編集後記
「頑張ってね、かなえ」
「ああ、うん」
永井が、佐藤を励ます。様々な事件があったけれど、発表会は、変わらずにやって来たのだ。
「緊張、する?」
「あんまり。もう、何も怖くないよ」
「なら、あたしからはもう何も言えないよ。頑張れ」
「うん」
いつぶりかわからない笑顔で、佐藤は笑った。
――
「ただいま。声掛けて来た」
「おう、速かったな」
永井が席に戻る。その横には、七瀬もいた。俺自身、ほぼ初対面に等しい、佐藤と永井の共通の友人。けれど、どこかで見覚えがあるように感じるのはなぜだろう。
牧原が二人に何やら話し掛けている。ピアノに関しても情報収集をしようとしているのだろうか。
全く好奇心旺盛な事、と呆れて呟いた。
「佐藤の順番は、四番目か」
プログラムを穴が開くほど見詰める岸原。俺は、「そんな見詰めても順番変わったりはしないぞ」とツッコんだ。
「わかってるけどさ、やっぱ、なんかさ……」
岸原が言葉を切る。わかっていた。こいつも、俺たちが見たあの夢の話を気にしている。
けれど、心配する事はない。心の底からそう思っていた。
「静かに、始まるから」と七瀬が言う。俺たちもそれに合わせて黙り込んだ。
まったくの門外漢だが、それでもなかなかに凄いと感じる。長い事やって来たら、そら上手くなるだろうけれど。
「凄いな……。もう、あたしじゃこんなに弾けそうもない」と永井が呟く。それに対し、七瀬が小声で、「香に言われたら、あたしの立つ瀬がないよー」とおどけた。
そして、佐藤の番が始まる。
確かな足取りでピアノの前まで歩くと、深々と一礼。そして、椅子に腰かけ、手を持ち上げた。そして、音を奏で始める。その音一つ一つが、信じられない程に澄み渡り、ホールの色が、塗り替えられて行くように感じた。思わず、「すげぇ」と声が漏れる。
「こんな、こんな上手くなってたんだ、かなえ……」
茫然と呟く永井。岸原も、真剣に聞き入っている。牧原ですら、食い入るように見詰めていた。
けれど、桜井の顔には、まだ不安気な表情が残っていた。
消え入りそうな音が、一気呵成に強まり、今、そこで開く。
そう続くはずだった。
突然、佐藤が立ち上がり、舞台袖へと駆けて行く。
「えっ、かなえ、どうしたの?!」と永井が叫び、「前通る」と言い残して走って行った。
「香っ! ごめん、あたしも行く」と七瀬。
俺は、わかっている。彼女は、大丈夫だ。わかっていてなお、俺たちは二人を追いかけた。
「かなえっ! なんで、なんで途中でやめたの?!」
永井が問い詰める。佐藤は、少し怯えた顔を見せつつも、晴れやかな口調で言った。
「お母さんに、見せつけるため。私、もうピアノは嫌だ、って」
「どう言う事よ! かなえ、あんたは弾けるのよ?! ピアノ、上手いじゃん。あたしなんか、到底追い付けなかった」
永井が叫ぶ。佐藤は、それでも毅然とした態度を崩さなかった。
「でも、辛いの、本当は。幸人の事を、思い出しちゃうから。私、ずっと、やめたかった。香と一緒に、やめたかった」
「かなえ、お母さん厳しいもんね」と七瀬が呟く。
「うん」と、寂しそうな顔で、佐藤は笑った。
あの夢を見たその時は、どうしても自殺と関連付けてしまった。けれど、自殺の光景が既に終わり、成就された以上、発表会の途中退場は、決して自殺につながる事はない。そう考えると、いろいろと見えて来た。
佐藤は、ピアノをやめたがっていた。永井と和解したとは言え、元原幸人が戻って来ないのは、間違いなく事実。そして元原に関わる思い出の大半がピアノにまつわる事柄である以上、ピアノには、元原幸人が付きまとう。
それに耐え続けるのは、きっと、苦しいだろうから。
永井のように、逃げ出したかったのだ。
「でも……」と、それでもなお、永井が呟く。
「あんたはっ! それでもピアノを続けるべきだって、わかんない?! 幸人とあたしたちは、最後まで、ピアノでつながってたんだよ?! あんたまでピアノをやめたら、誰が幸人を思い出すの?! ねえ、教えてよっ!」
「でもさ、ズルいよ。香はすぐに逃げ出して、それなのに、私には残れって言うの?」
「違うっ! あたしも、また始めるから、ピアノ! だからあんたは、やめるな!」
永井の叫び。ひたすらに続く、懇願。
「私、さっき、幸人が、そこにいた気がする」
唐突に、佐藤がそう呟いた。反応に困っていると、佐藤は続ける。
「私のピアノを、見てた。そんな気がする。気のせいだとは思うけど、それでも、確かにいた」
そこで、佐藤は笑った。
「うん。香。一緒に、一緒に頑張ろ」
牧原が笑った。高らかに、声をあげて。唐突な笑いの発作を俺が咎めると、牧原はなんとか押し止め、語り始める。
「なーるほどね。お母さんへのパフォーマンス、か。違うでしょ、かなえ。あんたの今のパフォーマンスは、香に向かっての事。だよね?」
佐藤の笑みが、凍り付く。それに構わず、牧原は続けた。
「凄いよ。香から、またピアノを始めるって言葉を引き出したんだもんね。それが狙いでしょ」
「え、う、うん……」
困惑の表情のまま、確かに、佐藤は頷いた。
「やっぱり。意趣返しって奴ね。さっすが」
「なあ、ちょっと説明しろよ」と岸原が言う。「これだけ言われても、俺たちには訳がわからねぇ」
「え、いいけど……。かなえ、自分でしなくていい?」
「ああ、じゃあ、私から、言うね」
「香がピアノから離れられて、ズルいって思ってたのはホント。だけど、それでも、幸人とつながれる、最後の手段がピアノだって事も、私は、充分過ぎるぐらいわかってた。だから、香にも、戻って来て欲しかった。……でもさ、いじめ、自殺、そのレベルまで行ったのが解決して、今さらそんな事、なかなか言い出せなかったの。
だから、わざわざこんな事を企んだ。ほら、こうして香は来てくれたし、私のピアノを続けるように言ってくれた。それで、私があんな風にごねたら、絶対、ああ言ってくれると思ったんだ」
「もし、あたしが、止めなかったら?」
「その時は、幸人の事を忘れたい、って香も思ってるんだとしたら、そのまま普通に誘ってた。『でも、忘れたいけど、忘れたくないよ……。香もいないと、耐えられないよ……』って」
「そう言う事。つまり、あんたがやろうとしてた事を、かなえもしてやったり、って訳」
「あたしがしようとしてた……。ああ、演技の事か」
「うん。ごめんね、香」
「いいよ」
永井が頷いた。「全部、全部許してあげる」
発表会が終わり、佐藤は当然、母親からグチグチ言われたであろう。しかし、それでも、佐藤はきっと、耐えた。
そう、思えた。
――
そして、四月が終わり、新たな月が始まる。と言っても、最初はゴールデンウィークでかなり消えるのだが。
その後、学校が始まり、俺、桜井、金沢、竹原の四人は、また集まっていた。
金沢が言う。
「みんな、新聞の内容、考えて来た? 本田はどのマンガにするか、決めた?」
先月、大きな影響をクラスに与えた新聞の、五月号。その制作のため、俺たちは話し合う。
少しでも、クラスに笑顔を届けられればいい。そんな祈りをこめながら……。
(完)
今作はこれにて完結です。
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