手に聞こえるんじゃないかと思ってしまう。

「ありがたい。お腹減ってたんだ。学食まで案内してくれる?」

「ここの関係者の方じゃないんですか?」学食の場所を知らないことが少し意外だった。

「うん、部外者。でもここの図書館は申請さえすれば、一般市民でも借りることができるから助かってるんだ」

 二人で学食のテラス席に座った。ピーク時間を過ぎて人影は少ない。

 その人は、爽やかな緑の風を受けながら「神山史郎です。どうかよろしく」と自己紹介をした。

 背景の大きな楠の木が、日の光を受けながらチラチラと輝いている。なんだかすごくまぶしい。あの木が歩んで来たであろう、ゆったりとした時間が此処にも流れ込んでくる。

 普段のざわざわした学食の雰囲気とは別次元の時を刻んでいるみたい。

 彼は、ここから車で四〇分ほどの奥山の、そこからさらに徒歩で四〇分ほど山道を登った場所。今では誰も住まなくなってしまった小さな集落跡に、妻と息子と三人で住んでいるのだと言った。

 その時、自分の胸の奥で何かがちりりと鳴った。胸の真ん中に何かが引っかかり不安定に揺れる。

 彼は、日本ミツバチを飼い、彼らから蜂蜜や、みつろうを分けてもらい、道の駅で販売していると教えてくれた。その他に、山の斜面に拡がる梅園を持っていて、僕の作る梅干しや梅ジャム、梅肉エキスは人気が高いんだとよと笑った。

「奥山のどんづまりにある、人々に見捨てられた集落なんて言ったら、うら寂しい印象を持つかもしれない。だけどこれがなかなかどうして。まるで桃源郷のような風景なんだ。初めてあの地を見た時は感動したよ。いっせいに梅の花が咲く景色は特に素晴らしいの一言に尽きる。君にもぜひ見て欲しいな。どんな田舎に行ってもコンビニが存在するような、画一化されてしまった現代社会で、なかなかお目にかかれない景色だと思うよ。でも、自動車道が整備されず、徒歩でしか集落に辿り着けないという事情が、人々が住まなくなってしまった一番の原因なんだろうね。楽園を追われてしまった訳ではなく、人間のほうで楽園を見捨ててしまった」

 美味しそうに、トレーの上に並べられた定食を平らげながら、彼は瞳の中に少し寂しげな色を滲ませた。

 彼は、それから日本ミツバチについても様々なことを教えてくれた。

「彼らはね、自分達で住む場所を決めるんだ。人間様がここに住みなさい。なんて決めることはできない。彼ら自身が決定するんだ。一度巣を作ったとしても、少しでも気に入らないことがあれば、群れごと引っ越してしまう。とてもデリケートな生き物なんだ。同じ蜂なのに、西洋ミツバチと違って人の意志でコントロールする事が難しい。昔は飼っている人が、悪事を働くと別の人の所に移動してしまう。そう言われた事もあったみたいだね。日本という風土でずっと生きてきたから病害虫にも強く、あの凶暴なスズメバチにだって集団で立ち向かっていく知恵と勇気を持っている。それでいて、彼らはとても穏やかだ。むやみやたらに人を刺すことはない。誇り高くてそれでいて優しい。そんな生き物なんだ」

 彼の蜂に対する細やかな愛は、浜に打ち寄せるさざ波が、小さな石英の粒を優しく転がすようにゆったりと語られた。その言葉が波に洗われながらきらめいている。その一粒ゝが輝きを増して積み重なり、私の心にもさらさらと流れ込んでくる。

 蜂について語る彼の顔は、山の頂に輝かしい神の姿を見いだし、信奉する山岳信仰者のように崇高に輝き、迷うことのない自信にあふれて見えた。

「君はでも、どうしてこんな時代遅れな暮らしに興味を持つんだい?」

 彼はいたずらっぽく笑った。こんな話がおもしろいなんて。と言わんばかりの口調だった。

「亡くなった私の父は、自然に添って生きる。そんな暮らしとは無縁の人でした。あの人にとって大切なのは己の権力を周囲に誇示すること。そして人々を自分の思い通りに動かす事でした」

 彼は意外そうな顔をして見せた。

「何だかテレビドラマの中にあるようなシチュエーションだね」

「ええ、知り合い達にも、花は浮き世離れしてるね、ってよく言われます」


 幼い自分が闇の中、声をからして叫ぶ。皮膚が破れ、血が出るまで叩いてもビクともしなかった重い土蔵の扉。木と漆喰で二重に外界から遮断されたその扉は、中に閉じ込められた者の絶叫をその白さに吸収しつくし、外に漏らすことはない。

 永遠と思える時が、澱みながら暗闇の間で崩壊し始める。背後の闇の中に何かがうごめく。いや、この空間の中で生きているのはこの私だけ。それ以外はすべてが死に絶え、朽ち果てている。いや、もうすでに外の世界も終わってしまったのかもしれない。そして私だけが、この中にただ一人で取り残されるのだ。耳の中で、何かがしぃーしぃーと神経に障る音をたてる。耳をふさいでみてもまだその音は続く。気が狂いそうだ。このまま恐怖に取り込まれ続けるだけなら、闇に潜む何者かに一気に食べられてしまった方が楽なのに。お化けでもいい。殺人鬼でもいい。この恐怖を終わらせて下さい!どうか私をこの世界から救って下さい・・・・・・

 闇はその沈黙をかたくなに守り、答えが返ってくることはない。

 ごめんなさい!ごめんなさい!私は悪い子です!助けて!ここから出して、お願いだから!扉に取りすがって懇願する。

 ガシャン、ギギィ~。

 重く金属の擦れる音が響く。少し開いた扉の隙間から、おずおずと朝の光が斜めに差し込んでくる。ここに明かりを入れても構わないのでしょうか?

 そう、そんな風に。弱々しい光がおずおずと差し込んでくる。

 朝露を乗せ、翠緑したたる庭の中に母が立っている。

 母の微笑みは中世の高貴な貴婦人像のようだ。絶対の正しさに堅く封印され、熔ける事はない。ぞっとするほど美しいけれど、その硬質な透き通った肌に人の情は感じられない。もし、その皮膚に触れる事ができるなら、石で作られた彫像のように冷ややかなのだろう。ずっと泣いていた為に、重く霞がかかったような頭で考える。

「お父様の言った事がわかりましたか」

 自分はただ頷く。父が何を怒ったのか、それすらもう覚えていない。

「ではお父様の前で、言われたとおり復唱して謝るんですよ。一字一句間違えないように、心を込めて」母はぴしゃりと言う。

 ただ頷く。其処から出して欲しい一心で・・・・・・

 私は何を言っているんだろう。こんな今日であったばかりの人に。父の横暴さを。母の冷血さを訴えるなんて。今日の私は明らかにおかしい。

 地元の建築会社社長であり、市議会議員でもあった父。我が家の絶対の正さの象徴。

 その父が、私が高校二年の時にくも膜下出血で倒れた。

 物心ついた時から、恐れ続けてきた存在。ずっと表面に出すことのできなかった殺意。そんな憎しみの対象があっけなく倒れた。あまりのあっけなさに、何の感慨も湧いてこなかった。命は取り留めたものの、父には麻痺と言語障害が残された。

 父は入院中、私が尋ねていくと少し不安げな笑顔で笑った。その表情を初めて見た時、心の底から驚いた。いつも自信満々だった父。人が自分に従う事など当たり前であると、君主然としてふるまってきた父が、世の中に初めて放り出された子供のように頼りない表情を見せている。

 そして自分にとって一番意外だったのは、父の側にぴったりとよりそう母の態度の変化だった。

 以前は、カリスマ教祖に絶対の服従を示す信徒でしかなかった母が、その絶対の信仰の衣を脱ぎ捨てていた。母の表情は、以前の穏やかであるのに暖かみを感じさせない、大理石の彫刻のような表情から人に近づいていた。しかしそれは愛情に縁取られたものだけではなく、もっと人間の奥底に隠された生臭い匂いも放っていた。

 父に支配されていた母が、今度は自分の意思の下に父を置こうとしている。

 自分は、支配され続けた領民が、新しい支配者の台頭を素早く察知するように。母の言葉の端々にその事実を感じていた。

 でも私にとっての支配される事実は、相手が交代するだけでなんら変わることはない。虐げられてきた領民の悲哀の歴史がわかる気がする。

 そんなある日「洗濯をしてくるから後はお願いね」と、母に頼まれ、父にメロンを食べさせた事があった。

 父がメロンを食べる速度は信じられないほど遅かった。エプロンの上には、父のだらしなく開いた口の端からあふれ出る唾液が、メロンの果汁と混じりあってボタボタと落ちた。

 何これ!きったない!むしょうにイライラした。

「もうお終い!」そう言い放つと、父の胸元で支え持っていたメロンの皿を乱暴に下げた。

 サイドテーブルの上に、わざと大きな音をたてて皿を置く。

 父に向き直った時に愕然とした。

 そこにいたのは、怯えた顔をした小さな少年。意地悪された事を敏感に察知して、泣き出しそうな顔でうつむいている。上目遣いで私の方を伺った父の顔。親の意向を伺い知ろうとする子供のような卑屈な眼差し。その眼差しが、まるで自分の姿を映しているかのようだった。

 胸が大きく波打った。

 人は、相手が自分より弱いと思ったとたん、平気で踏みつける。踏みつけられた痛みを知っているはずの自分が、今度は平気で・・・・・・


「人は、聖人でも悪人でもある。そして聖人でも悪人でもない」柔らかな日差しを浴びながら彼は微笑む。

「じゃあ、何だと思います?」

「人でしかない。そう思うよ。これからどんなに科学技術が発達していって、肉体的に不死の存在に近づいていったとしても、人は神にはなれない。醜く、嫉妬に溢れ、自分だけが良ければいいと他人を踏みつけ恥じることもない。そして自分が少しでも優位に立ち、相手の打ちのめされた惨めな姿を見てささやかな優越感に浸る。そのくせ、自分が踏みつけられた痛みに対しては報復や怒りを忘れない。でも、それらの醜い感情にも存在理由があるから始末に負えない。それどころか、それがあるからこそ生き残れたとも言える。嫉妬は、たくさんいる兄弟の中で、より多くの餌を親から与えてもらう為に。怒りや報復は、危険だらけの大自然の中で敵と対峙した時に生き延びる為に。己が生をつなぐこの利己的な感情は本能として人に残された。だけど、人間は本能だけで生きている訳じゃない。同じ人間が、信じられないほどの愛や自己犠牲に溢れた行動を取ることもある。そしてそんな彼らは、己に降りかかった理不尽な運命も、他人から受ける不条理な仕打ちも、すべてを受け入れ、すべてを許すんだ」

「許すなんて事、私には無理です・・・・・・」私は呟いた。

「僕も、無理だな。今はまだ・・・・・・」二人の視線が交差する。彼の瞳。深い深い哀しみの色。

「僕は業が深い人間なんだ」

「そうは見えませんけど」意外に思えた。相変わらず彼の顔は柔らかなままだった。

「以前、原発事故で保証金をもらいながら生活している避難民に、嫌がらせが相次いでいるとニュースがあったの知ってる?」

「ええ、駐車場に止めていた車にいたずらされたり、引っ越しで配った挨拶の品が、翌朝玄関に山積みにされてたり、避難先で建てた新居の壁に落書きされたりしてたってニュースですよね」

「でもね僕は、その人達の気持ちがわかるよ。程度の差はあれ、あの震災を経験した人達は誰もが被害を受けている。家族をすべて亡くし、たった一人残された人。家を失ったのにその家のローンだけが残り、黙々と払い続けなければならない人。家族を抱えているのに仕事が無くなってしまった人。仕事は残ったが様々な理由で給料が激減して苦しい生活に陥っている人。その他にも度重なるストレスで病気を発症したり、震災による心理障害で苦しむ人達が山のように存在する。その上原発事故まで起きて広大な地域が目に見える形、見えない形で被害を被った。それなのに地域によって線引きがされ、一方にはお金が支払われ、他方は支払う義務はありませんからって言われて。支払われる方だって、貴方の故郷を奪い、その生活をめちゃめちゃにしてしまったお詫びですからお金で勘弁して下さい。そんな事言われたとしても、そんなお金でどうにかなるものじゃない。それは誰もが痛いほどわかっているつもりだ。でも、嫉妬の気持ちが湧き上がってくるのを押さえられない。何でお前達だけが。オレだってこんなに苦しんでいる。それなのに、お前達だけがこの地獄から抜け出すのか!とね、妬み嫉みが吹き出してくる。本当に責めるべきはそこじゃない。それなのに弱い立場の者にその矛先を向けて己の怒りを紛らわせてしまう。だからと言って何かが変わるわけでもない。そして、コミュニティーからつまはじきにされ、不条理な怒りをぶつけられた相手も孤立していき、この世に生きる存在意義さえ見失っていく。すべてがばらばらになり何も生まれない。下降のスパイラルが始まっていく。人間はそれほどに醜い。わかっていても妬み、嫉みの感情が止まらない。理性だけでは推し量れない生き物。それが人間。そして、僕も彼らとなんら変わる所がない・・・・・・」

「神山さんの中に、そんなものがあるようには見受けられませんでした」

 意外な言葉に驚く。この人は、その微笑みの下にそんな醜さを隠していたのか。人である悲しさが迫ってきた。

 彼はその言葉を受けて「そう見えるのかな」と小首をかしげ、寂しげな微笑みを浮かべた。

「僕もね、君と同じだったんだ。幼い時から、ずっと親から圧倒的な力で虐げられてきた」   

 ズキンと胸が鳴った。この人も、同じ苦しみを背負い続けてきたんだ。

「そして、相手が力を失った時、僕はその報復をせずにはいられなかった・・・・・・」絞り出すような言葉。

「でも、それで僕が救われたわけでもなかった。でも、その反応が吹き出してくるのは一瞬だった。頭で考えるとかそういうものじゃなく」

 しばらくの間、沈黙が続いた。

「だから、すごくわかる・・・・・・」その瞳がまっすぐに私を捕らえた。

「もっと君の話を聞かせて欲しい」

 彼の柔らかな声が響く。優しく、体全体を包み込むような声が響いた。


 父が運び込まれた病院で、私は腹違いの姉。父の愛人の子供であるももと初めて出会った。

 アイラインをひいたようなくっきりとした大きな眼が印象的だった。同じ高校の制服を着ているのに、自分とは全く違うしなやかなメリハリのあるボディーラインが、まるでアマゾンのピューマのような精悍さで、何とも言えない色気を感じさせた。人を圧倒する華やかさと強さが、辺りに溢れんばかりにほとばしっていた。

 正反対の性格をした私達は最初のうち、ギクシャクしながらお互いの傷を引っ掻き合った。憎み合った直後になれ合い、ぶつかっては、譲歩し、お互いの優位さを争ってみたりした。でも結局、両方とも父の被害者でしかなかった。ももは人の愛情を信じられないが故に破天荒になり、己の体を弄んできた。私はひたすら心を閉じ、痛みを忘れようと己の身を切り刻んできた。お互いのとった方法は全く別でも、その根源は同じだった。

 彼女は、以前の学校で問題を起こして退学となり、私の通っている高校を再受験していた。ももは最初、私に対する憎しみをぶつけてやろうと思っていたらしい。お日さまに照らされた幸せなお嬢様をめちゃめちゃにしてやろう。でも、私を見てやめようと思ったんだと言った。

 もうすでにアンタ死んでたし・・・・・愛する人から存在を認められない者は、生きていないのと一緒。アンタの目はあたしとそっくりだったよ 。死んだ魚の目。よくマンガとかで出てくるヤツ。そう言って笑った。

 私は、父親を愛してなんかない。そう言って反論した。

 ももは、憎しみは愛情の裏返しだから。そう言って私の頭をぽんぽんと叩いた。

 ももは人と触れあうことが好きだった。それが男であっても、女であっても。腕を絡めたり、体をすり寄せたり。頬にキスなんて、彼女にとっては「おはよう」の挨拶ぐらいの軽さしか持っていなかった。電車の中で、体をぴったり寄せて腕を絡めてくる。向かい合う座席のおばさんや、他の学生の視線がじんじんと痛い。きっとあの子達、危ない関係よ。そう囁かれているんだろうなと、勝手に想像して耳を赤らめていた。

 最初、人から触れられた経験のない自分にとって、それは苦痛でしかなかった。今まで人から与えられる感覚は冷たい痛みだけだったから。そんな私の壁を、ももは易々と取っ払って見せた。触れあうこと、話すこと。人の温もりが安らぎになるのだと初めて知った。私達は、共通の傷を人から隠しつつ寄り添った。

 お互いの痛みを分け合う戦友のような関係。でもその学園生活は長くは続かなかった。

 父の権力の失墜は母を解放した。今まで絶対的な父に対して、無条件に服従していた母。その母が、己の中の感情の発露を許した。人間として、ある意味では良かったのかもしれない。でも、その刃は、もも達親子に向けられた。

 中世の説話に出てくる、笑顔で碁に興じる妻と側室の髪が、闇では蛇と変じて互いを食い殺し合うように。今まで表面に出ることのなかった母の怒り、憎しみ、嫉妬の念がどろどろと一気に堰を切ったように溢れだした。父からももの母親に与えられていた店も、二人の住んでいたマンションも取り上げられた。毎月の養育費も止められ、父の子供だという事実さえ認めまいと裁判も起こそうとした。

 そんな泥沼の争いの中、三月十一日。あの日が来た。

 リハビリと入浴の為に、障害者施設のデイサービスに通うようになった父が、津波に襲われ行方不明となる。

 最初の地震では、まだ新しかった施設の被害は少なかった。父も怪我もなく無事だった。しかし、津波警報が発令され、施設の職員は急いで避難準備に取りかかった。

 車の数は絶対的に足りていない。優先順位を決める。

 その時、父は言ったそうだ。

「ぼくは、さいごで・・・・・・いい。ほかの、ひとを、さきに・・・・・・」

 その時、避難にあたっていた職員が自分達に向かって泣きながら言う。

「助けられなくてごめんなさい。ごめんなさい・・・・・・最初、本当に津波が来るのかって疑っていた心があるんです・・・・・・最初から、必死で避難していたら・・・・・・もしかしたら・・・・・・」疲れ切った表情で泣き崩れる。それを見ながら何も言えず立ち尽くす。私だってそうだった。津波が本当に来るなんて、しかも、あんな巨大な津波が・・・・・・

 ももには兄がいる。

 彼。きよらは、生まれ落ちた時から重度の障害を抱えていた。その小さな息子を見返ることもせず、施設に預けてしまえばいいだろう。そう言ったという父。生まれてから今まで、一度たりともきよらに会いに来た事はなかったという。母親と一緒に暮らしているももでさえ、父親とは会った事などなかったというのだから、当たり前と言ってしまえば当たり前なのかもしれない。自分達兄妹を、まるで存在しないかのごとく無視し続けた父を、ももはずっと恨みに思っていた。

 体の自由が奪われ、同じ立場となった時、父は何を感じたのだろう。

 皮肉にも父が通うことになった施設は、きよらが暮らしている施設だった。入所者であるきよらとデイサービス利用者の父は出会ったのだろうか。そして最後に、父は誰を助けたかったのだろう?

 今となっては、その事実は永遠にわからない。しかし、父は自分の事より、他の人達を助けようとしたのだ。父は、そんな人だったのだ・・・・・・


「死を覚悟した時、人は最後に何を考えるのかな?」

 テラス席で、斜めに差し込み始めた日の光を浴びながら、彼は言った。

「この世の理不尽さに対する怒り?苦しみ?それとも人智を越え、涅槃の境地になると、すべてを受け入れ、幸せな気持ちで旅立てるんだろうか・・・・・・例え・・・・・・それがどんな悪人であっても・・・・・・」

 彼の顔は怖いほど真剣だった。その顔を見ていると胸が締め付けられるようだった。息が吸えない。喉がひりつく・・・・・・

 遺体安置所で父を捜し回った時の光景がフラッシュバックする。

 泥にまみれ、冷え切った遺体がブルーシートや毛布に包まれ、次々と運び込まれてくる。安置所の中の空気は驚くほど冷たい。日を追うにつれて信じられないほどに数は増えていく。

 そんな遺体。遺体。遺体・・・・・・圧倒的な死の暴力に押しつぶされそうになる。

 入り口に貼ってある遺体の顔写真を見ても、父かどうかわからない。自分は、こんなにも父の顔を見ていなかったのか?愕然とする。

 いや、違う。隣の母や、父の会社の専務である田中さんも迷っている。同じような身体的特徴を持った人の写真を何度も見比べている。そうか、それほど表情が変わってしまっているんだ。

 みんな、みんな、冷たい泥水の中でどんなに苦しかったのか、寒かったのか・・・・・・津波に流されても、まだ命を取り留め、助けを求め続けていたのかもしれない。それなのに、救助の手が間に合わなかったのか・・・・・・

 死者の痛みが、無念が覆い被さってくる。

 体育館の中に数え切れないほどの遺体が並んでいる。すべての遺体が、どうして自分がこんな目に合うのだ!そう声なき声を上げている。普段だったら尊厳を持って迎えられるはずの人の死。泥にまみれた冷たい床に、番号をつけられ、慌ただしく無造作に・・・・・・

 違う!違う!自衛隊に警察官。消防署。役場の職員に地元消防団。医師、看護師。そこにいるすべての人が死者に対して、少しでも人間らしく尊厳を持たせようと努力をしていた。

 それでも、そんな人がなせる事など易々と踏み潰してしまう自然の力。人が抗うことなどできない巨大な力が、圧倒的な力でその場に君臨していた。誰もが疲れ切り、ぷつりと切れてしまいそうな危うさの中でかろうじて動き続けていた。ただ目の前に現れる出来事を黙々とこなしていく。それでしか正気を保てない気がした。

 傷つけられ、すり減るだけの心がささくれていく。人間らしい心が・・・・・・

 今はもう、安らかに眠っているのだから。そう信じようと願う。

 それでも、いきなりこの地獄絵図に放り込まれた運命の理不尽さに、悲しみが、そして怒りがこみ上げる。

 なぜ、なぜ、自分達が何をしたと言うのだ!

 自分の中の怒りが、無念が収まらない。

 自分や誰かのせいにしてしまいたい。それでしか心のバランスが保てない。

 何故なんだ?どうしてなんだ?どうすればよかったんだ?

 終わりのない問いに疲れ切る。

 失ったものの大きさに気付き、こんな自分に、生き残った意味があるのか・・・・・・また、問い続ける。

 頭の中でぐるぐる、ぐるぐる。ぐるぐる、ぐるぐる回転し続ける。

 その場から一歩も進めない。

 どこにもゴールが見えない。

 どこに進めばいいのか・・・・・・

 誰もが己の無力さに、自然の無慈悲さに打ちのめされ、声を忍んで泣くことしかできなかった。

 この世では、人は人でしかないんだ。

 その事を思い知らされる。

 あまりにちっぽけで無力な存在。

 では、亡くなった後、人はどうなるのか・・・・・・

 あの世はあるのだろうか・・・・・・

 そこは安らかな世界なのだろうか・・・・・・

 死を覚悟した時、最後に人は何を考えるのか・・・・・・


 涙が一筋頬を伝った。

「ごめん、僕が悪かった」彼は。辛そうな表情で言った。

「ううん。大丈夫です」張り詰めていた空気が一気に溶けた。

「私もその答えを知りたいと思っていたから。でも、やっぱりわかりませんね。安らかな気持ちで死を迎える事ができたんだと思いたいのは、生者が苦しまない為かもしれませんね。死は、人間なんかの考えも及ばないほどすごく大きなもので。だから、人から見たら一見不条理きわまりなくて。それでもそれが、どうしても必要なものなのかもしれないですよね」

「そうかもしれないね」彼の目は私を透かして遠くを見ていた。

 彼はあの地震の時、どうしていたんだろう。ふっとそう思った。しかし、聞いてはいけないような気がした。

 みんな、みんなあの時、たくさんのものをなくした。自ら話そうとしない限り、そこには触れてはいけない。あわてて私は言った。 

「今度、ご都合の良い時に、その暮らしぶりをを見学させて頂けませんか?」

 口に出してから、再びしまったと思った。なんて図々しいんだろう。今日の自分は全くどうにかしている。

「いいよ。ぜひ遊びにおいでよ。僕はいつでもいいから。妻も喜ぶと思うよ」

 再び胸がちりりと鳴った。

 アドレスを交換して別れた。彼が去った後も、あの香りがまだ鼻腔に残っていた。

 彼の香り・・・自分でも頬が上気しているのがわかっていた。



「花、あんたそれおもしろそうじゃない。あたしも連れて行ってよ」イタリアンカフェで待ち合わせをしていたももが、話を聞いて開口一番に言った。

 彼女は今、障害者の就労施設で働いている。ハンデを背負った人達と、企業から受注された製品のパック詰め作業をしたり、自分達で育てた農産品やそれらを使った加工品を販売している。手作りの工芸品などにも取り組んでいる。彼女の夢は自分でNPO法人を立ち上げること。

 障害を持った兄と共に、みんなで手を取り合い、働ける場所作りをしたいと模索している。

「ミツロウとか使って、蝋燭とか化粧品とか作ったら、新しい商品になるんじゃないのかな?クリスマスにはミツロウキャンドルで甘い夜を。ってね」ももは、目を輝かして食いついてきた。

 彼女は本当に貪欲だ。ある意味、一番父の血を受け継いでいるのかもしれない。私の通っている大学の秋山先生の所にも、疑問があったらまず専門家に聞けでしょ。と、学生でもないのにしょっちゅう押しかけて来ては質問責めにしている。教授や先生達も良い迷惑だろうけれど、農村と障害者就労のマッチングに興味を持ったみたいで親身に相談に乗ってくれている。ももが美人で、先生先生と懐いてくれるのも嬉しいらしい。はっきり言って鼻の下が伸び切っている。今どき、世間様は不倫に厳しいんだから、先生。よろめいたりしたら大変だよ。そう心配してしまう。

 ももにも、男の人をコロコロ手のひらで転がすのはやめなさいと言っても、全く意に介さない。転がされる相手が馬鹿なのよ。ホントに男ってキライだな。反応がどいつもこいつも判で押したみたい。単細胞すぎて笑える。と、相変わらずの強気の性格だ。

 でもね、それはももが美人だからだよ。その魔法は誰でも使える訳じゃないんだよ。そう反論してみる。

 女の顔でころころ態度を変える男なんて、クズなんだからほっとけばいいじゃん。ももはずばっと切り捨てる。

 ももは恋をした事がない。そう思う。昔も今も男の影が途切れることはない。それなのにももの心は冷えている。

「でも、あんたがそんなに積極的なのって珍しいよね。ちょっと意外」

 ももは、痛いところを突いてきた。相変わらず鋭い奴。

「えっ、いや・・・・・・私も、ももみたいに、いろんな事に取り組んでみようかな~って思ったりして」

 しどろもどろになって、視線が上げられない。目の前のスパゲッティーを無意味にフォークでかき混ぜる。

「ふ~ん」

 この声は、完全に怪しいと思っている。

「で、ももは、次の休みいつになる?」

「今度の日曜日が空いてるから。何時からでもOKだよ」

 メールを慌てて打つ。しばらくしてから返事が来た。

―では、こんどの日曜。ダムのちゅうしゃ場で一時に―

 胸がとくんと鳴った。ももに返事を知らせ、さりげなく他の話題にすり替える。

 ももが、今働いている障害者就労施設の意地悪な職員の話をふってみる。がっつり食いついてくる。こういう所は本当に単純だ。

「アタシ達の税金で養ってあげてるんだから。なんて言うんだよ~!信じられる?いったいお前は何様だ!って感じ!」

 それから、ももは未来のNPO法人立ち上げに至る道筋について熱弁を振るう。そして、相変わらずだらしない生活を送っている自分の母親の話に至った。

「あたしさ、自分が結婚して幸せになる映像が、まっ~たく出てこないんだよね~」ビールも進んでちょっぴりほろ酔いになったももが言う。

「ひどいんじゃない?あたし達の親。幸せな家庭。他愛ない一家団欒の風景。そんなイメージがこれまでの生涯に一度でもあった?子供に幻想でもいいから、そんな夢を見させてほしかったよね~」

 チョイと斜めにビールグラスを傾け、それに合わせて顔も斜めにかしげる。はらはらと顔にかかるしなやかな黒髪。透けるようなもっちりとした肌。伏し目がちな眼差し。匂い立つような色気を感じさせる。

「ももは、いいじゃない。そんだけ美人ならよりどりみどりでしょ。性格だって明るくって積極的だし。男に対しても受けがいいじゃない」私は口をとがらせる。

「そういう事じゃないんだよ。花だって気がついてるはず。私達にあいている大きな穴に。ほら、ここ・・・・・・」ももの指が私の胸をとんっ。と、つく。その冷たい感触に震えた。それは冷えたビールのせいだけじゃない事を、私達は知っている。


 雪が降っていた。

 学校へ急ぐ女学生達の吐く息は白く、地味な色で統一された手袋とマフラーからは、暖かさがちっとも感じられなかった。

「ももっ!寒すぎっ」

 大正時代に建てられたという学校付属の教会堂の中で、自分は冷たいベンチにお尻をつけたとたんに悲鳴を上げた。その横でももは熱心にぬかずき、祈りを捧げている。

 ももは、神様なんて信じないと常日頃言い切っている。そのくせ、けっこうな割合で私を誘って教会堂に来るのだった。

 石造りの重厚な教会堂の中で、ステンドガラスの淡い光が幻想的に差し込み、正面の十字架を照らしている。

「罪深き人間には、この荘厳な雰囲気だけで心が洗われるような気持ちになってしまうかも」がたがた震えながら、ももに嫌みを言う。ももはにやっと笑った。

「それでもいいんじゃない?己が罪を犯していることを知っている人間の方が、自分が浄いと思っている人間より、救いがあるかもしれないじゃない?花、親鸞聖人の悪人正機説知ってる?」

「私は、自分が罪人である事を知ってますよ~」口をとがらせ抗議する。

 ももは、立ち上がると私の腕をとって歩き出した。

「今日は桜さん、用事があって早く出て行くって言ってたから、家においでよ」

 お互いの家に行ったことはなかった。それはしてはいけない事のような気がしていた。

 でもそれと同時に、パンドラの箱や、見るなの倉のように、してはいけない、見てはいけないと言われていることを、ついついしてしまう人間の性も強く感じていた。

 ももの家は、街の中心部にある高層マンションの一室だった。ももは慣れた手つきでオートロックを開けて招き入れてくれた。

 部屋の中に足を踏み入れた瞬間に、汚なすぎでしょっ!そう心の中で叫んだ。玄関に雑然と脱ぎ捨てられたハイヒールやミュールの数々。しかも左右がバラバラ。普通、バラバラに脱ぐ方が難しいでしょと突っ込みたくなる。でれんとだらしなく倒れこんだブーツ。

 広めの玄関スペースには、靴の箱やバックが無造作に積み上げられ、全くその広さを感じられない。いくつかの箱は蓋が開いたまま放置され、中の薄紙が、まるで妖怪が舌を出したような塩梅で至る所に散乱していた。

 部屋の中も、どうひいき目に見てもひどいものだった。全く必要を感じさせないごちゃごちゃとした物体が、山となってあちこちでその存在を主張し、脱ぎ捨てられた洋服が抜け殻のように床に散らばっていた。黒のレーシーなスリップが無造作にソファーにかけられていて、ももの母親の生々しい裸を見たようで心底どきっとした。

「ごめんね、散らかってて。どんなに言っても桜さんは、片付けができないんだよ。お金に対してもそう。お手当をもらってるから成り立ってるけど、お店だって本当の売り上げだけでは多分やってけないはず。ま、こんな所で話するのもなんだから、とりあえずあたしの部屋に行こ」

 ももは、私にちらりと視線を走らせ、苦しげな表情を見せた。私は、ももにそんな表情をさせてしまった事を恥じた。

 ももの部屋は、物のほとんどない暗い深海のようだった。以前、ももが身につけていた破壊的ファッションのイメージを想像していただけに、期待を裏切られた気がした。黒が基調の、無機質なコーディネイト。寂しいぐらい愛想がないシンプルな部屋だった。

「ちょっと意外だったな。もっと物がごちゃごちゃしたパンクっぽい部屋かと思ってた」

「残念でした。いつでも出て行けるように、極力物を増やさないようにしてるんだ。それにあたし、物や人に対してホンット執着ないんだよね」

 ももはそう言って笑った。寂しい笑いが、何もない空間に反響していく。

 体の芯がすうっと冷たくなる。やっと見つけた自分と同じ傷を持つ人。そして、自分のあこがれでもある人。父親に倉に閉じ込められた記憶と共に、暗闇の中に置き去りにされる恐怖がひしひしと迫ってきた。

「嫌だ・・・」横を向いて怒ったように呟いた。

「ももがいなくなるなんて、嫌!」今度は、ももの眼を見ながらはっきりと言った。

 ももは驚いた顔をしていた。

「今すぐって訳じゃないよ。ただそういう心構えで生きてるってだけ。早く自立したい。でも、自分が望む仕事に就く為には、大学で資格をとらなきゃいけない。その学費と生活資金の両方を稼ぐ事は、今のあたしにはとうていできない・・・・・・・親としてどうよ!と文句を言いながらも、あたしは桜さんに庇護されて生きてる・・・・・・」

 ももは苦しげに言った。

「もう、将来の夢、決まってるんだ」

 自分には将来の夢などなかった。ますます自分がひとりぼっちになった気がした。

「あたしね、きよらのように様々なハンデを負った人達が、この社会の輪の中で楽しみながら生きていける世界を目指してる。か弱い、守られるだけの存在としてじゃなく、みんなが自立できる為の仕事を、自分達の手で作り出していくの。でも、まだ自分自身が守られてるだけの存在で、笑っちゃうよね」

 ももは、フフッと小さく笑った。

 脳裏に、施設を訪ねた時にきよらが言った言葉がよみがえる。

 這いつくばるような姿勢で、ゆっくりゆっくりこぼしながら昼食を食べている姿に、見かねて手伝おうとした時に彼は言った。

 可哀想だなんて思わないでほしい、と。

 自分の力で生きたいんだ。手伝って欲しい時は言うから、それまでは見守っていて、と。

「桜さんは、あの部屋を見てもわかるように、普通に生きていくだけでも大変な人なんだ。人間として生きていく基礎の部分がすっぽり抜け落ちてる。あたしはいらない子だったんだ。親にゴミのように扱われ、捨てられたんだって言ってた。どんちゃん騒ぎする知り合いは掃いて捨てるほどいるけど、生きる基本を教えてくれる人はいない。もし、あんたの父親に出会っていなけりゃ、冗談抜きに路上でのたれ死にしててもおかしくないような人間。あたしに対しても、とても周りに言えないようなひどい子育てをしてきた。アタシ、昔不幸だった分、今は楽しい事しかしたくないのよ。って言ってね。でもね、あの人は、あたしをこの世に誕生させてくれた人なんだ」

 ももの言葉に、自分は首をかしげる。

「フフッ。生まれてくるのは当たり前だと思ってる?もしくは、こんな世の中に生みだしてくれなくてもけっこうとも?」

「後者か、な・・・・・・」苦い顔をする。

「そうだね、自分がこの世に存在している意味を感じられないあたし達だものね。でも、人は変われる・・・変わっていくことができる・・・」ももの顔が苦痛にゆがんだ。そして、大きく息を吸って吐いた。一瞬の沈黙の後、ももは言葉を絞り出すように言った。

「あたしは、人を殺したんだ・・・・・・」

「えっ?」

「あたしさ、中学の頃から男関係がひどくって・・・・・・」

 以前からクラスメイトが、ももについて噂していた話だ・・・・・・体の芯が、すうっと冷たくなる。

「愛情なんて信じた事なんてなかったけど、誰かと触れあう暖かさは好きだった。あたしに近寄る男達が、体目当てに優しくしてくれてるのは百も承知だけど、真心なんて鬱陶しいだけだし、それでもかまわないと思ってた。セックスをちらつかせるだけで何でも言うことを聞くアイツらが馬鹿だと想いながらも、自分が楽しんでいるんだし、この体をどう使ったってあたしの自由だって思ってた」

 ももは、息を吐いた。

「でもね、高校一年になった時、生理がしばらく来てないことに気がついてさ。もともと不規則だし、あまり気にもしてなかったんだけど、とりあえず妊娠検査薬で調べたらビンゴ・・・・・・ずっと避妊には気をつかってきてたつもりだった。でも百%ってないんだ・・・・・・そういや、中学の時、そんな事を保健の時間にならったっけ。なんて今更な事グルグル考えて・・・・・・でもね、もうその時からお腹の子供の事はどうするか決めてたんだ」

 ももの闇が、その色を増した。

「絶対に、堕ろすって」

 ももは、暗い目で私を見つめた。

「ひどいでしょ・・・・・・」

 しばらくももの言葉は続かなかった。自分も何も言えず沈黙を守っていた。

「その時に遊び回っていた男達の顔が、次々と頭に浮かんできた。でもその中の誰とも、これからの人生を生きていきたいなんて思いもしなかった。それどころか、あたし、本当に好きな人とは付き合うことすらできなかったなって。しゃべることですら・・・・・・馬鹿みたいだよね。どうでもいい奴らと、馬鹿騒ぎすることでしか、寝ることでしか人と触れあうことができなかった。それに、アイツらきっとこの事を知ったら、間違いなく逃げ出すなって。オレの子じゃないとかかんとか言いながら。ヘマしやがって、馬鹿な奴って目つきであたしのこと見ながら。堕ろしちゃえよ。そのぐらいの金。お前ならいくらでも稼げるじゃん。って薄ら笑いを浮かべながら。ああ、あたし、そんな奴らとしか生きてこなかったんだって・・・・・・本当にクズの人生だって・・・母親や、自分の精子の提供者である父親に対しても、今後クズ呼ばわりできないなって思った。もういっその事、こんなつまらない人生、終わりにしてもかまわない、とも思ったんだけどさ・・・・・・一つだけ心残りがあって・・・・・・」

「きよら・・・・・・?」

「そう、きよら・・・・・・きよらに会いに行くのは、あたしだけ。桜さんだって、きよらに会いに行く事なんてまったくない。あたしが命を絶った後、きよらはどうするんだろう?そう思った。でも、きよらの事だから、親も、こんなどうしようもない妹もいなくなって、さっぱりした気持ちで自分の力で生きていこうとするかもしれない・・・・・・って。そう考えたら、ひとりぼっちで置いていかれるのは自分の方だと思った。そしたら、たまらなくさみしい気持ちになったんだ。死んで地獄に行くにせよ、無の中に放り込まれるにせよ、こんな気持ちで死んでいくのは嫌だ!と、心の底からそう思った」

 ももはじっと私を見つめた。

「醜いよね。自分のお腹に宿った命を、易々と殺す算段をしておいて、己は浅ましく生きる理由を探す・・・・・・」

 ももの視線が絡みついてくる。

「私は・・・・・・・ももが生きていてくれて良かった」何か言わなきゃ。と回らない頭で必死に考えた。かすれた声を絞り出した。

「学校の礼拝でも習ったじゃない・・・・・・あなた方の中で・・・・・・罪のないものがこの石を投げなさいって。罪のない者なんて、この世にいない・・・・・・」必死で言葉を紡ぐ。ももは力無く笑った。

「その後、学校に妊娠騒ぎがばれちゃった。その時、親友だと思ってた友人が一人いて、彼女にしかその事を打ち明けていなかった。でも学校中に噂が広がっていった・・・・・・真実はわからない。というか、わかりたくない・・・・・・怖くて彼女にも聞かなかったし、退学になってもう会うこともなくなったしね」ももは目を伏せた。

「退学になった帰り道、桜さんあたしにこう言ったんだよ。『お腹の赤ちゃん産みなよ。私の子供として育ててあげるから』って。笑っちゃった。笑いながら泣いちゃった。きよらの事を見返りもせず、私の事だってほとんどネグレクトのくせに、なんでそんな無責任なこと言うの?頭の中大丈夫?自分の事わかってる?って。でも、この人は、どんな事態に陥ったとしても、子供を殺す選択はしない。その決意は嫌と言うほど伝わった。この人は、あたしを殺す選択肢だっていくらでもあったはずなのに、それをを選ばなかった。あたしは、この人に一生かなわない。そう思った」

 自分は生まれたことを呪ったことはあれ、感謝したことなど一度も無かった。ももの環境に身を置いたとして、果たして自分はそう思い至ることができるだろうか?いや、無理だ。私は親への恨みを口にし続けるだろう。グチグチブツブツと、蟹が泡をふくようにいつまでも、いつまでも、恨みがましく・・・・・・

「喉、渇いちゃったね」

 ももは、すっと立ち上がってドアの方に歩き出した。

 突然、玄関の方からガシャガシャン!ドシーン!と、ドアに体当たりする音、何かが倒れる物音が鳴り響いた。二人して顔を見合わせた。ももは用心しながら部屋のドアをすかして玄関の方を覗き見た。そして、やれやれというジェスチャーをした。

「桜さんだ。この時間からベロンベロンになってる・・・」

 玄関の方からは、人間のものとは思えないような罵倒の声が聞こえる。二人で玄関に出て行った。

「あ~、ももぉ~水ぅ~!」ぐでんぐでんに酔っ払った桜さんが、カエルが潰れたような格好で玄関にのびていた。

「何やってんの桜さん!お店、今から開ける時間じゃないの?」

 ももは、桜さんの脇の下に体を滑り込ませて、よいしょっと肩に担ぎ上げた。そして、ズルズルと引きずりながら、リビングのソファーまで移動させた。ツーンとすえたような強烈なアルコールの匂いが辺りに充満する。その匂いだけで十分酔っ払ってしまいそうだ。

 自分は何も出来ずにただその場につっ立っていた。ももは慣れた手つきでコートを脱がせたり、水を運んできたりてきぱき動いた。

「店、どうするの?今日は、早樹ちゃんにまかせるの?」ももが、携帯を取り出す。

「み、店ぇ~無くなったぁ~」

「はあ?」ももは呆れた顔をした。

「奥さん~とぉ、ハァゲ~のぉ田中がぁ来てぇ~。で、出てぇ~いけ~って~!こぉのぉ、マンションもぉ~引き払えって~。信じりゃれるぅ~?」

 そう言って桜さんは、がくっと頭を垂れた。思ってもみなかった事態にお互いに顔を見合わせた。

 と、次の瞬間、目の据わった表情で桜さんは顔を上げた。その美しい顔だちが信じられないほど醜くゆがみ、私の母親に対する罵詈雑言が、そこら一帯にマシンガンのようにまき散らされた。二人共ビクッと身をすくめた。

「きょ、今日は帰るね・・・・・・」

 動揺を隠せずに言う。ももも、さすがに困った表情で頷いた。

 マンションの下まで見送りに降りたももは、「ごめん」と呟いた。自分もただ首を横に振って「こっちこそ、ごめん」と言う事しかできなかった。

 その日、夜も更けて母が帰ってきた。階下から、カラカラと玄関の開く音が聞こえた。

 母が今どんな表情をしているのだろう?そう思った。たった一人で、夕食をとっている母の顔は、夜叉の形相なのだろうか?それとも満足の微笑みなのだろうか?しかし自分の部屋を出て、その顔を見に行く勇気はなかった。そのままベットに横になって考えた。

 しばらくして、お風呂場の方から水の流れる音と共に、鼻歌が聞こえてきた。全身が、氷水をあびたように一気に冷えた。

 母は満足している。復讐を果たした自分を褒めている。

 母はいつから、ももの母親の事を知っていたのだろうか?もし、父が力を失わなければ、ずっと黙って耐え続けていたのだろうか?

 世界で一番、自分の母が怖いと思った。

 その夜、夢を見た。湯船の中で母は微笑みを浮かべていた。水の中で揺れる母の髪は、次から次へと蛇へと変化していった。母はその湯船いっぱいに溢れる蛇達を愛しそうに撫でて笑っていた。


 その夢を思い出しながら、私達の空洞はひゅうひゅうと音を鳴らす。

「どうすれば埋まるんだろうね?」冷たい風を、我が身に感じながら私は問う。

「やっぱ愛。愛でしょ!」ももは明るく笑う。自分の中に大きく穴の開いた胸を抱えて。

「愛ね・・・・・・」私の表情は冴えない。

「肉欲のみの愛はダメだよ」ももは間髪を容れず言う。

「ないない、そんなものはどこにもない。だいたい、どの口がそれを言ってるの?」

「はあ?」ももの目が、絡み酒状態になってる。

「あたしはね、嫌と言うほど失敗し続けてきたの。だから可愛い妹には同じ轍を踏んで欲しくはないわけ。だけどね、アンタと来たら、彼氏どころか男に近づくのも嫌がってる。お姉ちゃんとして、妹の性的発育を疑問視してもおかしくはないでしょ」

「無理なんだよ」吐き捨てるように私は言う。

「男の人に触れるなんて絶対に無理」

 その強い口調に、ももは自分とはまた別の、傷口の深さにため息をつく。ふいに優しい目なって私の頭をポンポンたたく。

「それでもね、私達に必要なのは人と人とのふれあいだよ」ももが私の頬にチュッとキスをする。ラテン系なんだから。そんなんだからみんなに誤解されやすいんだよ。

「セックスオンリーはダメだよ」ももは重ねて言った。

 だから、どの口が言ってるの。そう私は言う。ももはただ笑った。


 日曜日の午後。快晴。空は澄んでどこまでも青く、小さな雲がちらほらと視界の隅に入るのみ。暑くもなく寒くもない、からりと乾いた爽やかな天気だった。

「四〇分も山道を歩くから、お天気で良かったよね」

「あたしは晴れ女だから、雨なんて降るわけないでしょ」ももは傲然と言い放った。

「どっから出てくるの?その根拠のない自信」私は少し呆れ気味に言う。やっぱりももは父親似だ。

「自信を持ってるからチャンスをものにできるのよ」自信たっぷりの態度で髪を払う。その傲慢な素振りさえ、ももがすれば魅力的に映る。

「そんな事言ったって、天気なんて自然現象。人の自信でどうこうできるものじゃないでしょ」ももの車からリュックを引っ張り出す。

「堅い堅い!そんな事言ってるから彼氏できないんでしょ。天気も彼氏も自分の指先ひとつで動かせるもんだから」ももは、世の中言ったもの勝ちよ。と言わんばかりの口調でそう言いきった。

「へえ、花ちゃんは彼氏いないんだ。もったいないね」

 背後から声がする。いつの間にか彼が車の後に立っていた。全く気づかなかった。でも、花ちゃんだなんて・・・・・・くすぐったくって顔が赤くなる。そんな私の焦る様には全く気づかず、ももが挨拶をする。明るくはきはきと簡単に自己紹介をした。そして、ここに来た理由。自分の夢について熱弁を振るい始めた。

「だから、神山さんのミツロウ作りをぜひ見せて頂きたいと思ったんです」

「そうか。ミツロウで化粧品なんて発想はなかったな。僕もぜひ教えて欲しいな」

 彼は、感心しながらももの話を聞いていた。話の腰を折ることもなくじっくりと。大きく手を広げてすべてを包み込むように。その柔らかに頷く仕草を見ているだけで心の底がほんわりと暖かくなる。

 ももの話が一段落付くと、三人でダムの駐車場脇の小道を歩き出した。

「ここは、まだ車が通れるほどの広さなんだけど、もう少し行くとどん詰まりになる。そこからはちょっとした登山だよ。二人共大丈夫かな」

「体力、気力ともOKで~す」ももが言った。

「やめてよ。化け物並みのももと一緒にするのは」私は悲鳴を上げた。

「そうなの?」

「そうですよ。ももはこう見えて格闘技オタクなんです。下手な男の子より、もものほうが断然強いです。昔、ももの元カレに絡まれた時だってあっという間に、男二人をのしちゃったんですよ」

 ももはチッと舌打ちをした「あんなん元カレなんかじゃないし、図体だけでかくてもあたしの敵じゃないし」と指を左右に振ってみせる。

 彼は意外という顔をした。ももは、どうだと言わんばかりの顔をしながら胸を張っている。どこまで自信満々なんだか・・・・・・

 あの時、ももはまだ学校をやめていなかった。父は生きていたけれど、もはや自分の意思は通らなくなっていた。母はまず、父が与えていたももの母親の店を取り上げた。そして、もも達の住むマンションからも追い出した。

 ももはしばらく学校に来なかった。電話もメールも不通になっていた。心配して毎日探し歩いていた。

 その日も、ももを探す為に父の会社の専務である田中さんに直談判しに行っていた。田中さんは父が元気だった頃、ももの家族に対する金銭的な手続きを任されていた人。それなのに、今は母に頼まれて、もも達を追い出す手伝いをしている。

 下世話な話の尻ぬぐいに引っ張り回されて、もともとはげ上がって冴えない顔つきの田中さんが、ますますくたびれた雰囲気になっていた。

 そこで母が、もも達の養育費の支払いを拒み裁判の準備をしていることを知る。母は、もも達の存在すべてを目の前から抹消しようとしていた。

 力なく家に帰ろうとして、街角でばったりももに会った。連絡をくれない薄情さを泣きながら訴える私。けろっとした顔でプリクラを撮ろうよと誘うもも。ぷりぷり怒る私の事なんて全くお構いなしの態度で。

 あの頃から自己中心的な性格は、ちっとも変わってない。ももはいつだってももだ。

 プリクラのセッティングを楽しげにしていると、入り口のシートが跳ね上げられ二人の青年が入って来た。一人は金髪。もう一人は長い髪を馬の尻尾みたいに束ねて、唇にいっぱいピアスをつけている。くちゃくちゃガムを噛みながら、お尻までダブダブズボンをずり下げて。腕のタトゥー模様が不気味だった。

「ももっちぃ~おひさ~」金髪が、ももの肩になれなれしく腕を回す。もう一人の長髪ピアスが私に近づいてくる。

 怖い!怖い!ひざががくがく震える。

「え~ありえなくね?震えるなんて萌えるわ~オレ」にやにやする気持ちの悪い男の顔。どんどん近づいてくる。吐く!吐いてしまう!

 ミシャッと鈍い音がした。長髪ピアスの上半身が変な方向に歪む。体のバランスを崩し体がかしぐ。その背後にももの怒った顔が見えた。続けざまに、一見優雅とも見てとれる流れるような動きで、もものパンチが胸に入る。一見、全く効いていないような軽い動き。ゲホゲホッと息が詰まったように咳き込みうずくまる長髪ピアス。

 その後ろにはすでに、カーネルサンダース人形が倒れたみたいな格好で金髪がゴロンと伸びていた。

 ももは私の手を取って、金髪をわざと踏みつけて走り出した。あの頃のももはゴシックパンクファッションにはまっていた。倒れ伏す男を容赦なく踏みにじる世紀末的な女王様。ゾクゾクするほど格好良かった。破壊とは創造の第一歩である。その使い古された言葉が頭の中をぐるぐる回った。ももは、私の周りの凝り固まった世界をたたき壊すヒーローのようだ。世界を照らす太陽神。輝く女神。

 繁華街を離れ、夕闇に包まれた公園のブランコに二人で座った。心臓の鼓動は、なかなか静まらない。

「逃げても追いかけてくる・・・・・・」

 そう呟くももの言葉にビクッとした。おびえながら辺りを見回す。

「違う違う!アイツらが追っかけて来るって事じゃない!」ももは、笑いながら手を振った。

「逃げても問題は消えない。自分の生まれ落ちた環境を呪ってみても、まわりの状況が変わるわけではない。過去と他人は変えられなくても、自分と未来は変えられる。ってね」

 ももは、ブランコの鎖を持って仰向けに上体をぐっと倒した。空を見上げながらブランコをこぐ。半分真っ黒で、もう半分は真っ白。ハロウィンに出てくる人形みたいなへんてこりんなウイッグ。その髪の毛の先っぽが地面にこすれている。

「何、カッコつけた台詞吐いてるの!心臓がまだドキドキいってるよ!」ほっと息をつき、胸を押さえた。自分の臆病でひ弱な心臓はまだ大きく波打っている。

「もも強かったね」さっきのパンチを思い出して、今度は驚嘆の意味を込めて言った。

「あたしが格闘技を習ったのは・・・」ぽつっとももは言った。

「父親をいつか叩きのめしたいって・・・・・・少年漫画じゃないけど、あたしや兄をカスみたいに扱ったアイツに血反吐を吐かせやるって。あたしたちの足元にひれ伏させて謝らせてやる・・・・・・その日まで絶対に涙なんて見せない。そうしたら、きっと自分の生きている世界は変わるんだ、って思ってた。でも、そんな事、もうどうでもよくなったね・・・・・・」

 ももは、また一つ大きくなった印象だった。自分と、ももの距離が、ますます遠くなったような気がした。

「私も父にとってカスだけど、私は途中で諦めちゃったな・・・・・・どうせ、どうせっていじけちゃって。どうすればももみたいに強くなれる?」

「格闘技教えてあげるよ」そう言ってももは、私の鎖骨の下にパンチを決めて見せた。その鋭く重い痛みに私は涙を流して悶絶した。

「ほらほら。女は涙なんて見せちゃダメ。カッコ、手段として使うなら許される。カッコ閉じる。ってね」

 ももの笑い声が、暗くなった空に吸い込まれていった。


 しばらくして、やっとももが学校へやって来た。三学期も終わりに近く、一つのけじめの季節を迎えていた。

 その日はテスト期間の為、いつもよりも早く学校が終わった。

 学校の図書館で、ももと落ち合う約束をしていた。

 そこで、ももから学校を辞める事を聞かされる。

 私は、泣いてももに抗議した。

 そして、こんな不条理な世界終わってしまえ!と、心の中で大きく毒づいた。

 大泣きしたせいか頭がグラグラ揺れた。体のバランスがおかしい。

 いや違う!これは地震!

 直後に、体にはっきり感じる横揺れが図書館全体を揺さぶった。あちこちで女生徒達の悲鳴が上がる。棚の本が流れ落ちるように飛び出して、続けざまに棚自体が倒れてきた。壁に掛けられたリトグラフが、今にも落ちそうにぐらんぐらんと大きく揺れる。ガラス窓が一斉にガシャガシャと今にも割れそうな音を響かせ、目の前の一枚にピシャーンと一直線にヒビが入った。

 突然、非日常の出来事に投げ込まれた状況に体が固まった。

 ももの手がぐいっとのばされて腕を引っ張られた。机の下に押し込まれる。二人して身を固くして机の下に隠れた。

 しばらくの間大きな揺れが続いた。そして、徐々に小刻みな揺れに収まっていった。

 ほっと一安心して顔を見合わせ動こうとした。その次の瞬間。下からドンッと突き上げるような衝撃が走った。それは生まれてこの方、今まで体験したことのないような大きな揺れだった。それは地震ではなく、爆弾が近くで爆発したのかと思うほどの衝撃だった。小学校の修学旅行で聞いた広島の原爆の話が頭をよぎる。近くに核爆弾が落ちてきたのかもしれない。本気でそう思った。

 その凄まじい揺れは、信じられないほど長い間続いた。体が大きく跳ね上がるような揺れに突き動かされながら、自分達はここで押しつぶされて死ぬのだと覚悟した。

 誰かの叫び声があちこちから上がり、金属のぶつかり合う音、何かが倒れる音、ガラスの割れる音がいっぺんに耳に飛び込んできた。それから、地を這うようにズズ、ズズゥ~ンとざらざらした重い音が少し離れた場所から聞こえてきた。

 気の遠くなるほどの時間が過ぎた。天地がひっくり返るような大きな揺れの中、この古い図書館ごと潰される!という恐怖に襲われ続けた。以前テレビで見た、ひっくり返った高速道路。傾いたビル。ぐちゃぐちゃに潰れた家屋。街のあちこちから吹き上がる真っ黒な炎。そんな映像が脳裏を駆け巡った。恐ろしさの中で、ももの体にしっかりとしがみつき震えていた。ももの体だけが世界の支えだった。

 ・・・・・・・・・・・・

 不気味な静寂が辺りを支配した。恐る恐る机の下から這い出した。またいつ大きな揺れが襲ってくるかもわからない。お互いに顔を見合わせると、足の踏み場もないほど本が散乱した図書館から飛び出した。あちこちにガラスのかけらが散乱していた。それを踏まないようにしながら走った。それでも上靴の裏にジャリジャリという硬質な音がきしんだ。その鋭い切っ先が足の裏に突き刺さり、血が噴き出す映像が脳裏を横切り恐怖に震えた。いきなりやって来た非日常の光景に、頭の中は混乱の渦に突き落とされた。しかし、どこかで大丈夫、大丈夫、大した事ではないと、この事態を否定しようとする心も確かに存在していた。

 図書館の出口まで来ると、棚が倒れて出口をふさいでいた。二人でなんとか棚を脇に押しやって上履きのまま外に駆け出す。

 外に出ると、少しホッとした。ここなら潰されない。そんな安堵の気持ちがぐっとこみ上げてきた。

 運動場には、先生や生徒達が集まって来ていた。誰しも、あまりの地震の大きさに不安な顔を隠せない様子で、ざわざわと言葉を交わしていた。ガラスで怪我をした生徒や、頭に物がぶつかり怪我をした生徒もいて、養護の先生が治療に当たっていた。

 学校は、街の中心部の小高い丘の上に建っていた。運動場から街の様子が見て取れた。街のあちこちから砂煙のようなものが立ちのぼっている。サイレンの音がどこからともなく聞こえてきた。土臭い匂いも辺りに漂っていた。ざわついているのに、妙に静かで、全てが他人に起こっている出来事のように感じた。

「学校裏の崖が崩れています」一人の先生が走ってきた。

「こちらの運動場側には危険はありませんか?」先生達はてきぱきと連絡を取り合い動き出した。足洗い場の蛇口の水がまだ出ているのを確認すると、ポリタンクに水をためる先生もいた。

 二人して顔を見合わせた。あまりに大きな地震。学校の被害もかなりのものだったが、自分達の親は、きよらは大丈夫なのだろうか?そんな不安が頭をよぎった。

「皆さん、余震の心配もありますし、避難所に指定されている学校待機とします。それぞれのお家の方と連絡が取れた時点で、対処していきますので、みなさん勝手な行動は慎んで下さい」先生の指示が出た。空はどんよりと重く、寒さが身にしみた。

 また、かなり大きな余震がきた。生徒達は叫び声を上げその場にうずくまった。余震が収まると一人の先生がみんなに言った。

「津波警報が発令されました。この学校は高台にありますし、海から遠いため安全です。海岸近くに自宅がある生徒さんは不安だとは思いますが、まずは皆さんの身の安全を最優先に考えて下さい」

 生徒の何人かは、動揺した様子だった。どうすれば良いのかわからず、ただぼんやりと立ちすくんでいる生徒もいた。しかし、多くの生徒はきっと大丈夫。いつもよく出されているじゃない。今回も大した事はないはず。そう、根拠のない確信を口にしながら覚めたポーズで話していた。そうすればきっと何も起こらないとでも言いたげに。

 重く垂れ込めた空から雪がちらつき始めた。

 お互いの顔色が青ざめた。ももの兄のいる施設は海のすぐ近くにあった。しかも、今日は父がデイサービス利用のため同じ施設に行っている。

「津波の被害の想定される地域の生徒さんは、先生達の携帯や自分の携帯を使い連絡を取取って下さい。しかし、電話は非常につながりにくくなっています。しかし、どうか皆さん落ち着いて行動して下さい」

 親と施設に電話をかける。通じない。メールも送る。返信が返ってくることはなく、信じられないほどゆっくりと、時だけがのろのろと過ぎていく。心ばかり焦って、物事は遅々として進まなかった。すべてが奇妙で現実感がなかった。夢の中のような気がした。頭がいつもの半分も思考していない。そう自覚しつつも考える事を放棄している自分がいた。

 結局、施設に電話が通じることはなかった。

「そういった施設には、普段から防災のマニュアルがきちんと組まれていますから、職員の人達を信じて待ちましょう」先生のその言葉だけが福音のようだった。

 学校の近くに住んでいる生徒達の親が、ぽつりぽつりと子供達を迎えにやって来た。道路の状態が悪く、渋滞があちことで起きている。電車も今はまだ動いてないと聞かされた。その中に自分の母親を探したが、見つけ出すことはできなかった。ももの母親も、なかなかやって来なかった。不安にかられながら、先生達の手伝いをする事で気を紛らわせる。

「お嬢さん達」

 二人で倉庫から避難物資を体育館に運び込む手伝いをしていると、背後から声が掛けられた。

「田中さん?」意外な人の迎えに心底びっくりした。

「お二人のお母様達から、ほとんど同時にメールで連絡が入りましてね」専務の田中さんは、相変わらずさえない顔つきで言った。

「私は無事です。と、でもお父様を迎えに行っているので、子供をお願いします。との事でした」

「だって、田中さんも自分の家族がいるんじゃない?」ももは、呆れたように言った。

「いえいえ、私は一人です。両親も既に亡くなって久しいですし、三年前、家に帰ると妻も子供もいませんでした」

「はぁ?」二人で顔を見合わせた。

「仕事、仕事で家庭を顧みない夫に三下り半を残して、妻は北海道の実家に帰ったんです。そのすぐ後に離婚届も送られてきました。お二人のお母様達は、そういう事情をご存じなので、気軽に頼めるのでしょうね」益々さえない顔をして田中さんは笑った。

 二人は顔を見合わせた。

「まさか、津波警報が出たのを知らずに、迎えに行ったんじゃ・・・・・・」私は、青ざめた。

「でも、うちの桜さんは・・・・・・」

 ももは、いきなり駆け出そうとした。予想外に素早い動きで、田中さんがももの腕をつかんで引き留めた。

「主要道路はひびが入り、水や泥が噴き出している箇所も見かけられました。渋滞もあちこちで起こっています。狭い道路はブロック塀が倒れてきていたり建物が倒壊したりで、通行するのも難しい状態です。例え、歩いて行ったとしても津波が到達する時間までに、ここから社長がいらっしゃる海の近くの施設まで辿り着くことは難しいと思います」

「それでも!何もしないなんて!」

 ももは、田中さんの腕を振り払おうと力を込めた。

「今必要なのは、冷静な判断です。私は、すぐに高い場所に避難するように、お二人にメールを送ってみます。お嬢さん達も電話をかけてみて下さい。災害時には公衆電話の方が掛かりやすかったという事例もありますから、それも試してみて下さい。しかし、ケースバイケースですから絶対はありません。とにかく頭を冷やして考えを巡らせて下さい」

 ももは、大きく深呼吸をした。そして自分に言い聞かせるようにOKと小さく答えた。


 それから三ヶ月が過ぎた。

 田中さんの車に乗せてもらい、私とももは施設の近くの海に来ていた。

 二人の母親は無事だった。私の母は、父を車で迎えに行こうとして渋滞に巻き込まれ全く動けなくなった。そこに津波が到達したが、海岸から遠く津波の勢いは弱まっていた。母は車の下部が洗われたのみで九死に一生を得た。しかし、ほんの数百メートル先では、たくさんの人達が流され亡くなっていた。数百メートル。それだけで運命は分かれた。それでも、あの時に見た光景を母は一生忘れないと言う。真っ黒な粘度を持った水があたり一面に、まるで意思を持ったかのように押し迫ってくる。母は逃げることもできずただ固まっていたという。こんな所まで津波が来るわけがない。そんな事はありえない。そう思い続けていたと。ただ座り続けていたと。

 ももの母親は父と施設にいた。ももは知らなかったが、それまでも、父がデイサービスを利用する時にたびたび会っていたのだという。そしてももの母親は父と一緒に津波に流された。

「手を、手をつないでたの。それなのに離してしまった・・・・・・」ももの母親が泣く。

 ももの母は、流されながら偶然、手に触れた雨樋にしがみつきかろうじて命をつないだ。

 きよらは、施設から早い段階に避難できた為に無事だった。しかし、父を始め、多くの入所者、デイサービス利用者、職員の多くが津波に巻き込まれて亡くなった。

 街の中心部は、ライフラインも迅速に復旧を果たし、壊れた建物やブロック塀などの片付けも進められた。日ごと元の生活が戻ってくる感覚に、人々は痛みを忘れようとするかのようにがむしゃらに進み続けていた。

 しかし、街の中から海岸近くに来ると、その景色は一変した。道路は自衛隊の人達が瓦礫を撤去してくれたため、通れるようになっていた。それでも所々地面が陥没し水が溜まっている。辺りには土台だけになっている住宅の跡や、そこからそう距離は離れていないのに一見そのままに残っている家がぽつりぽつりと見えた。そこら一帯には流れてきた瓦礫が散乱し、無残に押しつぶされた車があちこちに放置されている。田んぼの中には、海から流されてきた漁船が残されたままになっていた。

「ここらは、まだ人家が少なかったからこのぐらいですが、住宅が密集していた所はひどいものですよね」田中さんは声をおとした。

「戦争ってこんな感じだったのかな。人からすべてを奪い、切なる願いをも無慈悲に押しつぶして・・・ ここまで、ここまでされなきゃいけない何かが私達にあったわけ?誰が、いったい何をしたって言うのよ」ももがぶつけようのない怒りを吐き出す。。

「私は絶望という言葉を初めて実感しました。今までも自分の人生は苦しいものだと思っていましたが、これに比べれば・・・・・・」田中さんも誰に言うとなく呟いて嘆息した。

 同じ被災をしても、津波を受けてすべてを流された人。海から遠く、建物の損傷だけですんだ人。家族を亡くした人。ほとんど被害を受けなかった人。痛みは人それぞれだった。

 すべてをなくした人の横を、まだ失うものが少なかった人達が通り過ぎる。その時に交差するお互いの眼差し。憐れみと嫉妬が絡み合う。恐ろしいほどの心の闇。

 運命は、平等に微笑まない。それでもそれを受け入れて生きるしかない。

 そんな事わかってる!わかってるんだ!

 まあ、かわいそうに。その視線が突き刺さる。お前に何がわかるんだ!そう叫びそうになる。

 泣き、笑い、怒り、喜び。その狭間で苦しみあがく。様々な感情が人々の間にゆらゆらと立ちのぼっていた。

 その感情を素直に出してはいけないとする空気が、其処ここに澱み始めている。

 もっともっと苦しい人がいる。私だけが悲しみを吐き出すなんて・・・・・・

 話したって、どうせわからない・・・・・・

 私だけ助かって申し訳ない・・・・・・

 俺だけがどうしてこんなに苦しまなくちゃいけないのか・・・・・・

 千人千色の様々な想いが人々の心に蓋をする。

 途中、施設に立ち寄ったが、すべてが流され、何も残っていない骨組みだけの空間に花を置く気持ちになれなかった。

 そこで三人は、近くの海にまで来たのだった。

 父の遺体は、見つかっていない。母は毎日遺体安置所に足を運んでいた。日々、憔悴してやせ細っていく母。地震の後、めちゃめちゃになった家の中を片づける事もなく放心状態の母の姿。いつも冷静で、完璧だった母はそこにはいなかった。

 母にとって、父はすべての中心だったのだろう。私から見て、その形が支配としか見えなくても。

 もしかしたら、自分の事を顧みない夫への意地でしかなかったのかもしれない。その事ついての母なりの報復の手段だったのかもしれない。しかし、それでもそれが母にとっての生き甲斐であり、己の生きる道だったのだ。

 安置所では、ももの母親ともよく出会った。二人共見知らぬ人のように、何の反応も見せることはなかった。

 同じ人を愛する。それはどんな気持ちなのだろう。


 胸の奥でちりちりと音がした。

「さあ、ここからはハイキング」明るい声がした。

 道の終点は少し広い空間になっていた。車が一台おいてある。

 その横から、杉木立の中、人が二人並んで歩けるぐらいの狭い道が、うねうねと山の斜面にそって続いていた。早々と後悔が頭をよぎる。少し歩いただけで息が切れてきた。杉木立が途切れ、明るい雑木林が目の前に拡がる。みずみずしさを絵の具で溶いたような、薄い緑のグラデーションが美しい。空気が澄み、辺りにすがすがしい香りが満ちあふれていた。様々な鳥の声も聞こえる。

 また一段と急な登りになってきた。大きな岩が地面から顔を出している。ふうふう言いながら足を大きく上げて岩を乗り越える。岩の上に浮いた砂でずるっと足がすべる。おばさんみたいに「ひゃあ~」と声がでてしまいそう。そんな私とは対照的にももは、軽いフットワークでひょいひょい進む。まるで踊っているみたいだ。先頭を進む彼が後を振り返る。ちゃんとついてきているか気を配ってくれている。ぽっぽっと胸に灯がともる。

 しばらく歩き、道の傍らに大きな丸太が横たわる場所で足を止めた。

「ちょっと休憩タイム」彼が笑顔でそう言う。全く息も切れていない。信じられない。でも、その横にいるももも平気な顔をしている。私だけホントかっこ悪い。

 ポケットからアメを取り出し手のひらに乗せてくれた。コロンコロンと口の中で転がす。疲れた体に甘さが染み渡る。

 彼は、山の斜面に生えている木から、先端にある葉っぱをいくつかちぎり取った。

「何ですか。それ?」

「コシアブラ。持って帰って天ぷらにしたらいいよ。あと、コゴミもそこにいっぱい出てる」

 斜面のあちこちにくるりと巻いたシダのようなものが生えている。

「これ、恐竜が食べるみたいで美味しそうじゃないんですけど」ももは、意外そうな顔だ。

「いやいや、これがいけるんだよ。これも天ぷらにしたらいいよ」彼はせっせと袋に詰めた。全く休む気配もない。

 そうやって、所々休憩を取りながら、ゆっくりめのペースで歩く。休憩する度にウルイだのタラの芽だのワラビだの、山菜のお土産が増えていく。

 途中に小さな沢が道と平行して流れていた。湿った濃密な空気が肺を満たす。木漏れ日が、苔むした岩の上に所々差し込んでいる。柔らかな緑の絨毯。その上にスポットライトが差し込み、まるで小さな舞台をつくっているようだ。妖精がその光を浴びて踊っていてもおかしくない。そんな幻想的な風景。岩の間を流れ下る水は驚くほど澄んでいて手が切れるほどに冷たい。鳥の声が、水音と重なるように流れ下っていく。

 彼は、私達に休憩するようにと言って沢を登っていった。しばらくするとつやつやした葉っぱを抱えて戻ってきた。その上、枝に通した魚も持っている。

「いったい、いつの間にそんなもの捕ったんですか」ほんの少しの時間しかたっていないのに、まだピチピチ動いている魚が三匹も。びっくりして尋ねる。

「養殖の生け簀を作ってあるんだ。そんなに大きなものじゃないけど。自分で食べる分には十分なんだよ」

「すごい、すごい!自給自足の仙人みたい!」ももが感心したように言った。

 本当にそうだ。ひと昔前には、多くの人がこんな暮らしをしていたのだろう。経験したことのない光景なのに何故だか懐かしい。私の細胞の一つ一つにそんな記憶が刻み込まれているのかもしれない。

「さあ、あともうひとがんばり!」彼が声を掛けてくれる。

 出発からもう一時間は優に過ぎている。全身が心臓になったみたいにドクドクいってる。空気を吸っても吸っても苦しい。もう歩けない。そう思った時、景色が目の前にぱあっと開けた。

 なだらかな丘が拡がって、刈り込まれた青い草の上に背の低い木が立ち並んでいる。枝一杯にたわわに実る青い実。まだ少し小さな梅の実たちが収穫の時を待っている。その木の下を、何羽ものニワトリ達が気取ったポーズで歩いていった。

「うわぁヒヨコがいるよ!ちっちゃ~花、見て見て!ふわふわ!」ももが興奮した声を上げる。ヒヨコ達はお母さんの後をちょこちょこついて行きながら、一丁前に地面をつついて何かを探している。その横には立派な鶏冠の雄鳥が誇らしげに立っていた。日の光をいっぱいに浴びて、その力を誇示するかの如く、盛り上がり流れるような尾羽。虹色に光っている。

「彼はね、この群れのボス。とても優しいんだ。以前のボスは、メスや子供達の餌を横取りしてしまうような横暴な性格だったけど、彼は、餌を見つけるとみんなが食べ終わるのをじっと見守っている。理想の父親像だよね」

「そんな理想の父親像なんて、憧れだよね~」ももは私を振り返って言う。

「ももも、早くそんな人を見つけてね」

「あんただってそうでしょ!」ももは笑う。笑いながらもお互いの顔は懐疑的だ。私達の心の穴から風が吹く。私達はそんな未来を信じる事ができるんだろうか?

 梅林の左手側には古びた民家が一軒あり、その後には竹林が風を受けて揺れていた。その奥には再び緑深い山々が連なっている。何処からかヤギか、羊のような声が聞こえてきた。

「楽園にようこそ」彼が笑う。

 本当に、此処は楽園のようだ。今の日本にこんな暮らしを続けている人が、いったい何人いるのだろう。

「まずは、裏山の杉木立から流れてきた水で喉をうるおすといいよ」

 はあはあ息を切らす私に彼が言った。自分で山からずっと引いてきたという、竹の懸け樋から流れ落ちる水は冷たく、さらりと喉を滑り落ちていった。柔らかく甘い。まさに甘露というのがふさわしい。二人で何杯も手のひらに受けてゴクゴクと飲んだ。ももは子供のようにバシャバシャと顔を洗い、首に懸けたタオルでごしごし顔をふく。首の後をぐるり、脇にまでタオルを突っ込んで。そのオジサン臭い態度が、ももがすると長恨歌の楊貴妃入浴の図だ。肌の上に水が玉となってしたたり落ち、濡れて貼りつく黒髪はその艶を増す。水もしたたる美女。そうとしか思えない。

「美人は得!美人はホンットに得だよね!」を連発する私の背中に、ももが笑いながら蹴りを入れる。

 彼は、家の前の開けた場所で火をおこし、さっそく串に刺した魚をあぶっていた。そこには石で作った簡単な炉がしつらえられている。すぐ脇には屋根で覆われた窯のようなものもあった。

「これって何ですか?」好奇心一杯のももが聞く

「ピザ窯だよ。自分でつくったんだ。パンを焼いたりもするよ。家のは重くてずっしりとしたパンなんだ。山羊のチーズととても良く合う。天気のいい日には外でピザを焼いたり、魚を焼いたり、狭い家の中より、外で食べた方が気持ちがいいしね」

「奥さんはお家の中ですか?」ももが聞いた。

 そのとたんに、彼の目が曇った。

「妻はね。二日前に山を降りたんだ・・・・・・」そう言いながら、炉の周りにおいてある木の切り株に腰をかけ、うつむき加減で魚の串を回した。私とももは、思ってもいなかった事態に黙って顔を見合わせた。

「僕たちは、もう長いこと今の暮らしについて意見が分かれていたんだ」彼の足元にニワトリがやって来る。彼が落ちていた何かの切れ端を投げると、ニワトリは勇んでその後を追いかけて嬉しげにつつき始めた。

「彼女は、子供が成長するためには、いろんな人との触れ合いが大事だと言った。それに、もうすぐ息子も小学校に通う年齢になるしね。でも僕は、長い時間をかけて、やっとの事で築き上げたこの暮らしを捨てたくなかったんだ。もともと彼女は、子供が生まれる以前からこんな不便な暮らしを嫌がっていたんだ。それを無理矢理に僕の夢に付き合わせてしまった結果・・・・・・」

「男のロマン。女の現実ってとこですね」ももが軽い口調で混ぜ返した。彼は苦笑した。

「その通りだね。ここに来たばかりの頃も、もう私は駄目だ。とてもじゃないけどこんな生活は耐えられない。ってさんざん言われてね。彼女を説得するために、ピアノを手に入れたんだ。彼女は子供の時からピアノが好きで、本当はピアノの先生になりたかったと言っていた。近所の子供達に囲まれてね。先生、先生って慕われてさ。それなのに、その願いも僕の夢のせいで潰してしまった」

「この山の中じゃピアノは運んで来られないから、誰か知り合いの家にでも置かせてもらったんですか?」ももが尋ねる。

「いや、山を降りてピアノを弾いていたら、そのまま帰って来なくなるんじゃないかと不安に思っちゃってね。必死で彼女の為に此処まで運んだんだ」

「エッ?実はここまで車が上がってこられる道があったんですか?」ももが批難をこめて言う。ももも、涼しい顔をしていたけれど、此処までの道のりはけっこうキツかったのかもしれない。

「いや、あの道しかないよ」

「はあ?あの細い山道をどうやってピアノを運んだんですか?」

「アップライトピアノだからグランドピアノに比べれば小さいものだけれど、それでも信じられないほど大変だったよ。林業とかで使う、小さな作業車を借りてきて運んだんだ。途中、岩が連なって険しい所あったの覚えてる?あそこでは周りの木を使って吊り上げてみたりさ。運んでる途中で何度か死にそうな目にもあったよ。若かったからできたんだろうね、きっと」

「ロマンチストですね~愛の力ってやつですか?」ももが感心したように言う。

「それでも、やっぱり駄目なものは駄目だったんだね」彼の肩ががっくり落ちる。私は相変わらず何も言えない。

「大丈夫ですって!今どき三組に一人は離婚してるんですし」ももが、ばんばんと彼の肩を叩く。そんな、傷口に塩を塗り込むような!焦ってももの洋服の裾を引っ張るが、いっこうに気にする様子もない。

「まだ、離婚と決まったわけじゃないんだけど」彼が苦笑いを浮かべる。

「でも、話すと少し楽になるね。一人で考えてると、思考だけがグルグル頭の中を巡っちゃってさ、おかしくなりそうだったよ」まだ寂しげな表情だけど、少しだけ笑顔が戻ってきた。

「そうですよ。一人で閉じこもって考えてちゃ駄目ですよ。そんな時は美味しい物でも食べて、誰かに話して、とにかく馬鹿々々しい話ででも笑ってみる事ですよ」私は精一杯の慰めを口にした。

「でもね、僕の所はいまだにガスや水道は通ってなくて、今でも台所は竈を使っているんだ。今まで妻に何もかもまかせっきりで、自分でご飯とか炊いたことないし。こんな風に魚焼いたりはできるけど、パンもピザもどうやれば生地が作れるのか全く知らないんだ」彼は情けなさそうにポリポリ頭をかいた。

「あちゃ~離婚される男性の典型的例ですよ、それ。仕事仕事で家の中は妻にまかせっぱなし。子育ての手伝いもまったくしない。ダメダメモードまっしぐらですね」

 ももが止めを刺す。慌てて私はフォローした。「じゃあ、山を降りて何処かでご飯食べたらいいじゃないですか。腹が減っては戦はできないですよ。ちょっと遠いけど、大学の学食だったら値段も安いですし。私でよければ話も聞きますよ」

「いいのかな?」

「いつでもメールして下さい」

「あたしも、休みの時は相手しますよ」ももも、あまりにも虐めすぎたと思ったのか、慰めるように言った。

「その代わり、ミツロウ安く仕入れさせて下さいね」やっぱりももは、ちゃっかりしてる。

「そうだったよね。じゃあ、蜂を見に行こうか」彼は、魚を少し火から遠ざけると、私達を蜂の巣箱を置いてある場所まで案内してくれた。

「大声で騒いだりしちゃ駄目だよ。ゆっくりそっと近づけば、刺される事なんてめったにないから」

 二人共、少し緊張しながらゆっくり進んだ。耳の奥にブーンブーンと小さな振動が伝わってくる。体の周りで小さな蜂達が忙しげに行き来する。小さな灌木の下や岩陰などに、木で作られた四角い箱が並んで置かれていた。巣箱に近づくと、蜂たちの羽音がいっそう大きくなる。眠気を誘うような心地良い響きがあちこちから聞こえてきた。その中の一匹が飛んで来て手にとまった。そっと手を広げてみる。蜂は指の間の柔らかい皮膚の所を行ったり来たりウロウロしている。普通のミツバチより色が黒っぽくって小さい。思いの外可愛いものなんだと思った。

「花、怖くないの?」ももの目が少しビビっている。こんなもも初めて見た。ももに弱点なんてものがあったんだ。ちょっぴり嬉しくなる。

「ミツバチに好かれてるね」彼の目が優しく細められる。

「きっと君が優しい人なのがわかるんだね」

 ミツバチが歩くのがくすぐったい。心にぽっぽと灯がともる。


 彼は、ももが怖がっているのがわかったのか、焚き火の所に戻ろうと言った。

 焚き火のそばまで来ると「あっ。やられた!」彼が叫び声を上げた。

「あちゃ~魚盗られちゃったよ」

 見ると、きれいに三匹ともなくなっている。

「エッ何に盗られたんですか?」ももが素っ頓狂な声を上げた。

「多分、ニワトリだと思う。クマとかイタチ、テンなんかの野生動物は昼間あまり出てくることないからね。サルは昼間も来るけど、今そこらに群れの気配は感じられないしね。ごめんごめん。ご馳走しようと思ってたのに。油断しちゃったよ」

「クマ・・・・・・そんなものが出てくるんですか・・・・・・」ももが絶句する。

「クマはここらではめったに出てこないよ。それよりはイノシシが怖いんだ。最近北限と言われていた地域を越えて増えてきているし、彼らは人を襲うことがあるからね。よくニュースになってるの聞いた事ない?一応僕も身の安全を守るために狩猟免許とったんだ。あんまり使いたいとは思わないんだけど。銃も置いてある」

「毎日がサバイバルなんですね」ももが変なところで感心する。

 また、どこかでメェーと哀調ををおびた鳴き声が聞こえた。

「山羊か羊がいるんですか?」

「うん、家のすぐ側に囲いがあってそこに山羊と羊がいるよ」

「うわ~アルプスの少女みたいですね。見たい!見た~い!」ももが歓声を上げる。

「うん、そうだね」

 ももが彼の腕を引っ張る。胸がちりっと鳴る。

「早く早く!」

 彼はゆっくりした動きで家の横手を歩く。道が段になっていて、石垣を積んだ下には畑が作られていた。途中、薪小屋があって薪が少しだけ積んであった。薪割りをするための台と、突き刺さった斧が視界に飛び込んでくる。

「ワイルド~」ももが口笛を吹く。

 その横には土で作られた丸いものが見えた。正面に入り口がぽっかりと開いていて、その周りは真っ黒に焼け焦げていた。

「これ、何ですか?」ももが尋ねる。

「炭焼き窯」彼はすたすたとその前を通り過ぎる。

 その前を通り過ぎた時、あの時の匂いがした。彼と初めて会った時の香り。

「最近、使われたんですか?」

「いや、秋から冬の間しか使ってないんだ」

「あ、でも同じ香りがしてますよ」

 彼は何だろうという顔をする。しまったと思う。ももがニヤニヤしている。

「この子、変な事言ってたんですよ。神山さんに初めて会った時、不思議な香りがしたって。燻されるような、ツンと来るような。今まで一度も嗅いだことのない香りなのに、まるで魂を揺さぶるような香りだったって」

 彼の指が動く。

「ああ。それは薪を燃やす匂いだよ?あれは体にも髪の毛にも、着ている服にまですべて染みつくんだ。妻がいて竈で調理してた時には、家の中にはいつもその香りがしていた」

 彼の目は遠くを見ていた。悲しいことを思い出させてしまった。胸がツンと痛い。

「ごめんなさい」小さな声で謝る。

「ううん。君が悪いわけじゃない」彼はうなだれた。

 彼が一番触れて欲しくないところに触れてしまった気がした。悲しさが彼の背中から滲み出てくる。うなだれて歩く彼の背中をももが大きく叩いた。

「しょぼくれない!しょぼくれない!男なんだから胸張って!」

 ははっと力なく彼が笑った。私はもものように踏み込めない。ももがいてくれて本当に良かった。心からそう思った。

 列の一番最後を歩いていた私の背後から、地を這うような、気味の悪いうなり声が低く低く聞こえてきた。

 ハッとして後を振り返る。日の光を受け輝く虎毛の獣。その目は憎しみにらんらんと輝いている。何?これは狼?!

 その動物は軽々と体を伸ばし、大きく跳躍すると私達の方に飛びかかってきた。声にならない悲鳴が上がる。避けようとして勢いよく仰向けに転がった。少し高くなっていた畦道から下の畑に転げ落ちる。ももの悲鳴が聞こえた。彼の大声がそれに被さる。慌てて立ち上がろうとするとズキッと足首に痛みが走った。彼の大声がまた聞こえた。ギャンッ!尖った悲鳴が聞こえる。

 少し時をおいて、ももの青ざめた顔が上から覗いた。

「花!大丈夫?」続いて彼の顔も見えた。

「落ちた時に足首をひねったみたい。歩こうとしたら痛くって」

「足をくじいたみたいだね」降りてきた彼が心配そうに足首に手を添える。

「はい」そう言うと、しゃがみ込んで私に背中を向けた。

「?」

「はい、おんぶするからどうぞ乗って」

「えっ?無理です。無理!私、重いし!」「いや、まずは手当をてしなきゃ。捻挫は甘く見たら後に引くことがあるからね」彼は相変わらす私に背中を見せている。その横でももがニヤニヤしている。

「あ・・・・・・はい・・・・・・」清水の舞台から飛び降りるつもりでその背中に手を伸ばす。

「ホントに重いですよ。ごめんなさい」

「いや、こんな所に誘ったのは僕だから、ごめんなさいはこっちの方だよ。あれはもともと誰かの猟犬かもしれないね。狩猟をしてる人の猟犬が逃げ出して、野犬化したりする事がたまにあるんだ」

「変わった毛色の犬でしたね。焦って、狼かと思っちゃいました。もう絶滅してるのに、とっさの時って馬鹿みたいな事思ってしまうものなんですね」私はふふっと小さく笑った。彼もそれに答えるように笑う。彼の背中が温かい。彼の体温と私の体温が混じり合う。日だまりの暖かさのよう。

 こんな風に、誰かにおんぶをしてもらった記憶は私の中にない。父にも母にも、甘えて触れた記憶はない。

 おぶわれることは、こんなにも安心するものだったなんて。温かい。幸せな気分に包まれる。彼のうなじから、初めて会った時とは別の香りが立ちのぼる。くすんだ甘苦い香り。その中に、ほんの少しだけスパイスみたいに動物的な香りが混じる。頭がくらくらする。人肌の温もりと共に、私の身体に溶け込んでいく彼の香り。


 彼におぶわれたまま家の中に入ると、中の空気はひんやりと冷えていた。人の気配はどこにもない。なんだかよそよそしい雰囲気が、その一帯に糸を張り巡らせているようだ。玄関を入ってすぐに土間が拡がり、二つの竈が存在感たっぷりに鎮座している。その奥に小さなタイルで覆われた昔風の流しがあった。その流しには外から筧が差し入れられ、清らかな水が途切れることなく流れ込んで軽やかな音を弾かせている。そこだけに命がとどまっているような気がした。

 土間から一団高く座敷がしつらえられてある。黒光りする板の間。その中央に囲炉裏が切られていた。魚の形の自在鉤が、時代劇に出てくるような重たげな鉄瓶を吊している。囲炉裏には火の気配はなく、寒々とその存在だけを主張していた。

 部屋の隅にはピアノ。

 これがあのピアノ。古びた和風の家の中にそこだけ異質な感じが漂う。

 その上に、アースカラーのゆったりとした服を身にまとい。彼と同じような柔らかな微笑みを浮かべた女性の写真が飾ってあった。その女性に抱かれ、安心しきったように笑う幼い子供。マリアに抱かれる幼子イエスのよう。フォトフレームの中からこちらを見つめている幸せな親子。その視線に耐えきれず、何故か視線をそらせた。

 座敷の上がりかまちの所に、彼が私をそっと降ろした。そして、長い年月を経て飴色に艶をもち始めた箪笥の引き出しの中から湿布薬を取りだした。

「ちょっと失礼」ひとこと断ると、私の靴を脱がし、その足を自分の膝の上に乗せる。湿布薬のナイロンを半分剥がし、丁寧にくるりと足首に貼った。その鼻に抜けるような爽やかな香りと、ひんやりとした骨にしみ入る冷たさ。その上から彼の指の温かさが伝わってくる。

 ももは、私の横に並んで座った。

「どうする?歩けそう?」

「大丈夫だと・・・・・・思う」そう言いながら心の中では自信がない。普通に歩こうとするだけでも大変だったのに、帰り道は本当に大丈夫だろうか?今度は下りだから、上りよりは楽かもしれない。無理矢理自分の中でそう思い込もうとする。私の不安げな表情を読み取ったかのように、ももが何か考えを巡らせている。

「泊めてもらったら?」私の顔をのぞき込みながら言う。

「学生なんて、別に休んだって給料に響く訳でもないし」にやっと笑う。

「な、何、馬鹿な事言ってるの!学生だって今どきの就職難の時代じゃあ、うかうかしてられないんだから。ももが思ってるほど、そんなお気楽なものじゃないんだからねっ!」

 もものとんでもない提案に焦りまくる。

 彼も、それを聞きつけて困った顔で苦笑した。

「嫁入り前のお嬢さんをこんな山奥に泊めるわけにはいかないよ」

「じゃあ、どうするんです?」

「大丈夫。僕がおぶってくよ」

「あの道をですか?」ももが呆れたような声を上げた。

「足をくじかせたのも、僕がこんな所に呼んでしまったせいだし。ピアノに比べれば花ちゃんなんて軽いもんだよ」

「男前ですね。見直しました!」お座敷の太鼓持ちのようにももが彼を持ち上げる。

「いえっ!歩けます。大丈夫ですから!」悲鳴のような声が出る。でも、私の声なんて誰も聞いてない。泣きそうになる。あの背中。あの背中に揺られながら山を降りる。汗をかき、彼の体温が上がる。薄い布を通してぴったり貼りつくお互いの身体。考えただけで気が遠くなりそうだ。それに、私は見た目よりかなり重い。高校の頃、ももと背中合わせのペアストレッチをしていた時、あんた重っ!胸ないくせに何処に肉がついてるの!と嫌みを言われ続けていた。あたし脱いだらすごいんです。その言葉はそのまま自分に当てはまる。別な意味でだけれど。

 こんなの恥ずかしい。恥ずかしすぎる。そう思いながら、体型や体重を気にする自分に違和感を覚えた。今まで、自分の外見なんかを気にしたことはなかった。ももの事を美人で得だなとは思っていたけれど、だからと言って自分もそうなりたいと考えた事はなかった。他人からどう思われようと関係ないと思っていた。でも今は、こんな自分が嫌になる。もっときれいになりたい。ももみたいになんて大それた事は思いません。どうか神様。もうちょっと・・・・・・ほんの少しでいいんです。そんな願いが小さく芽を吹く。そんな自分の心の変化に戸惑いを覚えていた。


 下の駐車場まで辿り着いた時、彼が大きく息をついたのがわかった。背中の私は、いたたまれない思いで息をするのも苦しい。もう日は傾いていた。広い駐車場に影が長く伸びる。燃えるような夕焼けが私達の顔を赤く染める。

「すみません。すみません!」ももの車の所まで到着した時、彼に対する申し訳なさで一杯になって謝った。彼は汗びっしょりになって息を切らせている。

「大丈夫、大丈夫。怪我をさせてしまったのは僕の責任なんだから」汗をふきながら彼が言う。

「すごいですね、実は、ここまでたどり着けるか危ぶんでたんですよ。さすがですよ!」ももも、心の底からの賛辞を送っている。

「普段から肉体労働してるし。ちょっとやそっとじゃへたばらないよ。それに、あそこでは田んぼが作れなくて、米は下から運び上げなくちゃならないからね。何十㌔もの荷物を持って上り下りするのは日常茶飯事の事だから」

 そう言いつつも彼の顔は紅潮している。夕焼けのせいだけじゃない。息もまだ上がっていて、見ているのが辛い。

「じゃあ、気をつけて帰ってね。病院でちゃんと診てもらってよ。心配だからさ」そう言って彼は私達に向かって手を振った。

「神山さんも、山道気をつけて下さいね。今日は本当にありがとうございました。あと、ご飯食べに山を降りてきたらメール下さいね」

 車の窓を開け、慌てて声を掛ける。

 彼は「ありがと。メールするから」そう言って、山の方へ向かって歩き出した。

「日も暮れてきたし、帰り道大丈夫かな」

 ももが、心配そうな表情を浮かべて呟いた私の顔をちらりと見る。

「男の人に触れても大丈夫だったじゃない」

「あれは不可抗力だし。触れるなんて言わないでしょ」耳が赤くなるのがわかる。

「それでも、一歩前進かな」

「今日は楽しかったね。あんな風に生活してる人、今でもいるんだね」私は話題を変える。

「花は、あんな生活したいんでしょ。ハイジみたいに生きてみたいって言ってたじゃない」

「うん」

 帰りの車の中で、私は夢想する。自然の中でミツバチの蜜を集め、山羊の乳を搾る。時々、ニワトリ達に卵を分けてもらう。ヒヨコ達はボスに見守られながらそこらを元気に走り回る。時折出没するクマやイノシシに怯え、サルたちのいたずらに手を焼きながらも自然の恵みの中で暮らしていく。

 ああ、それから野犬よけに犬も飼いたいな。主人に忠実で賢く強い犬。高望みしすぎだろうか?

 天気のいい日は小麦をこねて、パンやピザを作って食べる。美味しいねって顔を見合わせながら。

 春は山菜。初夏には梅が収穫の時を迎えて大忙しだ。梅干しを漬けるための瓶がずらりと並ぶ。冬には味噌もたっぷり仕込む。

 囲炉裏には串に刺した魚を焙っておく。自在鉤には味噌汁の鍋がかかって温まっている。竈で炊いているご飯が甘い香りを四方に漂わせながらパチパチいいはじめた。美味しそうな香りが家の中に拡がる。竈にくべた薪がはぜる。

 囲炉裏の向こうに座る彼の体に、髪に、またあの薪の香りが染みついていく・・・・・・

「花、神山さんのこと好きなんだね」夢の中に遊んでいた私の耳に、もものつぶやきが聞こえる。

 ズキンと心臓が痛む。

 駄目だ!駄目だ!好きになっちゃ駄目だ!そう声がする。

「神山さん。アイツに似てる」ももの声がため息のように聞こえる。

 違う!違う!心は否定する。

「寝たきりになってからのアイツ、あの子供みたいな笑い方。そっくりだったよ」

 対向車のライトが二人の体を照らし、光の縞を作る。心の穴が照らされる。

「心の穴、埋まるのかな?」

「花にとっては初めての恋。今日みたいな花、アタシ初めて見たよ。小学生みたいにドキドキしてるのがこっちにも伝わってくる。でも私達、誰かの不幸の上にあるシアワセってものが、どんなものなのかを誰よりわかってるはずだよ・・・・・・」

 ももの顔がいつもより遠くに見える。いつもメチャクチャな事してるくせに、なんでそんな事言うの・・・・・・そう思いながらため息をつく。ももは妻子持ちには絶対に手を出さない。

「わかってる。わかってるよ・・・・・・」

 私は窓の外を眺めた。歩道を歩く人の姿がにじんで見えた。


 雨が降ったりやんだりが続いている。その日は特にじっとりと蒸し暑い日だった。

 メールの音がした。

「ねんざのぐわいはどうですか?」

「ご心配おかけしてすみません。もう大丈夫です。神山さんこそ帰り道大変だったんじゃないですか?野犬や猪に遭遇したりしませんでしたか?重い私をおぶったせいで、翌日筋肉痛に悩まされたんじゃないかと心配になりました。それから、ご飯はちゃんと食べてますか?」そう返信する。

 信じられないぐらい長い時間が過ぎる。待ちわびているから長く感じるのか?地団駄踏みたい気持ち。じりじりしながらじっと待つ。

「あのぐらいへっちゃらです。よかったら、きょうお昼たべませんか?」

 ももに釘を刺されているのに、胸が震えるのを止められない。梅雨の気分の重さなど吹き飛んでいく。すぐさま返事を送った。

「では、図書館で待ってます」

 むねの鼓動が収まらない。その日の午前中の授業は上の空だった。

 授業が終わると、足早に図書館に急ぐ。とくんとくんと心臓が波打つ。体中の血液がいつもの倍のスピードで流れている気がする。そっと図書館の中をのぞき込んだ。中に入る勇気がなかなか出てこない。図書館に出入りする人達がいぶかしげな顔でこっちを見ている。静まれ!静まれ!私の心臓!そう自分におまじないをかける。

 とんとんと肩を叩かれた。びっくりして後を振り向くと彼が立っていた。あの柔らかな微笑み。私だけに向けられた優しい微笑み。

 はるか南の小さな孤島。そんな所で会いたかった。そう思う。二人だけの世界。誰も泣くことがない世界。私のエゴで縛り付けられた・・・・・・

「挙動不審者になってるよ」彼が笑う。

 格好悪い所を見つかってうろたえる。ああ、ももみたいに美人になりたい。きっと美人だったら何もかも許される気がする。

 その日から、私達は毎日のように一緒にお昼を食べた。

 顔見知り達にも「ショウ。彼氏できたんだ~」なんて囃された。「オジサン趣味~」なんて言われたけれど全く気にならない。だって、彼の前なら私も心から笑うことができる。もももそうだけど、同じ痛みを持っている人間だからこそお互いがわかり合える。相手の事を信じる事ができる。


 その日も雨が降っていた。

 図書館で落ち合った彼の顔は、少し沈んでいた。

「どうしたんです?」

「覚悟してたけどさ、とうとう来ちゃって・・・・・・」彼は目を伏せた。

「離婚届・・・・・・」

 胸がボールみたいに弾んだ。駄目だ!駄目だ!喜んじゃ駄目だ!そう思いつつ、心は正反対の方向へ突っ走っていく。私ってなんて自己中心的なんだろう。彼が悲しんでいるのに、私の心は歓喜で沸き立っている。彼はこれで自由だ!自由だ!自由なんだ!その言葉がこだまする。

 もしかして私、今、笑ってない?愕然とする。

 私の母親が幸せだった時、ももの母親は苦しんでいたのだろうか?私の母親が泣いていた時、ももの母親は笑っていたのだろうか?両方が幸せだった時はあったのだろうか?

 そもそも、すべての根源を作り出してしまった父は幸せだったのだろうか。自分のオスとしての権威を周囲に示し、それで満足だったのだろうか?

「神山さん。また、お家にお邪魔させてもらってもいいですか?」

「いいけど、妻が出て行ってからどこもかしこもメチャクチャでさ。大変な事になってるんだ。花ちゃんをびっくりさせてしまうかも」彼は気弱げな口調で言った。小さな子供のよう。その肩を抱いてあげたいと思った。彼を苦しめるその重荷を少しでも取り去ってあげたい。一緒に担っていきたい。そう思った。心なしか頬がこけ、目の下には隈がうっすらとできている。

「私、神山さんのお手伝いがしたいんです」

 彼は、びっくりした顔をしている。少しの時間をおいて、憔悴していた顔に赤みがさしてきた。驚いたように私を見つめるその目が潤む。

「そして私、もっと神山さんの事が知りたい」

 再び、その瞳が曇った。苦しげな表情。

「あっ。ごめんなさい。話したくないならいいんです。神山さんの事をもっと知る事ができたら、いろんな意味で手助けすることができるかも・・・・・・そんな気持ちで言ったんです」

「僕は、君に嫌われることが、怖いんだ・・・・・・」

「私・・・・・・」息を吸った。心が震える。

「あなたのことが、好きです・・・・・・」

 彼の瞳が揺れている。その中の私も揺れている。

「一緒に、楽園を創りたいんです」

 彼は遠くを見るような目をして小さく頷いた。


 次の土曜日、私は神山さんの家に来ていた。

 今度は、二人っきりで。

 ももを誘ったけれど、アタシお邪魔虫になんてなりたくないし。そう言って片目をつぶり、胸の所で手を寄せてハートを作ってみせた。それから、思い切りギュッと抱きしめられた。それから、神妙な顔で「幸せになるんだよ」と。まるで娘を嫁に出す父親のように心配そうな表情を浮かべた。

「それにその日はね、花の先生と、次のハニープロジェクトの相談にのってもらう約束を取り付けてるンだから。こっちも忙しいの」

「気が早いね。もう早々と動いてるんだ」私は感心する。ももはその場に止まることを知らない。どんどん走っていく。目標に向かって突っ走る。

 いったい私は何処を目指しているんだろう?

 神山さんの中に何を見たんだろう?

 初夏の山は緑が一段と濃く、生き物たちの濃密な甘い香りで満ちあふれていた。

 山道を登る。この前とはまるで違う風景がそこにある。

 つい先日まで、道端に優しく揺れていた草花達が、今は暴力的なほど勢いよく茂り、その長い腕を私達が歩いている道にまで伸ばそうとしていた。少しでも人の行き交いがなくなってしまえば、この道はあっという間に草木に覆い尽くされ、自然に還っていくのだろう。

 この上に存在している彼の楽園さえも。

 福島の帰還困難地域の映像が脳裏をよぎる。たった数年で草が伸び放題になり、野生動物達が我が物顔で走り回る。長い年月をかけ営々と築き上げた人々の努力が、もろくも崩れていく。それらは、手を掛けて大切に守り、育まなければならないもの。多くの血と汗の流された代価として人々に与えられた楽園。

 途中の沢で休憩した。暑くて汗びっしょりだ。沢の水で顔を洗った。彼もバシャバシャと顔を洗う。お互いの顔に水滴がしたたり、木々の緑の光が集まる。彼の顔が輝いて見える。

 二人で一緒にヤマメの生け簀まで歩いて行った。すべりやすい苔の生えた岩。彼が私に手を差し出す。大きな手。毎日の仕事のせいだろうか、荒れてごつごつしている。

 碧の光が視界の端を横切る。日の光を反射させてモルフォ蝶のように青く輝く羽。小さな美しい鳥が対岸の枝に止まった。

「きれい」私は、ほおっと息を吐いた。

「カワセミだよ。オスは魚を捕ってメスにプレゼントするんだ。それをメスが受け取ってくれたらカップル成立。でも一筋縄じゃいかない。なかなか受け取ってもらえないんだ。それでも諦めずオスは涙ぐましい努力をするんだよ」

「へえーカワセミも、メスのハートを掴むためには一生懸命努力をしてるんですね」

 小さな青い鳥。彼?彼女?は無事に恋人を見つけたのだろうか?

 彼は生け簀の脇においてあった網を手に取ると、さっと水の中に差し入れた。ピチピチと濡れた斑紋を輝かせてついっついと逃げる魚達。生け簀の中を泳ぐ魚の影は少なく、広い空間を矢のような動きで逃げ回った。それでも彼は上手に魚達を追い詰め、すくい上げる。その魚を次々と慣れた手つきで笹に通した。

「はい、どうぞ」

「・・・・・・」顔が赤くなる。何なんだろうこの感じ。恥ずかしいような嬉しいような。血が沸き立つ。全身がどっどっと脈打つ。

 黙って受け取った。彼の笑顔が優しい。

「そんなに簡単に受け取っちゃっていいの?」

 黙って頷く。

 彼の顔が近づく。唇がそっと触れ、すぐに離れた。

 恥ずかしくて、ただうつむいていた。彼も初めてキスをした小学生のように照れくさげな表情を浮かべている。鳥のさえずりだけが二人の間に流れていった。

 しばらくの時をおき、何かを決意したような表情で彼は話し始めた。

「花ちゃんは、僕のこと知りたいって言ってくれたよね」

「ええ。いつも私ばっかり話ちゃって、神山さんの昔の話を聞いたことなかったなって。最初会った時、神山さんも親からひどい扱いを受けてたんだって。だから私の気持ちがわかるよって言われてすごくうれしくって。でもその事について今まで詳しく聞いたことはなかったなって」

「昔か・・・・・・」彼の目が遠くを見つめ、暗くかすんだ。

 二人で山道を再び歩き出した。

「僕さ、ある時期までは日々の記憶がなかったんだ・・・」

「記憶喪失って事ですか?」

「別に医者に診てもらった訳じゃないからわからないんだけど」頭痛がしたように顔をしかめ、彼は左側頭部を軽くとんとんと叩いた。

「その日が来るまでは、毎日をただ生きていた」

「生きていた?」

「そう。何も考える事なく、ただ母さんの言うとおりに」

 彼の顔は青ざめていた。照りつける太陽。ジリジリと肌を焦がすような日差しが二人の上に確実に存在しているのに、そこだけ空気が冷えている。

「僕の世界は、母さんと婆ちゃんのいるオンボロの家の中だけだった。僕が生まれる前に死んじゃったという爺ちゃんが残した作業場の二階が、僕達三人の住む場所だった」

「家の中だけって・・・外には出なかったんですか?学校に行ったり、友達と遊んだり」

「あの頃、僕は学校なんてものがあることすら知らなかったよ。この世界を知った今では、あんなちっぽけな世界でどうやって生きてきたんだろう。って思うけど、あの当時はそれがすべてだったんだ。僕の出生届けは出されてなかったし、世の中の誰も僕の事なんて知らなかったんだと思う。母さんは言っていた。外に出ちゃいけないよって。言うことを聞かなければ、お前なんか悪い奴に食べられてしまうんだからって。でも僕が怖かったのは、僕を食べる悪い奴なんかじゃなかったんだ。僕が本当に怖かったのは母さんだった」

 闇が、彼の中から流れ出してくる。

「母さんは、昼間眠って、暗くなると外へ出て行った。婆ちゃんは一日中寝たり起きたり、起きても何かわからない事をブツブツ言いながらそこらを這い回っていた。僕の事なんてまるでいないかのように。そして母さんは、しょっちゅう太るんだ。そしてぶくぶくに太ってくると外に出なくなる。そして、ある日もの凄い叫びと共に赤ん坊を引っ張り出すんだ。そのぶくぶくの腹の中から」

 えっ?頭が彼の話を理解できない。何?何を言っているの?顔が引きつっていく。

「そして、その赤ん坊は、すぐにビニール袋の中に入れられる。何重にもグルグル巻きにされて・・・・・・そして母さんは僕に言うんだ。下に持って行って何処かに置いときな。って。僕はそのビニールを受け取る。ぐにゃぐにゃでまだ温かいそれ・・・・・・それを持って階段を下りていくんだ。シャッターが堅く閉められ、油臭く、埃だらけの暗い作業所。機械や、机の下。段ボールの陰。いろんな所に置いたよ。

 そして、上に戻ると母さんが言うんだ。お前はそれを手伝ったんだ。お前も同罪なんだよ。そう言って暗い目で僕のことをじっと見た。その頃は母さんが何を言っているのかわからなかった。それがわかるようになったのは、僕がもっと大きくなってから・・・・・・

 あのころの僕は一日が過ぎればそれですべてが終わりだった。目が覚めるとすべてを忘れて新しい一日が始まる。僕には過去も未来もなかった。ずっと同じ時の繰り返しだった。

 だけど、若くて美しかった母は、いつの間にか婆ちゃんとよく似た顔だちに変わって行った。確実に時は過ぎていた。母は失った美しさの分だけヒステリーの種をその身に蒔いた。そのヒステリーの種がぐんぐん生長するにつれ、婆ちゃんそっくりになっていった。本物の婆ちゃんは、反対にどんどん小さくなっていった。そして、ある日、婆ちゃんは布団から出てこなくなった。

 しばらくして母が婆ちゃんを下に降ろすよって言った。僕は、子供の僕にそんな事ができるとは思わなかった。婆ちゃんは以前より縮んだとはいえ、あの年代にしては背も高くて、骨太な体型だったからね。でも、その体を抱きかかえた時、僕は気がついた。僕は成長していたんだ。婆ちゃんよりも。母さんよりも。僕は僕の筋肉を感じた。この体の骨が硬くしなることを、昔なら持ち上げることもできないような重い物も、この腕で軽々と持ち上げられる事を理解した。婆ちゃんの体を持ち上げて古い毛布でその体を包んだ。婆ちゃんを下に降ろすと、作業所に置いてあった穴の開いたソファーをひっくり返してその上に乗せた。

 僕は僕の罪をその時に知った。これが罪でないならば、隠すことはないのだろう。僕の弟であったかもしれないもの、妹であったかもしれないもの。それについても同じように物陰に隠してきた。そしてすぐさま忘れようと努めた。そして、実際に忘れ去ってきた。なぜなら、自分の罪を認めたくなかったから。

 僕は何も知らない。僕は命令されるまま動いたんだ。そう思い込もうとしながら、本当は知っていた。己の心の中に、罪の意識があるから、僕はそれを覆い隠そうとしたんだ。

 僕の額には、はっきりと、ぬぐい去りようのない罪の印が刻印されていた」

 彼の人生が流れ込む。彼の救いようのない絶望が私の中に流れ込んでくる。私は、並んで歩きながらそっと彼の手を握りしめた。彼の体がビクンと動き、その手が硬直した。私は、そっと柔らかく包み込むように握りなおした。彼の体の硬直がゆっくりと溶けていく。彼の息が長く吐かれる。

「それから、母さんは婆ちゃんになった。家にずっといて寝たり起きたり、でも婆ちゃんのように静かにブツブツ言ったりはしなかった。僕に向かって大声で命令した。外に出て金を稼いでこいって僕のことをぶった。外に出たことのない僕にとって世界は恐怖そのものだった。

 震えたよ。堅くさび付いたシャッターをこじ開け、初めて日の光を浴びた時は。

 母さんは誰かに電話をした。そして僕は、その人に連れられていろんな仕事をしたんだ。ビニールで隙間なく覆われた、削りの騒音と粉塵まみれの息の詰まりそうな解体現場で働いたり、ゴミを集めたり、死んだ動物をトラックに乗せたり。

バスに乗せられていろんな所に連れて行かれた。大きな機械の中で作業したこともある。白い服を着てマスクをして。暑くて暑くて息が苦しかった。ビービーアラームがひっきりなしに鳴るんだ。最近テレビで見る、福島で原発事故の作業している人みたいな格好をしてさ。

 そしていくらかの金を手に入れて母さんの元に帰る。でも母さんはいつも僕に文句しか言わなかった」

 私は何も言えない。ただ彼の言葉を理解しようとする。その苦しみを、絶望を・・・・・・

「そしてあの日、母さんはいつもの倍もわめいていた。大声で叫んで、口汚く僕のことをののしった。此処まで育ててやった恩を忘れやがって!そう言って、一升瓶を振り回した。

 僕は母さんが怖くて逃げ回った。今度こそ僕は殺されるんだ!そう思った。

 背後で一升瓶の割れる音がした。振り返って見ると、母さんが倒れていた。何か言っているけど、酔っ払ったように呂律が回らない。魚のように口をぱくぱくさせ、体の片方だけでビクビクと動いていた。

 恐怖だったよ。そこにいるのは母さんじゃなかった。ビニールに包まれた赤ん坊がゆっくりと動きを止めるように、母さんは動かなくなった。

 そのまま外に走り出て海岸まで走っていった。母さんは死ぬ。死ぬんだ。そう思った。その晩、家には帰らなかった。母さんが弟達の息が止まるのを待つように、僕はじっと待っていた。使っていない漁師の作業小屋の中で寒さで一晩中震えながら待ち続けた。

 次の日、朝日が昇ってきてから家の前まで戻った。でも怖くて家の中に足を踏み入れる事ができなかった。ぐるぐると家の周りを歩いてみた。道行く人がいぶかしげに僕を見た。歩き疲れて近くの公園で一息ついた。お腹がぐうぐう鳴っていた。

 公園で遊ぶ親子連れ。子供が母親にまとわりつく。それを適当にあしらいながらスマホを見つめ、指を動かし続ける母親の姿。

 なんだ、どこの母親も子供の事をを愛してなんかないんだ。そう思った。僕が買い物に行くスーパーでだって、子供はしょっちゅう母親に怒鳴りつけられてる。虐げられてるのは僕だけじゃない。どこだって一緒なんだって思った。親子なんてそんなもの。そう思ったら気持ちが楽になった。少し家の中を覗いてみようかなって気持ちになった」

 彼が暗い瞳で、憑かれたようにしゃべり続けている。その間に梅園の所まで辿り着いた。梅の実が以前より一回り大きくなって赤く色づいている。甘い桃のような香りが辺り一面に漂っていた。下草がびっくりするぐらい伸びていて、木の下部を覆い隠していた。以前の、人の手が加えられ整然としていた梅園が、今は見る影もなく荒んだ印象を与えた。

 以前見たニワトリたちは草の中に埋もれているのか、全く姿が見えない。ピヨピヨ可愛らしいヒヨコ達の鳴き声も、クックと鳴き交わす親鳥達の声も聞こえない。以前には、そここで耳にしていた眠たげな蜂の羽音も聞こえなかった。

 何かが、何かが確実に変化していた。

「僕は静まりかえった油臭い作業所を通り抜けた。婆ちゃんがいるソファー。兄妹がいるボロボロの段ボールや、埃と油のしみで真っ黒になった机。何に使うかもわからない緑色の機械に、引き戸のなくなった茶箪笥。一つ一つを数えていった。

 外の空気を知った僕には、ここの臭気が耐えがたいほどに感じられた。ずっとその場にいた時は気づかなかった匂い。母さんの、そして僕の罪の匂い。

 ぎしぎしきしむ階段を上がった。母さんは、倒れたままの姿勢で鼾をかきながら眠っていた。なんだ眠ってるんだ。そう思ったら、なんだかおかしくなった。どうして死なないのかな?早く死んじゃえばいいのに。やっぱり神様はいないんだ。そう思った。神様がいるなら、どうして母さんや僕が罰を受けないんだろう?ってね。

 時々やって来るんだ。日雇いの僕らの所に。善人の教えを掲げた人達が。神を信じなさい。すべてを受け入れ、許しなさいってね。

 待ちくたびれて仕事を探しに行こうかなとも思った。このまま死なないんだったら、また、わめき立てられる前にお金を稼がなくちゃいけないな。そう思った。

 その時カタカタすべてのものが小刻みに揺れ始めた。君も言ってたよね、最初は地震だとわからなかったって。僕もわからなかったよ。そして一気に揺れ始めた。天井から大量の砂埃と、朽ちた金属のかけら、屋根のスレートまでがバラバラと落ちてきた。そして一瞬後には、頭の上にすべてが降ってきたんだ。

 舞い上がる砂埃で息が詰まった。そしてそのまま意識がなくなった」

「震災に遭った時は、此処にはまだ暮らしてなかったんですか?」

 そう言いながら頭の隅がチリチリ傷む。何かおかしい。まだ、奥さんと子供の話は全く出てきていない。彼の言う地震は、阪神淡路大震災の事なのかもしれない。彼は私の質問には答えることなく、話を続けた。

「サイレンの音と、ゆっくりと反響する誰かの声が遠くで聞こえて目が覚めた。倒れた家具と屋根の梁の隙間に僕の体はかろうじて収まっていた。母さんの体はまったく見えない。

 梁の向こうに。屋根に大きな穴が開いていて、どんよりと垂れ込めた雲が見えた。体を起こすと砂埃がザザッと体から流れ落ちた。あちこち痛み血が流れていた。痛む体を引きずりながら屋根の穴を通り抜け、やっとの事で外に出ると、あたり一面にワァンワァン反響する放送。走り回る消防車のサイレン。

 津波警報が発令されました。避難して下さい。そう叫ぶ声が霞んだような頭に飛び込んできた」

 津波・・・・・・違う。阪神淡路じゃない。これは東日本大震災・・・・・・

「体が夢の中にいるように動かない。すべては現実のものとは思えなかった。道路の向こうから地を這うように黒い水がじりじりとせり上がってくるのが見えた。静かに、静かに。でも圧倒的な力で迫ってきた。空気が油のように粘度を持った。まるで悪夢の中でもがいているように体が重い。間延びした時間が現実感を失わせる。

 ゆっくり、ゆっくり後ずさりしながら家の裏手の丘に向かった。

 水はだんだん勢いを増してきた。それでもギリギリの所で立ち止まっていた。寄せてくる波が、悪意を秘めて僕を狙う。寄せてくると一歩下がる。また寄せてくるとまた一歩・・・・・・

 丘に上って見下ろすと、ぺしゃんこに潰れた僕の家が真っ黒な水にみるみる洗われていく。最初はまだ緩やかだった流れが勢いを増し、今ではごうごうと逆巻く怒濤の渦となって、一気にすべてを押し流していった。僕の母さんも、婆ちゃんも、弟妹達も、すべて、すべて・・・・・・

 ごうごうと滝のように打ち付ける水は、人の意思など全く無視して何もかも飲み込んで、押し流していく・・・・・・

 空から雪が落ちてきた。

 寒かった。もの凄く寒かった。この世界は終わったんだと思った」

 彼の家の前に着いた。

 家の前にある炉は真っ黒に焼け焦げている。ピザ窯には蜘蛛の巣が揺れていた。

「中に入ろうか」彼が笑う。彼に続いて家の中に入った。靴を脱ぎ、板の間に上がった。何かがおかしい。何を信じていいのかわからない。これはいったい何?たちの悪い冗談なんだろうか?

 相変わらず、家の中はよそよそしかった。ピアノだけがその空間の中で存在を主張していた。若かった時だから運べたんだろうね。彼の言葉が頭の中をグルグルと巡る。ピアノの上の写真が微笑みかけてくる。

 ふらふらとピアノに近づく。囲炉裏の奥に座った彼の視線が私を追っている。鍵盤の蓋を開ける。白と黒ではっきりと分けられた鍵盤。古びた鍵盤は骨のようだ。指を乗せる。部屋の中に音が響く。私の心の中にある不信の音。

 彼に聞かなくちゃ。どういう事なの?これは何かの冗談なの?

 譜面代に何かが挟まっている。取り出してみると一枚の写真。

 奥さんと、子供。そして彼・・・・・・

 違う・・・・・・

 奥さんの肩を抱き、優しい笑顔で笑う男性。背が高く、やせぎすで、メガネを掛けている。

 彼じゃない。

 吐き気がこみ上げる。。

 今ここにいる彼はいったい誰だと言うんだろう?

 背後から、彼が優しく私を抱きしめた。

「こんな所に写真があったのは知らなかったな」彼が私の耳元で囁く。

「神山さん、神山さんは誰なの?」涙があふれる。足ががくがく震える。

「僕は僕だよ」彼は囁く。

「君は、僕と一緒に、楽園を創りたいって言ってくれたよね」

「だって、だって。ここは神山さんが創ったものなんでしょ」

 震える声でそう尋ねる。信じたい。信じたい。信じさせて。お願い。

「此処は彼らの楽園だった。戸籍もなく、ホームレスとしてゴミのように転がっていた僕を拾い上げ、温かい手をさしのべてくれたのは彼らだった」

 彼の目と私の目が合う。彼の目は相変わらず優しかった。その中には狂気も感情の高ぶりも見えなかった。

「それが、どうして・・・・・・」

「彼らは本当に優しくて、愛にあふれていた。非の打ち所のない善なる人達。僕にも惜しみない愛を注いでくれた。でも、それは哀れな者に対する憐憫の情・・・

 そして、僕にはわかってたんだ。僕はこの楽園から弾かれた追放者だって。弟や妹達を殺すのに加担してきた僕にはここにいる資格なんてない。直接手を下したのは母だったとしても、僕はそれが罪である事を知っていた。だけど僕は自分が殺されるのが怖かった。母に逆らえば、僕もああやって殺されるんだ。そう怯え続けていた。自分の生にしがみつき、彼らが殺されていくのを黙って見ていた。そして、その死体を僕が運んだんだ。とても許されることじゃない。でも、僕は夢を見ていたかった。お願いです神様。この楽園の片隅にどうかこの身を置く事をお許し下さいって、そう願っていた」

 私は、恐怖に満ちた目で彼を見ていたんだろう。彼はため息をつき、私の肩を抱いたまま視線を写真の方にそらした。

 私も写真の家族を見つめる。満ち足りた幸せな笑顔。

「花、鬼ごっこしようよ・・・・・・」

 彼の手がくしゃくしゃと私の髪をかき上げた。そっと彼の顔が、頭の後に触れる。彼の香りが漂う。汗の香りと共に、腐敗とすえた匂いが私を包む。

 これが彼の香り・・・・・・いったいどれが本物の彼の香りなのだろう・・・・・・目を閉じる。熱い涙が、目を閉じてもあふれだしてくる。

 頬にべったりと何かが触れた。熱く生臭い獣の匂い。

 彼の舌がゆっくりと私の涙を拭う。

 叫び声にならない叫びと共に彼を突き飛ばした。

「ひどいな」突き飛ばされた彼はゆっくりと立ち上がり、部屋の奥に向かって歩いて行く。そして、壁に埋め込まれた開き戸を開けた。

「一緒に、楽園を創りたいって・・・」彼は背中をむけたまま呟いた。

「カワセミみたいに、求愛の印も受け取ってくれたのに」

 ガジャッと重い音がする。私に背中を向けたままの彼の手に猟銃が握られている。

「花、今から五十数えるよ。無事、逃げ切れたら君の勝ち。君を撃ち殺せたら僕の勝ち」ゆっくりと彼が振り向く。いつも通りの優しい笑顔。

「神山さん・・・・・・」

「違うよ花。僕には名前なんてないんだ。僕には抱きしめてくれる腕も、優しい言葉も、微笑みも、何も、何もなかった。人から与えられるのは痛みと罵倒。侮蔑の眼差しだけだった。」  


 彼は、彼は、泣いているのか・・・・・・


「優しさを与えられたとしても、それは僕がかわいそうな人だったからだ。かわいそうな僕に向けられる同情の眼差し。花、知っているかい?その絶対の善に裏打ちされた憐憫の眼差しは、どうしようもないほど相手に痛みを与えるものなんだ・・・」

 私は震えていた。彼の言葉は、私の上をただ滑り落ちていった。

「わからないよね・・・・・・」彼はうつむいた。

 一時の間をおき、彼は猟銃を構えた。

「今から五十数える」厳しい顔で彼はそう言った。


 道に覆い被さる草を払いながら私は走った。それは意志を持ったもののように足に絡みつく。太陽は頭上に高く、大気は湿気を重く含み、むわっと体にまとわりついた。熱を持った気管を通った空気は、溶けた鉛のように肺に流れ込み、息ができない。汗が全身から噴き出した。

 頭が割れそうにガンガンする。ドクンドクンと体の隅々の血管までが波を打っているのがわかる。悪夢だ!悪夢だ!頭の中に声がこだまする。

 彼は、彼は、もうすでに私を追ってきているのだろうか?なぜ、なぜ?どうして?その疑問がグルグルと頭の中を巡る。耳に神経を集中させる。追ってくる足音は聞こえない。少し息をつく。

 彼は、じきに私に追いつくだろう。体力の差は歴然としている。どうすれば、どうすれば助かる?頭がフルに計算を弾く。この一本道を、このまま走って降りれば必ず追いつかれる事は必至。ならば?

 そう計算しながら哀しみがこみ上げる。私は、私は、助かりたいんだろうか?

 彼の泣き顔が頭をよぎる。人に愛されたことのない彼。人を愛することを知らない彼。私の中にも存在する凍り付いた感情。

 私は彼を愛そうとしていた。だけど今、彼から背中を向けて逃げている。その身勝手さ。醜悪さ。

 世の中の人達は、本当にわかり合っているんだろうか。

 長い年月を経てお互いが似てきた老境の夫婦。あふれる若さで青臭い性につながれる年若いカップル。親子の情。兄妹間の繋がり。同性、異性の間に流れる友情の絆。

 本当に、人は人を愛しているのか。信じているのか・・・・・・

 私は彼を愛していたのか・・・・・・

 否。と声がする。お前はお前しか愛せない。

 そう何処かで声がする。

 さみしい、さみしい光景。

 夕暮れの庭。雪が、雪が降っていた。

 ひとりぼっちで立ちすくむ私の上に雪が降る。

 たくさんの魂が降ってくる。

 受け入れなかったのは私なのか、向こうだったのか。

 今は魂となって私の上に降りかかる。

 視界の隅に、さっき立ち寄った生け簀のある沢へ下る道が飛び込んできた。ブレーキをかけて、方向を変える。乾いた土の小道に、砂埃がたつ。

 沢沿いを、ジャリジャリと石を踏みながら走る。片足が水に浸かる。

 複雑に入り組んだ大きな岩が現れた。その岩陰に身を隠す。

 静かな時が流れる。今までの現実が嘘のようだ。川の水が楽しげな音をたてる。魚の陰が澄み切った水の中の底で揺れる。

 視界の隅を虹色の羽が横切った。カワセミだ。川の中の岩に止まる。嘴には魚。その姿が滲んで揺れた。どうして、どうして?涙があふれる。

 石を踏む音がした。一気に血が冷えた。石と石の間を飛び移りながら近づいてくる誰かの影。間違いない、彼だ!ますます体を小さくして岩の隙間に押しつけた。ザクザク音をさせながら彼が目の前を通り過ぎていく。

 何で、何でわかったの?恐怖で歯がカタカタ鳴る。奥歯を噛みしめ必死で音をかみ殺した。永遠のような時が過ぎる。

 ザクザクザク・・・・・・足音が聞こえなくなった。心の中で十数えてから、音をさせないようにそろりそろりと岩の隙間から出る。くるりと体の向きを変え、そこから元の道へ帰ろうと一歩を踏み出した。

 耳の横で空気を切り裂く音がした。目の前の小石が勢いよく弾かれ足に当たった。

 彼が猟銃を構え、岩の上に立っている。

「花、かくれんぼ下手だね」

 彼はさみしそうに笑った。私はその場に崩れ落ちた。腰が抜ける。その言葉が本当にあることを初めて知った。

 彼は岩から飛び降りると、ザクザクと音をたて近づいてきた。

「ほら、花が歩いてきた足跡。はっきり残ってる。山道を外れた時も大急ぎでブレーキを掛けただろ。土の上にくっきりとその後が残ってて笑っちゃったよ」

 彼が猟銃の先端でそれを差す。苔むした岩の上に靴ですべった跡がはっきりと残る。その向こうには黒く湿り気をおび、そこだけ色の違う河原の石。砂地には足跡が点々と続く。

「だって、私かくれんぼなんてしたことない・・・・・・」絶望の中で絞り出した言葉。子供同士の他愛ない会話のように耳に響く。

 彼は微笑んだ。初めて会った時と同じ。優しい笑顔が私を包む。

「僕も、かくれんぼなんてしたことがなかった。だから、最後に君とかくれんぼをしたかったんだ。無邪気に子供らしく。でも、もうお終いだ。バイバイ、花・・・・・・」

 彼は、しゃがみこむと私の顔に猟銃を突きつけた。

「一緒に、生きよう・・・・・・」

 不思議そうな表情を浮かべ小首をかしげる彼の顔。

「やり直そう・・・・・・過去と他人は変わらなくても、自分と未来は変われるから・・・・・・」

 ももが言った言葉がよみがえる。変わる。変わることができる。そう信じることができる。そう信じさせて・・・

「無理だよ」ため息のように言葉を吐き出して、彼は猟銃を降ろした。銃口の先が、石と触れあって冷たく堅い音を響かせる。

「僕は償いきれない罪を犯した。神山史郎は死刑廃止論者だった。人が人を裁くことはできない。常々そう言っていた。でも彼は今、その事をどう思っているだろうね。それに、たとえ僕が自首したとしても、下される裁きはどうせ死刑だ。僕はゴミのように生きて、ゴミのように死ぬ。痛みだけが僕の生きている証さ。僕の生には、なんの意味もなかった。誰も・・・誰も、僕を必要とはしてくれなかった・・・」

 私を見つめる彼の顔。

 絶望だけがそこにあった。私の中にもある絶望。


 地の底から響くうなり声が聞こえた。記憶に残る恐怖の声。

 慌てて振り返る彼の背後から何かが襲いかかった、大声で叫びながら、彼は大きく腕を回し、背後から襲ってきたものを振り放そうとした。後頭部から血があふれ出る。彼の中に潜む罪の色。彼の上半身がどんどん朱に染まっていく。

 あの時の野犬が彼に襲いかかっていた。野犬は一旦彼から離れるとグルグルと周りを回りはじめた。猟銃で狙いをつけるが、素早く前後に動いて狙いが定まらない。時折吠えかける犬の声が、自らの優位さを示すように余裕を持って響いた。野犬は、ジリジリと後退する彼を執拗に責め立て山の斜面に向かって追い詰めていく。

 犬が少し距離をとった時、彼は太い木の幹の向こうに回り込もうとした。うわっと大きな声が聞こえた。

 彼の体が大きくバランスを崩し、その場に倒れ込む。その上に飛びかかる野犬。少しの時をおいて銃の発砲音がした。


 静かだった。

 何の物音もしなかった。犬の声も。彼の声も。鳥の声も、水の流れる音さえ聞こえなかった。

 私は這いずりながら歩きだした。トゲが手のひらに突き刺さった。ハイハイを始めたばかりの赤ん坊のように、手足が思うように動いてくれない。

 それでも、だんだんと体の硬直がほどけはじめた。立ち上がり、よろよろしながら前に進む。あたりの景色が前後にグラグラと大きく動いた。

 木の根元に彼が倒れていた。体中傷だらけで、血にまみれている。涙がこぼれ落ちた。

 喉の所がギザギザのボロ布のようになって、破れ目から血のあぶくが吹き出していた。見開いた目は、もう私を映さない。べったりと貼りついた髪の毛も。泥で汚れたその顔も、大の字に投げ出された手足も、すべてが彼の赤黒い血で染められていた。

 彼の指先に触れる。彼の血が私に流れ込む。罪の血。それは私にも確実に流れている。

 人は弱い、そして醜い。だからこそ一人では生きていけない。

 そっと瞼に手を添え、彼の瞼をとじさせる。まだ温かい。お互いの温もりが混じりあう。膝の上に彼の頭をのせた。貼りついたその髪を撫でる。鉄寂びた生臭い血の匂いがした。彼の温もりの残るその体から、誰しもがその奥底に隠し持つ腐臭にも似た罪の匂いが立ちのぼる。


 私はただ泣いた。魂のすべてが流れ出るように泣きじゃくった。

 ひとりぼっちで逝ってしまった彼。

 私の視線が、彼の投げ出した猟銃を捕らえた。一緒に往こうとそれが囁く・・・


 遠くから、人の声がした。私を呼ぶ声。

「花~!は~なぁ!どこぉ~!」

 もも、ももの声・・・・・・何故ここに?

 ももが走ってくる。秋山先生も。お巡りさんも。なんで、なんで?気が遠くなる。ああ、本当に気が遠くなるなんてあるんだ。今日は、今日は、いろんな、事・・・・・・



 目が覚めるとそこはベットの上だった。ももが枕元で笑っている。

「なんで・・・・・・?」

 一気に記憶がよみがえる。がばっと布団を払いのけ跳ね起きようとした。

「いたた・・・・・・」体中が痛みに引き裂かれる。頭が熱を持ったように重く熱い。

「はい、無理しない。無理しない」ももが、布団をなおし、私の体をベッドに押しつけた。痛いんですけど・・・・・・もう少し丁寧に扱って欲しい・・・・・・

「神山さんは?」小さな声で尋ねる。

「死んだよ。あんたの言ってる神山さんがどっちの神山さんなのかわからないけど、どっちもね」

 ああ、やっぱり・・・・・・

「もも、なんであの時、私を助けに来てくれたの?」

 ももはその訳を話してくれた。

 あの日、ももは秋山先生にハニープロジェクト計画について相談にのってもらっていた。秋山先生は、すでに神山さんの事を知っていた。知っているどころか授業の一環として毎年決まった時期に学生と一緒に訪ねていた。お喋りなももは、彼の奥さんが出て行ってしまったことや、ピアノを運んだいきさつのこと事などおもしろおかしくしゃべったそうだ。

 秋山先生は首をかしげた。

「あそこは、元々、奥さんの夢の結晶だよ。彼はやり手の営業マンだったのに、奥さんの夢に引きずられた形であそこで暮らす事になっちゃって。あのピアノだって、暮らし始めた頃に彼がストレスで酒浸りになってさ。奥さんに家をたたき出されそうになって、謝罪と自分自身への自戒の意味を込めて運んだって言ってたよ。だいたい、彼が追い出されることはあっても、あの奥さんが家を出ていくなんて事考えられないよ。ももちゃん。それ、違う人じゃない?」先生は首をかしげた。

「え~そんな。ダムの上の、徒歩四〇分もかかる山の中に住んでて、ピアノがあって、日本ミツバチや山羊や羊やニワトリを飼ってて、広い梅園を持ってる神山さんなんて、そうそういらっしゃるモンだとは思わないんですけど」探偵よろしく腕を組んで、ももは人差し指を顎にあてた。

「そうだよね。あっそうそう。学生と神山さんの梅園に行った授業風景の資料あるからさ、見てみる?」

 先生はパソコンを開いた。

「ほら、これこれ」

「ああ、やっぱり此処ココですよ。家も同じだし。アッ奥さん。子供と一緒に映ってる」

「これが、蜂蜜の採集について説明してくれてる神山さん」

「ちょっと、ちょっと待って下さい。これ!全く違います!別人ですって。私の知ってる神山さんじゃないです!」

「そんなはずないって、去年も彼と会ってるけど、この写真とそんなに変わってないし」

 二人で顔を見合わせる。

「そういえば、今年度の授業の打ち合わせで、この前から電話やメールをしているんだけれど、全く返信がなくってさ。几帳面な彼らにしては変だなって思っていた所なんだよね」

 ももが立ち上がる。それから、有無を言わせず秋山先生を引っ張って車に乗せた。そして、来る途中で、田舎の駐在所のお巡りさんも無理矢理に拉致してきた。

 山道を彼ら二人をせかしながら追い立てている時に、乾いた音が山々に反響した。お巡りさんはのんびり言ったそうだ。

「今は狩猟時期じゃないんだけど、誰か鉄砲撃っとるな」

 ももは、悪い予感が湧き上がり、いても立ってもいられない気持ちになったんだと言った。

「もも、でも、沢を下った所に私がいるってよくわかったよね」

 ふふんと、ももの鼻の穴がふくらんだ。

「あの、沢に降りる道の所で土がえぐれてたんだ。まだ湿り気が残ってる土。だから、もしかしてって思って川の所に降りたんだ。そしたら、人の歩いた跡がはっきり残ってて。そして、少し進んだ所でまた銃の音がしたんだよ」

 私は笑いながら泣いた。ももは訳がわからずきょとんとした顔をしている。

「本物の神山さん達は、炭焼き窯の裏手に眠ってた」

「そんな事まで調べたの?」

「あたしじゃない。警察。花、あんたもう三日も眠ってたんだよ。このまま目が覚めなかったらどうしようかって本気で思ったよ」

「それでも、よかったかもしれない・・・・・・」

「馬鹿・・・・・・」そう言いながらももは私の額を指で弾いた。

「警察の調べでは、三人とも殺害された後に、炭焼き窯で焼かれたみたいだよ。そして、その裏に埋められた。ひどいよね!あまりに身勝手な殺人。八つ裂きにしたってまだ足りないよ!あ、でも小太郎がちゃんと敵を取ってくれたから、ま、いいかもね」

「小太郎?」

「神山さんの飼い犬だったんだって。あの、ニセ神山の息の根を止めた犬。賢いよね。イノシシ用のくくり罠を仕掛けてあった所に上手にアイツを追い込んで、身動きを止めたんだろうって。かわいそうに、銃で撃たれて死んじゃったけど、今頃は、空の上でご主人様達によくやったって褒められてるよ。きっと」

 あの犬は神山さんの飼い犬だったんだ・・・・・・

「でも、本当の神山さんは死刑廃止論者だったって、彼が言ってた」

「バッカじゃない!自分だけならまだしも、奥さんや、まだ小さな子供まで殺されたんだよ!アタシだったら絶対に許さないからね!そんな奴は市中引き回しの上、道行く人に竹ノコでギリギリ引いてもらって、のたうち回りながら死んでもらうわよ!」

「そうだよね・・・・・・でも、ももは自分がその鋸を引ける?」

「あっ、無理・・・・・・」ももはあっさり言った。

「でも、あたしやっぱり許せないよ~」ももは、すごい形相でギリギリ歯がみしてる。

 ももは、忘れたのかな?

 自分も命を奪ったことがあったって事を?

 そして、私自身も。

 父に抱いていた恨みを殺意を・・・・・・

 母はどうだったんだろう?

 ももの母親にした事は復讐でしかなかったのではないか・・・・・・


 人は醜い。

 自分の正しさを信じきり、その中にある醜さを見ない振りをして蓋をする。


 ーあなた方の中で、罪のないものがこの石を投げなさいー


 私には、石を投げる資格があるのだろうか。

 人は人を裁けるのか。


「でも、そういやアイツのお骨、身元がわからなくて引き取り手がなかったから、神山さんの知り合いのお坊さんが、自分の寺に無縁仏として引き取ったんだって。あたしてっきり、友人を殺した極悪非道な奴を、地獄に突き落とすために引き取ったのかと思ってたけど、そんな訳じゃなかったのかもしれないね」

「ももぉ。お坊さんがそれしちゃダメでしょ」私は顔をしかめて小さく笑う。

「なに言ってンの。映画とかに出てくるじゃない。敵を呪い殺したり、痛めつけたりする手伝いは、坊主や陰陽師なんかの仕事と決まってるし」ももも、ケラケラと笑った。


 昔から人は人を呪ってきた。誰かを恨み、嫉妬して。

 今、彼の魂はこの世から離れ、あの世へと渡っていく。

 そこは、いったいどんな世界なのだろう?すべての人が救われ、笑いあえる世界なんだろうか?


「やっぱり、彼の身元わからなかったんだ」

 僕には戸籍がない。

 そう言った彼の顔が浮かんでくる。

 この世に必要とされなかった彼。

 彼の絶望が、やり場のない怒りが流れ込んでくる。


「少し、眠るね」

 そう言うと、ももは私の頭をぽんぽんと叩いてくれた。

 安心する。一人じゃない。

 救いようのない孤独な気持ちが少し和らいだ。


 彼の夢を見たい。

 一緒に楽園を創る夢を。



 体が回復し、警察に連れられて神山さんの自宅に行った。事件の調書を取るために。

 季節は、一気に夏になっていた。

 人の往来が途絶えた小道は、すでに草木の侵食を許していた。セミの鳴き声までが、人の進入を拒むかのごとく辺りに響きわたる。人の世界からほんの少し離れただけなのに、自然は圧倒的な力を持って人の小ささを知らしめる。汗が流れ落ちた。


 楽園は、緑に覆われていた。

 静かに、静かに自然に還っていく楽園の姿。

 嘆くのは人だからだ。

 苦しむのは人だからだ。

 自然は、すべてを飲み込み、ただそこに存在する。

 悪も、善も、その大きなものの前には形をなさない。


 本当の神山氏の眠っていた場所に行った。

 そこは、この楽園が見渡せる場所だった。

 ももが言っていた。お墓の前に野の花が供えられていたよ、と。

 彼は、泣いていたのだろうか?自分が無慈悲に命を奪った三人の前で、後悔に駆られながら泣いていたのだろうか?


 家の中に入ると、閉めきられ、日の差さないその空気は澱んでいた。

 何かが朽ちていく匂い。

 この楽園の崩壊。


 板の間に上がる。ピアノが所在なげにそこに存在していた。

 ピアノの向こうに小さな文机。


 古びた辞書。

 子供の落書き帳。


 ぱらぱらとめくってみた。


 落書き帳の上に、こぼれ落ちる涙。


そこには、子供のようにたどたどしい字が並んでいた。


  ーはな、だいすきー

  ーはな、だいすきー

  ーはな、だいすきー


 ページを埋める彼の想い。


 最後のページをめくる。


  ー楽園ー


 きっと、何度も書き直したのだろう。

 消しゴムで何度も消され、不器用に曲がった線で描かれたそれ。


 彼の求めたもの。そして追われたもの。

 私は、泣いた。彼の想いを胸に抱き、ただ泣き続けた。


 彼は楽園を求めた。

 そして自らが犯した罪によってそこを追われた。


 人は人でしかない。

 苦しみ、迷い、醜くあがく。誰かを踏みつけ、過ちを犯しながら。


 許そう。許そう。


 いや、罪人である私を許して下さい・・・・・・

 そして十字架を負いながら、前に向かって歩いて行こう。


 私達は楽園を追われた。


 それでいい。

 この地上で私達は生きていく。


 家の外に出た。

 小さな羽音がした。


「ミツバチ・・・・・・」

 その小さな羽がしっかりと空気を捉え、大空へと飛び立っていく。


 清も濁も、正義も悪もそこにはない。


 この世の生きとし生けるものすべてを包み込み、限りなく青い空は広がっていた。



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