第三章 毒戦‐1
半年後――
ジンは、昨日と同じように自室で部下の報告を聞いていた。いや、正しくは相手の声にあわせて適当にうなずいていた。いつも同じような話ばかりなので、脳が理解を拒否しているのだ。部下の唇の動きが止まった。それが再び動き出す前に、ジンが口を開く。
「ごくろう。また何かあったら教えてくれ」
まだ何かを言おうとしている部下に対し、威圧するように見つめる。部下は頭を下げて部屋を出ていった。それと同時に、ジンはため息をつく。
教会の力を借りてクワイの組織を崩壊へ追い込んで半年が経った。
クワイ自身はうまく逃げたようで行方がつかめていないが、ジンたちはクワイの後釜に収まった。貧民街に住む多くの人にとっては、従う相手が変わっただけだった。
ジンたちの組織は、クワイがやっていたように、店からは用心棒代という名目で金を取り立て、麻薬を売りさばいている。
それだけなら、まだましだったのかもしれない。
クワイに対抗するため、教会の力を借りた。クワイの手勢に対し、司祭どもの攻撃魔法とやらで戦ったのだ。決着は早かったが、その分、教会の影響力は大きくなってしまっている。
ジンを頭に、幹部が九人いる。コーレイ、ダンド、ユユイを除くと、残りは教会の人間だった。表向きはジンを立てているが、実質は教会の出先機関と表現しても差し支えない。ジンを立てている理由も、貧民街の連中に、最初から教会の手の者だと話しても、反発が大きいと判断されたからにすぎない。
ジンは苦々しかった。生きるためには仕方がなかったとはいえ、今の状況も屈辱的である。同時に、自分が組織の長には向かないことも実感していた。全く興味が湧かないのだ。だから、毎日報告に来る部下にも、どうしたって粗雑な対応になってしまう。
ジンは頭を振って余計な考えを追い出す。
いつも悩むが、解決などしようがない。考えるだけ損である。
ただ、自分のことはともかく、教会のことは何とかしなければいけない。特に、麻薬はまずい。半年間、少しも進んでいない打開策を考えているうちに、時間は経った。
ごぉん、という鐘の音が六回鳴る。六回目の鐘の音が終わらないうちに、部屋の扉が開いて、別の部下が姿を見せた。
イップという痩せ型で短い金髪の、軽率そうな外見の男である。ジンが組織の長についたとき、自宅の前で部下にしてくれと頼みに来た。中身も単純でそそっかしいところがあるものの、ジンは昔から見知っていたし、教会とも無関係なので、そばに置いていた。
「ジンさん、時間です」
甲高いイップの声に、ジンは黙ってうなずくと、コートをはおった。
三階建ての最上階にある最も奥の部屋が、ジンの部屋だった。ベッドルームは隣にある。そして、かつてはクワイのものだった。部屋を出て廊下を進み、階段を降りる。背後から、多くの足音が聞こえた。組織のトップは、一人で外出は許されていない。これも、教会から来た幹部が決めたことだ。人数はそのときによって変わるが、五人を下回ったことはない。
これから、ジンは貧民街の見回りをする。
一日一回、一か月で全ての地域を回れるように予定が組まれている。今日は西の職人街だった。道行く人々に、貧民街を支配しているジンの姿を見せる示威活動である。時折、気が向いたように声をかける。声をかけられたものは、自分が貧民街の中心に近いと錯覚し、より忠誠を高める。視察とはそういうものらしい。
大事なのは、名前を覚えることである。
ボスに名前を憶えられているのは、大変に光栄なことだった。だから、ジンも名前を呼ぶ。必要以上に呼ぶ。名前と顔が一致している者とすれ違うだけでも、ことさら大きな声を出すようにしている。すると、ジンに周囲の部下が、満足そうに笑うのだ。
これさえやれば地位が保証される。そう思って耐えてきたが、性に合わないことなので、そろそろ限界だった。気持ちが悪い。逃げ出したくなる。
「ジンさん、よかったらこれ食べてください」
露店のオヤジが、何かを差し出した。パヌーイというこの世界の果物だった。ピンク色をしており、りんごくらいの大きさで、種が多い。
「ありがとう」
ジンはそう言って受け取り、懐に入れる。彼からは何度かこうして果物をもらっているが、一度も口にしたことはない。毒が入っているかもしれないからと、後で側近に取り上げられるのだ。かといって、断ることも許されていない。一度返そうとしたとき、部下に止められた。
「たとえ一回でも断れば、誰も何も出さなくなるでしょう。我々は、何も作ることなく他人のあがりを奪っているのです。奪うものを選べないときもあることをお忘れなく」
理屈にあっているのか、あっていないのか、ジンにはよくわからない言葉だったが、言いたいことは理解できたので、以後そのようにしている。
なおその部下は、クワイから寝返った者だったが、ボスとしての立ち振る舞いをジンに仕込んだあと、クワイの残党に殺された。
しばらくそうやって見回りを続けていると、路地から人影が飛び出した。
「ジン、死ね!」
がたいのいい青年だった。手には短剣を構え、ジンに向かって走ってくる。だが、左右からジンの部下が青年を組み伏せた。
青年は顔を地面に押し付けられながらも、ジンを睨んでいる。顎は動かせないようで、必死に唸り声を上げている。
「すぐに始末します!」
隣にいるイップの言葉に、ジンは首を振った。
「こいつと話したい」
青年を押さえている部下が、その力をほんのわずかだけ緩めた。
「ジン、死ね!」
「なぜだ」
「妹を殺した」
「女を殺した覚えはない」
嘘ではなかった。ただ、怪我をさせたことはあるので、それが元で死んだ可能性はあるが。
「いいや、お前は俺の妹を殺した」
「どうやって?」
「麻薬だ。俺の妹は、お前の売りさばいた薬で心と身体を壊され、死んだ!」
「麻薬を始めたのはいつからだ」
「三年前だ」
「三年前は、まだ麻薬なんて触ったこともない。お前と同じただのガキだったよ」
青年は、もしかするとジンよりも年上かもしれない。
「だからお前には責任がないっていうのか」
「三年前に街で麻薬をさばいていたのは、クワイだ」
「今はお前だ。妹は半年前に麻薬をやめたわけじゃない」
「らちが明かないな」
ジンはため息をついて、周囲を見回す。ジンたちを除いて、誰もいなかった。続いて、再び青年に目を向ける。その瞳には憎しみが宿っていた。
ジンに責任があるのかどうか。積極的にあると受け入れられるほど、ジンは自虐的な人間ではない。とはいえ、全く責任がないと言い切れるほど非情にもなれなかった。すぐに結論は出せない。この青年の処遇についても同じだった。
「お前はこれからどうするつもりだ」
ジンは、青年に問いかけた。
「決まっている。お前を殺す!」
「どうやって」
「この腕で絞め殺してやる」
「今すぐにか?」
「ああ、今すぐにだ」
ジンはわざと、ため息をついた。
「この状態で、お前にチャンスなんかあるわけないだろう。悪いことは言わない。出直せ」
「ジンさん、どういうことですか」
隣のイップが不満そうな顔をする。
「逃がしてやれ」
「はあっ? こいつはあなたの命を狙ったんですよ」
「後始末が面倒だ」
「そういう問題ですか?」
「俺にとっては」
部下のイップは納得がいっていないようだが、大きく息を吐いて肩をすくめた。ジンを立ててくれるらしい。ジンは、青年を見下ろす。
「というわけだ。ここは貸しにしてやるから、行――」
言葉が最後まで出なかった。背中に圧力と鋭い痛みが襲う。思わず膝をついた。背後で誰かが暴れる声と音。振り返る余裕はない。青年と目の高さが近づく。彼は笑っていた。
「てめえ……」
かろうじて絞り出した。見えなくともわかる。自分は刺された。青年の仲間が刺したのだろう。
「ジン、油断した――あがっ」
青年の拘束をゆるめていた部下が、再び力を入れた。青年のあごが、地面に叩きつけられる。その間に、ジンは傷む箇所に手を当てる。刃物は刺さったままではないようだ。痛みをこらえて、青年の憎しみにゆがんだ顔を見ているうちに、痛みは引いていく。さすがは人狼の身体。だが、額は汗まみれだ。それを服の袖で拭い、立ち上がった。
「ジンさん、大丈夫ですか?」イップが声をかける。
「見ての通りだ。問題ない」
ジンは振り返った。地面には血のついたナイフが落ちている。すぐそばで、女がジンの部下に取り押さえられている。女の頬はこけ、髪の毛に艶はない。目にも生気は感じられない。
「妹か」
青年に向きながら、問いかける。
「刺したのは俺だ」
青年が、苦しそうにしながらも、笑みを浮かべる。もうかける情けはない。
「ああ、刺したのはお前だ。こんなひからびた女が、自分の判断で殺しがやれるわけない」
『ひからびた』のところで、青年の口がゆがんだ。
「ひからびてねえ」
ジンは肩をすくめた。
「どっちでもいい。二人ともあの世で仲良くな」
ジンは兄妹を取り押さえている部下に「始末しておけ」と言い残すと、歩き始めた。
心は痛まないが、胸糞が悪くなった。誰も好き好んで悪人になりたいわけじゃない。今の自分の立場が、悪人でなければ保てないだけだ。
組織が教会の影響下にある以上、堂々と肯定するわけにはいかないが、気分は悪くない。ジンは己の口元が緩んでいるのを自覚した。いや、それは言い訳だった。面倒で面倒で、反吐が出そうだ。
ジンは頭を振った。あれこれ考えても仕方ない。なるようにしかならないし、まだこの見回りで行くところは残っていた。
見回りを終えて帰る途中、兄妹に襲われた場所を通った。もう、その痕跡はどこにもない。死体はおそらく、すでに燃やされているだろう。衣服は故買屋に持っていって、部下たちの小遣いにでもなったにちがいない。
先ほどと違い、どこにも立ち寄らないためか、話しかけられることもほとんどない。みんな、少し遠くから怯えたような目で、ジンを見る。きっとクワイを見ていたときと同じなのだ。
半年で随分と状況が変化した。以前は、イップよりも小粒の不良と思われていたはずである。それが、今では畏怖の対象だ。
ジンは鼻を鳴らした。イップがなぜそうしたのか聞いてくるが、無視する。
ダンドとユユイとは、あまり会わなくなった。それぞれ、与えられた仕事を全うしており、それはジンの仕事重なることがほとんどない。週一回の会合で顔を見る程度だった。
寂しくはあるが、仕方ないと思っている。ナナシが死んで、教会と手を組むと考えたとき、貧しく報われなくとも仲間がいたあの生活が終わるのはわかっていたのだ。それに、教会の支配から抜け出せれば、また同じ日々が帰ってくる可能性はある。だから、教会をどうにかしなければいけないのだが――
「イップ」
「なんでしょう、ジンさん」
「俺は今日の夜、川向うで教会の連中と会う」
「あ、聞いてます」
「コーレイと一緒だ」
「あ、はい」
イップが一瞬だけ、眉をひそめた。こいつは、コーレイをあまり好いていない。コーレイを大事な仲間だと思う気持ちは全く揺らいでいないが、彼の感情もよく理解できる。
コーレイは教会に取り込まれてしまったのだ。
そのせいで、教会と縁を切りたくても切れない状況が続いている。
ジンが今、最も気にしていることだった。