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ラクリネイサ――統合失調症についての諸所の考察

作者: モモ

 小説を書く方法などというものは存在しない。ところで、小説と人生には相通ずるものがあるように思う。どこがどのように通じているのだろう? それは僕にも今一つよくわからない。

 心が震える瞬間というのは、多分誰にでもある。でも、それは個人の心の中にのみあるもので、他人のそれとはなかなかどうして取り換えることはできないものであるようだ。すくなくとも、僕には僕の中にある胸のふるえが、自分以外の人に感じることができるというふうには考えることができない。それはいつも僕にだけ感じられ、そしていつも僕のもとから去って行かざるを得ないもののようだった。

 世の中では、恋についてさまざまな評価がなされている。苦しいだとか楽しいだとか。恋を楽しいと感じる人もいれば、苦しいと感じる人もいるという。どうも多義的なもののようである。僕はおそらく、比較的恋をする方だと思う。また、あまり頭がよくないので、あんまりタイプの女の子がいると、ついつい夢中になってしまう。

 とりあえず、この世界に二十五年ほど生きていて、常々思うことは、どうも一つとして確かなものは存在しないらしいということ、一般に存在していると信じられている原理なり法則は、時の流れとともに崩れ去っていくということだ。それは恋でも友情でもチョコレートでもギターの弦でも同じことだった。このことで、僕はずいぶん傷付いてきたように思う。それというのも、僕が、何か確かでないものをよりどころにし、すぐになくなってしまうものに永遠を錯覚したためだ。

 最近の心理学の研究では、知覚にはたくさんの錯覚が含まれていることがわかってきているらしい。おそらくは、僕の目の前の風景、あるいは耳に入ってくる音、そういったものは全て、なに一つの例外なく、なんらか錯覚的なものなのであろう。むしろ、錯覚が世界そのものなのかもしれない。実際、僕の目に映る世界はほとんど常に僕のことを欺いているので、その意味で言っても、やはり世界というのは錯覚なのだろうと思う。厳密に言えば、錯覚と真実を区別する方法が存在しない、とでも言えばいいのかもしれない。

 僕には、幻聴が聞こえる。幻聴というのは、一般的な意味で言って、聞こえるはずのない声や言葉が聞こえることだ。僕にはそれが聞こえる。しかし、その聞こえ方は通常の音の知覚の仕方とはだいぶ異なっているように思う。それは見える、とも言えるし、ある種の味がする、とも言えるし、はたまた、何らかの感触がする、とも言える、そんなふうな、五感に分裂する前の、根源的な感覚だった。世界のありとあらゆる言葉のすべてが何か普通の意味とは違う意味をこちらに差し出してくるのだ。その意味は、とても個人的なものである。全て僕に差し向けられている。その声に耳を傾けすぎると思わず気が狂いそうになる。もちろん、そういったものは、現代においては錯覚ということになるであろうし、もっと言えば、精神病、ということになるのだろうと思う。しかし、僕の意見では、やはり、錯覚とは世界そのものなのだ。そして、おそらく、この主張を否定し得る論拠は、少なくとも今のところは、この世界のどこにも存在しない。


 さて、僕はあらゆるものを疑ってみた。でもそれは、既にデカルトのやっていることだった。それでもやってみたのだ。なぜなら、この世界の多くのことというのは実際にやってみて、そして、事の成り行きが終結するのを待たないことには、なんとも言えないことばかりだからだ。つまり、僕は完璧に何も判断することができなくなった。そして、僕はその地点から一歩も動けずにいる。むしろ、僕に見える世界とは、その一点のみだった。他には何一つそこにはありはしないのだった。

 

 その意味で言って、僕は完璧に孤独であった。それは理念的な孤独と言ってもいいくらいのものであった。そして、その孤独が消失する可能性というのはおそらく未来永劫ないのではないかと思われる。


 芸術と現実を区別するのはとても良いことだと思う。芸術は僕の延命処置であるのだけど、それはほとんど確実に、ほとんど多くの人に対して、嫌悪感を催すはずのものであるので。だから、僕一人でやっているのがもっとも理に適っているし、それは誰にも見せないのが理に適っている。現実とは無関係に。言うなれば、僕は誰のためでもなく、ただ自分のために小説を書くのである。


 ただただ悲しいのだ。本当にそれだけだ。この世界には何もないということ、それがどうしようもなく、たまらなく悲しいのだ。


 学校でも会社でも、どこに行っても、必ず目上の人がいて、その目上の人にはさらに目上の人がいる。そして、上の人が、下の人を支配している。このように、人間の社会は支配の連鎖により成り立っている。そして、より上の人ほどより強い支配能力を持つ。このように考えれば、僕や世界というものが究極的には何か強大なものによって支配されていると考えるのは、さほど間違っていないことのように思われる。僕には自分が支配されているという可能性を拭い去ることができない。


 何人かの人は、僕のことが好きだと言ってくれる。正直言って、とてもうれしいと思う。しかし、その「好き」という言葉が一体何を意味しているのかはさっぱり分からない。それを無理に決めようとすると、あーでもないこーでもないと妄想ばかりが膨らんで、結局実りの多い思考にはならない。結局のところは、色々なものをあきらめて、流されていくしかない。しかし、それが絶望なのかと言われれば、そうとも限らない。たまにはとても良いこともあるのだ。分かり合える人に会えたり、美味しい食べ物を食べたり。


 大切なことは主に、次の一点に集約できる。先のことは誰にもわからない。そういうことだ。


 本当に、何が吉と出、何が凶と出るか、それは神のみぞ知ることである。吉に見えたものが凶に見えてきたり、凶に見えたものが吉に見えてきたり、そういうことはよくあることであり、もはや真相など分からない。全てのものは、吉にもなり得、凶にもなり得る。その結末は、死のその瞬間まで、最終的なところは決してわからないのだ。


 将棋に勝つためには、相手の王将を取らねばならない。あまり将棋に慣れていない人はそのことを忘れて飛車を取りたがる。重要なのは、王将を取るということ、つまり最終的なところなのであって、その過程ではないのだ。


 人生からは、最も肝心なものが覆い隠されている。不思議なことだ。


 正確な意味で言って、僕は絶望するべきだとも言えないし、希望を持つべきだとも言えない。それは全てが終わるその時まで、わからないことなのだ。


 世の中には色々な学問があって、それらは緊密に連関している。サメとレモンの関係だって、論証しようと思えば、いくらでも論証することができるのであろう。それらの単語一つ一つをとっても、その意味はきわめて多義的で、考えようによっては、どんなことでも示し得るものなのだ。基本的に人間は、言葉を自分の好きなような意味で受け取ることができるし、またそれしかできない。言葉というのは個人的なものなのだ。それとも、なんらか客観的なものでありうるのだろうか? もしもそうだとすれば、今頃世の中は、論理的に平定されていたことであろう。


 論理的というと、その帰結に、ただ一つの正解を想定する人が多いのかもしれない。僕自身、そういう人たちと何度も会ってきたし、彼らはそういったことを疑ってみようという発想を持たない人種のようであった。多分、それは悪いことではないのだろう。いいことでさえあるかもしれない。しかし、実際には、さまざまな科学的論拠は、日々移り変わり、日々違う結論を出し続けている。いかなる科学原理も絶対のものではないなどということは言うまでもないことだし、癌は切るべきでないという医師まで世の中には存在するくらいだ。そして、それらのうち、いったいどれが正解なのかということは、きっと誰にも分からないのだろう。極端な話、自殺が正解だなんてことだってあり得るのだ。もしも、ひとつでも、この世界になんらか堅固な論拠なるものが存在したとすれば、人間は絶対に不安になんてならないのだ。どこにも拠り所がないことに気付くときに、人は不安になるのだから。


 もしも、僕が既に一度死んでいると言った場合、この言葉を文字通りの意味で理解してくれる人は一体どの程度いるであろう? おそらくほとんどいないであろう。ほとんどの人はこの言葉を比喩的に、あるいは一種のジョークとして受け取ることであろう。しかし、何の誇張もなく、僕は既に一度死んでいるのだ。誰に殺されたのか。それは僕にも分からない。しかし、少なくとも、この世界で最も強い何かによって僕が殺されたということはまず確かなことで、皮肉な事に、その圧倒的な絶望のおかげで、僕は不安を克服するに至った。あらゆる不安は、圧倒的な絶望の前では無力だ。


 言葉というのはとても便利だ。そして、性急だ。そのため、社会において、人に命令するのには非常に優れている。それに対し、音楽や美術は、言葉よりはゆったりとしている。音楽と美術を比べるなら、音楽の方がゆったりとしている。音楽は本当にゆったりとしている。しかし、歌詞のある音楽はそうはいかない。言葉がつくと、音楽というものもどうしても性急になってしまう。急ぐと色々なものが見えなくなる。焦っている時、人はどんどん苦しくなっていって、ついには息ができなくなる。その意味で言えば、僕は音楽が好きで、言葉は嫌いだ。


 人間は誰しも、物事を自分の尺度で捉える。それ以外に術がないのだから。しょうがない。結果、自分を中心にして、物事を単純化していく。これは誰しもがそうだ。どんな人間だって、究極的に客観的であることなんてできない。ただ、程度の問題として、幾分エゴから解放された人間と束縛された人間がいるというだけのことだ。そして、それは程度の問題でしかなく、それらの間に明確な境界があるわけではないし、エゴのない人間なんて、そんなにいない。


 頭がいいというのは、物事を単純に考える能力のことである。ただ、単純に考えすぎた場合、それはそれで困ったことになる。何事もほどほどが大切だ。頭がいい人は、できるだけ複雑なことを考え、行う必要がある。複雑なものに触れることで、自身の単純化の能力を相殺しなければ、物事をあまりにも単純に捉えすぎて、妄想が生じてしまう。


 頭の悪い子供にとって複雑な課題が害悪であるように、頭のいい人にとっては単純な課題が害悪であるということについては、よく知られていない。


 人間には色々な人がいる。そして、大概の場合、互いのことを少なくとも完璧には理解しあうことができない。むしろ、理解できないことの方がずっと多いくらいだ。頭のいい人には頭の悪い人のことはわからないし、その逆も然りだ。理解しようとする努力は必ずしも悪いことだとは思わないけれど、それで疲れて摩耗してしまうのなら、結局のところ、人間は分かり合えないのだとあきらめてしまったほうが良いと思う。たとえ、分かり合えなくても、それなりに楽しく生きていければ、それでいいじゃないか。


 セロ二アスモンクというのはとてもいい響きだ。音として。言葉としてはどうでもいい。


 統合失調症とまではいかなくても、大なり小なりすべての人が被害妄想に苦しむものである。そして、その妄想からの解放を求めている。つまり、自分の単純化の能力を相殺してくれる複雑性を欲している。自分という法則を打破してくれる画期的な複雑な何かを誰もが期待している。創造性だけが、人をエゴの苦しみから救い上げることができる。そして、すべての苦しみとはつまり、エゴのことなのだ。


 卵の殻を割る前には、果たして、卵の黄身は存在しているだろうか? 僕たちは、存在していると一般的には考える。ところが、なぜそう言えるのかを論理的に証明することはできない。つまり、その卵の殻の中に黄身が入っているかどうかは、真の意味では誰にもわからないのだ。実際に卵を割ってみる、その時までは。


 もしも、僕たちが、自分のエゴを殻で覆ったとすれば? そこにエゴの存在を証立てるものは何も存在しない。


 僕は、自分の存在を保ったままに消えていくことができるのだ。


 エゴは殻で覆うことができる。そして、エゴそのものよりも殻の方がより重要なのだ。


 音楽は本当にいい。本当に。


 僕はそのうちチェロを弾きたいと思っている。習うのも面白そうだ。でも、自分でやるのも面白そうだ。僕はどちらかと言えば、何事も、独学に向く人間なので。基本的には一人で自分のためのチェロを弾くことになると思う。そこに創造性がなければ、そのチェロは僕にとってほとんど意味がないのだ。だから、定型的な学習メソッドというものは僕にとってほとんど意味がない。僕には何もよりどころがないので。ただ、そんな僕でも、自分のチェロの演奏を聞かせたいと思えるような女の子はいるのだ。


 コピーとクリエイトの差は非常に明確に述べることができる。常同行為がコピーであり、無作為の行為がクリエイトである。前者は一般的に破壊的行動と呼ばれ、後者は創造的行動と呼ばれる。


 創造というのは本当に本当に楽しいことなのだ。この世界にこれ以上のことはないくらいに。お金だとか名誉だとか権力だとかいうのは、創造に比べたら、全てただの副産物にすぎない。


 人間はいつも、創造性を愛するのだ。

 

 愛にはさまざまな形がある。それは嫉妬であることもあるし、賞賛であることもある。


 最近はネットが発達していて、世間にはさまざまな真偽不明の情報が氾濫している。これが善いことなのか悪いことなのかを考えてみたこともあったが、何が善くて何が悪いのかということについては、ついぞ判断を下せる気がしなかった。一度は判断を下した気になっても、またすぐに、新しい情報を得ることによってその判断は覆ってしまう。塞翁が馬、という気分。僕にはもはや、何が吉兆で、何が凶兆なのかがまるでわかる気がしない。それらの予兆を察知できる預言者でもいてくれれば、僕の人生は今よりもっと楽になるのだけど。とは言え、預言者には――すべての預言者とは言わないまでも――詐欺師も多いので、結局予言も、僕を助けてくれそうにはない。そもそも、善悪を区別すること自体に無理があった。同じ一つの物事でも、見ようによっては善いものであり得たし、悪いものでもあり得た。何かを区別したり、カテゴリーに分けたりするのは、論理的にはとても難しいことなのだ。にもかかわらず、僕たちはそれを半ば反射的に、あるいは直観的に行っているのだから、人間というのは大したものだと思う。人間というのはどうも、論理一辺倒ではどうにもならないもののようだ。おそらくは論理的なものと非論理的なものの両方が大切なのである。もしかしたら、論理的なものと非論理的なものを区別することさえ間違っているのかもしれないのだから。

 

ピアノとギターの関連にはとても面白いものがある。それぞれに独特の設計思想が見受けられるのだけど、それでもやはり通底している部分は一緒であるように思う。というのも、どちらも五線譜で表すことができるし、タブ譜で表すこともできるので、それらの間には互換性があるのだろうから、そう思うのだ。ピアノとギターの間には実におもしろい翻訳の関係があるのだ。ピアノというのは、要は、ピアノ語とでもいうべきものであり、ギターというのはギター語とでも言うべきものなのだ。それぞれに根差した文化があり、それぞれの言語がある。当然、互いに異なった文化には差異がある。ピアノとギターは違うものではあるのだ。にもかかわらず、それらの思想にはある程度の互換性が見られる。これはとても面白いことだと思う。異なる文化を有する二つの楽器がどうして、このように奇妙なつながりを見せるのであろうか。なぜ互いに異なる者同士が、このようにして出会う瞬間というものが存在するのだろうか。それは僕の人生における一つのテーマだった。どちらかと言えば、かなり主要なテーマだと思う。


「桜田君はよく本を読むんだよね」

 とユリさんは言った。

「読むね」

 と僕は言った。

「どうしてそんなに本を読むの?」

 ユリさんは頬杖をついて、スプーンでコーヒーカップの中をかき回した。スプーンを三回転半位させると、スプーンをそっと皿の上においた。

「僕にもよくわからなくて」

 僕はピラピラと手元の本をめくる。

「桜田君は本が好きだね。でも、話をする時は、ちゃんと他人の顔を見た方がいいんじゃないかな?」

 僕は本を閉じて、ユリさんの顔を見た。

ユリさんは軽く微笑んだ。「桜田君、窓の外見て」

僕は窓の外を見た。雨が降っている。「雨が降っているね」

「どう思う?」

「それは雨を見てどう思うかということ?」

「そう」

「寂しい気分になる」

「どういうふうに寂しいの?」

僕は、自分がどういうふうに寂しいのかについて三秒ほど考えてみた。「感覚としては本を読んでいるときに近いのかもしれない」

ユリさんはフーンと言って、頬杖をつき直した。「桜田君は本を読むのが好きなのに、本を読むのが寂しいの?」

「とても単純に言うと、そういうことになる」

「じゃあ、複雑に言うと?」

「その場合、何もかもがあまりに複雑すぎて、何も言えない」

 僕がそう答えると、ユリさんはまた微笑みを浮かべて、「フーン」と言った。


 世の中には、言っていいことと、言ってはいけないことがある。触れていいことと、触れてはいけないことがある。どんなに親しい間柄の者同士であっても、その原則は変わるものではない。人間はどうしたって孤独なものなのだ。二人の人がいて、もしも彼らが孤独でなかったとしたら、それは矛盾だ。彼らが孤独でないとしたら、その場には一人の人間しか存在しない。そして、一人とはつまり孤独のことなのだ。


 孤独から解放されるためには、孤独が必要である。孤独な自分が孤独な他者に触れるときにはじめて、命が生成される。


 ああなんじゃないか。こうなんじゃないか。いろいろな可能性が目まぐるしく頭のなかを駆け巡って、結局何も決められず、不安だけが募る……なんてことはよくあることである。おそらくは、誰にでも。こういった妄想を止める方法は一つだけある。それは急がないことである。全ての判断をどこまでも先送りにすることである。これができれば、いかなる妄想も生じることはない。


 他人の心を推しはかろうと思考するのは悪いことだとは思わない。しかし、速断してしまうのであれば、必ずや妄想に蝕まれることになろう。ゆっくりゆっくり。これさえ守れば、全てうまくいく。大丈夫。僕が保証する。


 誰かがあなたに判断を迫るとしよう。それはなぜだと思う? あなたが判断を下せば、それがその誰かの利益になるからだ。あなたがその誰かのことが大好きで、しかも、十分に長い間、丹念に思考を積み重ね、なおかつその誰かのために自分の利益を捧げたいと思うのなら、その時は判断する時だ。しかし、そうでないならば、絶対に判断してはいけない。全ての判断を停止していなければならない。


 利益を上げる方法は簡単だ。相手に速断を迫り、自分は極力判断しなければよい。それだけだ。


 ところで、もしもあなたが、判断を停止することに熟達した人であれば、他人に速断を迫り、その利益を搾取しても、そこから得られる利益はきわめて微量であることを直ちに発見するであろう。むしろ自分が、世間で利益と呼ばれているものを得るよりも、他人に対して、世間で献身と呼ばれる行為をより多く行ったほうが、極めて利率が高いことに直ちに気づくであろう。奪うことよりも与えることの方がずっと利率が高いということに。


 子供はなぜなぜなぜといろいろなことを聞きたがる。ある種の大人はそれに対しイライラすることがしばしばだ。なぜなら、その大人は子供に自分の利益を分け与えられるだけの十分な余裕を持っていないからである。


「ねえ、ユリさん」

 と僕は言った。

「何?」

 とユリさんは言う。ユリさんは何か書き物をしている。

「ユリさんは一体、何を書いているの?」

 ユリさんは、三秒ほど手を止めて、僕の目をじっと見た。かと思うと、次の瞬間にはすぐに文筆に戻っていった。そして、手を動かしながら、「小説」と一言。

「どんな小説?」

「すごく楽しい小説」

「どんなふうに楽しいの?」

「とにかくすごく楽しい感じ」

「だから、それはどんな感じなの?」

「……よくわからない」

「フーン」

 僕がそう言うと、ユリさんは眉をピクリと動かした。「からかってる?」

「ぜんぜん」

「フーン」

 ユリさんはそう言って、頬杖をつく。そして、にこりと素敵な笑みを浮かべた。


 とにかくただ悲しかった。しかし何が悲しいのかが分からなかった。もしも、僕が自殺に有効性を認めていたとすれば、自殺していてもおかしくないであろう。そして、幸か不幸か僕は自殺に有効性を認めてはいなかった。おそらく、自殺したとしても、この悲しみは晴れるものではないであろうから。なるほど、肉体と意識はある程度連関しているであろう。しかし、その連関のすべてが科学によって明かされているわけではない。肉体と非肉体の境界も暫定的なものにすぎず、どこからが自分の肉体でどこからが他人の肉体なのかを決めることすらままならない。それらの区切りは全て、仮説にすぎない。もちろん、自殺という方法には、有効性がある確率が存在しないわけではなかった。しかし、その自殺という手法が僕のこの悲しみを癒す確率というのは、他のあらゆる手法による治癒率と同じく、極めて低いものでしかなく、とどのつまり、僕にはあらゆるものが無意味に映るが、その無意味の中に自殺もまた含まれているというただそれだけのことであった。生が無意味である限り、生命の行動としての自殺すらも絶対的に無意味だった。よって、僕にはまったく逃げ場がなかった。僕の意志など関係なしに、とりあえず目下のところ、僕は苦しみ続ける以外に術はないようだった。


 もしも僕のこの悲しみが完璧なものであったなら、僕はさほど辛くはなかったであろう。ところが、世界は僕をしばしば裏切りはするものの、しばしばよいものも与えてくれた。いわば、僕の心は完璧に悲しみに暮れることも許されず、いたずらに希望を持たされては、そこに狙いすましたように絶望の刃が差し込まれるという、極めて拷問として理にかなった有様であった。


 したがって僕は、不完全な絶望によって完璧な絶望に至り、とどのつまり完璧な絶望は不完全な絶望であるという、それ自体、極めて絶望的な循環の中に閉じ込められていた。そこに苦しみと楽しみの区別はなかった。それらは完璧に同じものであった。この意味において、僕は極めて悲観的であり、にもかかわらず極めて楽観的であった。そして、こういった認識が僕に、極めて優れた諸所の能力を授けてくれることもまた、僕は知っていた。そして、僕はそれら、自分の能力の証明を目の当たりにするたびに、世間的に「才能」と呼ばれ、宝物扱いされるものが、その実、別段素晴らしいものでもなんでもなく、それらを欲する心というのはないものねだりでしかなかったことを確認するということを絶え間なく繰り返すのだった。言うなれば、そういったものを手に入れるまでもなく人生は最高に素晴らしいものであった。本質的なものは、この世のどこにもないのだが、にもかかわらず、方便として、本質と表現せざるを得ない類のものが、この世界の才能を初めとする幾多の資本よりもより重要なものであった。そして、その本質は一見、資本の放棄――これは主に「損」と呼ばれる――という形を取って現れるが、その放棄がより重大な資本をもたらすというとても奇妙な構造がこの世界を支配していた。その放棄としての手段の一つの中にもちろん、自殺もまた含まれていた。したがって、自殺は他の幾多の手法よりも優れているとは言えないものの、同時に劣っているとも言えないものであったので、確率的にはある個体が自殺する可能性は常にあった。そして、この先、未来に起こることを知っているものは、主に神と呼ばれ、それ以外の、少なくとも人間と呼ばれている生命体については、これら「運命」について認知することはできないものとされるのが世間一般的な見解であったし、また、これは完璧とは言えないまでも、やはり一定程度の方便としては妥当と言わざるを得ない。人間はどんな人でも、ふとした拍子に、いつでも自殺し得るものなのだ。しかし、自殺にはとてもいろいろな種類があって、現代において明らかになっている自殺手法が、自殺のすべてではなかった。つまり、薬も縄も使わずに行われる自殺はふつうに存在するし、心臓を止めるとか、大量出血とか、そういった身体的外傷を伴わない自殺もまた存在する。そうした、現代において公に明らかになっている以外の、種々多様な自殺を子細に検討した場合、厳密な意味で、この世界の生命体の中で、自殺をしたことのない生命体は存在しない可能性すらあった。しかし、他我は自我に、論理的には検知されないので、少なくとも僕の自我が自殺を繰り返しているとしても、他我までが自我と同じように、自殺を繰り返しているかどうかは、まったく可能性の域を出ることはなかった。その意味で言っても、僕という人間は、完璧に孤独であって、そして、その孤独は原理的に絶対に晴れることのない種類ものであった。


 判断を停止することは、自我の消去を意味する。そして、判断の停止はより正確な判断をもたらすために必須のものである。自我はエラーに過ぎず、その意味で言えば、この私としての僕は常に消去されるべき存在に過ぎなかった。僕とはつまり、「誤差」である。


 このような帰結でもって、人間は自我を殻で覆うのが善いと言い得る。すると、自我は論理的に存在しない。この殻が僕を守る唯一のものなのだ。この時だけ、僕は生き延びられる。僕は存在しないのに、存在しているという、この場合にだけ。


 殻の中のことは誰にも分からない。それらは「秘密」なのだ。そして、その秘密は誰にも暴けないし、また暴くべきでもないのだ。その殻が人間を外の世界の残酷な幾多の放射から守る唯一のものなのだ。


 この時、確かに、僕には何もすることはできない。なぜなら、何かをするという時、それは意志を仮定し、その意志とはつまり意識であり、自我であるので。自我が存在しないところで、僕は何もすることはできない。しかし同時に、この殻の中にいる限り、どんなものも僕を傷付けることはできない。これはいくらか正確さを欠く記述かもしれない。より厳密に言うなら、どんなものも致命的には僕を傷付けることはできない、と言うべきかもしれない。いずれにせよ、僕が存在しない場所においては、僕が傷つけられることはできない。


 私的言語は存在していないのに、存在しているというその場合に、僕の生存は成立する。そして、この生存は原理的に不死であった。この生存は既にその内に死を含むことで成立しており、したがって、死によって終結されることはできないが、にもかかわらず生を停止させることができ得るものは死以外にはないので、どう考えても、この様態は不死であるとする以外にはない。言いようによっては、そもそも初めから死んでいたのだとさえ言い得る。ただ、その場合でも、死は必ず生を前提とするので、初めから死んでいるという記述自体が既に語義矛盾であり、したがって死は存在しないと言わざるを得ない。


 身体の心臓と呼吸の停止を死と考えるのは、仮説的なものであり、それが本当に死であるかどうかは今のところ、一般的には知られていない事項の一つである。いったい何が死であるかというのは、さほど自明のことではない。ならば、いったい何が自殺であるかというのもまた、さほど自明のことではない。


 ジークムントフロイトも指摘しているように、統合失調症(分裂病)における妄想は、慧眼でもある。その判断が速断により濁っているというだけのことでしかない。例えば、「CIAに監視及び操作されている」といったような統合失調症の典型的妄想について少し考えてみる。まず、監視及び操作されているという推理自体はまずもって正しい。なぜなら、人間の社会には支配構造があり、ある階層にはより上位の階層があり、上位の階層ほど強い操作能力を持ち、その操作能力は下位の者には与えられないので、下位の者は自分を操作するものがなんであるかを知らぬままに、上位の者に操作されていることになり、この場合、「私は私にとって測り知れない何者かによって操作されている」と判断されることになる。この推理自体は別段間違ってはいない。むしろ通常の人が気づかない点に思考が至っているという意味で慧眼でさえある。僕たちの目に偶然に見えるものも、上位の者から見れば必然なのであるから。ここで、この上位の者の強大な力に怯えるのも、生物としてはまずもって妥当である。怯えからついつい判断を焦って、その操作主を自分の手近な知識に委ねてしまうのである。それが、「CIA」という言葉となって現れている。しかし、ここで判断を停止して、よくよく考えることができれば、操作主がCIAであるなどということは考えなくなるであろう。むしろ、本当に僕を――あるいは僕たちを――支配している何者かがCIA程度のものであったとすれば、それはまだしもこちらに挽回し得る確率があるのであり、真の意味で絶望的とは言えない。何せ、CIAは人間なのだから。ところが、事態はもっと深刻なのである。僕たちを支配しているものは、究極的には、僕たちが人間として認知するような形を取ってはいないであろうから。それは神などと、とりあえずの仮説的な呼称で呼ばれる。あなたが、「自分が誰かに操作され、誰かに脅かされている」などと被害妄想を感じるとすれば、それは慧眼である。ただし、その問題についての判断を焦って、速断すると、その操作主や悪口なり恐怖の原因が、自分の手近な人であるとインスタントに思い込んでしまうことになる。例えば、「友人が自分の悪口を言っている」などという妄想はそれである。もちろん、本当に友人はあなたの悪口を言っているかもしれない。しかし、あなたの根本的な恐怖の原因はそこにあるのではなく、むしろ、友人単体というよりも、自分の周囲の人々全て、社会全体、いや、世界全体があなたの敵であるということ、つまり、友人の悪口とかそういった小さな問題を越えた、より大きな何者かによる支配にあるからである。もしも、二三の友人が悪口を言っている程度であったなら、あなたはさほどその妄想に怯えることもないであろう。本当は、敵がそれらの友人だけではなく世界のすべての人であること、根本的に自分が孤独であるということ、味方は誰もいないということ、全てが敵であり得ること、それらを率いる何か偉大な他者を究極的に想定できること、それらがあなたの恐怖の原因なのである。ところが、この偉大な他者とあなたはなんと互角に渡り合うことができるのである。想像力によって。


 さて、あなたを支配し、あなたの命運を握る偉大な他者を仮定しよう。それは当然、論理的に存在すると考えられるものである。あるいは少なくとも、その可能性が極めて高いとは言い得るものである。ところが、その偉大な他者の奥にはさらに偉大な他者がいるであろう。そして、偉大な他者はさらに偉大な他者に踊らされているのである。あなたが偉大な他者に踊らされているのと同じように。では、そのさらに偉大な他者は? 無論、さらにさらに偉大な他者に踊らされているのである。そして、躍らされているものは自分が踊らされていることには往々にして気づかないものである。それに気づくとすれば、それは一つの偉大な達成であり、極めて優れた慧眼なのである。全ての物事はある原因――自分より偉大な他者――によって支配されている。裏を返せば、この世界のあらゆるものはなんらか自身より偉大なものによって支配されているということである。したがって、あなた一人が踊らされているということは原理的にあり得ず、必ずやあなた以外のすべてのもの――例えばあなたよりも偉大なもの――も、より偉大な何かによって踊らされているのである。なるほど、あなたは自分が誰かの掌の上で踊っていることを恥ずかしく思ってしまうかもしれない。ところが、この世界のすべてのものが何ものかの掌の上で踊っているのだということを知った場合どうであろうか。すくなくとも道化はあなただけではなく、この世界のすべてが道化なのであり、その意味で、あなたの境遇はとりたてて恥ずべきものではないことは論理的に明らかとなる。なぜなら、あなたは自分だけが誰かの掌で踊っているのではないかと恥と不安を覚えたのであるから。そもそもあなただけでなく、この世界のすべてのものが踊らされているのであるから、そこに恥を感じる必要も不安を感じる必要もまったくないのである。また、この世界のすべてのものは支配され、操作されているのであるから、何もあなただけが操作されまいとして頑張る必要はないのである。別に操作されていてもいいし、この世界のすべてのものはそもそも操作されているのだから。だから、統合失調症者が「自分は射精させられている」などというふうに言うのは極めて正しい。ただ、それについての判断は焦らないことだ。「自分はCIAによって射精させられている」などということになると、これはうまくない。敵はCIAよりもさらに強大なのだ。それは人間に捉えられないくらいに強大な敵なのである。CIAなんて、その強大な敵に踊らされている一個の道化に過ぎない。あなたが戦うべきはその強大な「神」であって、CIAではない。あなたを強制的に射精させるのはCIAというよりも神であり、運命である。運命は、盗聴器もマイクロチップも使わずとも、人間には捉え切れないような不可思議な「魔法」によって、いくらでも僕たちを意のままに操作することができるのである。盗聴器なんて、かわいいものだ。


 恥は、自分と他人が違うことによって生じる。自分だけが道化で他の人たちが優れているという場合に。ところが、すべての人が道化なら? 何も恥じることはない。大丈夫。みんな道化なので。好きにすればいいのだ。恥たければ恥じればいいし、恥じる必要がないと思えば恥じなければいい。結局、どんなことを考え、どんな行動をしたところで、僕たちは神様の掌の上をコロコロと転がっているだけなのだから。そして、誰一人の例外もなく、みんなそうなのだ。


 何にしても、判断を焦らないことが大切だ。でき得る限り判断を停止すること。すべての物事について、よくよく「なぜなのだろう?」と理由を考えてみること(これはよく考えればよく考えるだけいい)。そうすれば、自分の敵がCIAや友人や先生でないことがわかってくるはずだし、むしろCIAや友人や先生が、あなたと同じ「被害者」であることがわかってくるであろう。彼らもまたあなたと何ら変わらず道化である。団栗の背比べ、という言葉を思い出すといい。所詮、お互い道化なのであるから、そこで優劣を競ってもしょうがないのである。枝葉末節に囚われず、真の敵を見定めねばならない。それは人間の認識を越えたものである。その人間には捉えられない敵のことを仮に、神と呼ぶのである。そして、その敵としての神にも、さらに偉大な敵がいて、その意味で、神もまた僕たちと同じく道化であり、被害者なのである。この世界に道化でないものは存在せず、すべては嘲笑すべきものである。あなただけが嘲笑されるべきものなのではなく、この世界のすべてのものが嘲笑されるべきものなのである。


 なるほど、生きることは嘲笑されるべきものであろう。ところが、同じように死ぬことも嘲笑されるべきものであることがわかるであろう。

 楽しむことも嘲笑される。そして、苦しむこともまた嘲笑されるのである。

 何もかも何もかも何もかもが、実に滑稽である。


 さて、これほどまでにユーモアにあふれた世界を、あなたは愛せずにいられるであろうか? どんなお笑い番組よりも面白い。素晴らしい喜劇だ。すべては致命的に支配され、損なわれ、憐れな被害者であるという極めて悲劇的な意味において、全て喜劇なのである。


 生きるということはとても悲しいことなので、とても楽しい。


 人生は素晴らしいダンスパーティー。ぜひ、あなたも僕と一緒に踊りませんか?


 あなたは気ままに踊ることによって――あるいは踊らされることによって――、この世界で最も強い何者かと渡り合うことができる。


 その気ままな踊りのことを、人は「空想」と呼ぶ。そして、それを行使する能力を「想像力」あるいは「創造力」と呼ぶ。


 さて、判断を停止することも忘れてはいけない。だから、ここに書かれたことについての判断もまた、停止しなくてはいけない。そのように物事を極力あやふやにしておくことで、僕たちは気ままに踊ることができるようになる。できるだけすべての判断を停止し、すべてのことをよくよく自分の頭で考えてみるのだ。「なぜなのだろう?」って。子供みたいに。それでいいのだ。そして、人間にはそれしかできない。


 判断の停止についての判断も停止しよう。そのようにしないと判断は停止されないのだ。僕が言わんとしていることはなんとなくあやふやに伝わるだろうか。速断せずに、じっくり考えるしかないのだ。あなたが自分で、ありとあらゆるすべてのことと可能性を細かく考えるのでなければならない。


 さて、僕とあなた、そして世界のすべての人はピエロだ。それで、ピエロの仕事は何であろう? それは他人を笑わせることだ。つまり、僕たちのするべきことは、他人に笑われることである。どんどん嘲笑されるのがよい。


 嘲笑にはレベルがある。低いレベルでは、いわゆる「バカ笑い」と呼ばれる反応を生じさせる。嘲笑が高いレベルになると、それは「感動」と呼ばれる反応を生じさせる。世間一般では、前者の反応を主に、ネガティブなもの――例えば悪口なり、見下し――として捉え、後者は、ポジティブなもの――例えば賞賛なり、尊敬――として捉える。いずれにせよ、それらは嘲笑にすぎず、滑稽である。何せそもそも滑稽な人たちが、自分のことを棚に上げて他人のことを滑稽だと笑っているのだから。僕たちは滑稽なことを、実に真面目にやっているのである。おかしいことを真面目にやっているからこそ、それらは極めて滑稽で、喜劇的で、ユーモアにあふれ、愛すべきものなのである。そして、とても悲しい。


 悲しいからこそ、生きる価値があるのだ。


 他人を感心させるくらいに上手に踊るのだ。何をしたところで、すべて神の掌で踊らされているだけ。だからこそ、すべて滑稽で、楽しいのだ。


 自分で踊るのも、神に踊らされるのも、同じことなのだ。


 世界のあらゆるものは確かに愛すべきものではある。そして、なぜそれが愛すべきものであるかと言えば、それが嘲笑に値するものだから、ということになる。


 雪道を歩いていると思いのほか、周囲に明かりが少ないことに気付く。ただ、歩いている当初は、そんなことを気にも留めない。自分が暗闇を歩いていることなど、気にも留めない。

 死だけが人を救う。それはとても正確なことだ。その意味で、死を目指すことは正しいと言わざるを得ない。僕がこの世界で見ることができる「価値」と呼ばれるものは、どれも愛すべきものだ。しかし、それはつまり、それらの価値と呼ばれるものが、その実、嘲笑すべきものにすぎない、ということをも同時に意味する。

 色々な思いがある。あらゆることに対する幻滅と希望が同居している。何もかも取るに足りないということはほぼ確実なこととして理解されている。そのように幻滅するから、逆に希望が生じる。


 ただし、人間は未だ、死について何一つ知らない、ということは強調しておく必要がある。つまり、いくら死にたくても、死のうと思って死ねるものではない。いわゆる「寿命」と呼ばれるものが仮に、「尽きた」としても、それで本当に死ねるとも限らないというのが実際のところである。もしも、心臓の停止や脳の機能停止によって死ねるとしたら、この世界の攻略難易度はずいぶんと低いものである。最悪のケースを想定した場合、自殺した時点で、自殺する手前の時間に巻き戻されて、またその時点まで記憶をリセットされているというふうに思われる(この時点で世界がいくつかに分岐しているとも考えられる。可能世界などとも呼び得る何か)。


 人生の目的は少なくとも、報われることではない。なぜなら、僕が生まれた時点で、既に、絶対に、報われることはない、ということが明白に保証されているからである。神によって。


 補償。さて、コンプレックスとは何か。それは、悪い物であろうか? それとも善い物であろうか? もしも、これらの善悪の判断が単純に下されるようなものであったなら、それは何もコンプレックスとは呼ばれないであろう。コンプレックスというのは複雑態を指す言葉なので。それは微妙なものである。つまり、それ自体、善とも悪とも言い難い。自分の中にあるコンプレックスと呼ばれる何かが、何らかの素因により刺激された場合を想定しよう。この時、このコンプレックスが心身に及ぼす働きのことを補償と呼ぶことにする。これはつまり、食事をすると、勝手に胃液が出る、といった現象と同一の現象である。食物は消化されることで、やがて血肉となり、身体の健康と発展、および機能の維持を助ける。コンプレックスとはつまり「胃」のことであり、補償とは「消化」のこと、そしてコンプレックスを刺激するストレスは「食物」ということである。世間的には「コンプレックス」という言葉はどちらかと言えば、ネガティブな方向に解釈される。これにも理由がある。しかし、この理由は別段難しいことではなくて、単純に、多くの人は難しいことが嫌いなのである。胃が丈夫な人は消化しづらいもの――難しいこと――を食べることができるが、胃が弱い人はそれができない(胃が弱い人は、消化しやすいもの――簡単なもの――を食べる)。そして、世の中には、さまざまな胃を持った人間が存在する。そういうことである。というより、単純に、それだけのことである。優劣の問題ではない。優劣というのは常に、胃の弱い人でも消化しやすいようにされた情報、言うなれば、加工食品のことなのである。加工された食品は、食べやすくはなるが、その加工の技量自体は極めて高度なものであり、すこし調理法を間違えば、瞬く間に食べられないものになったり、あるいは有害なものになったりする。そして、どんなに上手にキャベツを炒めたとしても、その炒めるという加工自体が、キャベツの中に含まれる重要な栄養素を破壊してしまう。したがって、キャベツを自然に近い形で食べられるのなら、それがいいが、それができる人は限られるので、それができない人に向けてキャベツは「調理」されることになる。


 そして、芸術とはつまり、調理のことなのだ。その意味で言えば、芸術という名のフライパンはさほど重要なものではなく、むしろ、自然に近い形のキャベツの方が重要なのである。いや、これは語弊があるだろうか。すくなくとも、胃が先天的、あるいは後天的に強い人にとっては、と言うべきなのかもしれない。胃が弱い人は、キャベツの他にフライパンが必要となり、食事に少々手間がかかる、というわけである。


 名指すものと名指されるものの関係。これは極めて大切な問題だ。統合失調症の問題というのは主に、ここに極まるのだから。まず、ある言葉がある特定の事物を名指すということ自体が、多くの奇跡の上に成り立っているし、実際、これは失敗することが多い。周りを見渡してみればわかる通り、世界は誤解であふれている。つまり、「妄想」であふれている。これがシンプルではあるけど、極めて重要な事実である。

 さて、ここで、ちゃぶ台をひっくり返すようなことを言ってすまないと思うのだけど、「誤解」が本当に「誤解」と呼び得るものであるかどうかは、決定できない。なぜなら、名指しのメカニズム自体が不可思議なものなので。だから、どんな名指しが正確なもので、不正確なものであるか、ということについては、ついぞ決定できないのだ。だから、何が妄想で、何が現実かというのは、非常に難しい問題なのだ。


 錯覚と現実は区別できないのだ。


 そして、「現実と空想は区別できる」という錯覚と「現実と空想は区別できない」という現実もまた、区別できないのだ。だから、現実と空想は区別できるというのが、錯覚ではなく現実であると思うこともあるし、逆に、現実と空想は区別できないというのが、現実ではなく錯覚であると思うこともある。人間は実にさまざまなことを思いながら生きているものである。


 したがって、錯覚と現実という枠組みではなく、現実Aと現実Bという枠組みで考えたほうが無難である。ある完成形としての「現実」に対し、幾多の未完成の「錯覚」があるという枠組みはいささか無理がある。なぜなら、そもそも完成形などどこにも存在しないからである。だから、「錯覚から現実に目覚めた」、というふうに考えるのではなく、「現実Aから現実Bに移行した」と考える方が理に適っているのである。実際問題、少なくとも、世界が完成するその時までは、この図式の方が正しいということである。


 これをもとに、例えば、恋愛妄想を考察してみると、分かりやすい。まず、ある人があなたのことを愛しているとあなたが妄想する事例を考えよう。ところが、先述の通り、これが妄想である保証はどこにもない。したがってこの場合、現実と妄想という枠組みは適用できず、言うなれば、そのある人は「本当に」あなたのことを愛しているのだと考える方が理に適っているのである。では、その恋愛妄想にしたがって、愛の告白を行い、それが失敗に終わった場合は? つまり、この時、現実が変容したのである。なるほど、あなたは確かにある時点までは確かにその思い人に愛されていた。しかし、何らかのきっかけによって、その愛が想定されない世界へとあなたは移行した。つまり、現実Aから現実Bへと移行した。このように考えることができる。また、こちらの方が妄想と現実という枠組みでものを考えるよりもより正確である。全ては、「世界は一つしか存在しない」というドグマによって生じた誤解にすぎない。そうではない。「世界はいくつも存在する」。そして、僕たちはそれらの世界を「行き来」することができる。その形跡は現代の用語で表すと「妄想」と呼ばれている。


 同じく、思考奪取の経験を説明することもできる。なるほど、あなたはある時点までは、今は失われてしまった「ある思考」を持っていた。ところが、それは現実Aには存在したが、現実Bには存在しなかった。そして、あなたは、現実Aから現実Bへと移動したのである。なんらかのきっかけ――それは外的であるかもしれないし内的であるかもしれない――によって。これは学習理論について考察する際に非常に有用なのです。えっへん☆


 僕はわりに、☆という絵文字が好きだ。


 統合失調症とは、あんまり一つの現実に束縛されすぎて、その反動で動き回りたくてたまらなくなり、いくつもの現実を猛烈なスピードで逍遥している、という一つの症状なのである。


 ここまで説明すれば、統合失調症患者に対し、「統合失調症」とか「妄想」とかいう概念を押し付けるのが、治療の観点からは致命的であることがわかろう。つまり、これらの概念は、「現実は一つしか存在しない」というドグマをよりどころにしている。そして、一つの現実を統合失調症者に押し付けるというのは実に致命的なことである。彼らは、いくつもの世界を動き回りたくてたまらないのだし、また動き回らずにはいられないのだから。


 現実Aは基本的に「実数」と呼ばれる。現実Bは「複素数」と呼ばれる。移行が終了すれば、やがて複素数だったものが実数として認識される。逆に実数だったものが複素数として認知されるようになる。


 僕は、悪口というものが総体として、どの程度の量に上るものなのかは今一つ分からないが、とりあえず、どこに行っても悪口を言っている人はいた。それが悪いことなのかどうかは正直なところ、よくわからない。もしかしたら、悪口はすごくいいことである場合もあるのかもしれない。でも逆に、やっぱり悪いことなのかもしれない。僕は悪口を聞くたびに、その悪口の整合性を自分なりに検証してみるのだが、自分にはどうしても、彼らの主張が妥当なものとは思えなかった。多くの場合、彼らの主張は「説明はできないが、これ(彼らの主張)は誰にでも受け入れられるべき当たり前のことだ」と言うものだった。無論、彼らには説明する気がないので(というより、そもそもそれ自体が説明不可能であることを彼ら自身も認めているので)、そこに話し合いの余地はなかった。おそらく、彼らはコミュニケーションがしたいというわけではなさそうだった。そうではなく、自分の主張を相手にも自分と同じように所有して欲しいと願っているように見える。これを「自分勝手な押し付け」と断罪してしまうことは容易いが、そのように単純に断罪して切り捨てることは、やはり妥当ではない気がした。というのも、悪口を言う人というのは相当数に上るからだ。これだけ多くの人が、みな悪口という反応を示しているということは、おそらく、そこにはなんらかの理由があるのだろう。彼ら自身も自覚していない何らかの理由が。これは僕の勘なのだが、どうもこの鉱脈には、大金が埋まっているように思われる。その大金はいつ掘り起されるかはわからない。でも、僕の生きているうちは、とりあえず、僕にできる限りは掘って行ってみようと思う。それは、きっと、みんなの暮らしを助けるものだと思う。それは嬉しいことだと思う。それと同時に、単純に僕自身が、個人的趣味として穴掘りが好きなだけ、ということももちろん理由の一つにはあげられるのだけど。


 穴掘りをしていると、そこを通りがかった人たちにしばしば非難される。「そんな何もないところに穴を掘ってどうする?」と彼らは言って、5分ほど悪態をつくと、そのまま去って行った。もしかしたら、彼らの悪態の方が正しいのかもしれない。僕の楽しんでやっているこの穴掘りは、やっぱり悪いことなのかもしれない。しかし、どういうわけか、僕は、その穴掘りが、何にもまして、この世の何にもまして、大切なものであることを確信していた。その大切なものは――たとえどんなに悪態をつかれたとしても――、結局は、悪態をつく彼らをも多大に援助することができる、とても有用なものであるという確信があった。だから、僕は一人で穴を掘る。今日も明日も明後日も。


 僕は、ここで、他人の目から見た、僕というものの様態について推理してみる。僕は彼らの価値観からして、まったく無益なことにひたすらに時間を費やしている。彼らははじめの内それを嘲笑する。しかし、ときどき、彼らの目にもそれと分かるくらいの不思議な成果が表れる。彼らはそれらの成果はなぜ現れるのだろうと不思議に思う。しかし、どんなに目を凝らし見ても、やっぱり彼らには僕のやっていることは無意味に見える。無意味なことに価値を狂信しているように見える。だとしたら、自分の見たような端々に浮かび上がってくる僕の不思議な成果は幻か虚勢であろうと考える。つまり、僕のことを、彼らの目に映る氷山の一角だけをうまく取り繕っているだけで、その実中身の空っぽな無能であると思うだろう。ならば、最終的に、彼らは僕の様態を指さして、「気取っている」と一言言うであろう。


 その意味において、彼らの言語で言うなら、僕は「気取っている」ということになる。しかし、僕の目からすると、彼らの言語は――僕の言語がそうであるように――まったく不完全なものに見えた。すくなくとも、論理的ではないし、こちらと分かり合う気はないし、会話に時間を割く気もないように見えた(彼らはいつも、何かに追われるようにしていて、急いで急いで急いでいた)。そして、それらの規則は、決して、絶対的なものではないように見えた。僕のことを、彼らの言語だけで、一律に語ることはどうも物事のすべてではないという気がした。なので、彼らの言語以外のものを探索してみようと思っている。そして、この文章もまた、その探索の一環なのである。


 既に完成した文章ならわざわざ書く必要はない。それらは既に完成しているのだから。常に未完成だから、常に書く価値があるのだ。


 フロイトは何一つ間違っていないにもかかわらず、すべて間違っていると批判される、稀有な偉人の一人である。


 どうも多くの人にとっては、自分の実際に通った道筋だけが世界のすべてであり、世界にはそれ以外にも膨大な道筋があるということには目がいかないようであった。既定のコースからすこし寄り道するだけで、そこには多くの新奇な景色が広がっているのに。僕にはそれらの景色がこの上なく美しく見えるのだが、彼らにとっては、それらはどうも「恐いもの」であるらしかった。


 多くの人たちは、幕末の日本のように「鎖国」しているのが常であるように思われる。黒船がやってこないことには、彼らは開国などということは思いもよらないようであった。また、黒船がやってきても、彼らはすぐにそれを受け入れられるわけではなく、ずいぶんと悩んで右往左往した後に、それらが自分たちの手ではどうすることもできないものだということを悟ると、あきらめて開国するようであった。


 量的な思考も、質的な思考も、僕から見ると、どっちも同じだ。


 健康と病気の境界というのは、とても難しい問題だ。どこにあるのかがさっぱり分からない。ただ、大まかな目安は――あくまで「大まかに」である、ということは強調する必要がある――述べることができる。それは次のようなものだ。


 健康と病気の境界があいまいに見える人は、健康である。健康と病気の境界がくっきりして見える人は、病気である。


 あらゆる物事には、長所と短所があった。長所だけのものや、短所だけのものは今のところ、ひとつも見たことがない。重要なのは、それらの個別の一長一短への固執よりも、総体への理解であった。


 正確に言うと、一つのことをしていても、すべてのことをしていても、それらを分ける境界は常に曖昧なものなので、僕の意識としては、別にどっちでもよかった。


 世の中は不思議なもので、相手の難癖に対応すると、逆にこちらが難癖を言っているということになった。とどのつまり、難癖とは、そこに正当性があるような何かというよりも、単に身体の反射の一種というか、自分ではない他者、「異物」へのアレルギー反応であった。


 多重人格は、身を守る術として、極めて重要な資質である。なぜなら社会にとって、人格を一つしか持たない人間ほど、思い通りに動かしやすい人間はいないからだ。


 「嘘」は、統一性あるいは整合性の欠如として認識される。人格は一つ一つ、別個の統一体である。なので、人格を複数持った場合、その様態は「嘘つき」と呼ばれる。


 人生は、否応なく競争的要素を持ち、ゲーム性を持つ。麻雀のようなものだ。そして、麻雀でカモになるのはいつも、ブラフを使わない、正直な人間である。


 したがって、生存競争においては、次の戦略が有効となる。


 自分は嘘をつく。しかし、相手にはなるべく正直にしてもらう。すると、嘘をついた方は勝ち、正直にしたほうは負ける。


 では、虚言癖に対して生じる、周囲の人間の不信用は? これは、虚言癖が虚言として不完全であることによって生じる。もしもいつも嘘を言うのなら、もはやそれは嘘とは言えない(あらかじめ嘘をつくと分かっているものは、相手をだますという嘘としての効力をそもそも持たない)。嘘だけではなく、多くの真実をも語るからこそ、はじめて、嘘は成立する。嘘と真実は、どちらか一方あればよいものというよりも、どちらもあって初めて有効に機能する。


 嘘ばかり言うのはダメである。同様に、真実ばかり言うのもダメである。そのどちらもが必要なのだ。人間が生き残るためには、女だけではダメだし、男だけでもダメなのだ。そのどちらもがある時にだけ、僕たちは命をつないでいくことができる。


 そうした「駆け引き」の一切を捨て去って、すべてをくっきり明確にしようと焦ると、精神病となる。


 なので、僕はみなさんに、「多重人格になり、なおかつそのことを社会から巧妙に隠す」という戦略をおすすめする。嘘と真実を重ね持つと、ちょうどそのような状態となる。


 討論について学びたければ、五分ほど国会中継を見てみるといい。それには傾聴も、論理も、誠実さも必要ないということがわかる。そこで必要とされるのは、一貫した、根拠のない自信に満ちあふれた態度と、相手への嘲笑の二つである。これは、討論の相手が酒場の酔っ払いでも、権威のある学者でも、どちらの場合でも通ずる黄金則である。酔っ払いと学者の違いは、僕には今一つ見分けがつかない。


 さて、では、実際に嘘の効用について細かく分析してみよう。まず、嘘は大きく四つに分類することができる。


 1.だます

 2.だまされる

 3.だますふりをする

 4.だまされるふりをする


 まず、「だます」というのは単純でわかりやすい。これが一般的に嘘と呼ばれる行為の主なものになる。この手法は他の三手法に比べ、効果自体は極めて薄いものの、速効性があり、緊急事態に用いるのには向いている。

 次に、「だまされる」というのは、これは意外に思われることが多いかもしれない。しかし、この「だまされる」というのも嘘の一種なのだ。というのも、嘘というのは結局のところ、ある主体が取りこむことのできなかった、認識の矛盾なり、齟齬なりのことを指すものであるから。だまされた場合、その時、その主体の認識は世界の把握に一種の齟齬をきたしていると考えることができ、齟齬のある認識にしたがって行動するからには、それは齟齬のある行動になる。一般的にそれは「嘘」と呼ばれる。そして、あらゆる齟齬は、相手の認識を乱す性質を持ち、その意味で、これは有効な攪乱として作用するため、こちらの真意を隠すためのヴェールとなる。

 以上に述べた二つの手法は、次の二手法に比べ、コントロール性が低いと言える。これらの行動は、それらに対する自身のコントロール権をあえて手放すことで、逆に、嘘の信憑性を確保する類の嘘であり、「解離」と呼ばれる。

 「だますふりをする」はどうか。これは、一見、相手をだましているようにみせかけて、実は相手に真実を開示しているというパターンである。この手法によって、相手は、こちらが真実を言っているのか、嘘を言っているのかが、明確に判別できなくなり、疑心暗鬼となる。これは相手に対する有効な牽制として機能するので、こちらのセキュリティ性を向上させることができる。

 「だまされるふりをする」。これは、おそらく、四手法の中で最も重要であり、汎用性が高い。まず、だまされた人間に対して、一般的に人間は警戒心をゆるめる。大概の人は、あまり深く検証することはせず、即座にさまざまなものをカテゴリーに分けてしまうので、こういったことが起こる。そして、その思考の怠慢に、付け入る隙がある。どんなに堅固な防衛機能を持った要塞でも、そもそもの警戒それ自体を怠らせてしまえば、容易に陥落することができる。

 これら、後者の二つの嘘を「演技」と呼ぶ。

 演技と解離は、いずれも用いることで、よりセキュリティ性を向上させることができる。それぞれの、個別の手法に意味があるというよりも、それらの総体に意味がある。なぜなら、一つの手法しか用いない人の行動を予測することは容易であり、その場合、それはそもそも嘘として成立していないからである。全ての手法を、絶妙に組み合わせた場合に、もっともよく嘘の効用は発揮される。また、嘘とは、ある統一体系からの齟齬、つまりは飛躍であり、それは「創造」と呼ばれる。したがって、あらゆる偉大な発見は、まず人々の目に、「嘘」として認知される。その後、複素数が実数に移り変わるように、嘘が真実に移り変わっていく。そして、その真実もそこに安住することはなく、やがて、別の真実へと移り変わり、ついには、過去の遺物としての「嘘」へと還っていく。


 つまり、創造者とは常に「嘘つき」のことである。


 芸術家は、――彼が創造者である場合には――この演技と解離を有効に用いる。つまり、演技としての「コントロール性」と、解離としての「没頭性」を、どちらも兼ね備え、それらを絶秒に行使することができる。


 一般的に、芸術家の態度は、「嘘つきの、首尾一貫しない、気取り屋」として認知される。


 あらゆる評価基準は、平均的な、多数の人々を測るのには向いている。しかし、極端に能力の低い人と極端に能力の高い人を測るのには向いていない。「能ある鷹は爪を隠す」ということわざがある。なるほど、それはそういうこともあるかもしれない。ところが、自己の隠蔽機能が神がかっている場合、その鷹は、爪を隠しているのか、それとも本当に爪がないのかが判別できない。


 その意味で、すべての評価基準は、常に仮説的なものであり、ある限定された局所的な条件下でのみ有効に作用する。あまり汎用性が高いものではない。無論、いわゆる「人間社会」と呼ばれる程度の世界のことであれば、ある程度は、測れるかもしれない。その評価基準も、風前の灯火というか、いつまで有効性を発揮できるかは分からないが。


 さて、恋愛の話だ。

 これは、もっとも分かりやすく、論理ではない。それは確かなことだ。いわゆる、「自分の意志ではどうすることもできない」類のことであり、その意味で、この世界における優れた方便の一つである。恋愛は、失恋によって、もっとも効力を発揮する。なぜなら、自身が恋をし、誰かを求めたときに、その誰かが自分の手ではつかむことができないものであることを知るという無力感によって、分かりやすく、エゴを消滅させることができる。恋愛は、極めて優れた説法として機能している。これは、ほとんどすべての人に通じる、非常に珍しい言語であり、その点を通じて、ある程度、コミュニケーションや説得を図ることができる。


 恋はあくまで一瞬のものなのだ。いかなる思いも、時の流れとともに冷めていく。


 悲しいことと楽しいことは、さほど区別が明瞭なことではない。僕にはそれらが、本当に同じものに見えるのだから、不思議だ。


 究極的に、隅々まで支配されていると感じるときにだけ、僕は自由であることができる。何一つ、自分を縛るものがないということが、ありとあらゆるすべてのものが自分を縛っているということと同じだということに、気づくときにだけ。

 

 何一つ、僕を救うことはできないのだということを知るとき、僕はとても安心するのだ。誰も助けてくれないということは、あなたが思うほど、悪いことではないのだ。多分、これは人生の至宝の一種なので、あなたのことも僕のことも、助けてくれるであろう。


 恐怖というのは実にバカらしい反応である。こういうことを言うと、精神科医には病気として処理されてしまうだろうが、別に死んでしまったとしても(この場合、とりあえず脳死のこととする)どうということはないのだ。それは、おそらく、悪いことではない。端に、確率的にそういうことがあり得るというだけのことで、それ以上でもそれ以下でもなく、そして、それらを防ぐことは、誰にもできない。


 死ぬことも生きることも、僕の目には、同じものに見える。


 何も変わることはない。何もかもなくなっていく。「なくなっていく」というのは、どうも運動だ。すると、変化なのだろうか。だが、変化と静止も、僕には同じものに見える。


 世界が終わった。


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