第二章 狼たちの夜想曲‐2
ジンは、先ほどまでコーレイと酒を飲んでいた。今は、酔いを醒ますために、散歩をしている。足元がおぼつかないほどではないが、上機嫌だった。鼻歌をうたうほどとは言えないものの、見る人が見ればスキップしているような足取りである。
石畳の道の両脇には、漆喰の壁の家が並んでいた。漆喰は、白やら赤やら肌色やら、様々な色を塗られている。汚れを隠すだけでなく、住民の好みも反映していると、ジンは考えていた。
彼自身は、木造の小屋以上のところに住んだことがないので、そのあたりは想像するしかないのだ。
「よお、ジン」
足を止めて振り返るが、それらしき人はいない。
「こっちだ、こっち」
脇の路地からだった。ようやく、ジンもその方向へ顔を向ける。
「ああ、フウか」
人虎のフウ。先日のワイバーン襲来のときにも会っているが、この街のボス、クワイの片腕だった。虎のしなやかさはなく、がたいはよく、特に上半身の筋肉はいちじるしく発達している。ジンはかつて、彼がバジリスクの頭を引きちぎったのを見たことがある、
「で、どうしたんだ?」
何も言わないフウに、ジンは再度声をかける。
「久しぶりに会ったんだ。一杯飲みに行こう」
「ああ、それはいいが、おごらないぞ」
「お前におごられるほど、俺は落ちぶれちゃいねえよ」
フウが牙を見せて笑い、路地の奥へ入っていく。ジンもそれに続いた。数軒先にある緑の扉が目的地のようだ。看板は出ていない。だが、中は酒場だった。それも、席はゆったりとしていて、客は悪人ばかりだが無用に騒ぎたがる輩はいないようだ。威厳があると言い換えてもいい。ちんぴらではない。数々の修羅場をくぐり抜けたことが、外見からも雰囲気からも感じられた。
「クワイの『子供たち』だけが使える酒場だ」
フウは部屋の隅にあるひときわ大きな椅子に腰かけた。ジンはその向かいの椅子に座る。その途端、目の前の机に二杯のジョッキが置かれた。中には黄金色の液体が泡の蓋によって閉じ込められている。この世界のビールだ。かつて飲んでいたものよりも、薄く雑味も多いが、ジンも気に入っていた。
「さあ、飲め」
一気にジョッキを飲みほす。
「いい飲みっぷりだ」
何度見ても、人虎は顔から本心が読み取りにくい。ジンは肩をすくめた。
「酒の飲み方を褒められるほど子供じゃない」
「だが、礼儀を知っているほど大人でもない」
「説教ならお断りだ」
フウは返答の代わりに、ジンのジョッキにビールをそそがせた。ジンも立ち上がるタイミングを見失ってしまい、仕方なくジョッキに口をつける。今度は半分も飲まない。
「なあ、ジン。お前らは頑張っていると思う。だがな、もういいんじゃないか?」
「悪いな、話がさっぱり見えない」
「お前たちも、クワイの下につけって言いたいのさ」
ジンは首を横に振った。
クワイから勧誘されたことはあったが、フウからは初めてだった。だからといって、魅力的に聞こえるわけでもないが。
「人に頭を下げるのは苦手なんだ。魔獣が出てきたら協力するから、それ以上のことは求めないでくれ。野垂れ死にしたら、笑ってくれてもいい」
「笑わねえさ、お前は人狼だ」
フウの言葉に、真実が混じっているような気がした。この男は、人間に差別されたことがある。
「なあ、ジン、お前は何歳になった?」
「なんだ、今度は昔話か?」
「そうじゃねえよ」
「物心がついたのを三歳と勘定して、今は十八歳だ」
前世を合わせれば、五十歳を過ぎているのは間違いないがな。ジンは心の中で付け加えておく。
「十八か。それにしちゃ子供だな。道理ってものを、まるでわきまえてない」
フウの声音に、剣呑なものが混じる。
「道理? おとなしいもんだろ、俺たちは。クワイの縄張りを荒らすようなことはしていないと思うがな」
「本当にそう考えているのか?」
フウがジンを見据える。揺らしにかかった。ジンは感じた。フウは、何かを引き出そうとしている。びびらせて、怖がらせて、それを証拠としたいのだ。厄介なのは、ジンに心当たりがあろうとなかろうと、フウ自身の欲しい結論を引き出そうとしていることだった。
「ああ」
感情の揺らぎは、極力隠す。できれば、変身しておきたいが、それをやるとフウの欲しがっていたものになってしまう。やましいことがあるんだな、というわけだ。
そうはいくものか。
周囲の気配を探る。五人はいる。マスターもクワイの仲間だと考えれば六人。フウは強い。一対一で勝つのは至難だろう。その他に五人。切り抜けるのは絶望的か。
フウが、ジョッキを干した。そして、ジンのジョッキにも手を伸ばし、一気にあおる。最後に、酒臭いげっぷをジンにぶつけた。
「クワイは街の顔役だ。この顔に泥を塗るのは許されない」
「わかっているさ」物わかりのいいチンピラのように、ジンはうなずいてみせる。
だが、残念ながらフウは首を縦に振らなかった。
「お前はわかってない。クワイの配下に手を出すのも、同じことだ」
「出してない」
「出した」
「子供の口喧嘩か? 俺は知らない」
「知らないじゃ、すまない」
フウの目つきが変わった。獲物を目の前にしているようだ。そして獲物は、ジンだった。
「心当たりはないな」
ジンは肩をすくめた。表情だけで内心をごまかせる段階は終わった。これからは大仰に動いて、余裕を見せていく必要がありそうだ。
「組織のボスってのは、部下の尻拭いもするもんさ」
「俺が組織のボスで、他の連中が部下かはともかく、尻拭いをするには、肛門から何かを出してもらわなきゃな」
「出てるさ、とっくにな」
「ぶふっ!」
ジンは噴きだした。そのまま、げらげら笑う。
「何がおかしい!」
「『出てるさ、とっくに』なんて、真剣な顔でいう言葉か!」
笑いは収まらないが、ジンはなんとか返答した。同時に、がたっと音が聞こえる。周囲のクワイの『子供』たちが立ち上がったのだろう。馬鹿な発言で誰も笑わないのも驚きだが、これで戦闘開始というのも間抜けではないか。ジンも、笑いながら獣人化を開始した。そして、少し後悔をする。
フウが本格的に怒ったようで、机を脇に押しのけ、飛びかかってきたのだ。怒らせなければ、周囲の連中が押されるまでは来なかったかもしれない。とはいえ、もう全ては遅い。
ジンは、フウに肩でぶつかる。そのまま吹っ飛んでくれと願ったが、ダメだった。肩をつかまれ、カウンターに放り投げられた。青ざめた顔をして逃げ出すマスターが見える。そして、酒瓶が並んだ壁。衝撃。酒の匂いに、破片。すぐさま立ち上がった。
カウンターの向こうにいるフウと部下たちが、囲むように近づいてくる。
ジンは内心でほくそ笑んだ。フウは腕っぷしが強い。だが、どこか甘いところがある。今もそうだ。肩をつかんだら、そのまま噛み殺せばいいのに、そうしない。ジンに自分の強さを見せつけたいのだろう。ジンにとっては、素晴らしいチャンスだった。フウが離れているだけで、だいぶ状況が変わってくる。しかも、カウンター越しだ。
この世界にはまだ重火器などない。迫ってくるフウの部下を見ても、ナイフやロングソードである。部下たちには、見たところ亜人はいない。ヒト種のようだ。連携されなければ、逃げ出す隙が作れるかもしれない。
「カウンターを盾にして逃げようったって、そうはいかねえ」
部下の一人が、入口を塞ぐように立った。ひっと悲鳴がする。マスターが逃げそびれたのだろう。
「逃げねえよ」
ジンは前傾姿勢を取る。フウたちが立ち止り、構えた。今だ。ジンは背後に並んだ酒瓶を手あたり次第、投げつけた。酒瓶を求めて、カウンターの中を移動する。
「おっ」「こら」「てめえ!」
腕で顔を守りつつ、フウたちが叫んだ。彼らの身体に酒瓶が当たり、酒や破片が、隣にいる者にもかかる。その隙に、ジンは入口に向かって駆けだした。
「待て!」
フウの声。しかし、振り返らない。そんな余裕はない。入口を塞ぐ部下。左手に短剣。わずかに震えている。実際にジンが迫ると、顔には恐怖を浮かべた。来ないと思っていたのだろうか。いきがっていただけなのか。ならば、とジンは吠えた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ」
チンピラが目を伏せた。ジンは、入口に向かって跳躍する。チンピラもろとも入口の扉を破壊しながら、外へ転がり出た。急いで立ち上がり、痛みにうめいているチンピラを、もう外に出かかっていたフウに投げつける。ふいうちは成功したらしく、「おわっ」と間抜けな声を出した。
ジンは、雑踏を駆け抜ける。途中、何度も誰かの肩とぶつかった。体勢を崩しかけもする。だが、必死で逃げる。幸い、人狼の身体は体力がある。人間だったときの比ではない。
そのまま街の外まで出た。
しばらく走り、森に入る。そして、木の上に飛び移った。自分が歩いてきた方向を、じっと見つめる。誰もいない。逃げ切れたようだ。
人虎フウの膂力も相当なものだが、がたいのよさが災いして小回りがきかず、人込みを走るのは苦手だった。だから、問題はないはず。
ジンは深呼吸して、木から降りる。獣人化は解かない。
フウに襲われる理由に心当たりはない。確かに、クワイの傘下に入らず勝手に強盗をやっているので、邪魔な存在ではあるだろう。しかし、酒場に誘い出してまで襲うほどなのか? 同じような連中は、それなりにいる。みんな、少人数で、直接クワイの息がかかった店には手をださないから、黙認されていたのだ。急に事情が変わった?
それとも、フウの単独? いや、それはない。そこまでの知恵があるとは思えない。
ジンは首を横に振る。
ここで考えていても、結論は出ない。重要なのは、クワイが敵に回ったこと。
他の仲間がどうしているのか、気になる。
ジンは、アジトの様子を見に行くことにした。