第一章 絆‐3
ジンは跳躍し、建物の屋根に乗る。そのまま、屋根伝いに唸り声の場所へ一直線に向かった。すぐに、三体の魔獣と戦う五人の男の姿が視界に入った。
ここにいる魔獣は、ヘルハウンドだった。黒い身体に四足を駆使して暴れている。
戦っている五人の男は、鎧こそないが盾を持っているので、けがはしても致命傷は受けていないようだ。ただ、戦闘は素人らしく、やみくもに剣を振り回すだけだった。ヘルハウンドの数が減る気配はない。
「どけ!」
ジンが叫び、跳躍する。五人の男は動きを止め、ジンを見た。ヘルハウンドも、ジンの声で一瞬ひるむ。人狼の膂力により、建物の倍ほどの高さまであがり、そのまま落下する。目標は、ヘルハウンドのうちの一体だ。両足をそろえる。ジンが自らに向かっていると気づいたヘルハウンドは、逃げもせず、ジンに向かって吠えている。
どの世界も犬は犬だ。ジンは薄く笑った。そして、大地にいるヘルハウンドと激突する。魔獣も生き物。足で感じるヘルハウンドの内臓はやわらかい。だが、一瞬で抵抗が強くなる。ヘルハウンドが倒れ、地面にぶつかったのだ。ジンは衝撃を受け止めるように膝を折り、転がりながら着地する。そして、すぐさま立ち上がった。
五人の男は茫然とジンを見ている。激突したヘルハウンドは、地面に倒れ痙攣している。放っておいても死ぬだろう。残りは二体だ。
その一体に向かって駆ける。五人の男の横を通り過ぎるとき、
「他へ行け。あとは俺がやる」
と、呼びかけた。もう五人を気にかけてやる余裕はないだろう。ヘルハウンド二体は、そう簡単な相手ではない。先制で一体をつぶしていなかったら、おそらく勝ち目はなかっただろう。コーレイがいればなんとかなるが、できれば彼が来る前に終わらせたい。
目標のヘルハウンドまで、あと二歩だ。口を開き、前傾姿勢をとる。ヘルハウンドも敵意むき出しにし、唸り声をあげる。そして、飛びかかってきた。
二歩が一歩になり、ゼロとなる。
ジンの口はヘルハウンドに届かなかった。逆に肩に噛みつかれる。人よりも敏捷度が高い人狼だが、獣そのもののヘルハウンドには劣るか、とジンは一瞬だけ自嘲した。戦いに意識を戻す。肩に噛みついたままでいるヘルハウンドの身体をがむしゃらに殴った。
ヘルハウンドはより強く噛んでくるが、無視して殴り続ける。
噛む力が弱まった。肩からヘルハウンドの口を引きはがし、大地に叩きつけようとしたとき、ジンは右足に痛みを感じた。捕まえていたヘルハウンドが逃げる。
足を見ると、もう一体のヘルハウンドが噛みついていた。
「くそっ!」
足を振り回すが、ヘルハウンドを引きはがせない。地面に叩きつけようとしたが、その前にもう一体のヘルハウンドが態勢を立て直して襲いかかってきた。まっすぐジンの顔を狙って飛び込んでくる。避けられない。やむを得ず、ジンは向かってくるヘルハウンドの鼻にめがけて拳を突き出す。がちりという硬い感触に、鋭い痛み。ヘルハンドは地面に落ちてひるんだ。しかし、ジンの腕からも血が流れていた。鼻ではなく、牙に当たったらしい。
「ああああ!」
痛みと興奮から、ジンは叫んだ。まだ足にはヘルハンドが噛みついたままだった。叩きつけるのは、やめた。身体を丸め、ジンも噛みつく。グウッというくぐもったうめき声を発するものの、ヘルハンドにも意地があるのか、足から離れない。ジンは顎に力をこめる。
――このまま噛み切ってやる。
全身を震わせて、牙をヘルハウンドの身体に食い込ませる。血があふれだした。あと少しだ。ヘルハウンドも、これが我慢比べだと気づいたらしい。うめきながらも、噛む力を強くした。
耳にもう一体のヘルハウンドの声が届いた。ジンは思わず笑いそうになる。
――こいつは案外弱気らしい。立ち直りが、先ほどよりも時間がかかった。いや、獣のくせに気づいているのかもしれない。俺がわざわざ両手をあけていることを。
ジンは、足に噛みついたヘルハウンドには口で噛んでいるだけだった。身体を丸めているが、目も耳も手も、そして鋭い爪も、もう一体のヘルハウンドに使えるのだ。
この世界の魔獣は、知能が高い。このような牽制が意外ときく。
ふふふ、とジンの口元から笑い声が漏れる。痛みを感じなくなってきた。代わりに高揚感が全身を巡る。牽制が急速につまらないものとなった。正面から殺しあいたくなる。
ジンは、噛みついているヘルハウンドから、口を離した。ヘルハウンドの身体からは血がしたたり落ちている。だが、まだ生命を奪うには足りない。
足を噛んだままのヘルハウンドが、ジンを見て笑う。ジンも、笑った。ヘルハウンドの首に両手を添える。先ほどまで振り払いたくて仕方がなかったが、今は違う。逃げられないよう、両手に力をこめる。そのまま、首の骨を折るために。ヘルハウンドの噛みつきが弱まった。苦しそうな声を出す。
そのとき、ジンは背中をえぐられた。もう一体のヘルハウンドのしわざだろう。とはいえ、まったく痛みがない。脇腹にも同じ感覚があった。やはり痛みは感じない。
ジンは、首を持ったヘルハウンドに顔を寄せる。
「犬風情が、狼に勝てると思ったか?」
答えられるかは知らないが、そんな暇をやるつもりはない。言うや否や、ジンはヘルハウンドの首をひねった。ひねりすぎて、顔が上下逆になった。一瞬で目に生気が消えた。念のため、ヘルハウンドの首を一周させて首を完全に破壊する。なぜか、もうヘルハウンドは口からよだれを垂らしていた。死んだヘルハウンドも、まだ生きて間合いをはかっている一体にめがけて投げつける。最後の一体となったヘルハウンドが、憎悪の唸り声をあげた。しかし、飛びかかってこようとはしない。
「俺と戦おうとしたお前らの過ちだ。犬畜生とはいえ、己の行動の責任は取れ」
狩るものと狩られるもの。立場は逆転した。数歩だが後ずさったヘルハウンドに、ジンは飛びかかった。牙と爪、両方をくれてやる。
ヘルハウンドが逃げ出そうとする。しかし、それよりも早く、ジンの爪がヘルハウンドの腹を捕えた。爪を腹部に突き立て、深く埋める。そして、手前に引いた。ジンの手に温かくどろりとした液体がかかる。
ヘルハウンドが悲鳴をあげようと口を開くが、声は漏れない。かぶせるように、ジンが噛みついたのだ。ヘルハウンドは暴れるが、牙は深く突き刺さっており、問題はない。ジンは、自らがあけたヘルハウンドの腹部の傷から、手を突っ込んだ。内臓を無理やりかき分け、血管を爪で裂きながら、握りこぶし程度の大きさである心臓に触れ――握りつぶした。
ヘルハウンドは、びくっと一瞬だけ震えると、動くのをやめる。ジンは、ヘルハウンドから牙と手を引き抜き、身体を地面に横たえた。逆に、彼は立ち上がり、負荷をかけていた腰を軽く叩く。
ヘルハウンドの虚ろな目を見る。死んだふりではないだろう。他の二体のヘルハウンドも同じだった。
ジンは、息を吐く。案外、苦戦した。気分はよくない。
噛み傷、切り傷が全身にあった。血も流れている。
だが、人狼の身体にとっては、取るに足りないものだった。突っ立っているだけで、急速に傷口がふさがっていく。
「人狼の身体も、悪いことばかりじゃないさ」
肩を回し、身体が復調したジンは、薄く笑う。そのとき、背後から声がした。
「お疲れ、ジン。水だ」
声のほうを見れば、そこに水の張った桶を持つコーレイがいた。人間の姿のままだ。ジンの肩から力が抜ける。彼は柔和な笑みをつくり、「ありがとう」と言いながら、その桶を受け取った。手と口元についた血を洗い流す。汚れた水は大地に吸わせ、桶はコーレイに戻した。コーレイは、それを脇にかかえ、口を開く。
「ジン、俺たちもワイバーンのところへ行こう。人手は多い方がいいはずだ」
ジンはうなずいた。ワイバーンのような竜とは大勢で戦う。わざわざコーレイが狼になる必要はないのだ。だから、コーレイも恐れない。コーレイが勇敢なのを、ジンは知っていた。